秋を演出してきた様々な色は、既に落ち葉となってコートを囲むフェンスの隅に追いやられていた。数日前の雨と砂利に混じって、あの極彩色は見る影もない。フェンスに凭れ、排水溝付近に溜まる秋の残渣を眺める先、誰かがそれを踏みつけた。
遠くで真田が怒鳴っている。視線を向けると一年生の切原が小さくなっていた。隣の柳が何かを言って、ひとまず怒声が収まる。その表情は硬い。元から豊かでない真田の表情は、それでもどこかわかりやすいところがあった。それが近頃、何も読み取れなくなるときがある。そしてそれに反比例して、声だけは大きくなり続けた。
居心地が悪い。ボールの音や掛け声がどこか乾いているのは、近付く冬の所為だろうか。目立つ髪の色を心持ち隠すようにラケットを持ち、仁王はコートに踵を返した。
「どこへ行くんです」
振り返ると柳生だった。いつからいたのだろう、仁王は首だけを柳生に向けている。眼鏡に反射した光が瞳を隠し、彼の表情はいつも同じに見える。その眼鏡の下に思いがけず鋭い視線があると知ったのはいつだったか。自分と似過ぎていてゾッとした。
「トイレじゃ」
もちろん嘘だ。告げてから暫らく見つめ合ったが、それ以上柳生が何も言わないことを悟ると部室へ向かった。着替えるためだ。後頭部に柳生の視線を感じながら舌打ちを零す。見抜いているくせに。
本来ならこういった場面で柳生が仁王を逃すことはしない。同時期にレギュラーとなった柳生は、問題の多い仁王の生活態度について何かと口を出してきた。部活に関わること以外でもだ。それが明らかに減っている。
別に口出しして欲しいわけではない。だが変化はそれだけではなかった。仁王自身、理由もなく部活をサボることが減っていることは確かだった。真田の声は大きくなり、いつも傍観者であり続けた柳がそのフォローをしている。切原が処構わず先輩に勝負を挑む場面も見られない。それらが与える違和感は、少しずつ悪い予感のように広がっていた。何も良くない変化ばかりではないし、変化を嫌うわけでもない。問題は、誰の変化が誰に変化を与えたかが定かでなくとも、その根本には同じひとつの不在があるということだ。脆いものだ、嘲笑ってやりたくなる。それらは全てこの一ヶ月で起こったことだった。少しずつ、着実に。
着替えながらふと視線を移した先、並べられたトロフィーや賞状が目に入った。光を鈍く反射するそれらは、薄暗い部室の中で呪いのように佇んでいた。部全体を覆う違和感と同質の気味悪さを感じて目を逸らす。閉じたロッカーが思っていたよりも大きな音を立て、顔を顰めた。苛立っている。
大海の一滴
金井総合病院と書かれた石碑の向こうにはロータリーがあって、白いコンクリート造りの建物が聳えている。仁王がここへ来るのは三回目だった。一度目はわけがわからないまま現地にいたメンバーと、二度目はレギュラー全員で。一人で来るのは初めてだ。意図したわけではない。気付けば足が向いていた。
なぜ来たのかわからないまま、暫し入り口で立ち竦んだ。後ろから車にクラクションを鳴らされて我に返る。わからないなら見極めればいい、と半ば投げやりな気持ちでその建物へと向かった。自動ドアが開くと、消毒液の香りと加齢臭の混じった病院独特の匂いに包まれる。リノリウムの床が靴底にへばりつくようで気持ち悪い。振り切るように真っ直ぐ病室を目指した。記憶を辿りながら、小児科病棟と書かれた案内板の下をくぐる。他のエリアとは打って変わって、画用紙で作られた飾りや受付に置かれたぬいぐるみが突如雰囲気を変えた。病室にいる目的の男とのアンバランスさに思わず笑ってしまいそうになった。
目的の病室に辿り着き、プレートを見遣ると『幸村精市』の名前だけが書かれている。個室だ。少し迷ってから、扉をノックする。はい、と聞き慣れたテノールが微かに耳に届いて、スライド式の扉に手を掛けた。
「めずらしいね」
読んでいた本をサイドテーブルに置いて、幸村は笑った。ヘッセ、車輪の下。あまり洒落にならない選択だ。肩に掛けられた上着は見慣れた芥子色のジャージではなく、編み目の細かいベージュのカーディガンだ。白い肌と相まって必要以上の儚さを感じさせる。優男に見せかけて儚さなど欠片も持ち合わせていないことは知っていて、それなのにその感覚には奇妙な現実感があった。微かに戸惑って仁王は目を逸らす。
「まだ部活の時間じゃない?」
「……抜けてきた」
「最近仁王は真面目だって真田が言ってたんだけど」
「やけん、たまにはええじゃろ」
テニスバッグを肩から降ろし、ベッドサイドに置かれた丸椅子に腰掛ける。仕方ないな、とでも言うように苦笑して、けれど幸村はそれ以上咎めることをしなかった。助かったけれど意外だった。
「どう、部活の感じは」
「別にいつも通りぜよ」
「適当だなあ」
「真田が部誌届けとるんじゃろ」
「まあそうだけど」
「そういえば今日赤也が真田に怒鳴られとったわ」
「いつも通りだね」
「そう。……心配せんでも何も変わっとらんよ」
幸村がいないこと以外は。続けそうになった言葉を飲み込んで仁王は俯く。何も変わっていないなんて嘘だ。
久々に訪れる幸村の病室は以前よりも柔らかい気がした。無機質で息が詰まりそうだったその場所には花が活けられ、色紙が飾られ、私物が溢れている。そこにあるのは一種の生活感のようなものだ。その空気は仁王の緊張を解したけれど、歓迎されるべき変化ではないと知っている。本来の居場所でないこの部屋に幸村が入ってもう一ヶ月だ。異常が日常に成り代わるには充分な時間だった。
部屋の外からは時折子供の笑い声と看護師の怒声が聞こえた。命懸けではしゃぐ子供。明るい声はこの病院という空間に広がる死の気配には似合わない。
突然の訪問に対し、幸村は親しげに話した。入院中に読んだ本のこと、お見舞いの花のこと、病院食が不味いこと、小児科病棟の子供に懐かれてしまったこと。
「俺ナースって憧れてたんだけどさ、やっぱ付き合うには向かないと思うんだ」
「何で」
「だってすっごい気きついんだよ?少しでもご飯残せば怒るし、子供が逃げ出したら鬼みたいな形相で追っかけてるし。まあ小児科だからかもしれないけど」
ってか俺が小児科ってなんかウケるよね。幸村は親しげだった。はしゃいでいた。仁王は相槌を打ちながら、違和感を覚えたーーまた、違和感。
「でも俺自身はけっこう気に入られてて、よく用事もないのに入ってくるんだ」
「ほう。まあお前さんはモテるけぇの」
「お前が言うと嫌味に聞こえるよ」
「ナースにモテたことはないぜよ」
「関わりがないだけだろ」
瞬間、やけに硬質な声だった気がして幸村を振り仰いだが、変わらずにやって来るナースの愚痴がどれほど陰湿かについて演説を始めているだけだった。気のせいか。
仁王と幸村はそれほど親しいわけではない。共に全国を目指すチームメイトかつレギュラーという点で普通の学友よりは特別だったかもしれないが、同じような存在は八人いた。それぞれに親しい人間が別にいて、二人で会話をすることなどほとんどなかった。
だから単純に比較はできないけれど、それにしても今日の幸村はやけに明るい。多くの時間を一人ベッドの上で過ごす生活に飽きていたのだろうと仁王は考えた。用事もなく部活を抜けて来た手前、仁王の方でも親身になって幸村の話を聞いた。意見を求められれば返した。そのうちに以前の自分達がどのようにコミュニケーションを取っていたのか曖昧になった。
相槌を打ちながら流した視線の先に、写真が飾ってあった。半年前、夏の大会を制したときのものだ。写るメンバーの中に仁王はいない。まだレギュラーではなかった。
「俺、治るのかな」
その言葉が耳に入ったとき、それまでと全く変わらないトーンだったから仁王は深い意味を考えなかった。写真を眺めていた。
「そんなこと言っとったら真田に殴られるぜよ」
だからそう軽く返した。軽口の延長だと思っていた。そうじゃないと気付かせたのは、突然の沈黙と消えた幸村の表情だった。
「……幸村?」
「医者に、もうテニスは無理だろう、って言われた」
一瞬息が詰まり、仁王は全てを理解した。部活中に会いに来た仁王を咎めなかったことにも、やけに親しげだったことにも、きちんと理由があったのだ。想像以上の重さに目眩がした。
「そんな顔しないでよ」
何も言えないでいる仁王に微笑みかけて、幸村はゆっくりと膝を抱えた。なんでこんなことになったんだろう、その先はもう耳を塞いでしまいたかった。せめてと視線だけは逸らした。
「まだやりたいこといっぱいあるんだ。テニスはもちろんだし、学校の屋上庭園は放ったらかしになってるし、海外旅行だってしたい。それから、恋もしたい。俺の病気、寝てる間に息が止まったっておかしくないんだ。毎朝起きる度に安心するんだよ、まだ生きてる、って。いや違うな、こうやって起きてる間も本当はもう死んでしまってるんじゃないかって、不安で不安でたまらなくなる」
仁王には、幸村が弱るところを見たいと思っていた時期があった。いつも超然としているその表情を崩され、何かに翻弄され泣き叫ぶこの男が見たかった。けれどそれはあくまでテニスや、あるいは恋愛のようなものに於いてであって、まさかこんな手段で追い詰められたところを見たいわけではなかった。
なぜ来てしまったんだろう、仁王は思った。居心地の悪さから逃げ出して、幸村に会えばなんとかなるとでも思っていたのだろうか。
部活中に感じる違和感の正体はこれだったのだ。仁王は見舞いに来なかったから知らなかった。ただその不在だけが原因だと思っていた。たとえ今のように心の内を吐露しなくとも、彼らは幸村の変化を敏感に感じ取っただろう。その蓄積が呪いのように、彼らをもまた変えていった。少し単純に考え過ぎていた。
病魔に対する不安は誰にでもあるだろう。けれどどこかで、幸村ならば大丈夫だと思い込んでいたのかもしれない。そんな普通の心情にさえ気付けないほど依存していたならばそれはもはや信仰だ。いま仁王の目の前には小児科病棟に入院する十三歳の少年がいる。狼狽える仁王もまたただの十三歳の少年だ。簡単に楽観視できるほど子供ではなく、全てを受け入れて甘んじられるほど大人でもない。
「俺は生きてる実感が欲しい」
これ以上何を言い出すのだろう。止めた方がいいのかもしれない。今日の幸村はずっとおかしかった。それから、今日の仁王は思慮が浅過ぎた。
「ねえ仁王、セックスしようか」
続いた言葉に、弾かれたように顔を上げる。その先の幸村はもう姿勢を正して、微笑んでいた。穏やかとしか言いようがなかった。
「……頭おかしなったか」
辛うじてそれだけを返す。もう止められない。本当に来るべきではなかった。幸村が仁王にこんな話をした目的がそれだったならば、もう仁王に逃げ道はない。
「お前くらいしか頼めないんだ」
だから仁王、セックスしよう。生きてるうちに。
重い足取りで海沿いを歩く。酷く疲れた。後悔もしていた。何をだろう。何もかもだ。
幸村を抱いた。手の中にある温もりが生を感じさせ、縋り付く腕が死の気配を伝えた。あんなに哀しいセックスがあるなんて、仁王は知らなかった。知りたくなかった。強い浜風は冷たく、僅かに残った汗を攫って身体を冷やす。
歩くのが馬鹿らしくなって防波堤に腰掛けた。投げ出した足元には砂浜が広がっている。とうにシーズンが終わったビーチは静かで、波の音と時折後ろを通り過ぎる車の排気音だけが響いていた。視界の隅に犬の散歩をする人影が見えた。他には誰もいなかった。
幸村の姿が脳裏に焼き付いて離れない。以前は服に隠されていた意外なほどの筋肉は見る影もなく、その肢体は丸味を帯びる前の少女のようだった。微熱の下がらない身体がかえって扇情的で、反応する自らの性器に吐き気がした。事務的に進めようとしても上手くいかなかった。愛撫を受けて上がる息と絡み付く手が、助けを求めるようにも、地獄に引きずり込むようにも見えて仁王の興奮を煽った。白い肢体、掠れる声、震える指先、その全てに仁王は欲情していた。
生きている、と思った。自分も、腕の中の少年も、確かに生きている実感があった。こんなことをしてまで確かめなければならないことが無性に哀しかった。自然と視界が霞んだことに気付き、零れ落ちる前に後ろから抱いた。泣き顔は見せたくなかった。声を漏らさないようにと幸村は枕に顔を埋めていた。濡らしたものが涎か汗か、それとも涙だったのか仁王にはわからなかった。仁王の目から落ちた雫が、幸村の背中で彼の汗と混ざり合った。嗚咽を噛み殺すようにそこへ口付けると、塩辛い味がした。
繰り返し頭の中に映し出される光景に堪えきれず、砂浜に飛び降りる。仁王は走った。鞄を投げ捨て、ブレザーを脱ぎ捨てた。マフラーが後ろへと飛んで行った。砂に足を取られてバランスを崩す。構わず走った。やがて右足が引いて行く波を踏み抜いて、小さな飛沫が上がる。次の瞬間には寄せ返した水の塊が仁王にぶつかり、小さく割れた。海にとって小さすぎるヒビ割れは彼の全身を余す処なく濡らした。
水面を殴った。波を押し返そうとした。絡み付いた海藻を振りほどき、投げ付けた。耳障りな音に気付いて、自分が叫んでいることを知った。冷たい水温は容赦なく体温を奪ったが、頬にだけ生暖かい液体の感触があった。それが手に受け止めた幸村の精液を思い出させて、振り切るように頭から飛び込んだ。
水を吸い込んだ服が浮上を妨げる。目を閉じれば波に揺らめく感覚があって、暫らくするとそれもなくなった。温度が混ざり合い、境界線が曖昧になる。大海の一部になった気分。このまま拡散して溶けてしまえばいいと思った。ただ波に漂っていれば生と死の区別を付ける必要などない気がした。
「仁王くん!」
突然、手放しかけた意識が身体と共に引き上げられた。鈍った感覚が遅れて腕を掴まれていることを教える。引っ張られるがままに水から連れ出され、砂浜に引き倒された。張り付いた髪の隙間から見えるのは、見慣れた眼鏡だった。
「何をしているんですか!」
「……柳生」
膝に手をつき肩で息をしながら、柳生が何かを捲し立てている。けれど呆然とした仁王には届かない。
「なしておるん」
ついて出たのはそんな言葉だった。
「偶然通りかかったんですよ。叫び声が聞こえたので見てみれば、そんな髪の色をしているのは貴方くらいしかいないと」
そう言って仁王の右隣に腰を下ろした。濡れたスラックスに砂が纏わりついたのを仁王の目が捉えた。息を整える柳生を見上げて、ゆっくりと上半身を起こす。襟の隙間から砂が入り込んで不快感をもたらしたが、どうすることもできない。風が吹きつけて身体が冷えた。波は何事もなかったかのように、打ち寄せては引いて行く。
「冬の海遊びとは酔狂ですね」
呼吸の落ち着いた柳生が先に口を開いた。
「夏が恋しくなっての」
「貴方は夏が嫌いだったはずですが」
「暑いのが嫌いなだけで夏が嫌いとは言っとらん」
「花火大会も海水浴も乗り気じゃなかったくせに、夏のどこが好きなんですか」
「好きとも言うとらん」
「でも恋しくなったんでしょう」
「毎日は飽きるけどたまに食べたくなるファストフードみたいなもんぜよ」
「ファストフードは年中売ってますが、冬の海に飛び込んでも夏なんてどこにもありませんよ」
「屁理屈じゃ」
「貴方こそ」
揶揄に富んだ柳生の言葉は仁王を冷静にした。風邪をひいてしまいますね、と呟いて柳生は傍らの鞄からタオルを取り出す。二枚あるうちの一枚を仁王に手渡した。常に嫌味なほど几帳面に畳まれているはずのそれが少し乱れていて、鞄の中が掻き回される程度には走ってきたのだと知れた。仁王は黙って受け取り、乱暴に髪を拭う。肩からかけると少しだけ寒さを和らげてくれる気がした。
「何かあったんですか」
「あー、海坊主が、おっての」
「それを追いかけたと?」
「そうじゃ、もう少しで捕まえられたんじゃけど、邪魔が入ったけん逃してもうた」
「それは失礼しました。私が駆け付けたときには何もいませんでしたが?」
「心の綺麗なもんにしか見えんのよ」
「後輩の靴箱に偽物のラブレターを仕込むような人の心が綺麗だとは思えませんが」
「可愛い悪戯心じゃろ」
「……貴方と話していると疲れます」
柳生がひとつ溜息を吐く。こんな軽口の応酬は久々な気がした。昼間の視線を思い出していた。
「見舞いに行ったんよ、幸村の」
「聞き及んでいます。私も今日は真田くんについて行きましたので」
微かに動揺した。確かにこの道は、病院帰りにしか通らない。
「幸村から何か聞いたか?」
「何か、とは?今日は具合があまり良くないようだったので、あまり話していませんが」
「……セックスした」
「は?」
「だから、セックスした、幸村と」
隣で息を呑む気配がした。柳生が探るような視線を向けたが、仁王の表情には何も映されていない。沈黙が波の音を際立たせる。
「……冗談、ではなさそうですね」
ゆるゆると息を吐き出し、馬鹿なことを、と呟いて柳生はゆっくりと頭を振った。
「怒らんの」
「どちらかと言えば呆れています」
「意外じゃの、相手は病人ぜよ」
「何か事情があったんでしょう。さすがに貴方もそこまで馬鹿じゃない」
「大人ぶりよってからに」
「怒った方がよかったんですか?」
そうかもしれない。仁王は口に出さず思った。何を考えているんだと罵られ、人でなしと蔑まれれば何ひとつ弁解することなく気持ち良かったとでも笑えるかもしれない。そうでなければ潰れてしまう。些細な変化に、哀しいセックスに、命の重さに、打ち拉がれてしまう。
「……柳生は最近、小言言わんね」
「そうですか?」
「真田は逆じゃな、余計うるさなった」
「仁王くん?」
「柳が赤也を庇っとった」
「仁王くん」
「何なんじゃお前ら、揃いも揃って辛気臭い」
「……それを言うなら、貴方だって」
最近は、真面目だったでしょう。消え入るような声で柳生は呟いた。慇懃無礼を地で行くような彼には似合わなかった。仁王はまた目頭が熱くなるのを感じた。手でこめかみを押さえ、波が去るのを待つ。目の前にいるライバルと呼んで差し支えない男の前では泣きたくなかった。
黙ったままでいると、左肩に温もりを感じた。何事かと見遣れば反対側から回された柳生の掌だった。そう気付いた瞬間引き寄せられ、傾いだ身体ごと柳生の肩に受け止められた。
「何すん……」
「寒いでしょう」
抗議を遮って吐かれた言葉が存外優しい響きを持っていて、仁王は勢いを削がれてしまった。引き離そうとした身体からゆっくりと力を抜いた。あまり濡れていなかった柳生の上半身が仁王の水気に侵食される。じんわりと伝わる温もりは、ただ穏やかで心地良かった。
「イレギュラーなことが多過ぎるんです。これまでのようにいかないのは当然でしょう。貴方と幸村くんの間にどんな話があったのかは知りませんが、我々は信じて待つしかないんです。そして彼が帰ってきたときのために、勝ち続けるしかないんですよ」
柳生の口調は、聞き分けの悪い子供を諭す母親のようだった。声は耳からでなく、触れた右半身に直接響いた。
「……大人じゃの」
「ぶってるだけですよ。見抜けない貴方じゃないでしょう」
肩に感じる震えが、寒さのためなのか、別の何かのためなのか、そもそもどちらのものなのかわからなかった。
「明日には詐欺師復業してくださいね」
「わかっとるよ」
「仁王くん」
「何じゃ」
「痩せましたね」
「そうか?」
「栄養はしっかり摂りなさいと言っているでしょう」
「あー、説教なら明日にせい」
すっかり暗くなってしまった浜辺で、波の音だけが規則正しく紡がれていた。抑えきれなかった涙が頬を伝った。きっと一生忘れないだろうと仁王は思った。幸村との哀しいセックスも、右側にある慣れない温もりも。死の気配の前で、どこまでも続く海の前で、彼らはただ小さな存在だった。悔しくて悲しくて、仁王は泣いた。
笑い話になればいい。そんなこともあったと、馬鹿だったと笑えればいい。もしそうすることのできない事態になったときは、今度こそ海に溶けてしまおうと思った。勝手に幸村と心中するのだ。その手を取って助けられない自分は一緒に地獄へ落ちればいい。今はただ温もりに身体を預けておく。笑うか溶けるか決まるまで。