マンホールの蓋は何故丸い
分厚いカーテンの向こう側からくぐもったノイズが聞こえている。調子を変えないその音は背景に溶け込み、古い映画の中にでもいるような気分にさせる。部活終了後に降り出した雨は、この季節特有の夕立というわけではなかったらしい。夕立ならば酷い豪雨だろうといずれは止むが、このままでは明日の朝練まで降り続きそうだと柳は一つ溜息を吐いた。
現象としての雨は嫌いではない。屋根を打つ小気味良い音や、水たまりに広がる波紋や、窓ガラスを伝う生き物のような雫、そういうものには風流があるし、飽きも来ない。だが一方で、彼は屋外競技の選手だった。大会を控えた身の上では自然と雨は疎ましがられるもので、机の傍らに立ち上げられたパソコンのモニタに表示される気象画像は彼を憂鬱にさせた。
モニタから目を離して手元のノートに意識を移したとき、耳障りな音と共にシャープペンシルを握った右手に振動が伝わった。無造作に置かれた携帯電話が光っている。作業の出端を挫かれ些か不快だったが、誰も見ていないにも関わらず柳がそれを表に出すことはない。手に取って見ると背面ディスプレイには『仁王雅治』の文字が表示されていた。電話だった。折り畳み式のその機械を開くと二十二時三十五分の表示が目に入って溜息を付く。無視したって何度でもかかってくるだろうと諦めて通話ボタンを押す。
「何だ」
『愛想悪いのう』
出るや否や”もしもし”もなく簡潔に言い放った柳に対し、電話の向こう側からはくつくつと何が可笑しいのかマイペースな笑い声が届いた。
「生憎夜更けの電話に振り撒く愛想など持ち合わせていないのでな」
『そんな遅くもないじゃろ』
「お前に常識が通じるとは思っていないが、健全な中学生ならばそろそろ就寝の準備を始める時間だ」
『んなもん真田くらいのもんぜよ』
「弦一郎ならとっくに寝ている時間だ。用が無いなら切るぞ」
『まあ待ちんしゃい』
辛辣な言葉を選んでも仁王の声に何かを詫びるような色が混じることは決して無い。いつ如何なる時もだ。
『ちょいと窓の外を見てくれんかの』
その言葉に黙って柳は従う。立ち上がって窓辺に近付き、控えめに分厚いカーテンを捲る。
「見たが」
『門のとこ』
庭の石畳の先にある門を見遣れば、なるほど見慣れた銀髪が目に入った。防犯用としてセンサーによって点灯するライトに照らされ、二階にある柳の部屋を見上げる視線までよく見える。その目はいつも通り悪戯めいているが、少し顔色が悪いようにも見えた。真っ白な蛍光灯に照らされている所為かもしれない。心当たりが別にあるとすれば、仁王は傘を差していなかった。
「何をしている」
『雨宿り、さして』
これ以上は水没しそうだと柳の返事を聞く前に電話は切られた。ツー、ツー、と無機質な電子音を垂れ流す電話機を耳に当てたまま暫く睨み合いを続けたが、埒があかないと嘆息してカーテンを閉めた。拒絶の意味は込めていないつもりだ。
仁王は門扉に凭れ掛かるように立っていた。服は制服のままだったが、荷物を持っていないということは一度は家に帰ったということだろうか。どのくらいの間雨に打たれていたのかは知れないが、頭の先から靴の中まで濡れそぼっているのは確かだ。いつも無造作に立ち上がっている髪は膨らみを失い、束ねられた毛先は首筋に張り付いて鎖骨に沿って切れない水の流れを作っている。水も滴るいい男と言うには度が過ぎていた。
「こんな時期に風邪でもひいたらどう申し開きするつもりだ」
「心配してくれとるんか」
「勘違いするな、警告だ」
「参謀は冷たいのう」
「優しくする必要性も感じないのでな」
「俺んこと見て可哀想と思わん?」
「まあ、段ボールに捨てられた猫くらいには見えなくもない」
「じゃあ拾って」
柳は挟んだままだった門を開いた。差していた傘が仁王を覆える距離まで近付く。彼らの身長は六センチしか違わなかったが、柳の姿勢が良すぎることと仁王の姿勢が悪すぎることで、いつも必要以上に見下ろし見上げる関係となった。挑戦的な上目遣いの瞳に誘われ、柳は徐に伸ばした手で仁王の喉をくすぐってみる。
「野良猫を餌付けするなといつも言っているのは俺だが」
「野良猫と捨て猫は違うぜよ」
纏わり付いた水気が柳の手を濡らした。触れた肌は冷たい。仁王は手を払うでも身を退くでもなく、喉を震わせにゃあ、と鳴いた。
「ならば温かいミルクくらいなら飲ませてやる」
そう言って踵を返す。付いて来い、の意味だ。仁王はまた傘から置き去りにされるが、今さら数メートルの距離で雨を避けることに意味はない。一歩踏み出すと靴の中が不快な音を立てた。その音に眉を顰めたのは仁王でなく柳で、日本式の引戸を開けてから振り返った。
「タオルと着替えを持って来るから此処で待っていろ」
「ええけど、俺パンツん中までビショビショなんじゃけど」
欧米人が時折するように大袈裟に両手を広げ、肩を竦めて見せる。確かに玄関先で拭うだけでは間に合いそうにない。
「ならば風呂場までタオルを敷いてやる。家人は入り終わって湯を抜いているからシャワーでいいな」
「十分ナリ」
仁王を風呂場に押し遣り、家族が不審に思って出てくる前にと母親に簡潔な事情説明を行った。柳家の広い家屋や別荘は度々テニス部に提供されることがあり、テニス部員だと言うと母親は大した追求もして来なかった。そもそも柳の家族は年齢の割に大人びている彼に対して日頃から過度な干渉はせず、放任主義を取っている。とはいえ、食事も一人外食で済ませることが多いという仁王家の放任主義とは種類が違っている。だから柳は報告・連絡・相談を欠かさない。
着替えを用意する為に一旦部屋に戻った。暫し悩んで、急激に成長した身長の所為で何度か買い替えたユニフォームのうち、ひとつ前のものを選ぶ。仁王にしたって小さいサイズとなるかもしれないが、どうせ二人きりなのだから見てくれまで配慮する必要は無いと考えてのことだ。
果たして見慣れたユニフォーム姿で柳の部屋に入って来た仁王は、「何で夜までこれ着んとならんのじゃ」とごちたが無視を決め込んだ。突然やって来た相手に無償の施しをして文句を言われる筋合いなどない。首からバスタオルを掛けた仁王の毛先からは、まだ雫が滴り落ちていた。
「髪くらいきちんと乾かせ、ドライヤーがあっただろう」
「まだ暑いきに」
「だったらせめて拭け、床が濡れる」
へいへい、とわかっているのかいないのか、勉強机の椅子に座る柳から目を逸らしてドサリとベッドに腰掛ける。まるで遠慮というものを知らないらしい。それもそうだ、仁王がこんな風にして突然訪ねて来るのは柳のデータによるともう十三度目だった。
「歓迎していると勘違いされては困るから言っておくが」
何?片手で乱暴に髪を拭いながら仁王は面倒くさいですと言う為だけに存在するような声を上げる。
「何かある度に俺の処へ来るのはやめろ」
「なして」
「迷惑だ。柳生にでも構ってもらえばいいだろう」
「ねちねちした説教は聞きとうない気分じゃけ」
「ならば丸井」
「弟が纏わり付いてくるけえ鬱陶しいんよ」
「精市は」
「機嫌悪けりゃこっちが痛い目見る」
「ジャッカル」
「人が良すぎて気の毒ぜよ」
「赤也」
「馬鹿の相手する気分やない」
「弦一郎」
「論外じゃ」
この時間は寝てる言うたんは参謀じゃろ、起きとっても行かんけど、と笑ってみせる。わざとらしい溜息を吐いてから柳は立ち上がった。本格的に髪の水気を取る気など無さそうな仁王からタオルを取り上げる。
「何で傘を持っていなかったんだ」
些か乱暴な動作に対する仁王からの抗議はなく、柳は隣に腰掛けて奪ったタオルを被せ丁寧に拭いてやる。
「今日の帰り際には傘を差していたと記憶しているが」
あー、とされるが儘に頭を預けて仁王は間延びした声で答えた。
「マンホールの蓋が、開いとって」
「マンホール?」
「そう、危ないから被せて来たナリ」
「お前は道行く他人に気遣いの出来る奴だったかな」
「俺は紳士じゃけ」
「柳生に変装でもしていたか」
「柳生になっちょう時は悪さしかせんよ」
「録音して本人に聞かせてやりたいな」
はは、と仁王が乾いた笑い声を上げた。何だかんだであの紳士が一番嫌いな人種であろう仁王に対して存外甘いことを柳は知っている。二人の敵対と信頼が絶妙なバランスで成り立つ関係を見抜いてダブルスを組ませたのは柳だった。
「ひとまずこれでいいだろう、体が冷めたら乾かして来い」
雫が垂れない程度まで水気を取れたことを確認し、柳がタオルを離した。掌で直に仁王の髪をかき混ぜてやると、テニスには邪魔としか思えない長さの前髪がまばらに散った。まだ湿り気を残していくつかの束に分かれるその隙間から、金茶色の瞳が覗く。
「参謀」
仁王は腰を浮かせた柳を引き戻すように左手で服の裾を掴み、振り返ったその首に右腕を回した。不安定な姿勢でバランスを崩した柳が仁王へと傾けば左腕も同様に。仁王はそのまま後ろへと体を倒す。引っ張られた柳は自然と仁王に覆い被さる体勢となった。
「何だ、甘え足りないのか」
完全に倒れ込んでしまう前に柳は両手を突っ張った。掌は仁王の頭を挟んで対称に位置している。
「参謀の手付きがテクニシャンすぎて、勃ったナリ」
「それは光栄だな」
嘘だった。確認するまでもなく、仁王のハーフパンツに膨らみはない。それを知っていて柳は仁王の額にキスをひとつ落とす。
「のう参謀、マンホールの蓋が空いとるとこ見たことある?」
「無いな」
瞼に口付けを落としながら柳は答える。
「あれはいけん」
「何が」
柳が触れていない右目だけが開いている。そちらも閉じさせようと口付けると今度は左目が開く。ループだ。
「吸い込まれる。見ちゃいけんもんを見とる気分になるぜよ」
「どの辺が」
「闇を見る者は、また闇に見返される」
「ニーチェか」
瞳を閉じさせることを早々に諦め、今度は頬に移る。
「……声が、聞こえたんよ」
「何の?」
「何のじゃろ。ピンクの象を探せ、ゆう声」
「ピンクの象」
疑問符は付けずに反復した。頬から耳へと移動して甘噛みすると、仁王から少し色の違う吐息が上がった。首に回されていた手が移動し、几帳面に切り揃えられた首元の毛先に埋まる。
「何かわかる?ピンクの象」
「そうだな、幻聴の類ならとりあえず精神科へ行こうか」
耳元に位置したまま話せば複雑な吐息がかかって仁王の体が跳ねる。その反応を楽しむように今度は舌を伸ばす。
「俺は狂っとらん」
「どうだか」
男に耳を舐められて息を上げる男なんて狂っている。そろそろ本当に性器が勃ち上がっているかもしれない。
「ピンクの象を見付けたらどうなるんだ」
「夢を見るんじゃ」
「夢」
「そう、夢」
舌を這わせたまま首筋へと降りる。風呂上がりで解かれたまま広がっている銀髪が目に入る。いつも束ねられていて気付かないが、柳が思っているより長かった。喉仏を下から上へと舐め上げると、息を詰めた気配がして、またにゃあと鳴いた。
「俺の言うとること、わかる?」
「わかるよ」
わからないことがわかる。非現実的なことを言い出すときの仁王は黙らせるに限る。どこからかは知らないが、どうせ虚言だ。付き合うだけ無駄というものだ。喉元から離れ、一度見上げる瞳を見返すと笑みの形に歪められている唇に吸い付いた。薄く開いたそこから仁王の舌が這い出て来て、柳はそれを押し返し侵入する。口腔を弄り、上顎をなぞりながら更に柳はベッドへと乗り上げる。膝を仁王の股間に触れさせれば、しっかりと勃起していることを確認した。それに満足して、柳は体を起こす。名残惜しむかのように繋がる唾液が蛍光灯に反射して光った。
「さあ、髪を乾かして来い。俺は寝る」
「……ほんに、参謀は鬼畜じゃのう」
「これ以上が欲しいなら俺以外の所へ行くんだな」
これまでの十二回の訪問でも、この先の行為に進んだことはまだなかった。進めるつもりもなかった。柳には男を抱く趣味も、ましてや抱かれる趣味もない。これらはほんの戯れで、一種のコミュニケーションだった。仁王の方でもそれを知っているから、立ち上がった柳を引き止めることはしない。潔く諦めて体を起こす。
「参謀かて反応しとる癖に」
「生理現象と感情は別の場所にあるんだ、少なくとも俺の場合はな」
「本能に身を委ねるのもまた一興やと思うがの」
「生憎だが俺は人間だけが持ち得る理性というものを愛しているんでな」
「まあそのうち堕としたるきに」
そう言って仁王も立ち上がる。どうやらきちんと髪を乾かすつもりはあるらしい。出口へと向かう背中に、柳はもう一度声をかける。
「仁王、なぜマンホールの蓋が丸いか知っているか」
「知るかそんなこと」
「どんな向きで嵌めても落ちないように、というのが最大の理由だ」
その言葉に仁王は振り返る。無表情に柳を見つめた後、口角だけを上げてみせる。
「穴が広がれば落ちる、ゆうことじゃな」
「そうなれば蓋も広がるさ」
同じように柳も口元だけで笑みを作ってみせる。目は元から細められている。暫く見つめ合い、唐突に無表情に戻った仁王が部屋を後にした。階段を降りて行く音を聞き届けてから、柳はゆっくりと息を吐き出す。
「丸い穴の丸い蓋は、向きを変えなくても嵌るように出来ている」
椅子に腰掛けて膝に肘を付き、組んだ指の上に顎を載せる。仁王が戻って来るまでに起こされた性欲を鎮めることだけを考えなければならない。誰の耳にも届かない台詞は窓を打つ規則的な雨音に溶け込んで消えた。