ええか?他人に成りすますゆうんは、ただ外見だけを真似ればええっちゅうもんやないんよ。人を造るもんはそんな簡単なもんやなくて、趣味趣向、生活リズム、思考回路まで理解してイリュージョンは完成するんじゃ。俺も一人では全然興味も惹かれん推理小説だの古い映画だの音楽だの嗜んどる。やけんお前さんにもそれくらいの歩み寄りは見せてもらわんとのう。

 少しずつ変わっていく鏡の中の自分を見ながら、仁王が最初に入れ替わりの話を持ちかけたときの言葉をなんとなく思い出していた。

 柳生はそのときお気に入りの推理小説を読んでいて、それを取り上げた仁王が犯人とトリックをペラペラと喋り出したことに驚いた。本を読んでいるところなんて見たことがなかったからだ。
 一方で仁王は驚きの理由を知ると不満気な顔をした。ネタバラしをされて悔しがる柳生が見たかったからだ。
 推理小説なんて一回読んだら価値がのうなるもんじゃろと仁王は口を尖らせたが、トリックがわかった後にもう一度伏線を拾い直す作業も柳生は愛していた。

 彼らが互いに成りすますことになった理由はいくつか考えられる。単純に勝つための手段と割り切ることもできるし、彼が外した眼鏡の奥に、もう一人の彼と同じ獲物を狙うような目が隠れていたことも大きかった。彼特有の髪の色はだからこそもう一人の彼が彼になれる可能性を示唆したし、同じ目を隠すことのできる眼鏡もまた同様だった。

 彼は彼になって、そうして初めて彼らとなった。

9 1/2 -Nine Half-

 柳生は鏡の中の自分を覗き込む。まだ眼鏡は外していない。髪は既に仁王と同じ銀色で、地毛と馴染ませている最中だった。鏡の前には仁王が外した赤いゴムが置かれている。襟足の毛量に対して大きなその髪ゴムは何度もきつく巻き付けないとすぐに抜け落ちてしまう。その無駄な作業が柳生はあまり好きではなかった。
 前の席に後ろ向きに腰掛け、同様に鏡を覗き込む仁王を見遣る。髪型を変えることに関して仁王は慣れたもので、彼はそれをいつも後回しにする。今は目立つ口元の黒子をコンシーラーで隠すことに集中している。仁王が姉に借りてくるまで柳生はその道具を見たこともなかったが、普段はそばかすやニキビ痕を消すために存在するらしいそれは黒子を隠すには向いていない。色素が濃すぎるからだ。これは俺のチャームポイントじゃけど、こんときだけは邪魔やの、といつだったかボヤいていた。
 「何じゃ?」
 柳生の視線に気付き、仁王が顔を上げる。いえ、と柳生は自分の鏡に視線を戻す。すっかり銀髪になった自分を見て、しぶしぶ赤いゴムに手をのばす。
 「もう引退したのに何故こんなことをしなければならないのか、と思いまして」
 「細かいことは気にしなさんな、好きじゃろ?」
 「何か悪巧みをしているのではないでしょうね」
 「しとらんよ、それなら俺一人で充分じゃ」
 空気だけで楽しそうに笑っていることがわかって、柳生は溜息を漏らす。仁王が柳生の姿でくだらないことをやらかすのは今に始まったことではない。

 終わった時間に思いを馳せる。

 柳生はジャズを聴いた。ダーツも覚えたし、ゲームセンターにも通った。屋上でシャボン玉を吹いてみたこともある。何故こんなことを、と思う一方で、仁王の住む世界の一端を垣間見ることは新鮮だった。
 仁王はアガサ・クリスティを何度も読んだ。オペラ座の怪人は全てのリメイクを制覇した。やはり一作目が一番ですと聞いてからは、白黒のサイレントフィルムばかりを観た。眠気を催す瞼を押し留め、このモノクロの世界を眺める柳生を想った。

 そんな二年間だった。柳生は仁王になるために、仁王は柳生になるために、個性が定着するための人間として一番大切な二年間をそんな風にして過ごした。彼らに芽生えつつあったアイデンティティはまだ危うい靄の状態から脱しきれておらず、そのうち彼らは二人の違いがわからなくなっていった。

 仁王は喜んだ。俺は俺が他の誰でもなく俺でしかないってことが嫌なんじゃ、と笑った。
 柳生は悲しんだ。私は私が私以外の何者でもないということに誇りを持っていたいんです、と泣いた。

 当然の帰結として、彼らは恋に落ちる。あるいはそれが理由だったかもしれない。彼は彼を愛するが故に、彼になりたがったという見方も、彼らの入れ替わりについてのロマンティックな解釈として成り立つだろう。
 いずれにせよ、もう引き返すことはできなかった。あらゆる小さな差異を埋めるために彼らは互いを観察し合った。理解を深め、自らに取り込んでいった。

 仁王の姉が捨てた、短くなったペンシルアイライナーを握る。芯に描かれた無数の目が柳生を見つめる。いつ見ても悪趣味だ、と思う。
 視界に映る仁王の髪はライトでもダークでもない、純粋なブラウンに変わっていた。柳生の色だ。広がる髪をワックスで撫でつけていく。柳生が貸したものだけれど、元来直毛な柳生と違って仁王が要する量は多い。少しずつ少しずつ、細い仁王の毛髪が収まっていく。
 ウィッグを多用することの多い仁王は、柳生になるときだけは地毛にこだわった。理由は教えてくれなかったけれど、脱色できるだけし切った髪は他の色を簡単に迎え入れる。まるで彼そのものだ、と柳生はずっと思っていた。彼はとかく自分を空っぽにしたがる。柳生が覚えてきた仁王の趣味趣向だって、本当に彼元来のものだったのか、今となっては定かでない。
 「のう柳生」
 「何ですか」
 鏡を見たままで仁王が口を開く。柳生も鏡を見たまま、慣れた位置にアイライナーを押し付けて答える。仁王が隠した黒子が柳生に現れる。
 「今俺は半分くらい俺で半分くらい柳生じゃろ?ほんで、柳生は半分くらい柳生で半分くらい俺じゃな?」
 「それがどうかしたんですか」
 「こんときが一番好きなんよ、どっちもどっちでもないけぇ、一番カオスじゃろ」
 「ならばここで止めますか?」
 一瞬だけアイライナーを離す。まだ少し濃さが足りない。いや、と仁王は襟足を執拗に撫でつけながら答える。
 「止めんよ、これじゃ足りん」
 「何がですか?」
 答えが返ってこなかったので、柳生は黒子を描く作業に戻った。

 手っ取り早い方法がある、と言い出したのはやはり仁王だった。他人を理解するために、単純かつ簡単な方法がある、と。
 どんな?と聞く柳生の唇を、仁王の唇が奪った。頑なに訪問を拒まれていた仁王の家に初めて訪れたときだ。それは何の変哲もないマンションの一室で、仁王はその2DKの部屋に姉と二人で住んでいると言った。姉は一週間の半分以上を彼氏の家で過ごす、とも。不規則な生活の理由を一つ知って、少しだけ嬉しかった。それが理解に繋がるからだ。

 仁王の指は柳生の身体を巧みに滑った。その動きに、少しずつ少しずつ、柳生が貼り付けている仁王とは違う種類のポーカーフェイスが崩れていく過程を感じた。
 柳生は小説や映画の中でしかその行為を知らなかった。大抵は探偵の男とキーパーソンの女だったし、仁王の好きな映画に一を足したタイトルを冠する際どい映画を間違って観てしまったときも、倒錯的な性に溺れる主人公は男と女だった。その頃既に柳生は仁王への恋を自覚していたし、仁王からも同様の感情を伝えられていたけれど、まるで別の世界の行為だと考えていた。
 久しぶりじゃ、と仁王は言った。柳生を好きになってからは、誰ともせんかった、と。喜んでいいのかはわからなかったけれど、自分を犯しながら仁王のポーカーフェイスも少しずつ剥がれていくことを感じて、嬉しくなった。確かに手っ取り早い、と納得もした。
 仁王は柳生主体の行為も要求した。怠さを訴える下半身を引きずり、それに応えた。直前の行為を思い出しながら、仁王の身体を探った。男に発情するなど考えたこともなかったけれど、柳生に反応する仁王の肢体に、一度達した性器は不思議と硬くなった。ポーカーフェイスは、柳生が抱かれたときよりも速く崩れ去った。

 仁王の手が柳生から眼鏡を外す。現れた鋭い目が仁王を睨む。喉の奥で仁王が笑う。その眦に軽い口付けが降る。いつか嫌いだ、と言っていた。自分と似た三白眼が、大嫌いで何よりも愛しいと、仁王はいつも小さな口付けを落とす。最後の儀式のようなものだ。
 仁王が眼鏡をかける。人差し指でブリッジを押し上げる。寸分の狂いもなくその仕草は柳生のものだ。そうして仁王は柳生になる。柳生は仁王になる。

 あの夏の最後の日、彼らは同じ舞台にいなかった。コートの上で仁王は仁王であり、ベンチの片隅で柳生は柳生だった。
 ある意味では、仁王は仁王でなかったかもしれない。それでも、敗北のその瞬間、仁王は仁王でしかなかった。終わりの合図は、弾けた花火だった。

 腫れた左頬を冷やす仁王に柳生は寄り添う。仁王は頭からタオルを被り、黙って俯いている。柳生も何も言わない。気が遠くなるほどの時間が流れて、柳生が優しく仁王の肩を引き寄せる。その肩が震えていることに、触れて初めて気が付いた。

 どうせなら一緒がよかった、と仁王は泣いた。
 心は一緒でしたよ、と柳生は笑った。

 その日彼らは2DKのマンションへ帰り、セックスをした。ポーカーフェイスは簡単に消えたけれど、彼らが感じた痛みは共有されなかった。この夏のために常に一緒にいて、愛し合ってきたはずだったのに、最後の最後で彼らは同じ場所にいなくて、抱いても抱かれても、彼らは違う存在のままだった。終わったのだ、と彼は思った。もう彼と彼が互いに成り代わることはないのだと、夏は終わったのだと、もう一人の彼も思った。

 何もかもが拡散していった。そうして彼の自我は崩壊した。

「このままセックスをしましょう」
 「は?何を言うとるんじゃお前さんは」
 「酔狂だとは思いませんか?」
 「自分で自分を抱くってことか?気持ち悪い、ナルシストにも程があるのう」
 「それは違います。あなたは私で、私はあなたなのだから、私が抱くのはあなただし、あなたが抱くのは私です」
 「お前さんは間違っとるよ。俺は俺じゃし、お前はお前じゃ」
 「なぜそう言い切れるんですか?やってみなければわからないでしょう」
 「なら思い知らせちゃるよ。俺とお前は他人じゃて」
 「望むところです。乗ってくれるんですね?」
 「後悔しても知らんぜよ」
 「あなたこそ」

 彼らはまず口付けを交わす。どちらともなく舌を差し込み、絡め合う。唾液が混ざり、彼の手がもう一人の彼の肌を撫ぜる。衣服は始めから身につけていなかった。
 彼の舌が彼の首筋を這い、彼の指が彼の性器に触れる。血の集まった性器は硬く勃起している。先端に溜まる液体を掬い、滑らかに塗りつけていく。
 彼らは互いの性器を口に含む。彼の唾液は彼の精液と混ざるけれど、唾液も既に混ざった後だった。彼が与える快楽は彼の吐息となり、彼の吐息が彼に快楽を与える。彼の唇や指が彼を追い詰め、やがて彼らは同時に果てる。溢れ出す濁った液体を半分だけ飲み下し、もう半分は掌に吐き出して彼の奥に塗り込める。
 もう一度彼らは口付ける。至近距離で見つめ合う瞳は金茶色で、彼にはもうそれが誰なのかわからなかった。別の誰かのような気もしたし、鏡だと言われても納得できる気がした。
 そして彼らは一つになる。彼が入り、もう一人の彼が入られる。二人同時にと願ったけれど、彼らの構造はそれを許さない。仕方がないので彼らは入れ替わる。入れ替わったものが心と身体のどちらだったかということは、些細な問題でしかなかった。抱いて抱かれて、彼らの全てが混じり合い、どろどろに溶け合って体温も均質になった頃、彼らは同時に倒れこむ。彼は彼であり、もう一人の彼でもあった。彼らは触れるだけのキスをした。感触はなかった。

 2DKではない、白い部屋で彼らは眠る。白いシーツに汚れは無い。羊水に浮かぶ双生児のように背を丸め、向かい合って彼らは眠った。世界の誰も彼らの邪魔をしなかった。
 彼は夢を見ていた。とても幸福な夏の夢。彼らはいつも一緒にいて、彼らにしかわからない愛に満ち溢れていた。彼のことは誰よりも彼が知っていたし、逆もまた然りだった。けれど花火は打ち上がる。花火が咲いて、夢に終わりがやってくる。彼は泣いて、もう一人の彼は笑っていた。

 やがて彼が目覚める頃、もう一人の彼はそこにいない。そして彼は目を閉じる。永遠に。

2012.8.29