いつの間にか短くなっていた昼間が西の空に飲み込まれていく。吹き付ける風はそれでも蒸し暑さを孕んで、俺の腫れた左頬を遠慮なく撫でつけていく。太陽はいつでも一ヶ月分の季節を先取りする。あの燃ゆる星にとって、夏はもう終わった過去なのだろう。
 ガチャリ、と音がして、続いて錆び付いた蝶番が不快な音を立てる。俺は振り返らなかった。陽の暮れかけた夏休みの学校にはテニス部しかいない。その中でこんなときにこんな場所へ来る人間なんて、一人しか心当たりがなかった。
 「なんじゃ、先客おったんか」
 予想通りの低い、けれどどこか間の抜けた声が響いて、そのタイミングで漸く俺は振り返る。西に沈む太陽が逆光を浴びせてくれることを計算した上で、だ。
 「来ると思ったよ」
 俺と同じように左頬を腫らせた仁王が、屋上へと続く扉のノブから手を離さないまま立っていた。
 「花の世話か?」
 「そう見える?」
 仁王は動かない。逆光になった俺の表情を見極めようとしている。
 「入れば?」
 少しだけ優しくなったような気分で、俺は仁王にそう言ってやる。言ってから、どちらかといえば外はこっちなのに入れというのもおかしいな、と思った。

敗者の嘘

 東京は、近いようでやはり他所の街だ。だからといって観光するほど珍しい街でもない。宿を取っていたわけでもない俺たちは、閉会式が終わると逃げるようにその街を後にした。大会の総評や引退式は使い慣れたコートで行うことが慣習で、それでも今年は持ち帰る旗がなかった。それがこれまでの二年間との違いだった。
 真田の制裁が最後のミーティング前に行われたのは賢明な判断と言えただろう。終わりを受け入れ切れていない俺を含めた三年生は、その通過儀礼を当たり前のこととして受け止めた。もしも総括として行った俺の演説が先に行われていたならば、そうはいかなかったと思う。負けた人間に仕打ちを行うことは単なる罰ではなく、次に繋げるための儀式だ。俺たちにもう次はなかった。演説が終わって初めて俺たちはそのことに気が付いた。
 真田もそうだったんだと思う。俺が真田に殴られたのはこれで二回目だった。一度目は入院中、病魔に負けそうになっていた俺に気合いを入れてくれたときだ。ベタベタに甘やかされなくて本当によかったと思う。あのときは真田も俺もそれが正しいことなのだときちんとわかっていたし、自信と誇りを持って殴り殴られた。けれど今回は違う。俺が何かに向けて奮い立たされることもなかったし、真田にとっても意味のないことだった。全てが終わった後にそう気付いて、真田はいつも共にあった帰路に一人でつき、俺は手持ち無沙汰になって屋上へ上がった。

 どこにも繋がらない痛みが鈍く左頬に染み渡る。仁王は俺の左側に座った。弱味を見せたがらない彼らしい。人の傷を抉りたがる彼らしさでもある。
 同じように左頬に痛みを抱えたまま、どちらも何も言わない。前を見ている。空は赤い。カラスが二羽、自信なさげに飛んでいく。響いた鳴き声が哀しくて、帰る場所がないのかもしれないと思った。

 「……随分大人しかったのう」
 先に耐えられなくなったのは仁王だった。こういう種類の根気比べで俺が負けたことはない。仁王は俺の肩にもたれ掛かる。左側の視界を銀髪が侵食する。今は夕陽を反射してオレンジがかって見える。
 「何が」
 わかっていたけれど質問で返した。答える代わりに仁王は預けたばかりの頭を持ち上げ、俺の腫れた左頬に舌を這わせた。少し低い体温と粘度の高い水分が、そろそろ慣れ切った鈍痛と迎合して一種の快感を生む。俺は振り払わない。そっと目を閉じて受け入れる。夕陽のオレンジは瞼を突き抜けて光と温度を伝え続ける。意味がないと気付いて再び目を開けた。
 「これでも俺は部長なんだ、受けるべき制裁はきちんと受けるさ」
 言葉で表現しない仁王を待つのも面倒で、前を見たまま答えた。太陽は昼間を連れて絶え間なく沈んでいく。夏も連れていって欲しかったけれど、やはり風は暑苦しく、それにはまだ時間がかかるのだと告げる。俺たちの夏はもう終わってしまったというのに。
 「もう部長でもないじゃろ」
 「今日までは部長だし、お前達にとっては一生部長だよ」
 「それは願望か?」
 「事実だよ」
 仁王は俺の頬を舐め続ける。ひどく遠慮がちに。懐き切らない猫が、それでも優しさ欲しさに目の前の人間を伺うときに似ている。ここで俺が何らかの威嚇をすればすぐにその舌を引っ込めるだろう。仁王は俺を伺っている。優しさを欲しがっている。
 「お前、嬉しいんだろ」
 思っていることと少し違う問い掛けをする。これはこれで本心だ。何が?わざとらしくとぼけた口調で仁王が言う。その一瞬だけ舌先が離れて、声は耳よりも肌に直接響いた。
 「俺が負けたこと」
 舌が止まり、少しだけ間が空く。仁王の唾液が生温い風に冷やされて不快な引き攣りを生む。俺は黙っている。仁王の答えを待ってやる。やがて風と違う種類の空気がかかって、仁王の吐息だと知る。何かに分類するとするならば、それは笑みだった。
 「まさか、お前さんが勝っとったら俺らは優勝できたっちゅーのに」
 「お前が勝てばその瞬間に優勝だったさ」
 スポーツマンシップと真逆の皮肉を放ち合う。誰もが心のどこかに持つ理不尽な怒りを、俺たちだけがぶつけ合うことができる。なぜならば負けたからだ。
 「不二には手塚で行きゃあええて言うたんはお前さんぜよ」
 「完璧な手塚なら、って話だよ」
 仁王の舌は滑って、切れた口端をなぞる。始め血の滲んだその場所はすでに瘡蓋に覆われていたけれど、少しだけピリリとした痛みが走った。
 「オーダー、後悔しちょる?」
 「それは全体を通して?それとも、仁王を不二にぶつけたことについて?」
 「両方ぜよ。ついでに、お前さんが真田の仇を取ろうとしたことについてもな」
 目だけを流して仁王を見る。睨みたくなる気持ちは抑えた。俺の口端を執拗に舐めながら、仁王も俺を見上げていた。まだ俺を伺っている。必要以上の攻撃を受け入れてもらえることを確認してからでしか、仁王は他人に甘えることができない。よくわかる。俺もそうだからだ。
 「してないさ、あれがベストだったと思うよ」
 「D1もか」
 「もちろん」
 仁王は俺の口端を舐めるために、自分の左頬が俺に見えてしまっていることに気付いているのだろうか。同じように腫れた頬、同じように切れた口端。仁王は俺を責めながら少しずつ自分の傷を見せる。不器用さが可哀想になって、俺もそこに舌をのばした。伺い合うのは終わりだ。どうせ同じ傷を抱えているのなら、始めからそんなことは必要なかったんだ。

 ブン太とジャッカルなら違う方法で乗り越えられるんだろうなと思った。二人は俺たちと同じように左頬を腫らして、それでも泣きながら俺に謝りにきた。ごめん、勝てなくてごめん、幸村くんまで回さずに勝てると思ったんだけど。彼らは俺を責める素振りは欠片も見せなかった。そんなこと思い付きもしなかったんだろう。いいよ、二人とも頑張ったんだから、それに俺も負けたしね。さらりと言えば彼らは何とも言えない表情をして、それでも頷いた。そう言ってやればあとは二人の問題だ。彼らは彼ら特有のチームワークに誇りを持っていた。それが敵わなかったなら、二人で解決するしかない。それがダブルスで負けるということだ。
 対して俺と仁王はこんな風に文字通り傷を舐め合うことしかできない。本来なら部屋で一人膝を抱えるべき場面ですらある。チームを背負って一人ぼっちで戦う。それがシングルスで出るということだ。本来なら負けても悔しさを共有できる相手なんて用意されていない。もしかすると俺はどこかで見越していたのだろうか。本来ダブルスを好む仁王を尤もらしい理由をつけてシングルスに押し込んだのは、こうして傷を舐めてもらうためだったのか?

 口端の傷を通り越して、俺たちは直接舌を絡ませ合う。唾液を共有すれば傷も分け合えると思っている。馬鹿馬鹿しい。やがて仁王が体重をかけて、俺ごとベンチに倒れこむ。仁王は俺に跨ったまま一度身体を離した。何てひどい顔をしているんだ、と思った。きっと俺も同じような顔をしている。
 「こんなことしても何も解決なんてできないと思うけど」
 泣きそうになって俺は言う。
 「わかっとるよ」
 仁王も泣きそうな声でそう言った。

 これが真田なら、蓮二なら、俺は同じようにしただろうかと考える。考えるまでもなく、答えは否だ。彼らと共有してきた概念や感情は、仁王とのそれとは根本的に違っている。あの二人とならばもっと上手い乗り越え方があったはずだ。仁王にしたって、負けるならば柳生とのダブルスの方がまだマシだっただろう。

 なんで仁王だったんだろう。なんで俺は仁王を選んだんだろう。なんで仁王を柳生と出してやらなかったんだろう。
 不思議と後悔はなかった。なぜならば負けることは悪だからだ。悪は裁かれなければならない。甘美な敗北などあってはならない。俺たちは何だ。王者だろう。
 俺たちは罪を犯した。だから罰を受ける。互いに罰を与え合う。自分を赦すために。

 仁王が俺の首筋に鼻先を埋めた頃、西の地平線に太陽が完全に姿を隠した。視界に揺れる仁王の髪はもう何色をも反射することなく、ただの銀髪だった。俺はそれを優しく優しく撫でてやった。
 「ごめん」
 「俺の方こそ、ごめん」
 不器用な俺たちは乱れる呼吸の中でしか懺悔の言葉を口にすることができなかった。あるいは最後まで声には出せなかったのかもしれない。伝えたのは繋がった身体の一部だったのかもしれない。

 このようにして俺たちは裁かれた。そうして夏は終わった。

2012.9.5