仁王雅治は不誠実な人間だ。そうである癖に、不誠実であることにはやけに誠実であろうとする。不誠実な己を不誠実だと知る人間にしか寄り付かないし、少しでも誠実さを求められれば忽ちその寝台から抜け出すだろう。
 縛られることが嫌いなのかもしれない。面倒ごとを避けたいのかもしれない。理由はいくつもあるだろうが、とにかく彼は誠実に不誠実だった。

TALKING TO THE MOON

 月明かりの下で柳は茶を嗜んでいる。小学生の頃学んだ作法を簡略化させて自分のために点てた茶だ。作法というものはつまり他人の存在を想定しているもので、一人縁側に座る今の彼に必要なものではなかった。作法を学ぶ上で培われる精神性や倫理観はとっくに身につけた後だったし、身につけた上で何をどう行使するかの決定権は彼にある。およそ多くの経験は無条件に行使するだけであるうちは身についたとはいえないものだ。
 帰宅して夕飯を終えた頃、仁王からメールが届いていた。『窓開けといて』とたった一行。それが今夜柳の部屋を訪れるかもしれないという彼なりの意思表示だった。かもしれない、というところがミソだ。『わかった』と返した柳が約束したのは窓を開けておくことであって、仁王が会いに来ることではない。
 柳は誠実な人間だった。何に対しても、誰に対しても対象を正しく認識し、正しい対処を行おうと心掛けている。正しさの正しさを精査することも欠かさない。だから彼は仁王の不誠実さに対しても、誠実に付き合うことにしている。

 今夜は来るのだろうか。月を見上げて柳は考える。
 連絡があって仁王がやって来る確率は概ね五割に収束しつつあった。奇しくも綺麗に割られた今宵の上弦の月のように。それが二者択一における純粋なランダム性の発露なのか、意図的にそうされているのかはわからない。天気や前回訪問からの期間、連絡時刻などいくつかの条件で検定にかけてみたけれど、何においても有意な相関は見出せなかった。つまり予測不可能、ということだ。更に言えば、連絡無しに訪れることだってままあった。予測不可能性は柳の興味をそそる。理性的な意味では、そういった不確実性を追い求めることも柳の誠実さのうちに入っていた。

 では感情的な意味ではどうか。例えば仁王が連絡を寄越し、かつやってこなかった場合のことを考えてみる。
 まずひとつ目の可能性は、素直に自室で眠ってしまうことだ。仁王が柳に連絡をしようと思い立つ場所がどこであるかは知れないが、例えばそれが自室であった場合、すぐに興味を失うなり眠気が訪れるなどしてそのまま引きこもってしまう確率はそれなりに高いといえる。そうならば別にいい、と柳は思う。柳としてはただ自室の窓を開けたまま自分も床に就けばいいだけの話で、次の朝目覚めて自分一人であることを確認し、ひとつのサンプルデータとしてノートに正の字を一本付け加えるだけでいい。
 問題はもうひとつの可能性だった。これが仁王を不誠実たらしめる一番の理由であるわけだが、つまり、彼が他の寝台で夜を過ごす場合だ。柳に連絡を寄越した後で、道行く誰かに声をかけられついていくかもしれない。もっと悪いことに、柳の知る誰かからの連絡に上書きされてしまうこともあり得るのだった。
 柳は仁王の不誠実さを正しく認識しているが、だからといって他の寝台にいる仁王に対し何も思わないわけではない。その二つの事実が全く結びつかない人間か、そもそも何も感傷に浸らない人間の二通りしか仁王と寝ることはできないだろうが、柳は前者だった。
 そうして沸き起こる感情というものは、あるときは苦笑を伴うような呆れであったし、またあるときは優先順位の低さからくる自己無力感であったりした。それは気分の問題だ。仁王の行動が予測不可能であるように、柳の感情もまたあらゆる要因が複雑に絡まり合い、簡単に有意な相関を見せはしない(それがなければ柳はとっくに自分自身への興味を失っていただろう)。そしてその感情の揺れを、嫉妬心と名付けても別段構わないと柳は思っている。それは決して仁王に伝わるものではないし、嫉妬したからといって仁王に誠実さを求めたいとは思わないからだ。それが感情的な意味での柳の誠実さだった。

 今夜はひたすらに寂しい、と柳は思う。そうさせるのは、頭上で半分になっている月や、夏の気配が消えていく初秋の夜風や、そういうありきたりな要因だろうか。表に出にくいだけで柳にも誰かに傍に居て欲しい夜はあるし、他人に必要とされれば嬉しいと思う。他人の体温が存外安らかな眠りを連れてきてくれることも知っている。そういった感傷が、今夜は強い。それなのに、それを見透かしているかのように仁王が現れる気配はどこからも感じられなかった。柳はふと手元を見て、忘れかけていた茶を一口啜る。甘ったるい苦味が口腔内に広がった。心のささくれがいよいよ目立ってしまった。
 柳はぼんやりと仁王の身体を思い出す。日中不健康にしか見えない青白い肌は、こんな月明かりの下ではやたらと妖艶に映えるだろう。今日ならばいくらでもリクエストに応えてやれる気がした。戯れの延長のように軽い愛撫をしてやることも、ひとつになれると錯覚するほどドロドロに抱いてやることも、偽物の愛を囁いてやることも。柳でそう想う夜なのだから、仁王が一人で眠れるわけがない。
 一体誰の寝床に潜り込んでいるのだろう。関係の一番長いテニス部部長か、一見正反対なようでその実双子のように似ているダブルスペアか、見た目より何倍もさっぱりした性格をしている赤毛のクラスメイトか。あと何年かすれば、こんな夜に酒が飲みたくなるのかもしれないと柳は思った。寂しくなって酒に酔い、余計に酷い気分になるような夜がいずれ自分にも訪れるのかもしれない。そうなる頃には仁王を待つ夜など無くなっているだろうけれど。

 仁王が最後に選ぶのは一体誰なのだろうか。
 およそ性的な意味で不誠実になる時期は、程度の差こそあれ誰にでも訪れるものだ。熱に浮かされたように、まるでそれだけが生まれた意味だとでもいうように、他人の温もりだけを執拗に追い求める時期が。その時期がある程度の無秩序さを伴えば伴うほど、それはあるとき突然終息する。夢から覚めるように誠実さを取り戻す。
 終息した先で得るものが、結局は何も得られないというニヒリズムであるか、嘘みたいに純粋なひとつの愛であるか、それは誰にもわからない。もちろんそのどちらが幸福であるかは一目瞭然である。それでもどちらかを能動的に選択することは難しいし、大抵の場合は全てに疲れた頃、偶然傍に居合わせた誰かの元でニヒリズムに浸りこむことになるのが関の山だ。
 けれど、仁王はその妥協だけはしないだろうと柳は予測している。なぜなら仁王は恐らくもうその行為の空虚さには気付いているからだ。抱いていれば嫌でもわかる。仁王は飽きているし、疲れているし、生まれた意味がそんなところにはないと知っている。それでも不誠実であることをやめないのは、もしかすると最後の愛に辿り着くためなのではないだろうかと柳は思っている。些かロマンチックすぎるかもしれないこの予測を、存外柳は気に入っていた。
 そうだと仮定して、では仁王が最後に辿り着く愛を持つのは誰なのだろう。

 精市は違うな、と柳はまず一人目の可能性を打ち消す。彼は仁王の不誠実さについて何も感じないタイプの人間だ。彼は彼自身がある程度不誠実であって、その実最後に落ち着く場所だけは既に決めてしまっている。そしてそれは仁王ではない。まだ時期ではないと言いたいのか、念には念を入れているのか、彼は意図的に少しの寄り道をしているだけの話だった。だから仁王の不誠実さに憤りはおろか疑問さえ持たない。仁王は愚かではないから、そんな相手に嵌り込んでしまうような馬鹿をするくらいなら始めから余所見などしない。
 では柳生ならばどうか。自らと並んで感情の読みにくい眼鏡が柳の脳裏に浮かんだ。彼は誠実だ。ただし、周囲が『紳士』と呼ぶような意味での誠実さではない。彼は仁王に執着している節がある。仁王がそれに全く気付いていないとは思えないが、彼は不誠実な仁王を不誠実なままでドロドロに甘やかし、巧妙な駆け引きという餌をも用意することで何とか仁王を逃さずに済んでいる。その仮面が彼の狡猾な誠実さだ。彼が奥に隠した独占欲が表出するのが先か、仁王が彼の甘やかしに陥落するのが先か、その結果如何では愛を手にする道はあるだろう。ただしその場合、強烈な依存という底なし沼に嵌り込み、結果的に破滅してしまう未来を孕んでいる。執着という感情は常にそういう危険性を有してしまうものだ。柳が最も気を付けている感情のひとつで、その有無が柳と柳生の一番の違いだった。
 だから仁王が平凡で幸福な愛を見つけるとするなら、その可能性が一番高いのは丸井だと柳は思っている。そもそも異色なのだ。関係に気付いたときには少なからず驚いた。確かに彼は竹を割ったような性格をしているが、感性はおよそ思春期の少年のそれであって、嫉妬することもあるし、それでいて面倒な駆け引きなんかは好まない。それでも今は彼自身が仁王との関係について深く考えていないから成り立っているのだと柳は思う。彼が仁王に本気で惚れたときには、恐らくそこに誠実さを要求するだろう。仁王は彼がそういう人間だとわかっている。わかっていて惚れさせようとしている。その先にあるものを見極めるように。そこに満足いく結果があれば、仁王は落ち着くのかもしれない。

 もちろんこれらは単なる予測であるから、本当のところ仁王が彼らの中に何かを見つけるかどうかも定かではない。案外ある日突然大人しい大和撫子でも連れてくるのかもしれない。それだって充分に可能性が高く、一般的な幸福も用意された好ましい結末だ。

 柳がただひとつ確実に言えるのは、仁王が最後に辿り着く場所は自分ではないということだ。柳は仁王と寝台を共にする相手のうち、一番理性的な付き合いをしていると自負している。彼は仁王の不誠実さに対して誠実に付き合っているだけだ。だからこそ不確実性が無くなり、柳の心をささくれ立たせる他の寝台を失った仁王に特別な興味を持てるとは思えなかった。仁王にしたって、彼に興味を失った柳を追い回すことなどしないだろう。
 柳の見立てでは、自分は一番最後に切れるはずだった。今は遠い下弦の月が欠けていくように仁王の足が遠退き、やがて忘れた頃にフラリと現れて彼は言う。参謀、見つけたぜよ。そうして少し頬を染めてはにかむのだ。そのとき柳は拍手喝采で彼を祝福してやるつもりだった。柳はその日を待っている。夜毎待っているのはそれだけなのかもしれない。縁側で月を見上げながら、焦がれているのは今夜の逢瀬でなく、いつか訪れる幸福な別れの瞬間なのかもしれない。
 いずれにせよそのどちらも今日は満たされそうになかった。月が沈み行く。今夜が下弦の月ならばまだ待ってやってもよかったけれど、上弦の月は日付が変わる頃沈んでしまう。手の中の茶もとっくに冷めている。確実に不味いその液体に口を付ける気にはなれず、そのまま柳は立ち上がった。そうして自室へと引き上げる。それでも窓だけは閉めずにおく。まだ仁王は不誠実だからだ。

2012.9.15