立海大附属には部活動のために地方から入学する生徒も多く、一定の予算をかけて中高合同の寮が用意されている。内装も綺麗で、食堂では栄養バランスの計算されつくしたメニューが日替わりで出される。それでも毛利はその完璧な寮を選ばず、一般の単身者用賃貸マンションに一人で暮らしていた。
 オートロック完備、風呂トイレはセパレートで独立洗面台もある十畳の1K。二口ガスコンロのキッチンと居住スペースの間には建て付けの良い扉がある。ベッドはセミダブルサイズで、二人掛けのソファも置かれている。スチールシェルフに置かれた40型の液晶テレビと最新型のブルーレイレコーダー。それらの間には雑誌やテニス用具、取り込んだ洗濯物や空になったペットボトルなんかが散乱している。季節感を失うほど空調の効いた空間にはいつも爆音でロックが流れている。

 それが毛利の住む部屋だった。

SHOW ME HOW TO LOVE

 仁王はベッドに凭れて雑誌を読んでいた。床から拾い上げた二週間前の週間漫画雑誌にはいくつか定期的に読んでいる連載があった。いつも誰かに借りるから、仁王は自分の金でそれらの漫画を読んだことはなかった。このところまともに学校へ行っていなかったせいで、仁王にとっての最新はその号だった。
 なんや、仁王、来とったんか。
 爆音で流れるロックの合間、後ろから声が掛かって、仁王は振り返る。この部屋に訪れたときからずっと眠っていた毛利の、いつもより重た気な目と目が合った。服は着ていなくて、おそらくまた女でも連れ込んでいたんだろうと仁王は彼を起こすことをしていなかった。おはよ、とだけ返して仁王は雑誌に戻る。
 何読んどるん?漫画。いや、それはわかるけど。後ろから覗き込みながら、毛利は仁王の髪に指を通す。三ヶ月前から仁王の髪は金色だった。その前は赤だった。中学に入る前から色素を取り去っていた仁王の髪は、どんな色でも鮮やかさを失うことなく受け入れる。その代償として、仁王の髪は限界まで傷んでいた。
 仁王、こっち向きんさい。
 傷みきって軋む髪に指を通しながら、毛利が言った。仁王は素直に従う。当然のように毛利が唇を重ねてくる。仁王も当たり前に受け入れた。

 仁王も地方出身者だった。けれど特待生として単身乗り込んできたわけではなく、親の転勤でたまたまこの地へやって来ただけの話だった。
 テニスは小学校高学年から始めた。地元で負けたことはなかったから、地域でテニスの一番強い学校を選んだ。それが立海大附属で、地域どころか日本で一番強い中学なのだと知ったのは願書を出した後のことだ。無事合格を果たし、どうせなら天下取っちゃるよ、と意気込んで入学したものの、化け物じみた同級生に三人出くわしたところで早々に野望は捨てた。
 惰性のように在籍を続けたテニス部で出会ったのが毛利だった。全国最強に相応しく規律の厳しい部の中にあって、彼は異質だった。まず部活動にあまり顔を出さない。勝つことに妄執しているようにも見えない。それでいて彼らの学年の中では抜きん出た実力を持っていたから、二年生ながらに三年生が引退する前からレギュラーとして当たり前のように公式戦に出場していた。
 毛利が仁王と同じように地方から出てきた人間だったということが理由だったかはわからないが、すぐに彼らは打ち解けた。おそらく仁王の髪が生真面目な先輩から批判されるような色だったことも原因のひとつだったのだろう。とにかく毛利は仁王を気にかけたし、チームメイトを含む学友とそれほど馴れ合うでもなく、反抗期を迎え家庭にもあまり寄り付かなくなっていた仁王もその贔屓を素直に受け入れた。最初の大きな大会をベンチで終え、秋を迎える頃には仁王は週の半分近くを毛利の部屋で過ごすようになっていた。

 口付けを続けながらベッドに引き上げられる。手にしたままだった漫画雑誌を取り上げられ、慣れた手付きで抑え込まれた。口付けは絶え間なく続く。毛利は右手で雑誌を枕元に押しやり、左手を仁王が着るパーカーのジッパーにかけた。戻ってきた右手は仁王の金髪をふわふわと撫でた。近付いたスピーカーから流れるロックが鼓膜を刺激した。
 この部屋で仁王はいつも毛利のパーカーを着て過ごす。それはロゴひとつ描かれていないグレーの生地に、ジッパーを挟んで六角形を象る二つのポケットが付いた何の変哲もないデザインのパーカーだ。特徴があるとするならばサイズが大きいことだろう。仁王が出会った頃、毛利は既に百八十五センチあると言っていた。それから何ヶ月も経った今では更に伸びているはずだ。対する仁王はようやく成長期の気配を感じ始めたばかりで、百六十台半ばだった。だから袖は余るし裾も太腿の半分くらいまでかかる。ただ楽だからという理由で仁王はいつもそのパーカーを借りていた。一度服を脱いだ後ではそれ一枚で過ごすことも多かった。まだ外には北風が残るというのに、少しでも動けば汗が滲むほど暖房を効かせた部屋だからそれで十分だった。
 今日、誰か来とったん?
 来てへんけど。なんで?
 あっという間に抜き取られたパーカーは床に落とされて見えない。毛利は下に着ていたTシャツを煩わしそうに押し上げる。脱がすのが楽だからという理由で仁王に最初にパーカーを着せたのは毛利だった。
 裸やったきに。の割には元気じゃし。
 仁王が脱がさなくても始めからそれ一枚しか身につけられていなかった下着はわかりやすく膨らんでいる。からかうように突ついてやるとまた少し大きくなった気がした。
 来とったんは昨日。ずっと寝とったけん服着てへんかったんよ。
 昨日の今日?
 やっぱ元気やのう、と揶揄すれば毛利は笑ってまだ衣服に包まれたままだった仁王の股間に触れた。その場所に手応えを見つけて、あんたも似たようなもんやろ、と笑った。

 学校にいない時間の過ごし方を毛利はいくつか仁王に教えたが、性交もそのひとつだった。まず女の抱き方を教わり、それから男からの抱かれ方を教わった。ほとんど同時に覚えた二つのセックスを仁王は平等に受け入れた。それでも後者を試したのは毛利だけだった。異性と違ってそう簡単に相手が見つかるものではなさそうだったからだ。
 昨日のは何点?……満点は?十で。胸八点、フェラ十点、締まり二点。ただのビッチやの。
 彼らは抱き合いながら、時折抱いた女の話をする。弄びやすい胸の大きさだとか、締まりを判別するには脚を見るのが一番だとか、平らな胸を撫で合い似たような性器を探り合いながら、自分達とは違う生物に思いを馳せた。
 やっぱ締まりはあんたが一番やねぇ。
 そりゃ、場所が違うきに。
 会話と同様に、あるいは流れるロックのようにテンポの良いセックスをしながら、けれど他の男についての話は一度も出たことがなかった。仁王は他の男を知らないだけだったけれど、毛利がどうなのかはわからなかった。言わないならば取り立てて聞く必要もないと思っていた。

 その日は部屋に入った瞬間、慣れない匂いがした。春休み二日目のことだ。
 知らない匂いではない。姉が時折使っているネイルポリッシュの匂いだ。仁王は僅かに顔を顰める。シンナーじみたその香りは、あまり好きではなかった。
 足元を見やれば履き潰された茶色いローファーがあった。サイズは小さい。先客がいたのかと思ってそのまま出て行こうとしたが、おかえり、と十畳の部屋へ続く扉の向こうから甲高い声がして、引くに引けなくなった。

 居室に続く扉を開けば、ベッドの上に金髪の女が座っていた。左手に真っ赤な小瓶を、右手に蓋となる刷毛を持って女はぼんやりと仁王を見上げていた。あれ、毛利くんじゃなかったんだ。女は我に返ってそれだけを言うと、興味を失ったかのように右足の中指に刷毛を持っていく。その声は先程より二トーンほど低かった。部屋の中にはいつものロックとは違う、流行りのJPOPが流れていた。おそらく女の趣味なんだろうな、と仁王は思った。
 女はいつも仁王が着ている毛利のパーカーを着ていた。太腿の半分以上を覆うそのパーカーの下には素足が伸びていて、おそらく下着しか履いていないのだろうと想像できる。仁王よりさらに背が低いその女が着ると、パーカーは最早ワンピースに見えた。それでも緩い胸元はそこに膨らみがあることを主張していて、自分との違いに何とも言えない気分になった。
 出ていけとも言われないので、仁王はソファに腰掛けた。来る途中コンビニで適当に買ったファッション雑誌を広げる。外はまだ肌寒いけれど、紙面では春物の洋服を着たモデルがポーズを決めていた。早いもんだな、と仁王は思う。毛利と出会って、もうすぐ一年が経とうとしている。
 雑誌と一緒に買った炭酸飲料の蓋を開けて飲んでいると、ベッドの女が見ていることに気付いた。飲む?そんな意味を込めてペットボトルを差し出せば、ありがとう、と言って女は受け取った。右手の刷毛は一旦小瓶へと収納されていた。
 あんた可愛いね、毛利くんの弟?
 一口だけ飲んだ炭酸飲料を返しながら女は言った。仁王は違う、と言いかけて、面倒なのでそうだと頷いた。戻ってきたペットボトルの飲み口にはぽってりとグロスがついている。露骨に拭うのも気が引けて、蓋を開けたまま物が溢れたガラス張りのローテーブルにさりげなく置いた。炭酸抜けてまうじゃろが、畜生。心の中だけで毒付いた。ふーん、似てないね。女はわかったようなわからないような返事をした。どうでも良さそうだった。お兄さんならコンビニ行ってるよ。もうすぐ帰ってくると思うけど。ふーん。今度は仁王がどうでも良さそうな返事をする。女はその反応について何も言わなかった。また右手に持った刷毛で右足の薬指を赤く染め始めた。

 雑誌から少しだけ視線をずらすと、床に散らばる制服が見えた。それらには見覚えがある。確か、近くにある頭の悪い女子高のものだ。制服のデザインだけで生徒を集めているような学校だから、見間違えようもないだろう。
 頭のええ女はめんどくさくてかなわんわぁ、が毛利の口癖だった。セックスにいちいち理由をつけてやらないけんし、変に純情ぶるけんねぇ。仁王も概ね同意だった。尤も仁王の場合、奇抜な髪色の所為かある程度馬鹿な女しか寄ってこなかったけれど。
 ただし、彼らは二人とも頭の悪い女が好きだったわけではない。好んで頭の悪い女を抱くことと、頭の悪い女を好むこととはまるで違っていた。

 ねえねえ。全ての指を赤く染め終わったのか、女がネイルポリッシュの蓋を閉めながら言った。何?仁王は雑誌を捲りながら答える。あんた、童貞?なわけないか、毛利くんの弟だもんね、モテそうだし。女が自己完結をしたので仁王は黙っていた。ちょっと、聞いてんの?けれど女は不満気にそう続ける。答えが欲しかったらしい。面倒だと思いながら、違うぜよ、と簡潔に答えた。変な喋り方、と言って女が笑ったので、始めから返事をしなければよかったと仁王は思った。何が楽しいのか女はなかなか笑い収まらなかった。これだから馬鹿な女は嫌いだ、と仁王は見えない角度で顔を顰めた。
 だったらさ、あたしとヤんない?
 笑いすぎて目尻に溜まった涙を拭いながら女が言った。仁王は思わず雑誌から顔を上げる。視界の端でしか捉えていなかった女は楽し気に仁王を見ていて、冗談を言っているわけではなさそうだった。
 なして。仁王が問う。ヒマだから。女は答える。
 理由は悪くないな、と仁王は思う。頭のいい女からはまず出てこない返答だろう。けれど仁王はこの部屋に女を抱きに来たわけではない。どちらかといえば男に抱かれに来た。
 仁王は基本的に来る者拒まずのスタンスでいるけれど、さすがにこのシチュエーションはどうかと逡巡する。第一、毛利がもうすぐ帰ってくると言ったのは女の方だった。
 ああ、もしかしてお兄さんに遠慮してる?大丈夫だよ、あっちだって他にいっぱい女いるじゃん。
 仁王の沈黙を割と正しく受け止めたのか、女はそう言った。なるほど、こいつは馬鹿だけど聞き分けは良さそうだな、と仁王は思った。
 お前さん、あいつと付き合うとるん。
 さあ、どうだろ。でも友達に彼女って紹介されたことならあるよ。
 なら一応今の彼女なんだろうな、と仁王は思った。毛利は何だかんだで「彼女」の称号は一度に一人にしか与えない。何人もに名乗らせてしまうと後々厄介なことになるからだ。それでも一途というわけではないから、こういう物分りのいい女を選ぶ。馬鹿な女でも聞き分けの良い女はいる。毛利の彼女は大抵そういう種類の女だった。
 遠慮しとくぜよ。結局仁王はそう答えた。あっそ、と女はつまらなさそうに言った。
 兄貴の女、ってやっぱ嫌なんだ?
 そうやないけど。
 仁王には兄がいない。もしいたとして、兄の女を自分は抱けるだろうかと考えた。仁王には姉がいたから、姉の男に置き換えて考えてみた。別にいける気がした。
 じゃあ何なの?女はまだ言い募る。誘いを拒まれた経験があまり無いのかもしれない。面倒に感じながら視線を巡らせると、赤い足先が目に止まった。
 まだ乾いとらんじゃろ、それ。
 女は仁王の目線を追って、ああ、と思い出したかのように間抜けな声を上げた。
 あんた、優しいんだね。
 仁王としては尤もらしい適当な理由を探しただけだったけれど、折角なので優しさということにしておいた。

 程なくして毛利が帰ってきた。
 おかえり、というやはり甲高い女の声を疎ましく思いながら、仁王は目線だけを出入り口に向けた。キッチンとの間を仕切る扉は女によって開かれている。年齢の割に成長しすぎなきらいのある毛利は、だらしない笑みを浮かべて玄関に立っていた。耳に嵌めていたイヤホンを片方だけ取っている。ジーンズのポケットに突っ込まれた反対側の腕にはコンビニの袋がひとつぶら下がっていた。
 ねえ、弟くん来てるよ、可愛いね。まだ靴も脱がない毛利の腕に絡みつき、女が仁王を指差した。足には指を広げるスポンジを挟んだままだった。
 弟、という単語に面喰らったのか、毛利はパチパチと惚けたような瞬きをして部屋に目線を移した。人工的に伸ばされた爪が光る女の指先に仁王を認めると、一瞬で理解したのか悪戯じみた笑みを浮かべた。毛利がよく浮かべる表情のひとつだ。
 なんや、雅治、来とったんか。
 毛利は仁王の嘘に乗っかることにしたらしい。雅治、だなんて呼ばれたのは初めてだった。咄嗟に口に上る程度に自分の名前を覚えていたことに、少なからず仁王は驚いた。
 おう、おかえり兄貴、邪魔やったら出てくけど?
 些か愉快な気分になって仁王もそう返した。部屋に入ってきた毛利は仁王の金髪をくしゃりと撫でて、ええよ、おり、と言った。腕に絡みついたままの女がコンビニの袋を覗き、ノンシュガーの方って言ったじゃんと声を上げながら取り出したマウントレーニアにストローを挿した。啜って離れたストローがキラキラと光って、放置したままの炭酸飲料のことを思い出した。少し憂鬱になった。

 毛利と女の会話を聞くともなしに聞きながら、仁王は雑誌を読み続けた。女の二トーン高い声とJPOPの組み合わせがひどく不愉快だったから、会話には入りたくなかった。面白い記事を探してパラパラと雑誌を読み流すうちに広告ばかりのページまで行き着いてしまったので、最初に戻って一言一句漏らさないように精読した。気まぐれに女が仁王に話を振る度、曖昧な相槌を打って文字に集中した。モデルの顔も身につけた服も見ずに、ブランド名や値段を追った。毛利から仁王に向けた言葉が出ることはなかった。
 若手映画監督のインタビューを読んでいるとき、女の声色が変わった。舌打ちしたい気分でベッドに目を向ければ、丁度女が毛利の首に手を回して倒れこむところだった。女は仁王の視線に敏感だった。
 ねえ、弟くんも混ぜてあげようよ。
 何を思ってか甘い声で女がそう囁いた。こない言いよるけど、どないする?毛利が女の着るパーカーのジッパーを降ろしながらそう言った。毛利が仁王に声を掛けるのは帰ってきたとき以来だった。
 いらん、兄貴の女抱く気になんぞならんきに。
 その場で毛利と女のどちらも納得する答えを選んだつもりだった。あら残念、やっぱそうなんじゃん、と女は言って、けれど毛利は仁王に見える角度にだけ意味深な笑みを浮かべた。何だそれはと言い募ろうとしたときには毛利の視線は女の身体に向き直っていた。その手が女の金髪を弄んで、自分を抱く彼と重なって仁王は吐き気を催した。無論自分たちが抱き合うところを客観的に見たことなどないけれど、目の前の光景と大差ないんだろうと思った。
 毛利が女の胸元に沈んで、間を置かず女の声が上がった。不快感を覚えて仁王は毛利が置きっぱなしにしていた携帯音楽プレイヤーを拾い上げ、イヤホンを耳に差し込み再生ボタンを押した。できるだけ音量を上げた。女の喘ぎ声も聞きたくなければ、この部屋に似合わないJPOPも聞きたくなかった。
 耳元で鳴り響く好みでないロックに無理矢理体を任せ、ベッドに背を向ける形でソファの肘掛けにもたれ掛かる。うるさいロックは喘ぎ声もJPOPも隠してくれたけれど、軋むベッドの音だけは不思議とベース音をすり抜けて届いた。

 いつの間にか眠っていたらしい。仁王が目覚めたとき、金髪の女はもういなかった。ネイルポリッシュの匂いだけがマーキングのように部屋に残されていた。耳元ではロックが大音量で鳴り響いている。よくこれで寝られたものだとイヤホンを外しながら起き上がると、ソファの隣に毛利が座っていた。
 おはようさん。
 ……おはよ。
 毛利は仁王が買ってきた雑誌を眺めていた。服は着ていない。ボクサーパンツだけを身につけている。
 寒ないん。
 寒いなぁ。温めて。
 毛利は仁王の肩を抱き寄せる。毛利の体温は大して低くなかった。もともと仁王が低体温だから、それでもそれなりに冷えているのだろうと仁王は思う。いつもはもう少し温かい。毛利は雑誌を放り投げ、まだ覚醒しきらない仁王に口付けそのまま体重をかけてきた。
 すんの?
 うん。
 今日はパーカーを着ていない仁王の、意味の通らないロゴが書かれたTシャツの下に毛利の手が侵入する。
 さっきしちょったじゃろが。脇腹を這う手を払わずに仁王は言う。
 あの子緩いんよなぁ。イくんに苦労したわ、雅治んこと思い浮かべてやっとやったわぁ。やけん、口直しさして。
 兄弟ごっこなどもうしなくてもいいのに、毛利は下の名前で仁王を呼んだ。突っ込むべきか迷ったけれど、悪い気持ちはしなかったので何も言わなかった。代わりに、悪趣味じゃの、とだけ返す。仁王の胸中を知ってか知らずか、同性愛に近親相姦て興奮するなぁ、と掌を仁王の下半身に這わせながら毛利は言った。本当に悪趣味だと仁王は思った。

 ふと逸らした目線の先に、ベッドからずり落ちかかったグレーのパーカーが見えた。セックスが終わったら着るんだろうなあとぼんやり思う。あのパーカーを一枚だけ羽織って、金髪で、まるであの女だ。けれど胸に膨らみはないし、爪先も赤くない。
 余所見しなさんな、少し不機嫌そうな声がして視線を戻した。目の前には毛利の顔があって、すぐに近付きすぎてぼやけてしまう。重なる唇の傍らで、毛利の右手が仁王の金髪を弄んだ。きっと彼の癖なのだろう。仁王の脳裏に先ほどの光景が蘇る。
 髪の色を変えよう、と仁王は思った。同じ色の女がいなさそうな、そうだ、例えば銀色なんてどうだろう。いつの間にかロックに戻ったBGMと、消えないネイルポリッシュの匂いに包まれながら、仁王は毛利の背に手を回した。

 春休みの大半を毛利の部屋で過ごし、仁王は二年になった。当たり前のことだけれど、毛利は三年になっていた。
 地区大会が幕を開ける頃にはさすがに二人ともそこそこ部活に顔を出すようになった。それでも一緒に過ごす時間はそう変わらない。むしろ増えたかもしれない。部活が終わるとほぼ毎回毛利は仁王を自室に連れ帰っていた。女にはあれから一度も会わなかった。

 今日も今日とて仁王は毛利の部屋で雑誌を読んでいる。グレーのパーカーを着込んでいる。部屋にはいつも爆音でロックが流れている。
 最近、誰も連れ込んどらんの?
 そうやねぇ。ベッドの上、毛利は仁王を後ろから抱き込んで、ふわふわと傷んだ髪で遊んでいる。それは白い色をしていた。痛みすぎて銀色は入らなかったが、毛利はその色を気に入ったようだった。
 飽きてん。
 仁王は雑誌のページを捲る。飽きた、て、こないだの女は?雑誌に面白い記事は特になくて、夏の新作、の文字に嫌いな暑さを思って嫌な気分になった。
 どれ?
 金髪、ペディキュア塗っとった。
 ああ、あれ。別れた。
 何でもないことのように毛利は言った。実際に何でもないことなのだろう。なして?形式的に仁王は尋ねる。
 ゴムに穴開けよったんよ。
 何それ、わざと?
 たぶん。
 仁王は女を思い出そうとした。うまくいかなかった。覚えているのは金色の髪とネイルポリッシュの匂い。それでも、そんなことをするタイプには見えんかったけどな、と思った。子供が欲しいなんて年齢じゃないだろうから、足りない頭で束縛したがってしまったのだろうか。割り切っているのだと思ったのに。
 出来とったらどないするん。
 いや一応生理来るまでは待ったったけん。
 来なかったらどうするつもりだったのだ、とは聞かなかった。あらゆる意味で仁王には関係のないことだからだ。
 避妊は事務的に欠かさず行ってきたけれど、そういえば自分たちが吐き出す白い液体は命の素なのだと仁王は久しぶりに思い出した気がした。毛利は基本的に仁王に対してもコンドームを使っていて、それでも何度か勢いで生のまま性交したこともある。あれらはただ仁王の中に吐き出され、どこへもいけずに掻き出されるしかなかった。いったいどれだけの精子が含まれているのかは知らないが、一匹残らず死んでしまった。
 仁王の中で命の素は死んでゆく。だから生理の遅れた女への対処なんて聞いても仕方がなかった。仁王は女ではない。生理もなければ胸も平らで、おまけにもう金髪でもなかった。

 毛利が仁王の手から雑誌を取り上げた。大して真剣に読んでいたわけではなかったけれど、抗議の眼差しで後ろを降り仰ぐ。返しんしゃい。嫌。毛利は手にした雑誌を放り投げ、仁王に口付けた。徐々に深くしながら、腕の中の仁王を押し倒す。
 飽きたんやなかったん?
 大人しく毛利の首に腕を回し、仁王は尋ねた。女はね。毛利が笑う。何それ、話しながらも口付けは止まない。遂にガチホモになったんか。仁王がそう言うと、そういうわけやないけど、と言って毛利はまた笑った。
 男はあんたしか抱いたことないけんわからんわぁ。
 瞬間仁王は目を見張る。女は飽きた。男は自分しか抱かない。つまりどういうことだ。何だそれは。
 仁王の動揺を感じ取ったのか、至近距離にある毛利の目がすっと細められた。楽しそうだった。
 ああでも惜しいなぁ、雅治の子供やったら別に出来てもええんに。
 よく言う、と仁王は思った。命がただ消えていくしかない仁王相手だから毛利はそんなことを言う。仁王は何かを生み出すどころか、留めることすらできない。
 無性に腹が立った。子供が欲しいと思ったわけでも、女になりたいと思ったわけでもない。ただお前しか抱かないなんて無邪気に言い出す毛利に腹を立てた。思い返せば、最近毛利とばかりセックスをしていた。
 白い髪を撫でようとする毛利を乱暴に押し返した。体格差はいつまで経っても埋まらないけれど、抵抗がなかったから思いの外簡単に体は起き上がった。
 面白そうに仁王を見下ろす毛利の目は見ないで、そのまま体を屈めた。制服のままだったスラックスに手を延ばす。前を寛げさせながら、仁王は更にその場所に近付いた。目の前に、まだ半分萎えたままの性器が現れる。舌を延ばして触れてみた。少し震えた。
 どしたん、珍しなぁ。
 頭上から降る声には無視で返した。仁王はそれを口に含む。何人かの女の舌遣いを思い出す。すぐに血が回って息苦しくなった。狭い場所に何度も受け入れたその形状は知り尽くしていたつもりだったけれど、改めて対峙すればなんだか知らないもののように思えた。明らかに自分のものより大きなそれを、仁王は必死で愛撫した。テニスと同じくらい真摯に取り組んだ。勝ちたい、と思っていた。何に勝ちたいのかはわからなかった。
 初めて飲んだ精液は酷く生温かった。匂いには慣れていたつもりだったけれど、口腔内から鼻腔に駆け上がる生臭さは空気を伝うよりも強烈に脳を刺激し、苦味と相俟って涙が滲んだ。精液を飲み干した後の女と口付けを交わした経験はあって、それも酷いものだったけれど、まるで比べものにならなかった。
 早く流し込んでしまおうと必死で嚥下した。何かに引っかかるような喉の抵抗があって、これは本来飲み込むべきものではないと体に叱られているようでいっそ愉快な気分が込み上げた。何とか喉を通り抜けた精液が、食道を伝う感覚があった。やがて胃に到達し、消化され、小腸に送られ、もっとバラバラになって、吸収されるだろう。腸壁を通って、血管を巡って、そして体の一部になるだろう。
 これで大丈夫だ、と思った。仁王の中で、毛利の精液が生き続ける。何が大丈夫なのかはわからなかったけれど、大丈夫だ、と思った。

 改めて脱がされたパーカーは揺れる背中の下で丸まっている。これは毛利のものであって、けれど金髪の女が着ていたこともあって、それでも一番馴染んでいるのは仁王だった。
 浮遊する意識の隅でそんなことを感じていると、突然毛利の動きが止まった。しがみつく腕を緩めて仁王は毛利を見上げた。蛍光灯の逆光で、表情はよくわからなかった。
 女と別れた理由な、あれ、もういっこあんねん。
 え?
 あんたが髪の色変えたやろ、やけん、別れてん。
 そうして毛利は仁王の白い髪を柔らかく弄んだ。再び揺れ始めた背中の下で、パーカーがくしゃくしゃになっていく。
 毛利が何を考えているのかまるでわからなかった。わからないけれど、このパーカーが自分だけのものになるのなら、悪くない気がした。腕に力を込めて、触れ合った胸はやはり平らなままだった。

2012.9.28