校舎へ抜ける小径を急ぐ。つい熱を入れすぎた朝練はいつもより五分ズレ込み、予鈴まであと少ししかない。着替えの手を早めることでズレを三分直したけれど、本当ならば今頃机の上に教科書とノートを出して初老の社会科教師を待っているはずだった。後ろから駆ける女子生徒が柳生を追い越していく。それでも彼は早足に留めていた。校内で走るのは体育の授業と部活だけと決めている。
昇降口の見える最後の角を曲がろうとしたときだった。スクエアに整えられた生垣の向こう、球形に歪んだ空気を見つけた。柳生は足を止め、腕時計を見遣り、溜息を吐いた。丁度そのとき予鈴が鳴った。背後から走ってきた生徒が立ち止まる柳生にぶつかり、適当な謝罪を残して去って行く。柳生は校舎へ吸い込まれていく生徒の流れを諦め、生垣を分け入った。
表面に虹色を滑らせる球体は黄色くなりかけている銀杏の木の向こうから流れていた。夏と冬の間で束の間の休息をもらっているエアコンの室外機が貼りついた校舎の壁、それらの間に予想通りの白い髪を見つけた。
「こんなところにいたんですか、仁王くん」
「おう、柳生、おはようさん」
仁王はまるで予測していたとでも言いたげにのんびりと挨拶を寄越した。驚きも後ろめたさも感じられない。柳生は振り返りさえしない仁王の元へゆっくりと歩を進めた。光を歪める薄い膜がゆらゆらと漂ってくる。仁王は銀杏の木に背を凭せかけ、クリーム色をした校舎の壁を見つめていた。
「何をしているんですか」
「見てわからん?シャボン玉」
漸く顔の見えるようになった仁王が笑って言った。
「昨日のミーティングで言われたこと、もう忘れたんですか?」
「え?シャボン玉禁止令?」
「誰もそんな発令はしていません」
ピンクの容器に青い蓋、先がギザギザになった緑のストロー。いっそ前世紀じみたレトロなシャボン玉セットを操り、仁王は新たな球を生み出した。
「俺が昨日言われたんは、お前さんとダブルスを組めっちゅう話だけぜよ」
「それで合ってます」
吹き出された不安定な球は、あるものは校舎の壁に、あるものは銀杏の葉にぶつかって弾けた。
「なぜ朝練に来なかったんですか」
「気が乗らんかったきに」
悪びれもせずに仁王は言った。ふわふわと漂うシャボン玉が一つ、柳生の方向へと飛んだ。今日は風が弱い。生み出されたシャボン玉は思い思いの方向へと散って行く。柳生は近寄ってきた球が自らの髪や服に付着してしまう前にと、握りつぶすように掌でそれを破壊した。
「ダブルスとは相手がいて初めて成り立つものです。気分で行動されては困りますね」
空を切るように手応えのなかった掌が濡れた。柳生一人が被害を被っている。
「朝練は自主練扱いって生徒手帳に載っとるけど」
「ありとあらゆる校則を破っているあなたに規則の話などされたくありません」
また仁王が新たな球を生み出す。少し強く吹いたのか、先ほどよりも小さいシャボンが勢いよく量産された。溜息か苛立ちのどちらかが込められていることは柳生にもわかった。
「お前さんも吹いてみる?」
「結構」
心の揺れを隠すように戯けて緑色の玩具を差し出した仁王を、間髪入れずに柳生は拒否した。
「もうすぐ授業が始まるこんな時間に遊ぶ気はありません」
柳生の言葉に、仁王は予想通り、そしてつまらないという嘲笑を向けた。けれど柳生の言葉はそれで終わらなかった。
「それに、私はシャボン玉が嫌いなんです」
少しだけ仁王は目を見張った。柳生は努めて無表情でいる。光の反射率の高い眼鏡を掛けている理由はそれなりにあった。
「……俺がサボった理由、教えちゃろうか」
少なからず柳生に興味を向けていた視線が逸らされた。仁王は緑のストローで容器の中を掻き回す。薄いプラスチックでできた容器はそれ相応の安っぽく軽い音を立てた。
「そうですね、聞く権利はあると思います」
仁王はストローを取り出した。不必要に深く浸された緑がぬめりを帯びて光る。滴り落ちる界面活性剤は仁王の制服に染みを作った。
「俺、お前、嫌い」
わざとらしく単語を区切り、ロボットめいた無機質な口調で仁王は言った。ストローに浸された液は滴るだけで、一向に新たなシャボンを作る気配はない。
「おや、気が合いますね」
柳生は眼鏡のブリッジを押し上げた。決して形が合っていないわけではない。ただの癖だった。
「私もあなたが嫌いです」
暫し彼らは睨み合う形になった。仁王は見上げる体勢だったし、柳生の眼鏡は彼の眼を隠していたから、本当に睨まれているのかはどちらにもわからなかった。
「もう授業が始まりますよ」
先に優しくなったのは柳生の方だった。憎まれ口を叩き合うのは初めてではない。ちょっとした茶番だ。
「ふうん」
仁王は柳生から完全に興味を失くし、改めてストローを容器に突っ込みシャボン玉を作った。それ以上何も言わずに柳生はその場を去った。腕時計を確認して、仕方なしに走った。本鈴が鳴ったのは柳生が教室に入った瞬間だった。
球形の季節
コートを焼く日射しは和らぎ、冷たい北風もまだ吹かない。異常気象の所為か年々短くなり続ける秋を噛み締めるように柳生はコート上を走り回る。上の代が引退して転がってきたレギュラーの地位にも随分慣れた。
「柳生」
真田と交代で休憩に入ったとき、声を掛けられた。
「柳くん」
どうかされましたか、少しだけ高い位置にある知った顔を見た。柳は近頃前髪を伸ばし続けていて、奥の細い目と相俟って何かを拒絶しているように見える。
「仁王は来ていないのか」
「ご覧の通り」
柳生は大袈裟に肩を竦めた。ダブルスを組み始めてからの数日間、仁王は練習に来ることもあったし、来ないこともあった。今日もどこからでも目立つ髪は見当たらない。校舎の中ですら見なかったから、学校自体に来ていないのかもしれない。仁王がいない頻度はペアを組む前より少し増えた。
「私と彼のペアは、失敗だったのではないですか」
そういう聞き方をしたのは、指示を出したのが柳だったからだ。柳生は彼の観察眼を信用していた。周りから見て特別仲が良かったわけでもなく、どちらかといえば正反対な生活を送っていた仁王と組めと言われて拒否しなかったのは偏にその信用による。戸惑いや疑問がなかったわけではない。
「何故そう思う?」
柳は表情を変えずに言った。そもそも感情表現の乏しい人間だった。柳生にしたって同じようなものだ。
「彼は私が嫌いだと、だから練習をサボったと、最初の日にそう言いました」
裁判における証人のような口調で柳生は言った。柳は顎に指を掛け、少しだけ首をひねった。
「おかしいな」
「何がです?」
「柳生と組ませて欲しいと言ってきたのは、仁王の方だ」
俄に柳生は目を見開く。そうはいっても柳にはっきりと見えるわけではない。同じ仕草を柳がしたならば、さぞや空気が変わったことだろう。
「まさか」
「本当だ。あんな嫌味なテニスをする奴は他にいない、面白そうだから組ませろ、と」
なるほど、と柳生は思った。いかにも仁王の言いそうなことだった。
「ならば、なぜ」
「それはわからない」
ただ、と柳は少し言葉を探した。柳はそのポリシーに反し、仁王を語るための情報をそう多く持っているわけではない。
「あいつは恐らく俺たちが思っているよりも不器用で臆病な奴だと、俺は思う」
柳生も概ね同意した。
第一印象は最悪だった。規則を重んじ、生活にも人間関係にも無駄な波風を立てないことを美徳としてきた柳生にとって、仁王はいっそ悪だった。真っ白な髪も、だらしない服装も、人を馬鹿にしたような行動も、全てが柳生の気に障った。入学後比較的すぐに意気投合した三強とは違い、仁王とはいつまで経っても積極的に接点を持つことはなかった。
初めて明確な交流があったのは一年前の丁度この季節だった。その日の部活を終え、一人帰路につこうとした柳生の耳元で爆発音が響いた。脳天まで揺らす衝撃で目の前にチカチカと火花が散った。ような気がしたが、実際に散っていたのは色とりどりの紙吹雪だった。放心したまま柳生は音のした方向を振り向いた。
「おー、ええ顔しとるのう」
そこには楽しそうに笑う仁王がいた。
「何、ですか」
「人の驚いとる顔っちゅーのは何度見ても飽きんもんじゃ」
柳生を無視してケラケラと笑い転げる仁王をいささか不快に思いながら、ふとその手元を見遣った。右手には見覚えのある円錐型の筒が握られている。左手には頼りない糸が垂れていた。
「……クラッカー、ですか?」
「お前さん、今日誕生日じゃろ」
確かにそうだった。朝から家族や何人かのクラスメイトにおめでとうと言われありがとうと応えた。家に帰ればささやかな御馳走が待っているはずで、それで今日は早めに帰ろうとしていたのだった。尤も、そうでなくても柳生は毎日寄り道などせずに真っ直ぐ家へと向かうのだが。
けれどそれを仁王が知っていたとは驚きだった。もちろん話した覚えはない。確か部活でも何人かに祝いの言葉をもらっていたから、どこかのタイミングで耳にしたのかもしれない。だからといって、部活が一緒というだけのまともな会話もしたことのない人間を祝おうとするだろうか。
「ありがとう、ございます」
ぎこちない口調で柳生は言った。動揺は続いていたし、祝われているかの判別もつかなかったからだ。
「ええよ、んじゃ」
そう言ってもう興味を失くしたように片手を上げ、仁王は去っていった。一体何だったんだ、暫く柳生はその場を動けなかった。
廊下ですれ違うときや、部室で鉢合わせたときなんかに他愛ない会話を交わすようになったのはそれからだ。柳生は変わらず真面目で紳士的であり、仁王は不真面目で道化めいていたが、そんな自分達に会話が成り立つこと自体に柳生は驚いた。仁王はそれなりに豊富な話題を持っていたし、テニスについて話せば存外まともな議論に発展したこともある。憎まれ口ばかり叩く仁王に同様の返答をすれば仁王は面白がった。何が紳士じゃ、と声を上げて笑った。
悪い人間ではないのかもしれない、と柳生は少しだけ思い直した。一度誕生日を祝われたくらいで、それも思い返せば「おめでとう」とは一言も言われていない内容では全ての価値観が引っ繰り返るようなことはなかったけれど、毛嫌いすることが無くなっていたことも確かだった。
そして、言葉を交わすにつれ仁王の何かと理解不能な行動に抱く感情も少しずつ変わっていった。嫌悪感しか持っていなかったはずなのに、少しだけ混じり込むようになったのは恐らく嫉妬と憧憬だった。柳生自身は自分の美徳を否定する気はさらさらなかったし、仁王のようになりたいと思ったわけではない。けれど自分には決してできないことを平然とやってのける仁王に一種の尊敬の念が過るような瞬間が、例えば毎日違う方向の帰路につく背中を見るときなんかに訪れるのだった。
自由と奔放をはき違えてはいけない。それでも、仁王との交流は対して欲したこともなかった自由という概念への興味を柳生に持たせた。
そうと自覚してからは、注意深く柳生は仁王との距離を測った。飲み込まれてはいけないし、目を逸らしてもいけない。仁王に寄せる憧憬や嫉妬が果たして好意になるのか、はたまた憎悪に転じるのか、それさえわからなかった柳生は、表面上「部活仲間」の域を出ずに仁王と接した。彼らはあまりに違いすぎる。仲が良いとも悪いともつかない、知人レベルの親しさ。それが彼らの、少なくとも柳生にとっての最適な距離だった。
それなのに降って沸いたようなダブルスの話を仁王が発案したというのならば、彼は一体何を自分に求めているのか。数日前の朝に交わした「嫌い」という単語が脳裏を掠めた。それも、何故か仁王が発した方ではなく、自分で口にした方が。
翌日の午後四時半、柳生は一人で部室へ向かっていた。響くテニスボールの音を聞きながら足を速める。もう練習は始まっている。
重い扉を押し開けた。レギュラー専用の部室を開けるといつも最初に飛び込んでくるのは、反対側の窓と開けた扉から差し込む光を反射するトロフィー類だ。いつでも誇りとプレッシャーを彼らに与えるよう計算されているのだと柳生は思っている。
右手に八個だけ並ぶロッカーを目指そうとしたとき、先客に気付いた。電気は点いていなかった。誰かと見極める前に、彼が口を開いた。
「なんじゃ、紳士様が遅刻か」
仁王だった。
「珍しいこともあるもんじゃの」
「委員会が長引いたもので」
着替えの途中だったらしい仁王は制服のスラックスにユニフォームのシャツという中途半端な出で立ちだった。今日は真面目に参加するのだろうか。横目で一瞬だけ確認して、柳生は自分のロッカーに向かう。
「あなたも遅刻ですか」
「いや、ちゃんと時間通りに来たぜよ」
「だったらどうして」
そこまで言ってから柳生は違和感に気付いた。仁王はいつも下から着替える。制服からユニフォームに着替えるならば、カッターシャツとレギュラージャージの組み合わせのはずだった。もう一度仁王の方へと振り返った。案の定、ユニフォームを脱いでいる。
「まさか、帰るんですか?」
「パートナーがおらんきに、愛想尽かされたんかと思って」
不貞腐れたようにそう言いながら仁王は手早くカッターシャツを羽織った。澱みなく第三ボタンから順に閉めていく。
「私は幸村くんに遅れるとメールで伝えておきましたが」
「俺は聞いとらん」
「それにしたって私はもう来たんですから、早く練習に行きましょう」
「嫌じゃ、今日はもう帰るって決めた」
仁王はそう言って、制服移行期間が終わったばかりのこの時期では少し暑く感じるブレザーを手に取った。ネクタイは締めていない。そこで柳生の我慢が切れた。
「仁王くん、いい加減にしたまえ」
開けたばかりのロッカーを勢いよく閉めた。二人しかいない空間にその音は冷たく響いた。
「パートナー不在で練習していたのは私の方だ。愛想を尽かしているのはあなたでしょう」
手にブレザーを引っ掛けたまま、仁王が動きを止めた。電気を点けない部室にはささやかな日光が差し込んでいる。色素がない所為で、仁王の髪は簡単に淡いオレンジに染まる。
「おまんは俺を嫌いっちゅーたろうが」
「それはあなたも同じです」
仁王はひとつ舌打ちをした。手にしていたブレザーを乱暴にラケットバッグへ放り込み、肩に背負う。そのまま柳生の横を通り過ぎた。
「どこへ行くんですか」
「さあ」
「仁王くん!」
ドアノブに手を掛けたところで仁王が立ち止まった。ゆっくりと振り返った表情には何も映し出されていない。
「気になるなら、自分で確かめんしゃい」
そうして仁王は出て行った。
ガラガラの車内、窓を背に向かい合って延びる座席に、彼らは並んで座っていた。並んでと言っても人一人分は離れて座っているから、彼らを見た十人のうち何人かは彼らを他人だと思うかもしれない。同じ制服を着ていることが辛うじて彼らの繋がりを示唆しているけれど、その着崩し方や髪の色や姿勢といったあらゆる構成要素が微かな繋がりを悉く打ち消そうとしている。端的に言って柳生は優等生然としていたし、仁王にはわざとらしい不真面目さが滲み出ていた。
仁王が部室を出て行って、柳生はその後を追った。呼び止めても縮まらない距離に焦れて、校門に辿り着く前に走って追いついた。そのときから仁王は意味のある言葉を何も紡がない。
仁王は黙々と最寄り駅まで歩き、定期を通して最初に来た電車に飛び乗った。柳生が普段乗る電車とは逆方向だった。それが仁王の定期区間内なのかもわからずに同じ電車に乗った。自分の定期に指定されていない区間に乗るのは柳生にとってひどく居心地が悪かった。
放課になってからは一定の時間が経っていたし、どの部活も活動中だったから乗り合わせた生徒はほとんどいなかった。通勤ラッシュにもまだ早い。
「どこへ行くんですか」
「さあ」
会話は視線を交わすことなく行われた。柳生が何かを言って、仁王が曖昧な生返事をし、そして終わる。柳生は何度か同じ質問を口にしたけれど、具体的な答えは今のところ返ってこない。話さないと決めたときの仁王は本当に何も言わない。柳生はそろそろその頑固さに慣れ始めていた。
「何日か前の朝」
唐突に柳生は切り出した。
「私はシャボン玉が嫌いだと言いましたよね」
話さない仁王に慣れたということは気にならなくなったということで、その沈黙に合わせてやる義務はなかった。
「正確にはシャボン玉の歌が嫌いなんです」
窓を背にしていても正面にもやっぱり窓があって、ガラスの向こうから射すオレンジ色の光が眩しい。時折ビルの向こうに隠れながらチカチカと目を焼くそれを柳生は疎ましく思い始めていた。西向きに座ってしまったことを後悔した。季節を問わず夕焼けはいつもテニスコートから見ている。コートの西には校舎があって、夕陽がこんなにも眩しいものだなんて柳生は意識をしたことがなかった。仁王は知っているはずだと柳生は思う。少なくとも仁王は全ての夕陽をテニスコートから見ているわけではない。
「あの有名な歌で、シャボン玉は、作者が亡くした幼い娘の比喩だという説があります」
屋根まで飛んで、壊れて消えた。空気を震わせるかどうかの声量で唄った。
「感性は悪くないと思いますけどね、辛気臭いことは嫌いなんですよ」
仁王は相槌さえ打たなかった。柳生もそんなことを求めてはいなかった。
仁王はどの駅に止まっても腰を浮かそうとしなかった。時折横顔を盗み見た柳生と目を合わせることもなく、まっすぐに正面の窓を見ていた。眩しくないのだろうかと柳生が思っているうちに陽も沈み、窓は紫がかった黒に覆われた。窓に映り込むようになった自分達でさえ視線が交わることはなかった。
やがて終点に辿り着いても仁王は微動だにしなかった。その頃には柳生も何も言わなかった。行く当てなどどこにもなかったのだと気付いていた。
折り返した車内にはくたびれたサラリーマンが徐々に増えていった。ある駅で大量の大人達が乗り込んで来て、彼らの間に一人が座った。それで彼らは完全に他人となった。窓に映っていた互いの姿も、間に立つ何人もの人々によって見えなくなった。
人混みをすり抜けるように歩いていく仁王の後を追う。結局仁王は学校の最寄り駅をやり過ごし、その路線で一番の繁華街で電車を降りた。疲れて家路につくのか、これから飲みに繰り出すのか、夜の街を覆う大人達の倦怠感と期待感が疎ましい。
「仁王くん」
名前を呼んでも仁王は足を止めない。あまり夜の人混みを歩き慣れていない柳生はついていくのに精一杯で、その肩を掴むことすらできなかった。
「あなたは馬鹿ですか」
辛辣な言葉にも反応しない。大きなラケットバッグが人々の肩に擦れて邪魔をする。
「私がついて来て、不本意ながらも一緒に部活をサボって、それであなたは満足なんですか」
目立つ風貌の癖に雑踏に紛れそうな仁王の背に声を掛け続けた。足を止めてくれることを望んだわけではない。すれ違う人々は柳生の叫びに近い声には無関心だった。実に都会的だと柳生は思った。
「そうやったら、どうする?」
久々に聞いた仁王のまともな声に、柳生の反応は遅れた。気付いたときには目の前に仁王の目があった。
「……もしもそうなら」
仁王が歩みを止めたことに面食らった。周囲の人々が迷惑そうな顔で彼らを避けていく。居酒屋の呼び込みがひっきりなしに聞こえてくる。
「やっぱり私は、あなたのことを好きになれそうにない」
注意深くそう言った。
「気が合うのう」
そのとき傍らの道路で大きなクラクションが鳴った。トラックが猛スピードで右折してきた二輪車にぶつかりかけ、間一髪で二輪車がすり抜けた。柳生が交差点に気を取られたその一瞬に、仁王の言葉は続いた。
「俺も俺が好きになれんけえ」
ハッとして柳生は顔を上げた。仁王はもうどこにもいなかった。
級友と食事を終えた昼休み、柳生は一号館の廊下を歩いていた。窓辺から差し込む光は優しい。このところ晴天が続いている。週末には少し天気が崩れると今朝のニュースで聞いた。その雨が終わればいよいよ気温は下がっていくだろうと朝のワイドショー向けに配置された若い女の気象予報士が言っていた。
本格化する秋を思って目を向けた窓の先、向かいにある二号館の屋上で不自然な光が漂った。何だろうと柳生は窓辺に寄る。はっきりと見えたわけではないが、その動きには覚えがあった。
「またあなたは、そんな遊びをしているんですか」
普段訪れることのない屋上の扉は存外重かった。開けば地上より少し強い風が吹いて、その向こうに白い髪が見えた。吹き込んだ風に乗って、いつか見た儚い球体が漂ってくる。
「柳生」
いつかの朝とは違い、声に振り向いた仁王の表情は意外だと物語っていた。屋上での遭遇もひとつの理由だろう。そして、柳生の息は少し乱れていた。まだ昼休みには十分な時間があって、けれど柳生は校舎を駆けてきた。それは柳生のポリシーに反することだ。
「何しに来たん」
「別に何も。シャボン玉らしきものが見えたので、あなたがここにいるのではないかと」
「嫌いやのに?」
一瞬柳生は返答に困った。仁王が指しているのが、シャボン玉か、それとも仁王自身かわからなかったからだ。
「屋根まで飛んで?壊れて消えた?」
歌とも言えない調子で仁王がそう言ったので、シャボン玉のことだったのだと知れた。少なくともそういう意味で会話を進めることを許された。
「聞いていたんですね」
「あんな人の少ないとこで聞き逃す方が難しいじゃろ」
仁王は緑のストローを咥えた。その先からゆっくりと球が膨らんでいく。勢いだけで飛んでいかないように、慎重に息が吹き込まれる。柳生は黙ってそれを見つめていた。
「屋根から飛ばしたら、屋根を越える前に消えることもないぜよ」
緑のストローを軽く振れば、十分に膨らんだシャボン玉が宙に離された。時間をかけて作られた球体は多少の重みがあるのか、いつもよりのろのろと、けれど確実に浮かび上がっていく。やがて屋上に張り巡らされたフェンスを超え、ふわふわと一号館の方へと飛んでいった。
「そしたら柳生も、ちょっとは好きになれるか?」
シャボン玉、と言って仁王は笑った。
あの日以来、仁王は朝も夕方も練習をサボらなくなった。何が仁王をそうさせたのかはわからない。柳生は何もしていない。ただ仁王について行って、電車に揺られていただけだ。あの日のことをどちらも話題には出さなかった。表面的な会話を交わすばかりだった。
柳生は仁王が最後に残した言葉についてずっと考えていた。
仁王の発言から本音を探し出すことは難しい。彼は自分を詐欺師だと言い、事実どうでもいいような嘘を息をするように吐く。悪戯も仕掛ければ他人に成り済ましたりもする。他人を観察することをライフワークにしている柳でさえ仁王のことはよくわかっていない。それは仁王が望んで自分をそうしているからだ。とにかく自分を見定められることを嫌い、あの手この手で謎の奥に自分を沈めようとする。
けれど本当はそのどこかに本物の仁王がいるということも事実だと柳生は思う。仁王自身がどんなに望んでも個性や感情を消し切ることはできない。嘘吐きのパラドックスというのは嘘だ。本物の嘘吐きは、嘘の中に真実を混ぜ込む。というよりは、思いがけず表出する真実を無数の嘘で覆い隠すと言った方が正しい。「嘘ばかりを言う」という嘘を鎧のように纏って自分自身はその中でいつも震えている。見つからないようにと息を潜めている。
ならばあの最後の言葉が本当の仁王ではないのかと柳生は思った。その一言で仁王の行動全てに説明がつくような気がした。自分に胸を張っている人間ならば、自分を隠すようなことはしない。自己肯定感の低さが仁王を詐欺師に駆り立てたとしたら、それは何とも滑稽で哀しい事実だ。
だったら自分とペアを組みたがった仁王は、おそらく本音であろう言葉を漏らした仁王は、一体柳生に何を求めているのか。それを、柳生は薄々理解し始めていた。
「……あなたは本当に馬鹿ですね」
柳生は溜息を吐いた。扉から手を離し、フェンスの傍に座り込む仁王の隣に立つ。
「確かに見方や方法を変えれば、嫌いなものも好きになれるかもしれない」
大きなシャボン玉はまだ割れていない。膨らましすぎれば脆くなると幼い記憶が物語っているが、不安定に揺れながら一号館と二号館の間をふらふらと漂っている。
「私があなたを好きになれば」
柳生は仁王を見た。
「あなたもあなたを好きになってくれますか」
同じく球体を目で追っていた仁王が顔を上げた。暫し無表情に柳生を見つめ返した後、嘲るように口角を上げた。
「あんなん信じたんか」
「あなたの言葉を信じたわけじゃありません」
柳生は眼鏡を外した。明確な理由があったわけではない。ただそうするべきだと思った。
「ただ私の中で納得がいっただけです」
そうして仁王と同じ高さまで屈み込んだ。一度ぼやけた仁王の輪郭がハッキリする。眼鏡を外した自分がどんな眼を曝しているのかはわからない。いつも隠しているものを見せるということが重要だった。
「……お前さんも相当のアホやの。俺のことなんかもっと早うに放っとけばよかったんに」
「それは無理ですよ」
柳生は仁王の手から緑のストローを取り上げた。反対の手に握られた容器へとその先端を浸す。
「私はあなたに興味を持っています」
軽く息を吹き込んだ。仁王との間にいくつもの球体が生まれる。膨らませすぎないそれらは軽々とフェンスを超え、青い空へと吸い込まれていった。柳生は一度それらを目で追い、改めて仁王に視線を戻した。
「正確には、たぶん、あなたが好きです。丁度一年前から」
好意と憎悪の間でずっと揺れ動いていた天秤が音を立てた気がした。仁王は押し黙って柳生を見ている。
「……柳生」
「何ですか?」
仁王は息を吸って、ゆるゆると吐き出す。そして柳生からストローを奪い返した。
「誕生日、オメデトウ」
「おや、覚えていてくれたんですか」
「当たり前じゃろ」
仁王は乱暴に容器へとストローを突っ込み、同じ勢いで息を吹き込んだ。
「去年かて覚えとった」
「ええ、ありがとうございます」
仁王が作った球体が、高く青い空へと吸い込まれていった。屋根より高く飛んだっていずれは消えるだろう。それでも柳生はそれらを少し好きになれたような気がしたし、そうさせてくれた不器用な仁王が好きだと思った。