鉄パイプが骨を粉砕する音がする。初老の男が上げる断末魔の叫びと複数の若者が狂ったように響かせる嘲笑の声。暗い背景の奥からカメラのレンズに不自然なほど赤い鮮血が飛びかかる。リンチされる男の声は次第に聞こえなくなり、若者の笑い声だけが気怠く耳につきまとう。
場面が変わる。金髪の女が舗装されていないむき出しの土の上に押さえつけられている。またしても狂った笑い声を上げる男達。彼らは一様に気味の悪い仮面を被っている。誰かが口ずさむ歌には聞き覚えがあった。CRY ME A RIVER。不誠実な恋人への恨みを綴った女の歌。聞くに堪えないほど下手くそだ。もちろん彼らには似合わない。服が一枚破かれる度に女は悲鳴を上げる。女の悲鳴に男は歓声を上げる。入れ替わり立ち代わり、彼らは彼女の身体を弄ぶ。興奮する自己を感じる。同時に吐き気がこみ上げる。
また場面が切り替わる。これは知っている。一時代を築いた独裁政権における軍隊の行進だ。彼らは機械仕掛けの人形のように真っ直ぐ手足を伸ばし、一糸乱れぬ統率をもって何処かへ行進してゆく。口髭を携えた独裁者にズームインする。感情を宿らせない怜悧な瞳がただただ行進を眺めている。傍観者の目だ。そしてセピア色した画面はそのままに、少し背景が変わる。虐殺だ。無抵抗の人民を蜂の巣にし、火を点け、女にはレイプをして子供は投げ飛ばす。圧倒的な暴力だ。これは史実だろうか。どちらでもいい、脳の何処かの部分が刺激されて、快楽物質の分泌を感じる。けれど涙が流れるのは何故だろう。
空回る遺言
決して閉じないよう冷たい金属の器具で固定された目に、柳生はひっきりなしに目薬を落とす。腕も脚も頭部も拘束されて、頼れるのは柳生しかいない。
「興奮しますか?」
「……ようわからん」
この部屋には窓が無い。照明は紐の無いリモコン式の蛍光灯ひとつだけで、それが灯されているところは見たことがない。こうして意味の分からない映像を見ている間以外は拘束も解かれるけれど、終ぞスイッチを見つけることはできなかった。別に暗闇に不自由しているわけではない。壁一面を覆う巨大なプラズマテレビは普通の番組こそ映さなかったけれど、この部屋には何百本ものDVDが収納されている。一度プレイヤーのスイッチを入れればさして広くもない部屋は青白い光に包まれた。だから俺は知っている。この部屋にあるあらゆる映画、音楽、小説、柳生が俺を退屈させないために運び込んだあらゆる愛が俺を包んでいることを知っている。それでも蛍光灯を灯したいと思ったのは、昼と夜を作りたかったからだ。昔読んだ本によれば、昼夜は神様が世界を創造したとき最初に作った概念らしい。どれだけの文化的財産を与えられたって、そんなに大切なものならば求めたっておかしくはないだろう?だってこの部屋には時計もない。
「気分はどうですか?」
「悪い、すごく」
逸らすことを許されない視線は目の前の悲劇をありのままに呑み込む。今度は狂った殺人鬼だ。捉えた少年の皮を生きたままで剥いでいく。赤紫をした真皮の表面に耐え切れなかった毛細血管からの血が滲む。少年は叫ぶ。敏感な神経の敏感な先端を刺激されて、全身に駆け巡る痛覚はどれほどのものだろう。想像してまた心臓が高鳴る。同時に吐き気も強さを増す。次第に心臓の高鳴りが快感なのか不快なのかの区別がつかなくなっていく。
柳生は上映前、いつも一本の注射を打った。いくら医者の息子だからって医師免許を持っているわけもないのだからもちろん違法だ。最初の何度かは失敗ばかりで、左腕の関節部分には鬱血が絶えずいつか漫画で見た薬物中毒者のようになってしまった。近頃では随分注射の腕も上がったけれど、一体何を流し込んでいるのだろう。この酷い吐き気は注入された薬剤と何か関係があるのだろうか。始めから柳生は「貴方の病気を治します」の一点張りで何も教えちゃくれない。俺に何か持病なんてあっただろうか。少し食が細く日光も苦手だったから病的に見られることはあったけれど、これでもテニスのために鍛えてきたから何年も風邪ひとつひいたことはなかったはずだ。もしかして花粉症か?いやいやまさか。
「やぎゅ、あとどんくらい」
「三十分です。昨日と同じですよ」
暴力は続く。引き裂かれる妊婦の腹。血液よりも粘度の低い羊水が流れ出し、奥に潜んだ人の成り損ないが姿を現す。あれはセックスの向こう側の光景だ。なんてグロテスク。裂いた東洋系の軍人が白と肌色の間をした肉の塊を引っ掴む。刃を逃れた臍帯が我が子を返せと彼に纏わり付く。静脈と同じ色をした命の管を彼が煩わしそうに引き裂く。奥にはもちろん鮮血が潜み、まだ息のある母親と彼と出来損ないの命を同じ色に染めてしまう。彼は笑った。笑って赤い肉塊を嬉しそうに頬張った。純粋な吐き気がこみ上げる。これは映像への反応だろうか。薬剤の作用だろうか。
「やぎゅ」
「もう少しです」
柳生はひっきりなしに目薬を落とす。俺の頬はぐちゃぐちゃに濡れている。溢れた目薬なのか、俺自身の涙なのか区別はつかない。迷子になった一雫が口の端から入り込む。それが少し塩辛くて、涙が紛れ込んでいることを実感する。鼻の奥に落ちてくる目薬はいつでも甘い。
軍人が胎児を呑み込んだ頃、シーンが変わった。映像の最後はいつでもセックスだ。暴力ではない、愛の溢れる優しいセックス。男と女、男同士、女同士、バリエーションは豊かで、けれどいつも優しい。顔の見えない男の指が平らな胸を滑る。カメラは男の手を追って、修正の入らない男性器がフレームに入る。改めて大画面で見るとやっぱりグロテスクな形をしている。色だって綺麗じゃない。けれど男の指は優しくそれを包む。自分と重ねれば下着の中が窮屈になる。それと同時にこみ上げる吐き気、吐き気、吐き気。
何がどうしてこうなったのか、俺にはうまく説明ができない。何せ発案も計画も実行も柳生が全て一人で行ってしまったので、俺はこの部屋の扉が閉ざされるまで何一つ知らなかったのだ。
最初の日、この部屋で一緒に暮らそうと柳生は言った。柳生は俺をとても愛していたので、そんなもんか、と思った。じゃあ家に連絡すると言った俺に、それはもう済ませてありますと柳生は言った。年中ふらふらして家族からの信用が全く無い俺より、優等生然とした柳生が伝えた方が色々うまくいくのかもしれない、と思った。
その日から一切の外出を禁じられ、一日に一度(らしい、時間を把握できない俺には本当かどうかわからない)注射を打たれて暴力とセックスにまみれた映像を見せられる日々が始まった。何かがおかしい、と気付いたときには何もかもが手遅れだった。
予兆ならきっといくらでもあった。気付かないフリをしていた俺が悪い。あの日、そうだあのとき、俺が他の奴と寝たことを柳生が初めて知ったとき、「私はいつまで経ってもあなただけを愛しますよ」と言った柳生に俺は確かにぞっとしたのだ。そのときに逃げなかった、俺が悪い。
画面の中で愛を確かめ合った男達が精を吐き出して、漸く瞼の固定器具が外された。開いているのも閉じているのも辛くて、何度も何度も瞬きを繰り返す。続いて身体の拘束具が外され、目薬と涙の入り混じった頬を伝う液体を柔らかい布が拭っていく。それでも後から後から涙が溢れて、柳生の唇がそっと眦に触れた。
「お疲れさまでした」
柳生は酷く優しい手付きで俺の頬を拭う。慈しむように顔中に口付けを降らせる。その全てに吐き気が伴うようになったのはいつからだったろうか。柳生が知れば悲しむかもしれないから伝えないけれど、日毎柳生の接触に嫌悪感が募っていくことは確かだった。
「……まだ、興奮しますか」
瞬きが止まらず確固とした視界を保てない俺の股間に何かが触れた。何かって、候補は一つしかない。柳生の掌だ。最後の映像にか、それともその前からか勃起していた性器をゆっくりと撫で上げる柳生の手に快感を覚える。それと同時に酷い吐き気がこみ上げる。思わずその腕を掴めば、頬を拭っていたもう片方の手に捕らえられた。広いソファにゆっくりと押し倒される。柳生の感触や息遣いや匂いや色々なものが流れ込んで、悦びと嫌悪感が留まることなく増幅していく。
「本当に懲りない人ですね」
上映会が終わると柳生は決まって俺を抱く。柳生曰く、そこまでが「治療」なのだそうだ。
柳生の指が舌が唇が俺の肌を這いずり回る。まだこの部屋に幽閉される前、柳生はよく痕を付けたがった。子供染みたその独占欲が俺にはいつまで経っても理解できなかった。最近柳生はその空虚な行為をしない。曰く、もう意味が無いからだそうだ。やっぱり俺には理解出来なかった。だって始めからそんなことに意味は無い。柳生が痕を付けた身体を他の人間に曝したことなら何度だってあった。
満足に服も脱がされないまま、今日は後ろから抱かれる。俺の胸を支える掌、首筋を舐める舌、粘膜を擦り上げる性器。一つ一つが快感を生み、快感が生まれる度に吐き気が強まる。俺はどうかしてしまったのだろうか。セックスは好きだった。柳生のことも好きだった。多分。
襲い来る快感と嫌悪感に苛まれる意識の端、首筋からでも下腹部からでもない異質な水音を耳が拾った。窮屈な体制で出来得る限り身体を捻る。
「柳生?泣いちょるん?」
微かな嗚咽は、意識すれば周りの音を全て押し潰し部屋全体に響いた。ような気がした。身体の律動とはまったく違う不規則なリズムで鼓膜を刺激する。鬱陶しいと、素直に思った。確か俺は柳生を構成するあらゆるもののうち、好きな部分と嫌いな部分が割とはっきりと分かれていて、こんなときに意味の分からない涙を流す妙に感傷的な部分は嫌いだった気がする。
「柳生?」
もう一度、意識して穏やかに問いかけた。こんな風に時折自分が優しくなったような気にさせられるところは、柳生を好きだと思えるところだった。
「……早く私を拒んで下さい」
これは嫌いだ。柳生はよくわかりにくい感情をわかりにくく伝えようとして、何度失敗してもやめなかった。
「気持ち悪いと撥ね付けて、もう誰も近寄らせないで下さい」
好き、嫌い、好き、嫌い、好き。花びらを引きちぎる占いのように柳生の言葉を行動を一つ一つ数えた。気持ち良い、気持ち悪い、気持ち良い、気持ち悪い。
「私だけのものにならないのなら、せめて誰のものにもならないで」
……気持ち悪い。そして俺は射精した。
窓のない、昼も夜もない部屋の隅で柳生は膝を抱えている。今日の上映会は終わって、けれど俺の身体はもう柳生を全く受け付けなくなっていた。
「これで満足なん、柳生」
拘束を解かれたソファの上、呼吸をするのも面倒なほど疲弊して発した声も正しく響いたのかわからなかった。蹲る柳生から返事がなかったから届かなかったのかもしれない。どうでもいい、と思った。この部屋に閉じ込められて知ったことは、世界に二人しか人間がいないとき、言葉は大して意味を持たないということだ。
一体どれだけの時間が流れたのだろう。空調の効いた部屋では季節すら掴めない。壁に触れれば冷たさを感じたけれど、打ちっぱなしのコンクリートはきっと真夏でも冷ややかに佇んでいるだけに違いない。皆元気にしているだろうか。皆って誰のことだろうか。
「仁王くん」
柳生が俺を呼ぶ。この声を知っている。誰よりも俺を愛した声で、きっと俺も愛していた声だ。
「仁王くん」
「……何」
返事を欲しがる柳生へ声を絞り出した。
「一緒に死にましょうか」
蹲ったままで柳生は言った。酷く穏やかな声だった。
「私と一緒に、死んでくれますか?」
それもいいかもしれない。俺は思った。元から大して執着していなかった命で、俺に執着したのも柳生だけだったし、その柳生が一緒に死にたいというのなら、それもいいかもしれない、と思った。
俺の沈黙を肯定と受け取った柳生はゆっくりと立ち上がった。視界の端でそれを捉えながら、映像が終わって真っ青に塗られたテレビを見ていた。柳生は一体何がしたかったのだろう。俺を自分だけのものにしたかったのなら、部屋に閉じ込めて飼い馴らすだけでよかっただろうし、俺を殺したかったのなら、最初から一思いに殺してくれればよかったのだ。
青い視界を柳生が侵す。いつだって表情を悟らせなかった眼鏡が外されていて、逆光の中で視線が不思議に強く光っている。そういえばこの瞳が好きだったんだっけとぼんやり思い出す。俺とよく似ていた。その鋭い瞳を隠したい程憎んだくせに、こうやって同じ瞳をした俺を愛すだなんて本当に馬鹿な男だった。
柳生の両手が首筋を這う。それだけで収まりかけていた吐き気が首をもたげる。ずっとずっと俺を苛んできた吐き気だったけれど、そういえば一度も吐きはしなかったなと今更のように思った。吐いたらスッキリしたのだろうか。また柳生に抱いてもらえたのだろうか。
ゆっくりと力が入る。頸動脈と気管が同時に圧迫される。どこで習ってきたのだろう、人を殺すには一番最適な絞め方だった。血液の供給が遅れて意識がふわふわと漂う。いつまで経っても満たされない肺が酸素を求めて悲鳴を上げる。このまま死ぬんだなあとぼんやり思った。柳生はどうするのだろう。俺が死んだ後、自分で死ぬのかな。それならば俺が柳生を殺してやった方が良かったんじゃないだろうか。だって俺は柳生に殺されたってちっとも嬉しくないけれど、柳生はきっと俺に殺されることを幸せに思う。そういう奴だった。
血も足りない、酸素も足りない脳味噌がいよいよ死の気配を語りかける。こんな今際の際まで柳生の掌から伝う吐き気は途切れることがないのだから、随分強力な暗示をかけられたものだと思う。もう少し、もう少し、あ、最期なのだから一度くらい柳生に愛してるとでも言ってやればよかった。言っても信じないから結局一度も伝えたことなんてなかったんだ。
そうして意識を手放す直前、唐突に柳生が手を離した。
突然の解放に、俺が望むと望まざるに関わらず肺の求める空気が激しく器官を出入りした。唾液が一緒に吸い込まれて酷く咽せる。生理的な涙が滲む。吐き気はずっと止まらない。
「……嘘ですよ」
すぐには収まりそうにない喘息染みた呼吸に目眩を感じながら、青い画面を背にした柳生を見上げた。
「気分はどうですか」
「……気持ち悪い」
ようやっと、それだけを絞り出す。真っ青な逆光の中、見上げた柳生はゆっくりと笑みを浮かべた。それはとてもとても幸せそうな表情で、つられて笑った俺に柳生は言った。
「これであなたは、私のものだ」
どうにでもなれ、と俺は思った。