ベゴニアの花が枯れた。

 仁王がそのことに気付いたのは、遅刻気味になった出発に慌てて玄関の扉を開けたときだった。放置されて荒れ放題の庭にたったひとつ花を咲かせていたその鉢植えは、確か二日前に確認したときにはまだ朱色の花を咲かせていたはずだった。
 ああまたか、と思って、ゆっくりと鉢植えに近付く。萎びた花弁に触れればまだ少し、本当に少しだけ湿り気が残っているようだった。それでも茎は天を目指すことをやめ、葉先は茶色く変色してしまっている。花そのものに大した思い入れはなかったけれど、やはり失われた命を見ることは仁王に多少の物悲しさを与えた。前回は水の遣り過ぎで失敗してしまったから、あまり触れないようにしたことが悪かったのかもしれない。何となく沈鬱な気持ちになって、それでも自分が急いでいたことを思い出し、立ち上がる。

 また馬鹿にされるのかもしれない。苛立ちを覚えて門扉を乱暴に開け、舗装された道路へと踏み出した。見上げた空には微かな鱗雲が泳ぎ、冴え冴えとした青に彩られていた。風の無い、よく晴れた秋の入り口のような日だった。

 ベゴニアの花が、枯れていた。

もしかしたら君は空を飛ぶんじゃないかな?

 長方形に造り込まれた絵の具の世界と多大な空白の羅列にはすぐに飽きてしまった。やけに足音を響かせる床も性に合わない。どう考えても場違いだなと思い始めた頃、壁際にぽつんと置かれたパイプ椅子を見つけ、座った。客用ではないのかもしれなかったけれど、注意されればそのとき従えばいいだけの話だった。
 フロアを見渡す。千客万来、というほどでもない。開催期間も半ばを過ぎて、中弛みのタイミングなのだろう。それにこんなにもよく晴れた日曜日なのだから、わざわざ屋内に出掛けようとする人間も少ないのかもしれない。
 決まりでもあるのだろうかと思うほど一様にゆったりと行き交う人々を眺めた。彼らはひとつの作品の前でぼんやりと佇み、ふとタイトルを見たり、顎先に手を当てたり、そうして少し頷いたかと思えば次の作品へとゆっくり移っていく。荷物の少ない人間は高確率で、入り口で配布していたチラシを丸めて握り、手を後ろに組んでいた。スノッブ、という単語が仁王の脳裏を掠めた。行き違う誰かと肩が触れれば小さな声で謝罪をした。まるで他の人間になど気を配る余裕はなかったのだとでも言うように。そうして目はすぐに作品へと戻る。
 やっぱり、「美術館の歩き方」というガイドブックがどこかで売られているに違いない、と仁王は思った。

 常日頃の習慣と化している人間観察を進めるうち、異質な気配に気が付いた。さて、と思って見遣れば、知った顔が突き当たりの角を曲がってきたところだった。幸村だ。入り口で別行動を決めて、それ以来だった。
 幸村はまるで仁王の気配と視線には気付かずに(あるいは気付いていないフリをして)一枚一枚の絵を真剣に見ていた。なるほどなあ、と仁王は感心する。絵画の前にいる幸村は手こそ丸めたチラシを握って後ろに組んでいたけれど、ある作品の前では立った瞬間からふわりと目を細め、ある作品の前では明らかに眉を寄せ、また別の作品の前では哀し気に表情を失くした。

 その光景は、まるで恋をしている少女のようだった。

 「悪かったね、付き合わせて。蓮二と約束していたんだけど、急に親戚の不幸があったらしくてさ。一人で行ってもよかったけどチケットが勿体なかったし、お前は俺の趣味を知りたがってたから」
 「別にええぜよ。なかなかおもろかったきに」
 「本当に?お前、途中で飽きて座ってたじゃないか」
 いつも目にする学校への通学路とは違い、往来には早くも秋服で着飾った人々が目立つ。体感温度で言えばまだ少し歩いただけで汗ばむような陽気だが、自身の快不快よりも他人からどう見られるかを気にする人間の方が多い街なのだろう。仁王自身も半袖ではあるが多少は秋を意識した色彩で自身を演出してきたつもりだった。少なくともビリケンのサンダルはもう仕舞って、適度に色落ち加工の施されている先の尖った革靴を選んできた。
 「芸術を愛しとる人間と、そういうフリをしとる人間の見極め方を勉強しとった」
 「何だよそれ」
 隣で笑う幸村も綿で緩く編まれたストールを巻いている。毎日毎日顔を合わせているけれど、私服の違和感が少しくすぐったい。月に二回しかない貴重な休みを共に過ごすのは初めてだった。
 「それなら現代アートの展覧会にでも行けば良いよ。それもやたらに抽象度の高いやつ。作品を見るというより、見て頷いている自分を見てもらいに来ているような連中がいっぱいいるからね」
 「現代アートて、ようわからんコラージュとか絵の具ぶちまけたようなやつとかか?」
 「そうそう。本当滑稽だよ。ああいうさも意味がありますキミに理解出来るかな?みたいなあざとい空虚なモノ自体も嫌いなんだけど、訳知り顔で唸ってる奴なんてもうイップスさせたくなるね。染料を生み出して色彩の微妙な調整や空間表現技法、人の感情が生む表情の繊細さを追求し体系化してきた先人への冒涜だよ、あんなの。そう思わないかい?」
 「さあ、技術的なこととかはようわからんけぇ」
 仁王は幸村に対して容易に芸術についての意見を口にしないようにしている。少し前、幸村が好きだと言うからルノワールの画集を図書室で借りたことがあった。どうだったと聞かれたので、「あれか、幸村は年下少女趣味なんか?」と半分冗談めかして言えば、暫く口を聞いてもらえなくなったのだ。
 幸村にしたって仁王に意味のある返答を求めていたわけでもないのか、的を射ない言葉など無視して先を続けた。
 「俺さ、芸術評論家とかも嫌いなんだ。芸術は論じるものじゃない、感じるものだろう?美しいものを美しいと想う、それでいいじゃないか」
 なるほど、それなら自分にも出来るかもしれない。仁王は思った。飾られた絵に全く心が動かなかったかと問われれば、否だ。綺麗だなとか、懐かしい感じがするなとか、そういうことでいいのならいくらだって言える気がした。
 ただし、幸村と同じものに心惹かれるとは限らないけれど。
 「要はあれじゃな、色んなもんに可愛い可愛い言うてる女子とかならええわけか」
 「それはまた違うだろ。あれは可愛いって言ってる自分が可愛い、ってやつだよ」
 きっぱりと幸村は言った。幸村くんって優しくて儚げで王子様みたい、なんてうっとりしていたクラスの女子に聞かせてやりたいと仁王は思った。幸村は決して自分を飾り付けるタイプではないけれど、どういうわけかイメージが先行しがちなところがある。例えば試合を見に来たことのあるファンと無いファンではまるで層が違っていたりする。彼自身はそういう他者からの評価を殊更気にすることもないので、何種類かに分類される偶像としての幸村だけが周囲には蔓延していた。脳内にしかいない王子的幸村を崇拝する誰かが、こうして歯に衣着せぬ物言いをする彼を見ればどう感じるだろう。それでも自分だけの偶像を愛するのだろうか。

 ——まあ、俺かて、幸村んことを正しく理解出来とるわけやないけど。
 仁王は絵画を眺める幸村を思い出し、軽やかな足取りで少し前を歩く彼を見ていた。

 認めることは癪だったが、仁王自身、幸村に憧れる人間のうちの一人だった。もちろん王子などではない、例えばテニス部部長としての幸村、一テニスプレイヤーとしての幸村、生まれたときからありとあらゆる真理を知り尽くしていたとでも言わんばかりな神の申し子としての幸村に対して。仁王にとって他人を観察すること、誰かに成り済ますことはライフワークであり、世界と関わる手段でもあったけれど、目の前の彼だけはいつまで経っても掴みきれない、それこそ偶像のような存在だった。
 だからといって、なにも幸村をわかりにくい人間だと思っているわけではない。そういう面では例えば柳や柳生なんかの方が本質を掴ませない振る舞いを心掛けている。それでも仁王にとって、幸村は彼らよりも理解の遥か彼方にいた。幸村が提示するものはいつも容赦のない真理で、童話の中で金の斧と銀の斧を差し出す女神のように、彼の前では隠したい自己を白日の下に曝されるような気分になるのだ。彼の存在感や容赦の無さは避けようのない災厄みたいなもので、それは彼の異名にふさわしく神の領域が為せる技だ。それなのに表情や言動は人一倍人間らしい感性に溢れているものだから、仁王はいつでも混乱してしまう。どちらかといえば人間の泥臭い部分ばかりをコピーしてきた仁王に理解出来ないのも無理はなかった。

 そうやって見るともなしに幸村を見ているうち、彼は唐突に足を止め、振り返った。物思いに耽っていた仁王は危うくぶつかりかける。どしたん、と誤摩化すように問えば同じ高さで目が合った。
 「なあ、もう少し付き合ってもらってもいいかい?寄りたいところがあるんだ」
 思い出したというよりは予め決めていた、という体で幸村は言った。無言で頷く仁王を確認して、足取りに明確な意志を籠め直して幸村は駅へと向かった。

 折角の休みだというのに、結局こんなところにいるなんてどういうことだろうか。
 ベンチに横たわって見るともなしにぼんやりと柵の向こう側に広がる空を眺めていた。微かな水音がずっと仁王の耳に響いている。

 花の香りが漂う学校の屋上。一面に広がる煉瓦造りの花壇へと、押し潰されたホースの先から水滴が降り注ぐ。背を向けた仁王からは見えない。心持ち冷やされていく空気だけを感じていた。
 「お前さん、休みも毎回来とるん?」
 「よっぽど忙しくない限りはね。ガーデニングに休みはないから」
 「ふうん」
 よくある光景だった。彼らは別々の理由でこの場所を気に入っていて、大抵の場合幸村は花壇に夢中だったし、仁王は彼に背を向けてぼんやりと晴れたり曇ったりする空を眺めていた。いつもと違うのは、互いに私服を身に着けていることくらいのものだ。
 「別に用務員さんに任せたっていいんだけど、彼らは全てが事務的だからね。水さえやってればいいっていうもんじゃないんだよ。こういうのは」
 「ふうん」
 花の香りに湿った土の匂いが紛れ込み、いささか仁王は憂鬱な気分になる。枯れていたベゴニアを思い出したのだ。

 あれは幸村にもらったものだった。彼の情報を収集するという名目で勝手に屋上庭園に手を出したところ酷く叱られて、仁王はそれ以来小さな苗を与えられるようになっていた。けれどパンジーもマーガレットもシクラメンも須く花を咲かせる前に枯らしてしまい、これが最後だと渡されたのがベゴニアだった。「これ枯らしたら本当に才能がないから諦めな」と言って渡された苗は、それでも初めて花を咲かせたのだ。確かにこれは嬉しいかもしれない、と少しだけ幸村を理解出来たような気がしていたのに、結局は枯れてしまった。幸村の愛するものは、いつまで経っても仁王に理解できないところにあった。

 「何を不貞腐れているんだい?」
 水を撒き終わったのか、ベンチの背もたれから幸村が覗き込んできた。仁王は少しだけ角度を変えて彼を見上げ、すぐに視線を元の曖昧な位置へと戻す。
 「別に」
 「学校嫌いなのに何で休みの日まで来なきゃいけないんだろう、って?」
 「嫌いでも好きでもないわ、別に」
 半分当たって半分外れた幸村の言葉に適当な返事をする。へえ、と言って幸村はベンチから離れ、改めて仁王の視界へと姿を現した。曖昧だった仁王の視点は真っ白な紙に打たれた黒点の如く幸村にフォーカスされる。
 彼はゆっくりと柵に近付き、空を見上げた。
 「いい天気だ」
 そう言ったかと思えば、幸村は徐に柵をよじ上り始めた。
 「何しとるん」
 返事はない。脚を掛ける場所などないのに、腕の力だけでスルスルと上っていく。こういうとこがほんまに詐欺よな、と仁王は思う。そうして幸村は向こう側のコンクリートへと軽やかに降り立った。仁王はベンチに寝そべったまま、頬杖をついてその光景を見ていた。幸村は一メートルそこそこの縁に立ち、大きく手を広げた。
 「ここでこうしていると、空を飛べるような気がする」
 「ああ、やったことあるぜよ」
 「どうだった?」
 「飛べんかった」
 端的に仁王は答えた。そっか、とだけ言って幸村は振り返った。両手で一本ずつ、薄いベージュで塗装されたフェンスの柵を握った。
 「こうやって見たら仁王、檻の中にいる犯罪者みたいだよ」
 「こっちから見たらお前さんが檻から出してくれって言うとる冤罪犯みたいぜよ」
 「冤罪なんだ?何それ優しさ?」
 出してくれ、俺は無実だ、と戯けて幸村は柵を揺する素振りを見せた。あまりに似合わないので思わず仁王が吹き出せば、少し勝ち誇ったような笑みが返ってきた。随分機嫌がいいんだなと仁王が思った矢先、ふと表情を消して幸村はまた外の世界へと目を向けた。
 「確かに、檻の中の囚人からは世界が監獄に見えたりするのかもしれないな」
 そしてまた幸村は両腕を広げる。本当に飛んでいってしまうような気がして仁王は身を起こした。静かに立ち上がり、ゆっくりと柵へ近付く。向こう側に見える背中にはもちろん羽なんてなかった。
 「ここから見える世界が好きだ。晴れた青い空でも、夕焼けでも、憂鬱になりそうな暗い日でも、全てが気が遠くなりそうなほど偉大で、その下では沢山の人が朝起きて、それぞれの場所へ出掛けて、笑ったり泣いたり、恋をしたりして生きてる。世界はとても美しい」
 「……詩人じゃのう」
 仁王は先程幸村が握っていた鉄の棒に手を掛けた。幸村の体温を残しているわけもない冷えた金属はゆっくりと仁王の体温を奪う。声が近付いたことに気付いたのか、幸村は腕を降ろし、半分だけ振り返って、少し笑った。
 「時折ね、この世界の美しいもの全てを独り占めしたくなるんだ。空でも草花でも絵画でも人でも、全部俺だけのものになればいいのに、って。美しいものを真っ直ぐ美しいと言えないような奴らにあれこれ批評されるくらいならね」
 「お前さんならできるじゃろ。世界中の人間から五感を奪えば」
 「ああ、いいかもね」
 うん、それもいいかもしれない、独り言のように言って幸村は柵へ戻ってきた。鉄棒を掴む仁王の手に自らの手を重ね、ゆっくりと仁王を見据えた。目が合った瞬間に、悪戯めいた光が宿る。
 「今度はあれだね、パイレーツ・オブ・カリビアンの、2だっけ?ウィルが捕まって、エリザベスが夜逃げ前に会いに来るシーン」
 「嫌味な偉いさんにハメられたやつか?」
 「それそれ。何話してたか忘れたけど、檻越しにキスするんだ」
 「キスはしとらんじゃろ、父親おった気ぃするぜよ」
 「してたよ、父親は見ないフリをしてたじゃないか」
 「いや、しとらん」
 「してたって」
 「しとらんよ」
 「どっちでもいいよ」
 その瞬間、幸村は右手を離し、柵の隙間から仁王を引き寄せた。鉄の棒に頭がぶつかるギリギリのところで唇が重なる。触れるだけのキスだった。数秒にも満たない口付けはすぐに離され、至近距離で視線が交差する。不意を突かれた形になって呆気に取られる仁王を、幸村は悪戯が成功した子供の目で見つめた。
 「檻を挟んだ恋人はキスするってのが相場だろ」
 「……俺とお前さんは、恋人じゃったかのう」
 幸村は答えず、微かに笑って柵から離れた。
 「仁王もこっち来なよ、いつまでも囚われてないでさ」
 仁王は柵を見上げた。三メートルもないだろう。幸村のように腕の力だけで上る気にはなれなかった。
 少し距離を取る。助走をつけ、思い切り踏み切った。最高到達点で左手を柵に絡ませ、力を入れて更に体を引き上げる。右手を延ばせば、頂上に指先を引っ掛けることに成功した。縦に走る鉄棒に軽く脚を絡ませながらよじ上る。以前もこうやって向こう側へと降り立ったのだ。
 「へえ、やるじゃないか」
 両腕で頂上にしがみつきながら見下ろせば、幸村が面白そうな顔で見上げていた。
 何となく面白くなくて、仁王は柵を乗り越えることをやめ、両足を頂上へと引っ掛けた。そうして手を離し、ゆっくりと立ち上がる。秋口の風が襟足の毛束を撫ぜた。両手を広げ、バランスを取る。
 「何、綱渡りごっこ?落ちても受け止めないよ」
 「うっさい、落ちんわ」
 幸村に言われて渋々履き替えていた上履きが役に立った。革靴には柔軟性が足りないし、底だって滑ってしまう。こういうときは下ばかり見ていたら余計にバランスが取れなくなってしまうもので、仁王は前を見据え、一定のリズムで足を運び始める。
 「言っとくけど、怪我したら許さないからな」
 「大丈夫じゃて、慣れとるけぇ」
 「慣れてるって?そんな馬鹿なことしょっちゅうしているのかい?」
 「しょっちゅうてわけやないけど」
 視界の端に幸村が映る。彼もゆっくりと付いて来ていた。
 「昔、橋の欄干の上を自転車で走ったことがあるんよ」
 「何でまた」
 「面白そうやと思って」
 「ふうん」
 「通り過ぎる大人が軒並みギョッとした顔で見てきよって、あれは愉快やったぜよ。バランス崩しゃ瀬戸内海で魚の餌になっとったじゃろうな。そんスリルもまたおもろくて」
 「ああ、お前ってチキンレースでブレーキかけずにそのままガードレール突っ切って高笑いしてるみたいな危ないとこあるもんな」
 なんそれ、一歩一歩足元を確かめながら、仁王は笑った。同じ速度で歩き、見上げる幸村も笑った。
 「で?どこまで行ったんだい?」
 「どこにも。どっか着く前に腹減って引き返した」
 旅に出る、と書き残して家を飛び出した。もう五年ほど前のことだった。今と同じ、不安定な足場の上で、自分はどこへ行きたかったのだろうか、と仁王は考える。答えはわからなかった。どこかへ行きたくて、そしてどこにも行きたくなかったような気がした。世界が有限であることに薄々気付きかけていて、それでも無限性を信じていたかった、幼い自分は何を目指したのだろうか。
 「仁王にも可愛い頃があったんだね」
 「俺は今も可愛いじゃろ」
 「よく言うよ」
 ゆっくりと、けれど確実に足を運べば、さして広くない屋上の端へはすぐに辿り着いてしまった。直角に溶接された先端を跨ぎ、少しの安定を得て仁王は立ち止まる。
 「……どう?そこからなら飛べそう?」
 同じように端へ辿り着いた幸村が言った。
 仁王は目を閉じる。微かな風が頬を撫ぜる。少し上を向いて、そして瞼を開いた。異物のない、純粋な青空だけが広がっている。足の裏に感じる金属棒さえなければほとんど飛んでいるようなものではないかと思った。けれどその最後の感覚がいつまでも仁王を引き留めて離さない諸悪の根元なのだ。ゆっくりと視線を下げる。高いビルが映り込み、次に学校を囲む緑色のネット、そして屋上のコンクリートと、幸村。さらにその先にはベージュ色をした広いグラウンド。
 「……三秒なら。その後は潰れたトマトじゃな」
 「それなら俺にもできるよ。日本が誇る自殺率に貢献できるな」
 「新聞の見出しは強豪テニス部所属の男子中学生、部内のパワハラを苦に屋上から飛び降り、ってか?」
 「面白いことを言うね」
 幸村は笑ったままで柵の一番端に当たる棒を思い切り殴った。衝撃は真上にいる仁王にそのまま伝わる。
 「うおっ」
 バランスを崩して仁王は後ろに仰け反る。持ち前の反射神経で咄嗟にしゃがみ込んだ。寸でのところで足元の柵を掴む。
 「冗談じゃ、冗談」
 拗ねたように呟く仁王に、幸村はまた笑った。そうしてふと遠くを見て、柵に凭れ掛かる。無意味に手の甲で柵の何本かを撫でた。まるでハープでも奏でるかのように。
 「そんなことくらいじゃ記事にもなんないだろ、今時」
 「……かもしれんのう」
 「降りて来なよ」
 その言葉に素直に従って、一番端のパイプを伝って仁王は幸村の隣へと着地した。幸村は柵に凭れ掛かったまま、腕を組んで仁王を見る。
 「楽しかった?」
 「それなりに」
 「……お前の感性は、よくわからないよ」
 幸村は手を延ばし、銀色をした仁王の髪をふわりと撫ぜた。
 「お前も俺がわからないんだろう?一緒だな」
 そう言って笑った。仁王には幸村の意図が掴めない。だから同じように、青味がかった幸村の黒い髪に触れた。ウェーブがかった髪は、見た目よりも少し堅い手触りをしていた。

 幸村は少しの間、仁王のされるがままにしていて、やがてその手を掴んだ。少しだけ力を入れて仁王を引き寄せる。檻はもう幸村の背後にあって、遮るもののないまま直接視線が交差する。高さはいつでも同じだった。
 幸村が目に力を入れたことに、仁王はすぐに気がついた。幸村が時折見せる、何も隠せなくなる瞳だ。いくらコピーしようとしてもいつまで経っても再現出来ないもののひとつだった。仁王は少し身体を強ばらせる。避けられない幸村の言葉を待つ。
 「仁王、今日のお前は、何か俺に隠してることがあるね」
 ゆっくりと、有無を言わせない響きを持って幸村の声は仁王に届いた。
 「……さすがじゃな、幸村」
 仁王はほとんど苦笑に似た笑いを浮かべた。そう言われてしまえば、確かに隠していたのかもしれない。ほんの些細な感情の揺れだって逃さない幸村の前では、何もかもが隠し事のようなものだ。
 「あの花、枯れたんよ」
 観念した体でそう言って、仁王は誤摩化すように小さく幸村に口付けた。そのまま幸村の目は見ないで、彼に身体を預ける。鼻先を掠めたストールからは、正しく幸村の匂いがした。
 「あの花って、ベゴニア?」
 仁王は幸村の肩口に顔を埋めたまま、小さく頷いた。
 「今朝家出るときに見たら、枯れとった」
 花が枯れた。そんなことに思いの外落ち込み、後ろめたい気分になっていたことを仁王は改めて実感した。牧師に懺悔する罪人の如きやり方で幸村に告白すれば、その気持ちは一層大きくなった。
 何が哀しいのだろう。命が尽きたことだろうか。簡単なことも成し遂げられなかったことだろうか。それとも、幸村を理解できなかったことだろうか。
 「……なんだ、そんなこと」
 けれど重くなる仁王の気持ちとは裏腹に、幸村は気の抜けたような声でそう呟いた。
 「馬鹿にせんの」
 「だって、咲いたんだろう?」
 もう一度仁王は頷く。
 花が咲いたとき、嬉しかったのと、勝ち誇った気分とで、幸村にはメールで写真を送っていた。よかったね、と一言、何の味気も無い返事に満足して眠った夜は確かに幸福な気分だった。
 「だったら問題ないよ。ベゴニアの花期は秋口までなんだ。ちょっと早いかもしれないけど、寿命みたいなものだったんだよ」
 「……俺、お前さんの花が枯れとるとこ見たことないぜよ」
 「そりゃあ枯れたらさっさと処分するからね。枯れない花なんてないんだよ」
 「ならなしてお前さんは枯れるもんをわざわざ育てよるん」
 「枯れることも含めて美しいから、かな」
 今度こそ仁王の気分は地に堕ちた。何がどうして死んでいくものを愛せるのか、仁王にはどうしたって理解出来なかった。いつか柳に聞いた言葉が脳裏を過った——仁王、愛しいと哀しいは元々同じ言葉から生まれたものだ、この二つの感情は、とてもよく似ている——けれどきっと、幸村の愛とはそういう種類のものではないのだろう。
 「……やっぱり俺にはわからん。お前さんの愛するもんは、愛せん」
 幸村は花が枯れる哀しさを愛でるのでなく、文字通り枯れるものが愛しいのだ。もっと言えば、裏の無い素直なものなら全てを愛しているのかもしれない。偽らないもの、裏切らないもの、等身大のもの。幸村の愛するそれらは全て仁王の対極にあるものだ。

 酷くなる一方の気分を抱えた仁王の耳元で、呆れたような幸村の溜息が空気を揺らした。ぴくり、と仁王は肩を震わせる。
 「なあ、お前はどうして俺になりたいんだい?」
 乾いた声で吐き出された質問にどう答えていいのか、仁王にはわからなかった。強いから、とでも言えば尤もらしく、当たり障りなく聞こえるだろう。けれどもちろんそれだけではないし、そんなことは幸村だってとっくにわかっているだろうと仁王は思う。
 幸村は仁王の背にゆっくりと腕を回した。
 「俺は俺で、お前はお前だと、俺は思うよ。だから面白いんじゃないか。それじゃいけないのかい?」
 幸村は、仁王の沈黙を許した。一定のリズムで、あやすように仁王の背を優しく叩いた。
 「俺と同じものを愛したって、俺と同じものが見えるわけじゃない。お前にはお前にしか見えない世界があるだろ。お前に足りないのは、自分の目で世界を見ることだよ」
 仁王は黙って耳を傾けていた。幸村が幸村である所以は、誰もが諦めたり、目を背けたりしている事実を真っ直ぐに指摘するところだ。そこには善意も悪意も籠められないから、人々は幸村の前で丸裸同然になる。当たり前を突きつけられることは誰しもにとって痛みを伴うものだ。それこそ何も聞きたくない見たくないと無意識に感覚を遮断してしまう程に。
 「自分を愛せよ、仁王」
 幸村は仁王の肩に手を掛け、ゆっくりと身を起こさせた。
 「そうすればきっと、世界はもっと美しくなるよ」
 仁王は恐る恐る、覗き込む幸村の目を見返した。

 ライトブラウンの瞳は、例えばテニスの試合中なんかには一切の光を失くすほど冷えてしまうくせに、そうやって相手を威圧するくせに、今日に限ってやけに慈愛、そう慈愛の篭った光を湛えていたものだから、もう仁王は観念するしかないのだった。

 「……俺は」
 声帯を震わせても乾いた花弁のように掠れた声しか出なくて、仁王は一度唾を飲み込む。まず伝えるべきかを迷った。それから、何を伝えればいいのかについて悩んだ。
 「俺は?」
 「俺は……」
 覗き込む幸村の視線がいつまでも仁王に居心地の悪さを与える。きっと何かを言うべきで、それは幸村の好む率直さを含んでいるべきで、けれど仁王はそんなものの伝え方をしたことがないから言葉は掴めない雲のようにいくつも浮かんでは消えるだけだった。幸村はもちろん逃してくれそうにない。初めて立ち上がった赤ん坊が一歩目を踏み出すときのように、辛抱強く仁王の言葉を待っている。
 きっと、言うべき言葉は幸村が知っているのだと思うことにした。幸村が人を裁く方法はいつだって一つだ。自分を見つめさせること、自分と対話をさせること、自分を理解させること。
 仁王は幸村を見つめ直し、瞳の中に映る自分と話し始める。
 「俺は、芸術もわからんし、花も育てられん。五感も奪えんし、世界の美しさもわからん」
 「うん」
 「空も飛べん」
 「それは俺もだけどね」
 「でも幸村は綺麗やと思っとる。強さも正しさもひっくるめて愛おしいし、憧れとる。やけん、どんだけわからんでも知りたいと思うし、なりたいと思う。それが俺の愛し方じゃけえ、変えられん」
 うん、幸村は相槌だけを挟み、辛抱強く仁王の言葉に耳を傾ける。
 「ただ、幸村になれたら、そんときは俺は俺んことも愛せるかもしれん、とも思う」
 仁王は自分自身の声を聞く。
 その目に映るものが見たかった。正しいものを正しいと判別するのでなく、自分が正しいと思ったことに絶対の自信を持てる生き方に憧れた。きっとテニスの強さは二の次で、物事の美しさや正しさ、全てに於いて正反対のベクトルを持つ幸村に焦がれていたのだと仁王は思った。
 それでも仁王は幸村のように世界を愛せない。ずっと人の皮を被って、自分自身からも目を逸らし続けてきた。だから全てを白日の下に曝すような幸村のやり方だけはどうしたって真似るわけにいかなかった。どれだけ幸村に焦がれたってそれだけはするわけにいかない。それはもはやプライドのようなものだった。
 「これが俺じゃけえ、やめられんよ。お前さんに認められんでもな」
 そこまで言って、仁王はもう一度幸村に倒れ込んだ。一生分の罪を告白した気分だった。幸村は仁王を抱きとめ、優しく二回、背中を叩いた。
 「……なるほどね。まあいいよ、今日のところはそれで。嘘じゃなさそうだから」
 酷い疲弊の次に、どういうわけか大きな安堵がやってきたことに仁王は気付く。幸村の目から解放されたからかと思ったけれど、どうやら違う。
 幸村は、仁王の髪を束ねていた赤いゴムをするりと抜き取った。梳いている量の少ない毛束はぱらぱらと襟首に散った。傷んで軋むだけの髪に指が通され、弄ばれる。
 「許してやるから、後ろを見てみな。今日はとてもいい天気だよ」
 何を今更、と思いながら、仁王はゆっくりと幸村から離れる。体を反転させ、幸村の隣、柵に凭れて空を見上げた。

 息を呑んだ。

 傾きかけた太陽が西の空を濃く照らし、高い場所にある鱗雲に陰影を与える。真上にはまだ青空が広がり、対極のスペクトルが成すグラデーションはきっとどれだけ絵の具を重ねても再現出来ないほど無限の層を持ち、それでも混じり気のない透明感すら携えている。圧倒的な美しさ、存在感、そのくせちっぽけな街や人のただひとつすら圧し潰すことなく、それはただそこにあった。
 「な?綺麗だろ?」
 これが幸村の見ていた世界なのだろうか。仁王は微かに、幸村へと視線を走らせる。彼はひどく穏やかな表情で目を細めていた。
 きっとまだだろう。まだ同じではない。けれどたぶん、少しだけ、世界が新しくなったのだ。幸村は時に他人に対して絶望を与えるけれど、その先にある希望まで奪ってしまうわけではない。むしろそこに辿り着ける人間を待っているようですらある。
 仁王は一度だけ同じような空を見たことがあった。不安定な欄干の上で包まれた空だ。どこへも辿り着かず、世界を無限のままに留めて着いた帰路、眼前に広がる光景はきっとこれと同じ色をしていた。
 そういうことなのか、仁王は心の中でだけで幸村に問いかける。世界を世界のまま受け止めるある種の純粋さ、根拠もなく無限だとか空を飛べるとか信じられる無垢さ、そういうものがお前なのか。ありとあらゆる人間の汚さを見て、いくつもの修羅場を経験しても、それでも空の向こうから放射状に飛んでくる光のように無遠慮に真っ直ぐに世界を受け止めること、それがお前の美しさなのか。

 もちろん答えは返ってこない。けれど仁王は、今なら、そして幸村と一緒なら、空だって飛べるような気がした。

2012.12.19