ありとあらゆる受け入れたくない光景を、全て白昼夢と片付けてしまう機能が人間に備わっていたならばどんなによかったろう、と仁王は思った。
終わったばかりの試合の余韻と、気合いの入った若い夏が浴びせる容赦のない直射日光、それから腰を下ろしたアスファルトが溜め込んだ熱にジリジリと焦がされそうだった。これだから夏は嫌いだ、と目の前で繰り広げられる試合から意識を逸らそうと試みても、低い体温が必要以上に感受してしまう熱は何の気休めにもならない。
余裕の無い動作、荒げられる声、飛び散る汗。見ている方が暑いから脱げと言っても決して崩さなかった標準装備の長袖ジャージに包まれ、それでもいつだって涼しげだった表情が歪んでいる。
……がむしゃら?そんな馬鹿な。
きっとこれは夢だ、暑さが見せた幻だ。ゆっくりと瞳を閉じ、さあ目覚めを、と瞼に力を入れたときだった。
『ゲームセット、ウォンバイ乾、7-6』
コールに弾かれるように開いた瞳の前で、現実はやはり現実としてそこにあった。
HOPE, PAIN or …?
レギュラー専用の部室は収容人数に見合わないほど空間にゆとりを持って作られている。簡易デスクで作業をする柳と、自らのロッカーに凭れ掛かる仁王の間には十分な距離があって、仁王からは柳が何をしているのか把握できない。覗き込んだってまた何やら数字を並べ立てているだけなのだろうから、と興味も持たない。普段騒がしい部室の中で、静寂は蛍光灯が立てる低い雑音も際立つ程度には広がっていた。
「無様じゃのう」
ぽつりと、仁王は零した。腕を組んで、ロッカーに背を預けて、視界の端で捉えた柳の頬には白い湿布が貼られている。試合の後、庇った切原でさえ敗北を喫したものだから、結局は二人ともに頬を腫らすことになったのだ。尤も、それは真田が全員から制裁を受けた後で彼らが自主的に申し出たことであり、些か宗教じみたその精神に仁王は心底吐き気を催した。
「負けたからな」
口端を引き攣らせる様子もなく、柳は薄い微笑みを浮かべた。予想通りだった。
「勝てん試合やなかったじゃろ」
「確率は五分だった。次は負けないさ」
「それはお前さんが出したデータか?」
「事前のデータのと食い違いはあった。が、新たなデータは十分に揃った。全国には間に合わせる」
「俺が言うとるんはそんなことやない」
仁王は右肩を支点に、くるりと柳の方へ身体を向けた。柳の右手はずっとノートに何かを書き付けていて、時折左手が細かく動く。電気で動く計算機を使わない彼の癖だった。
「よりにもよってお前さんが、あんな試合するとはの」
あんな、人間みたいな。吐き捨てるように言った。柳の右手は止まらない。止めようとは思っていないけれど、せめて計算のひとつでも間違えればいい、と仁王は思っている。
「どちらかといえばお前は喜ぶと思っていたがな」
左手の動きが止まった。仁王は一瞬瞠目し、慌てて取り繕う。ノートに目を落としている柳に気付かれないことを祈った。
「……何じゃて?」
「他人の底を嗅ぎ回って暴くのはお前の愉しみだったろう」
仁王は少し眉を潜める。柳の言うことには一理ある。確かに仁王は他人が素顔を曝け出す瞬間を求めていたし、愛してさえいた。けれどあれは違う、と仁王は思う。
昼間見た試合を思い返しながら、ロッカーから身を起こした。また動き出した柳の左手を見据えたまま一歩一歩近付く。
「お前さんがあいつら二人の傍に居ても涼しい顔しとるんは」
机に左手を付き、ゆっくりと覗き込んだ。仁王の髪は長い。少し角度を変えただけで、目立つ銀の毛髪は柳の視界に入るだろう。
「置いてきたからなんか、あそこに」
そこで漸く柳は両手を止めた。仁王を見上げ、薄く笑う。
三強は、底辺のものすごく狭い二等辺三角形のようなものだ、と仁王は思っている。
幸村と真田の世界は狭い。驚くほどに狭い。幸村は放っておけば自分の奥深くへと沈み込んでいってしまうし、真田は他人に抱くべき感情のほとんどを幸村に注ぎ込んでいる。それは仁王が出会ったときには既に完成されてしまっていた世界であり、基本的に誰も踏み込めない領域であった。
だがそこに柳蓮二が加わったとき、その閉じた世界は少しだけ光を零す。
例えば、幸村は常人と比してずば抜けた、あるいは多分にズレた感性を持っていて、彼の基準は全て美しさに帰結する。芸術や生物への愛は勿論、勝利でさえ彼にとっては美を形作るものの一つだった。彼は彼が思う美の有様において容赦というものを知らず、しばしば常識も倫理も飛び越えてしまうことがあった。そんなときも柳は彼に寄り添い、彼が望む美の実現に一定の現実的方策を与える。
一方で真田は太く筋の通った精神を誇りとしており、些か潔癖にも近い誠実さでもって全てに対峙する。日常生活でも勝負の場でもその姿勢は変わらず、理不尽が横行する世界では生き辛さが、手段を選ばない幸村との間には信頼と不信の不協和音がもたらされることも少なくはなかった。だが幸いにして真田は莫迦ではなかったので、たとえ根本的な解決にはならないにしても、柳は言葉の上では彼を納得させることができたのである。
幸村と真田の間には決して共有出来ない思想や感性があって、それは彼らが他人であるが故に当たり前の現象であるわけだが、その世界の密度の濃さ故に、降り積もれば決定的な破滅を起こしかねない致命的な齟齬だった。そんな彼らの傍らで、柳はそれらを観察し、敏感に汲み取り、適切な処置を施して彼らを彼らの儘にしておけるだけの度量があった。
そのようにして、彼らは三人ひとまとめにされながらも、内実は二人と一人だった。だがしかし同時に、あの二人を前にしてそのような距離を保てるような人間は、世界広しといえど柳以外には存在しないということもまた事実であり、その点で考えれば彼らはやはり三人でもあった。柳はいつでも淡々と観察し、記録し、自らの好奇心にのみ従って、目の前の細かな事象からより普遍的真理を追究しようとする。その姿勢だけが彼らと共にあることを許され、絶妙な二等辺三角形を形成する要因となっていた。仁王はそれに気付いた瞬間から柳に嫉妬した。つまり、憧れたのである。
その柳が昂った感情に身を任せるなど、仁王には考えられないことだった。彼はいつでも観察者であるべきで、傍観者であるべきで、調停者でなければならなかった。だからあれは違う、と仁王は思うのだ。
柳のようにいつでも平静の面を被った人間の根底には興味が尽きなかった。それは事実で、だからこそ仁王はより多くの興味を彼に抱いていたし、その尻尾を掴もうと足掻いたこともあった。そうやってどこか特別な場所にいると思っていた柳だったから、例えば過去のわだかまりだとか、切磋琢磨してきたライバルだとか、そんなものに彼の底など見たくなかったのだ。まるでよくある話だ。仁王自身には身に覚えのない経験だったが、そういう人格形成の在り方がそこかしこに存在していることは知っていた。だからこそ、柳に失望したのだ。
「お前がどう感じようと、それはお前の自由だ」
少しの間、仁王を見上げて、柳はまたノートへと視線を戻してしまった。
「確かに、負けはいけない。俺は掟を破ってしまったし、精市との約束も無にしてしまった。それは反省し、次に活かすべき点だ」
仁王は間に相槌も入れず、柳の言葉を待った。確かに、という言葉の後には得てして本来の主張がやって来る。形式めいた予測は仁王が得意とする分野だった。
「だがな仁王、他人に理解されることも悪くはないぞ」
「……は、」
仁王は鼻で嗤ってみせる。言いたいことは、それなのか。
「理解?あん眼鏡がお前さんのことを理解しとるってか」
「お前が今日の試合で貞治にどんな印象を持ったかは知れないが、あれは少なくともお前とは違う人種だ」
「そんくらいわかるぜよ。お前さん側の人間じゃろ」
「ならばお前は俺とお前の違いを正しく認識していたのか?」
仁王はそこで言葉に詰まる。柳と乾は並べて考えてみた。幸村と真田と柳を並べたように。ならば、自分は?
「怖いか?理解が」
柳は更に言葉を重ねる。動く手元を見ていた仁王の目に、二本の斜線が入った。証明終了、の意味だ。
「……必要ないだけナリ」
ペンを置いた右手の動きで、柳が立ち上がったことに気が付いた。
「試してみるか」
仁王に影が落ちる。一度立ち上がればレギュラーの誰よりも背の高い柳だったから、ただでさえ猫背の仁王は自然と見上げる形に視線を移動させた。仁王の両脇、後ろに並んだロッカーに手を付いて、微かに目を開いた柳の視線が突き刺さる。背にあるロッカーは幸村のもので、もう随分と長い間開かれていなかった。
「どないして?」
もちろん迫る柳に動じるような仁王ではない。計算し尽くした角度に首を傾け、ゆっくりと柳の首に腕を回す。薄く開いた目を挑戦的な角度で見返す。
「……そうだな」
ところが柳はあっさりと仁王から身を離し、元の通り席に戻ってしまった。そうしてラケットバックのファスナーを開けた。探すというよりはあらかじめ定位置にあるものを取得するだけ、といった最低限の時間で目当てのものを取り出す。その右手には、真っ新なキャンパスノートがあった。
「お前はまず交換日記からがいいだろう」
「……は?」
置いてきぼりを喰らった仁王は柳の意図など当然掴めず、今度は彼の目の前で瞠目するハメとなった。普段は他人に見せない仁王の仕草に別段反応するでもなく、柳はペン立てから備品のマジックを取り出し、表紙に何かを書き付けていく。黒いインクが走るたびにキュ、キュ、という耳障りな高音と、微かなシンナー臭が漂った。
やがてペンの蓋が閉められ、微かに頷いた柳はノートを掲げる。
『交換日記 柳&仁王 Vol.1』
大きく書かれたその文字は柳らしい流麗な形をしており、その下には大きく丁寧にマル秘、のマークまでつけられていた。
「これが理解への第一歩になる」
仁王は舌打ちをひとつ鳴らし、ノートを引ったくって荒々しく表紙を開いた。柳の使った油性マジックを拾い上げ、真新しいページに、罫線など気にも止めないで殴り書きをする。
『FACK YOU!』
そのままペンもノートも柳の前へと放り出した。
「アホらし」
そうして自らのロッカーへと戻り、鞄を取り出して肩に掛ける。出口へ向かう背に、落ち着いた声が響いた。
「……惜しいな」
何が、と振り返った仁王の先、またしてもノートを掲げる柳の姿があった。仁王が書き込んだページに赤い色が載っている。二文字目、Aの文字がUに直されていた。
「赤也並の初歩的なミスだ。自らの感情を文字に変換するという作業は自己のコントロール能力を鍛えるにあたっても有効な手段となる。ますますお前には必要なようだな」
そう言って柳は笑った。それはもう全くもってよく見知った彼の形をしていて、仁王はすっかりと閉め出された気分になった。