されば人と共に住するも独なり

 「柳先輩!」
 響いた声と同時に腰元へと衝撃が走り、柳は危うく重心を崩しかけた。踏み止まってがっちりとホールドされた腕を外し、ゆっくりと背後を振り返る。確認するまでもなく、そこには混じり気のない黒をたたえた癖毛が揺れていた。
 「おかえりなさい!」
 「ああ、ただいま」
 赤也。名前を呼び、ポンポンと二度頭を撫でてやると、切原は満面の笑みを浮かべて身を離した。
 「柳先輩聞きました?俺、3番コートの高校生に勝ったんすよ!」
 「そのようだな」
 よくやった、と素直に褒めてやれば、笑顔は一層深くなる。何かとてもシンプルな原理で変化するらしい切原の表情は、それだけで他人に好ましさを与えるものだ。
 「——それでね、高校生にすっげぇムカついて途中ちょっと記憶飛んでるんすけど、そのとき白石さんが——」
 切原はテストで百点を取った子供のやり方で次から次へと言葉を紡ぐ。柳はその全てに相槌を打つ。予測に予測を重ねたとはいえ、現場を見ていたわけではない。切原から語られる雑多なデータを脳内でふるいに掛け、さてどのようにまとめたものかと思考を巡らせる。
 「……ん?」
 ふと、遠くから聞こえてきた笑い声に切原が振り返った。
 「あ、白石さん!」
 その先には上階から降りてきたらしい四天宝寺中の面々がいて、彼ららしく笑いを引き連れながら何かふざけ合っているところだった。
 やがて同じく切原に気付いたらしい白石が、片手を挙げて群れから離れ、近付いてくる。
 「切原クン、ここにおったんか。取り込み中か?」
 「いえ、大丈夫っす!」
 二言三言白石と言葉を交わし、切原は再び柳へと向き直った。
 「白石さんと飯食う約束してたんすよ。柳先輩も一緒にどうっすか?」
 「いや、遠慮しておく」
 「そっすか」
 じゃ、柳先輩、またあとで。大きく手を振って切原は駆け出して行く。白石に頭を撫でられ、くしゃりと生まれたての赤子のように笑う切原を見て、柳も笑った。どうやらうまくいったらしい。不在中の変化を確認して踵を返す。

 「随分と楽しそうじゃないか」

 振り向いた先、プラスター製の壁に凭れ掛かる幸村がいた。まだ見慣れない白いジャージを、彼がいつもそうしていたように、肩からはためかせている。
 「精市か。元気にしていたか?」
 「まあまあね」
 少し笑って幸村は身体を起こす。周りには誰も連れていない。幸村が一人でいることはあまり多くない。彼の後ろには大抵の場合、見慣れた仏頂面が控えていたものだった。尤も、その彼とは先程まで柳が行動を共にしていたし、現在の彼らは偶然というよりは意志を持って距離を置いているように見える。
 元来なら一人きりでどこまでも生きていけるような幸村は、彼の人の不在など気にも留めない様子でゆっくりと近付いてきた。柳を見ているようで見ていない。伏せ目がちな柳と目を合わせることが難しい、という一種の真理とは関係無しに、彼はいつでも彼の見たいものだけを見据える。
 「なあ、あれ、どういうことだよ」
 些か不機嫌じみた声でそう言って、幸村は柳の背後を視線で差した。その先は確認するまでもない。先程駆けて行った切原の声はずっと響いている。幸村からは白石にじゃれつく切原が見えているだろう。
 「どう、とは?」
 「残る俺に黙って他人に赤也を預けるなんてね。ちょっとショックだったんだけど」
 「すまない」
 実に簡潔に柳は謝罪を口にした。このようにして幸村が不満を漏らす可能性は限りなく100%に近かった。
 「精市はあの悪魔化を随分と気に入っているようだったからな。意に反することを強要することもないだろう」
 あらかじめ用意していた答えをスラスラと口にする。棘を含ませようと情に訴えかけようと、柳の返答はいつでも冷静で隙がない。彼に挑む者はやがて流水に釘を打ち込むような遣る瀬無さに、途方もない気分となるだろう。
 「そんなことだろうと思ったけど」
 そのような態度にいちいち腹を立てるような浅い付き合いでもないので、幸村もさらりと受け流す。流水には流水で挑めばいい。ぶつかって落ちた淀みなど彼らにとっては他人事だ。
 「なあ蓮二、人間が生まれて最初に身につける感情は怒りだそうだよ」
 「惜しいな。一番最初は興奮、次いで快と不快、そして生後6ヶ月頃、不快から分化するものが怒りだと言われている」
 「明確な感情のうち、ってことだよ。論点はそこじゃない」
 幸村は柳の肩越しに、ぼんやりと切原を見る。笑う。驚く。泣く。怒る。切原はおよそ人間の持ち得る感情を、ひどくストレートに表現する。白石と話しながらくるくると変わる表情を幸村は愛おし気に見ている。柳の視界にはそんな幸村の眼差ししか入っていないけれど、後ろの切原の様子など浮いたボールがスマッシュに変わることよりも簡単に推察できる。
 「赤也は美しかったんだ。混じり気のない怒りの権化、原始的な衝動が呼び起こす本能の塊。生物の在り方として、あれは本当に素晴らしかった」
 視界に捉えた切原に対してか、あるいは記憶の情景に対してか、その両方かもしれない、幸村はうっとりと目を細める。彼はいつもそのようにして世界を見る。彼の主観における美を絶対的な基準として、醜いものには徹底して断罪を与える。柳の周りでは彼自身を含め、独り善がりな価値観はさして珍しいものでもなかった。だから柳は幸村のそのような態度に対して一切の意見をせず、ただ彼が美しいと選り分けるものを観察し、分析し、体系化を行うことが常だった。そういうわけで、悪魔化を止める役割を幸村に負わせようなどとは欠片も考えなかった。一番最初に除外した。
 「お前の価値観は理解しているつもりだ」
 「知ってるよ」
 「だが、俺は赤也を人間にしてやりたかった」
 「よく言うよ」
 嘲るように幸村が笑う。柳は眉一つ動かさず言葉の先を促す。
 「最初に悪魔化の可能性を示唆したのは蓮二だったろ」
 幸村は騒ぐ切原から目を逸らし、流れるように柳へと視線を移す。柳から見て幸村の視線はいつも少しだけ下から届いた。その高さに関わらず、視線は見下ろすときの方法で届くのだった。
 激しい血圧上昇が引き起こす赤目状態が切原の実力を爆発的に飛躍させるとして、ならばその先には更なる高みが存在する、と言い出したのは確かに柳だった。退院直後の幸村が、関東決勝で黒星を取った奴を強化しよう、と口にしたときだ。切原を突き動かし進化せしめるものは堪え難い怒りであると、そこまで話したとき、面白そうだとたまたま居合わせた仁王が乗ってきた。
 結果、柳と仁王のデータが突き止めたある単純な言葉によって切原は覚醒した。それは爆発的な力を彼らにもたらしたけれど、激しい血圧の起伏が切原を蝕むと気付くまでにそう長い時間はかからなかった。否、はじめから見えていた結果だと言える。
 「キミほどシミュレーションを繰り返す人間が、悪魔化がもたらす人体への影響について考えが及ばなかったなんて言わないよね」
 柳は言葉を返さなかった。幸村も気にしなかった。
 「今回のこともどうせ実験なんだろう。悪魔化について大方の分析を済ませたから、発展研究というわけだ。ウチにいない人種と接触したときの、赤也の反応はどうだった?仮説通りだったかい?」
 幸村は柳が片時も離さない、縦書きの便箋冊子に目を遣る。柳のことを知りたいのならば、本人から何かを引き出すよりその書類を見た方がよほど手っ取り早い。
 柳は少しだけ笑った。幸村にはそれで全て伝わる。幸村はすっかりと呆れた様子で溜息を吐いた。
 「蓮二だって赤也の愛で方を間違えているよ。キミは赤也の純粋性がもたらす実証可能性の高さを愛しているんだ」
 「否定はしない」
 柳は厳粛に頷いた。幸村の言うことは正しい。切原が悪魔化を見せたときに心を震わせたのは何も幸村だけではない。予測したその通りの事象が目の前に現れる。単純で、だからこそ絶大な快感を得られる圧倒的知識欲の充実、そこに柳のほとんどの価値観は収束する。
 「しかし精市、お前も赤也の変化に対してまんざらでもなかったようだが」
 柳生から証言を取ったぞ、と手の中の冊子を振ってみせる。
 「何、俺の反応もデータなんだ?」
 あまり気分のよくない表情で、幸村はその冊子を見た。
 「……俺だって人間だよ。後輩の成長が嬉しくないわけじゃない」
 幸村は再び切原へと視線を戻す。
 「ただ、赤也には自然のままでいてほしい。ウチの人間はとかく物事をひねくれて考えすぎる。そういうのはね、美しくないんだよ」
 そう言って幸村はゆっくりと二度、頭を振った。
 美しさを愛する幸村はその帰結としてあまり人間を好まない。成長するにつれ入り組んで行く感情や、あまり合理的でない回り道を選ぶ滑稽さ、純粋な力ひとつさえあれば容易く破壊できる壁の前であれやこれやと言い訳を並べ立てる愚かさ、人間には大抵それらのものが内包されている。そのようなものは幸村にとって、酷く醜く映るのだという。
 「精市、それは自分のことを言っているのか」
 柳は努めて冷静にそう言った。瞬間、常人であれば五感のいくつかは奪われても無理がないほどの冷ややかな視線が刺さる。柳からすれば慣れたものであったので、もちろん動じることはなく、幸村の方でもすぐに感情の発露を消した。
 幸村が傍に置きたがる人間には一定のタイプがある。シンプルな者。目的意識の強い者。その最たるものが切原であり、あるいは真田であると柳は考えているが、幸村にも折り合いをつけなければならないいくつかのことがあった。たとえば仁王。たとえば柳自身。彼らは幸村の哲学にそぐわない。感情は隠すべきものだと信じているし、結果よりも過程を追い求めるタイプだ。幸村が一人きりで生きていけたとしても、様々な価値観を周囲に置いている以上、全ての譲歩は致し方のない結果なのである。
 「……蓮二って、ほんと蓮二だよね」
 やがて反論を放棄したらしい幸村が溜息を吐くようにそう言った。
 「褒め言葉として受け取っておこう」
 柳はそう言って笑った。

 「そんなことより速やかに弦一郎との関係を修復してくれないか。崖の上でのあいつは、すごかったぞ」
 「それは苦労をかけたね」
 「まったくだ。新しい弦一郎のデータなら存分に取ってあるが、見るか?」
 「いらないよ。正面から返り討ちにしてやるさ」
 きっぱりと言い放つ幸村には苦笑を漏らさざるを得なかった。全くもって面白い。柳の興味を独占して止まない二人と出会って、もう三年が経つ。さて次はどんなデータが取れるのかと、一人きりで心を弾ませる柳を、幸村は呆れた目で見ていた。じゃあ俺は部屋に帰るから、と言って踵を返す。
 「ああ、そうだ、言い忘れてた」
 去り際に幸村はもう一度呟き、立ち止まって半身だけ振り返った。
 「おかえり、蓮二」
 「……ああ、ただいま」
 彼らは密やかに笑った。背後ではやはり切原のはしゃぐ声が響いていた。

2013.9.10