そうやって世界は回る
たとえば素知らぬ顔で流れていく雲とか、馬鹿のひとつ覚えみたいに昇っては沈む太陽、雨粒が象る正確な干渉模様、そういうものが、仁王は好きだった。ビルの屋上から眺める個を失くした群衆、一糸乱れぬ統率でただ甘い蜜を目指すアリの行軍、そのような様をぼんやりと眺めていれば、世界はまるで自分の存在に関係なく回っていると感じられて、好ましい。
それは学校にほとんど面していると言ってもいい、穏やかな太平洋の波打際でも同じだった。校門を出てすぐの堤防を降り、五分ほど海沿いを歩くと小さな灯台がある。そこへ繋がる岸壁の、消波ブロックをよじ登ったところが仁王のお気に入りだった。外からは見えず、よほどの天気でない限り濡れることもない絶妙な隙間に身を潜める。そうやって、鳴り止むことのない潮騒を、変わらぬ速度で明滅する灯台を、ただ愉しむのだ。あまりにも授業が退屈だったり、部活が嫌いな練習メニューだったり、なんとなく家に帰る気分になれないときは、よくここで時間を潰した。
そのいつもの場所で、今日もぼんやりと海を眺めているわけだけれど、周囲を包む気温は師走を迎えて急速に落ちつつあった。手持ち無沙汰に買ってみた缶コーヒーだってすっかりと冷えきってもう仁王を温めない。学校指定のマフラーは決して防寒に優れているとはいえなくて、冷たい北風が容赦なく体温を奪っていく。吹きつける海風はどこまでも乾いて寂しいものだ。ここで過ごす冬はもう三度目になるけれど、冬はいつも変わらず寒い。
そう、もう、三年経ったのだと、しみじみ思う。
仁王が無為な時間を過ごすことは珍しくない。けれど、今日に限っては身体が寒さを訴えても動かないのに別の理由があった。
この日は中学三年生らしく放課後に二者面談が行われた。面談といっても年末も差し迫るこの時期に行うのは単なる意志確認のようなもので、よほど背伸びした希望を出していない限り、簡単に成績と進路の突き合わせをする程度だ。生徒の大半が内部進学をする立海大附属中では大抵すぐに終わる。ただでさえそういった行事の好きでない仁王は、春に出した調査票と変わらぬ意志を一方的に伝え、ものの二分で指導室を後にした。
部活を引退して久しい放課後はいっそ退屈なほどで、このまま真っ直ぐ帰るか、どこか寄り道でもして帰るか、決めかねてぼんやりと窓の外を見上げた。天気は悪くないが、室内でも身を縮める程度には寒い。返却期限の迫っているDVDがあったから、暖房をいっぱいに効かせた部屋で片付けてしまうのがいいかもしれない。つまらなければそのまま寝落ちするのもいいだろう。
そう思って、踵を返したときだ。「仁王!」と、大声で名を呼ばれた。振り返ると、同じクラスの丸井が、ぶんぶんと大きく手を振っていた。
「もう帰るのか?」
「ああ」
丸井は仁王のふたつ後の順番だから、校内にいることは知っていた。確か、順番の回ってきた仁王が教室を出たときは、級友たちと大富豪で盛り上がっていたはずだ。仁王も誘われたけれど輪には加わらなかった。カードゲームにはつい本気を出してしまうから面倒臭い。
赤髪を弾ませて駆け寄ってきた丸井は、立ち止まるなり間に合ってよかった、と笑った。何に間に合ったのだろう。そう首を傾げる間もなく、次の言葉が続く。
「俺次だから待っててくんね?」
「なして」
「一緒に帰ろうぜ」
そう言って、アイドルよろしくピースをしてくる。あまりよくある誘いではなかった。同じクラスになってから、部活を引退した後もなんとなく一緒にいることは多かったけれども、その場のノリであることが多かったからだ。
「……別にええけど」
「じゃ、終わったら連絡すっから!」
シクヨロ、と口癖を残して、また教室へと戻っていく。呼び止めて、伝えるだけ伝え、さっさと去っていく。実に彼らしい言動だった。丸井が角を曲がるのを見送ってから、時間を潰すべく仁王もその場を離れた。
そんなわけで仁王は丸井を待っていた。目的のある黄昏なんて、仁王にとっては珍しい。以前ならほとんど考えられないことだった。待っていろと言われて素直に待っているなど、自分も随分と丸くなったものだと思う。
けれど、それにしたって、遅い。その気になれば二分で終わるはずの面談なのに、気付けば悠に三十分以上経っている。これはひどい現実でもつきつけられているのかもしれない。出てきたら、食って寝て遊んでばかりいるからそうなるのだと、ひとつからかってやろうか。
そんな風に考えながら、寒さに身を縮めること数十分、ようやくポケットの携帯が震えた。
『はい』
『終わった。どこ?』
『学校の近く』
『雑だな』
近くってどこ、という面倒臭そうな問いに、どう答えたものかと思考を巡らせる。誰にだって、自分だけの特別な場所を知らせるつもりはない。
『校門おって。戻るけえ』
『わかった』
さて、ようやくお出ましかとひとつ伸びをして、お気に入りの場所から立ち上がる。少しは消波ブロックに守られていたのか、まともに冬の海風を受けてバランスを崩しそうになった。こんな季節に海へ落ちれば本当に凍ってしまうかもしれない。慎重に足元を確認しながら砂浜を目指した。
来た道を戻ると、ほどなくして正面から歩いてくる丸井を見つけた。ほぼ同時に気付いた丸井が、風船ガムを膨らませながら片手を上げる。校門にいろと言ったのに、海にいるだなんて一言も言わなかったのに、居場所が割れた気がして少し悔しくなった。
「悪ぃ、待たせた」
「遅いぜよ。凍え死んだらどうしてくれる」
「誰も外で待ってろなんて言ってねえだろぃ」
足し算の速度で距離を縮め、海風に掻き消されない程度の声量で言葉を交わす。そこで仁王に微かな違和感が過ぎった。返ってきた声に、些か覇気が足りない気がしたのだ。
「なんかヘコんどる?」
「別に」
一度気になってしまうと、近付いてくる足取りもひどく重く見えた。珍しいこともあるものだ。これは本当に成績がロクでもなかったのかもしれない。
至近距離に立つと仁王は丸井を見下ろす形となった。やはり、少し様子がおかしい。いつも開口一番に腹が減っただの寒いだの本能のままに喚くはずの口は堅く結ばれ、黄昏の薄闇と長い前髪に隠されて表情は伺えない。
「面談どうじゃった」
「普通。上行けるって」
「あ、そ。よかったのう」
返答は想像よりもあっさりしていた。それきり沈黙が下りる。丸井は顔を上げることなく、乾いた砂を蹴った。まるで拗ねるように。成績が理由でないのなら、では何なのか。待っていろと言われたときは、いつも通り上機嫌だったはずだ。いつだって勝気に前を向いている瞳が好ましかったのに、勿体ないなあと心の中だけで思う。
「丸井?」
どうした、と言って手を伸ばす。けれどその手は赤い髪に届くことなく、代わりに与えられたのは乾いた痛みだった。ぴしゃりと払われた手が宙で行き場をなくす。
「何、」
しよる、と続けようとして、言葉が詰まる。振り払われた手の向こう側からは、ようやく現れた丸井の瞳が、ひどく剣呑にこちらを見据えていた。
「お前の話、してた」
「え?」
「立海行かないって本当かよ」
真っ直ぐに視線が刺さる。風船ガムが膨らみ、割れる。
「……なんじゃ、それか」
どうしてそれを、なんて口にはしない。動揺したときこそ平静でいられるのが仁王だ。本音の裏腹ばかり口にすることに関してはほとんど慢性疾患に近い。つまり、装う平静が必要な程度には驚いていた。内容にでなく、丸井の様子がおかしかった理由に、だ。
「教師にはプライバシーの概念がないんかのう」
なるべく迷わないように、なんでもない口調でそう言えば、丸井は小さく「マジかよ」と呟いた。
「そういう問題じゃねえだろ」
「そういう問題じゃろ。他に何がある?」
「皆は知ってんのかよ」
皆、とは皆なのだろう。独りを好んできたはずだったのに、当たり前のように集団に含まれるようになったのは、いつの頃からだったろう。
「さあ。少なくとも、俺は言っとらん」
丸井は目を見開き、それからきゅっと眉間に皺を寄せた。何かを堪えるような素振りで、再び砂浜に視線を落とす。
「お前、引退のとき円陣組んだよな」
「ああ」
「高校では絶対青学倒そうって、そう言ったよな」
「言ったのは俺じゃのうて幸村じゃけどな」
「仁王!」
波がざあ、と鳴る。丸井の怒りに呼応するように。
丸井は感情的な人間だ。おいしいものにおいしいと感動し、楽しいことに楽しいと笑い、悔しいときには悔しいと叫ぶ。そういう開けっぴろげな生き方があるということにいっそ頭を殴られたような感覚を味わったことが何度かある。打ったそばから響くような反射率が面白くて随分と楽しませてもらったものだ。
けれどこれは違うな、と思う。仁王の進路は丸井を驚かせるために決められたわけではないし、伝えるタイミングだって仁王が決めたわけではない。
「なんで言わなかったんだよ」
「なんで? はこっちの台詞ぜよ」
これは、違う、と思う。
「俺がいつまでも同じ場所にいると思ったか?」
突き放すやり方でそう言うと、丸井ははっと顔を上げ、悔しげに、それから苦しそうに唇を噛み締めた。仁王は心底不思議に思った。どうして怒るのか。どうして悲しむのか。
別に、自分がいなくたって世界は回る。現に今だって怒りを滲ませる丸井をよそに、波は変わらぬ速度で揺れている。
どうしてか三年も同じ場所に留まってしまった、その方がイレギュラーだったのだ。人付き合いの全てはどちらかといえば苦手で、孤独を恐れたことはなく、それと引き換えに手に入れたいつでもどこへでも飛び立てる自由さを、後生大切に抱えて生きていくつもりだった。
「……ざけんなよ」
丸井の声は震えていた。
「ふざけんなよ。俺は絶対認めねえからな!」
丸井がそう叫んだと同時に、胸元に衝撃が走った。殴られたのかと一瞬考えたけれど、その割には軽い。何かを投げつけられたと気付くまで少し時間を要した。
「仁王なんかどこでも好きなとこに行っちまえ! ばーか!」
それきり、丸井は走り去ってしまった。
「……認めるんか認めんのかどっちぜよ」
小さく揶揄したって丸井にはもう届かない。一人取り残された仁王の耳に届くのは波の音ばかりとなる。
どうしたものか、と、足元に目を遣った。そこには先程投げつけられた「何か」が落ちていた。屈み込んで手に取ってみる。
青い袋だった。手触りのいい素材でできたその袋は金色のリボンで結ばれていた。誰かに贈るためのものだと一目でわかった。
「一緒に帰ろう、っちゅーたんはこれか」
決して丁寧とはいえないが、その分だけ人の手の感じられるラッピングは、つまり、始めから仁王に渡すつもりだったものだと知れた。心当たりがないでもない。今日は、仁王の誕生日だった。
すっかりかじかんだ指先でリボンを解く。中から出てきたのは、ラップで包まれたスポンジケーキの類だった。手作りだとすぐにわかる。丸井はこういうことが得意だった。
「なしてこんな……」
丸井らしく、些か雑に包まれたラップを開き、一口かじった。きっと、仁王の好みに合わせたのだろう、甘さの抑えられたスポンジが溶けるように口内へと広がる。ふんわりと漂う香りは上質なカカオのそれだった。美味しい、そう、素直に思った。
丸井を感情的な人間だ、と思う。それは間違いのないことだ。感情に振り回される人間はよく騙されてくれるし、いいリアクションを見せてくれるから、嫌いじゃない。
けれど、さっきのは、あまり面白くなかった。
本当に、どうして自分なんかがずっと一緒にいるだなんて思ったのだろう。信用させるつもりなんてこれっぽっちもなかったし、仁王よりずっと沢山の友人に囲まれる丸井が、どんな思考回路で仁王の選択に怒りを感じるのか、ただただ不思議に思えた。
このプレゼントにしたって、どう反応すればいいのかわからない。仁王は普通の施しを普通にされるということに慣れていない。他ならぬ仁王がそう仕向けてきたからだ。それなのに、丸井は当たり前みたいな顔をして、普通のやり方で仁王に接する。調子が狂う。
丸井の走り去った方角を見遣る。どれだけ視線を巡らせたって、人気のない冬の砂浜が冷たく敷き詰められているだけだ。思いがけずチクリとした痛みが胸を刺す。丸井が見せた、隠そうともしない怒りと、その隙間から見えた傷ついたような素振りが、どうしても脳裏から離れなかった。
「……っちゅうこともあったのう」
「あ? いつの話してんだ年寄りかよ」
過去の話に頼り始めたら人間終わりだぞ、なんて嘯く丸井の手元ではフライパンが軽快な音を響かせている。どこか甘い香りの漂う室内には空調が行き届いていて、暑さも寒さも感じさせない。週末には雪が降るとテレビのニュースが告げていたけれど、そんな冷え込みはすっかりと他人事だ。
「可愛かったぜよ。俺のために泣いてくれた中学生のブンちゃん」
「誰が泣いたって? 話盛ってんじゃねっつの」
「高校の入学式んときの驚き顔も忘れられんぜよ」
「だから年寄りかって」
あれから一体何年経ったのだろう。あの後、仁王は進路を変えた。それは、しばらく丸井が口を聞いてくれなかったり、そうかと思えばお前の人生はお前の人生だから、なんてやけに晴れ晴れとした表情で言われたり、そういった事柄だけが理由ではなかったけれど、きっかけとしては一番大きかっただろう。
「大学上がるときも同じようなことしやがって」
「どっちも進路希望に外部進学を書いたんは本当のことじゃき。ブンちゃんが何も言わんかったらそのまま出とったぜよ」
「勝手に言ってろぃ。お前の言うことは信じねえから、俺」
「全部信じんのは全部信じるのと同じじゃろ」
「まあな、一周回ってわかりやすいもんな、仁王。消える消える詐欺はもう飽きたから、そろそろ本当に消えてもいいんだぜ?」
「んなこと言ってええんか? 明日にはいなくなってるかもしれんぜよ?」
「いいんじゃね? 俺もお前ばっかに構ってられねえしな」
そう言ってにやりと口角を上げる丸井は、数年前から仁王の些細なペテンには少しも動じなくなっていた。よく飽きねえな、なんて醒めた視線を投げかけられることさえある。パッチンガムの被害者ランキング一位を独占してくれていた頃が懐かしい。
「……年々可愛くなくなるのう。これだから年は取りたくないナリ」
「拗ねんなって。とりあえず消えるならこれ食ってからな」
そう言って目の前に置かれたのは、パンケーキ、の、ようなもの。きっともっと洒落た名前がついている。中学の頃からコンテストで優勝する腕前の丸井が作るものは、最近では何度聞いても覚えられないような名前が多い。昔からあまり暗記は得意でなかったくせに、そんなことばかり詳しいものだから、好きこそ物の上手なれとはよく言ったものだ。
「誕生日おめでと」
仁王のものとは違い、クリームをたっぷり載せた自分のパンケーキを置いて、楽しそうに丸井が笑う。こういうのは、いつまで経っても気恥ずかしい。
「……ありがとさん」
「え? 聞こえないんだけど」
「あ、り、が、と、う」
「よくできました」
こんな未来を中学生の自分が想像し得ただろうか。丸井はなんだかんだ、悪態を吐きながら今も隣にいる。あれから何度も冬は巡って、普段はどうせ暇だろと言っては添加物たっぷりのクリームにまみれたスイーツ食べ放題へと連れまわすのに、毎年十二月四日には甘さを抑えた菓子をくれる。
どうせ今年も一人だろうから来いよ、なんて男前の台詞を吐いてくれた丸井は、毎年ぽっかりと予定を空けて誘いを待つほどに仁王が女々しくなっていることを知っているのかいないのか。もうすぐ大学も卒業してしまうけれど、二人とも地元での就職が決まっていた。離れる予定は、まだない。
「もうこうなりゃずっと一緒にいるしかないのう」
「はは、今度はずっと一緒詐欺か。それはいらねえな」
口の端にクリームをつけたまま、丸井が笑う。
「一生消える消える詐欺しとけって言ってんだよ」
「ブンちゃん、それってどう、」
「ほら早く食えよ。冷めんだろぃ」
今でもたまに、立海近くの海辺でぼんやりと時を過ごすことがある。仁王が生き方を少しばかり変えたって、空も、海も、太陽も何もかも、中学生の頃とちっとも変わらず世界は回っていた。
丸井もずっと変わらない。わかりやすい感情と、さばけた口調と、裏のない前向きさで生きている。有り体に言って、何も考えなくてもいい彼との時間は、心地が良かった。そんなことが理由になる程度に、世界はきっと、シンプルなのだ。
「じゃ、いただきます」
仁王のためにと丸井が作ったケーキは、今年もやっぱり、決して自らスイーツを口にすることのない仁王の舌にすとんと馴染んだ。