夢の続きⅢB

 温暖化だかヒートアイランドだかなんだか知れないが、終わったはずの夏がじりじりと首筋を焼いて、始業式の一日は最悪な気分で始まった。
 人生終わったかもと思うほどの衝撃のまま、食って寝て起きて食って寝て繰り返していたら新学期がやってくるまであっという間だった。少しだけ寝坊した朝、いつもの癖でラケットバックを担いで来ちまったと気付いたのは電車に乗ってからのことで、置きに帰るという選択肢はどこにもなかった。今日からこんなもの持ってくる必要はないのに、肩に掛けたベルトが重くて蒸れてたまったものじゃない。
 最寄り駅から学校までは海に面した坂道になっていて、朝日の照り返しが余計に暑さを増幅させるのは夏の常だ。ビーチで騒ぐ男女がうざい。なんでこんなド平日にまだ海水客がいるんだって思って、そうか大学生かと気付く。併設されている分なんとなく大学生のサイクルは知っていた。なんでも一年の三分の一は休みなんだとか。あいつら全員クラゲに刺されちまえ、心の中だけで毒付いた。
 やっとの思いで校門をくぐるとでかでかと貼り出された垂れ幕が目に入った。祝、中等部男子テニス部、全国大会、準優勝。ふざけんな、祝ってんじゃねえっつの。昨年と一昨年は使い回しだったと聞いたことがあるから、わざわざ新調してくれたのだろうか。ご苦労なことだと嘆息していたら、久しぶりとじゃれ合いながら女子達が追い抜いていった。暑くねえのかとげんなりした。

 教室へ入ると周囲から適当な挨拶が飛んできた。おはようとか久しぶりとかおつかれとかなんとか。おめでとうや惜しかったな、なんて言葉も混じっている。ちょっと遠巻きな気がするのは被害妄想だろうか。夏休み前、新聞部が散々に三連覇間違いなしだと書き立ててくれたから、少しやり辛い。
 愛想笑いで表面だけの挨拶を返し、さっさと席へ向かった。窓際、後ろから二番目。引き当てたときはテンション上がったけれど、午前中は直射日光が少しきつい俺の席。日溜まりに溜息吐きながら近付けば、一番後ろ、つまり俺のひとつ後ろに、人間のものと思えないような白に近い銀髪を見つけた。仁王だ。
 「おはよ」
 鞄を降ろしがてら、後ろの机を軽く蹴った。カーテンを閉めながら振り向けば、僅かに身動ぎした仁王から「おう」だか「うん」だか返事にもならない声が聞こえた。
 「久しぶり、だな」
 「やね」
 全国大会が終わって十日も経っていないけれど、テニス部に入って以来連休なんて一度もなかったのだからそう間違ってもない感覚だろう。仁王はゆっくりと顔を上げた。何か違和感がある、と思って、答えをすぐに見つけた。仁王は、何故かブレザーを着ていた。
 「なんだよその格好」
 後ろ向きで椅子に座り、呆れてそう言った。白いシャツの行き交う教室で、濃緑のブレザーは突っ込んだら負けかと思うほど浮いている。こんなに残暑が厳しいというのに何を考えているのか。対する仁王は俺の指摘を不機嫌な表情で受け止め、頬杖をついて窓の外を見た。
 「むしろなして皆着とらんの? 夏休み終わったら冬服じゃろ?」
 「お前このガッコ何年目だよ。夏休み明けは移行期間だろぃ」
 その移行期間さえ、近年の気温上昇に伴って今年から一ヶ月遅くなった。だから今はれっきとした夏服期間なわけで、仁王は立派な校則違反にあたる。
 「知るか。折角真面目に着てきたんに」
 「見てるだけで暑いから脱げよ」
 「めんどくさい」
 そう言って仁王は再び机に突っ伏した。見下ろしたこめかみに汗がにじんでいた。もしかすると仁王はただの馬鹿なんじゃないかと思うことがたまにある。新手のキャラ作りなのか、素で間違えて引っ込みがつかなくなったのか、わかりかねてそれ以上追求するのはやめた。
 「宿題終わった?」
 「何それどこの言葉ぜよ」
 「だよな。安心した」
 「ゲームして寝て起きて映画見てしとったら夏休み終わっとった」
 「まじかよすげえ充実してんじゃん。俺なんて食って寝て起きて食ってたら終わってたぜ」
 「正月か」
 テンポよく会話が成り立ったことに少し安堵した。全国大会の終わったあの日から、チームの誰にも、ジャッカルにさえ会っていなかったから、誰にどう顔を合わせようか正直憂鬱だったのだ。
 「仁王サボるかと思ったぜ。今日始業式だけだし」
 「そう思っとったけど、無理矢理おかんに叩き起こされて、家出てからエスケープしよう思たら親父に捕まった。途中まで一緒じゃき逃げれんかった」
 「親と一緒に来たのかよ。だっせ」
 「さすがに電車の車両は変えたぜよ。でもずっと見張っとるけん途中下車も無理」
 「ご愁傷様」
 仁王の親ってどんなんだろうとぼんやり思う。俺が知る限り、試合を見に来たりはしていなかったはずだ。息子がコレなのだから、親が本気で監視をすれば本当に逃げられないんだろう。たまに家族の話をする仁王はいつも苦々しい表情を浮かべていた。
 「どしたん、それ」
 不意に、仁王が俺の足元を指差した。そこにはうっかり持ってきてしまったラケットバックが投げ出されている。中にはしっかりラケットも入っている。
 「間違えた」
 「はは、おまんも俺と変わらんの」
 そう笑われてイラッとする。変わらんというのはつまり、故意か過失か身にまとったブレザーと比べてのことだろう。一緒にされてはたまらない。
 「俺は今さら取りに帰れねえけどテメーは脱げんだろぃ。つか脱げよ」
 「脱がん」
 「脱げって、暑い」
 「朝っぱらから脱げ脱げ言うて、破廉恥な奴じゃのう」
 「ばーか。暑さで頭やられたのかよ」
 「あの……仁王くん」
 不意に遠慮がちな声が届いて二人同時に見上げた。そこには眼鏡をかけた男子生徒が立っていた。名を呼ばれた仁王は「あ?」とお世辞にもガラがいいとは言えない返事をしていた。
 「そこ、僕の席なんだけど……」
 彼の言葉はそう続く。あろうことか仁王は舌打ちを零した。体勢を崩さないまま視線だけ上げていた仁王はそれはもう凶悪な目付きで、お前そんなだから友達できないんだよと言ってやりたかった。案の定そのクラスメイトはすっかり青ざめてしまった。
 「悪ぃ悪ぃ。ほら、仁王早く席戻れよ」
 動こうとしない仁王の代わりに笑いかけると、男子生徒は幾分ほっとした表情を浮かべた。畜生、なんで俺がフォローしなきゃなんねえんだよ。そう思いながらガシガシに傷んだ髪を引っ張ると、仁王は渋々といった体で立ち上がった。背中を丸めて教室前方へと向かっていく。夏休み前、クジへの細工に失敗した仁王の席はど真ん中の一番前になったのだ。ざまあみろ。

 担任から簡単な点呼があった後、講堂で始業式が行われた。立海はマンモス校で、真面目な奴も多いから、同じような制服で同じような髪型をした生徒の並ぶ光景は、コンビニに並ぶおにぎりを彷彿とさせた。もちろん他のテニス部の奴らもいて、長身の真田や柳あたりは姿を見かけたけれど、声を掛けようって気にはなれなかった。
 「ーーさて皆さん、夏休みの間、勉学や部活動に励んだことと思います。日頃の練習はもちろん、大会やコンクールに参加した者もいるでしょう。日々の積み重ねは必ずーー」
 校長の話ってのはどうしてこんなに怠いのだろう。ひとつも頭に入ってこないまま、名簿順に並んだ三年B組の列で、おにぎりの棚に放り込まれた雪見大福みたいな仁王の後頭部をぼんやりと眺めていた。周囲の視線がどれだけ刺さろうが頑なにブレザーを脱ごうとしない仁王は、雪見大福より伊右衛門のペットボトルかもしれなかった。濃いめの。
 「それでは、夏休み中に業績を上げた部活動の表彰を行います」
 司会進行の生徒会役員がそう言って、俺は膨らましていたガムをパチンと割った。そういえばそんなのあったっけ、と昨年を思い返す。先代の部長があの壇上で掲げていた優勝旗の紅が、脳裏に揺れた。
 「男子硬式テニス部」
 呼ばれて壇上に上がったのはもちろん部長の幸村くんだ。隣のクラスだから列は近かったけれど、見かけなかったのは前で待機していたからかもしれない。
 「全国大会準優勝、おめでとう」
 準優勝、その言葉に視線が足元へ落ちる。深紅の優勝旗は大会初日に返還したっきり、返ってこなかった。去年も一昨年も、幸村くんがいたからあれがあったようなものなのに、幸村くんだけがあれを掲げられないなんておかしな話だ。
 ガムを膨らまして萎めて、意を決して目線を上げてはみたけれど、おにぎりの列の中からは幸村くんの表情を窺い知ることはできなかった。ひどく綺麗な礼をして賞状を受け取った幸村くんは、ひどく綺麗に背筋を伸ばしたまま壇上を後にした。形式ばった拍手の響く講堂が最高に居心地悪かった。

 教室に戻って長めのホームルームを終え、今日はもう解散となった。まだ昼にもなっちゃいない。配られた進路調査の紙をぐしゃりと鞄に突っ込んで、わらわらとグループに分かれて談笑を響かせる生徒の間を縫い、教壇の方へと向かった。視界にあるのはホームルームの間も一番前のど真ん中で居眠りを決め込んで譲らなかった仁王だ。始業式のあと突然姿が見えなくなって、何故か遅れて教室に入ってきたっきり、ずっと机を枕にしていた。
 「おら、行くぞ」
 椅子をガンと蹴り飛ばした。煩わしそうな呻き声がして、仁王は少しだけ身じろぎをした。
 「……どこに」
 そう言われてはたと立ち止まってしまう。そうだ、部活はもうないのだ。肩に掛けたラケットバックが重みを増した。
 三年で初めて仁王とクラスが一緒になって、一番最初に言われたのが「仁王を部活に連れてこい」だった。それまでテニス部には仁王と同じクラスの奴がいなくて、仁王が一度サボろうと決めてしまえば誰も止められなかったのだ。面倒なことになったなと思ったけれど、ホームルームが終わって居眠りしてる背中に行くぞと蹴りを入れれば、案外素直に仁王はついてきたものだった。まあ、本当にサボりたい日は六時間目が終わる頃には既に姿を消していたから、劇的に参加率が改善されたかと問われれば、そうでもないが。
 「……ワリ、間違えた」
 ラケットバックを隣の机に降ろすと、ヤル気満々じゃな、と鼻で笑われた。ムカついた。うるせえと吐き捨てて椅子を引き、ラケットバッグに頭を凭せかけた。頬にラケットのフレームが当たってあまり心地好くはない。なんだかなあと仁王を見ると目があった。情けなくなって笑った。仁王も笑った。
 「どっか行く? どうせ暇じゃけえ」
 「あー、まあアリだな。どこ行く?」
 「どこでも」
 これが自由ってやつなのかと大して有り難みもなく思う。日が昇ったらテニス、日が暮れるまでテニス、休みが欲しい自由が欲しいと数え切れないくらい喚いたのに、いざ投げ出されるとどうすればいいのかわからない。
 「とりあえず飯?」
 「割り勘は嫌ぜよ。負けるけえ」
 「何言ってんだ、お前の奢りだろぃ」
 「却下」
 「ケチケチすんなよ。小遣い多いくせに」
 「夏休み用のゲームに使い切った」
 「んじゃ仁王んちでゲーム。飯付きで」
 「うち夏は素麺しかなか」
 「はあ〜? ふざけんなよ素麺でどうやって腹満たすんだよ」
 引退したらやろうって決めてたことがいっぱいあったはずなのに、どうしてか少しも何かやろうって気にならない。やりかけて放置してたゲームの続きとか、夕方で閉まっちまうカフェ巡るとか、弟にうまいもん食わしてやるとか。
 「ダーツは?」
 「パス。あれのどこが面白いのかわかんね」
 「人生損しとるぜよ」
 「食に興味のねえお前にだけは言われたかねえな」
 「海ではしゃいどった女子大生でもナンパする?」
 「ブレザー着て水着ギャルナンパすんの? 新鮮」
 「わかっとらんのう。世の中には制服萌えっちゅーもんがあってな」
 「半袖だって立派な制服だろぃ」
 ナンパだって悪い話じゃない。ずっと二の次になってたけど、引退したら可愛い彼女でも作って中学最後に色気のある思い出を作ろうなんて少し前まで息巻いていた。自慢だけど告白されたことなら何度かある。部活忙しいからって全部断っちまったけど。
 「あ、そういやお前夏休み前に告られてなかった?」
 ふと思い出して尋ねた。
 「ああ、あれ。保留にしとったのに夏休み中にサッカー部の奴と付き合ったんじゃと」
 「なんだそれ、ウケる」
 「わざわざ始業式の後に呼び止めて言うことじゃなかろ」
 それでホームルームに遅れてきたのかと合点がいく。不満げに零す仁王は、その子にどんな返事をするつもりだったのだろう。どうでもいいけれど。
 「あー……テニスしてえ」
 結局、口にしたのはそれだった。僅かに仁王も頷いた。えらく素直だなって思ったけれど、そりゃそうだ、部活に行かなきゃならないって前提がなければ、こいつの大好きなサボりでさえ成り立たないのだ。
 「コート行かん?」
 迎合するように仁王が言った。悪くない提案だ。悪くないけれど、でも選ぶことはできなかった。
 「行かね。忘れたのかよ、赤也が部長に慣れるまで立ち入り禁止って幸村くんに言われたろ?」
 そう答えると、仁王は心底うんざりしたように溜息を吐いた。
 「あいつが一番に破りそうじゃけどな」
 「否定はできねえな」
 「赤也も寂しがっとろ」
 「あいつなあ。泣き方ハンパなかったもんな」
 勝たせてやりたかったぜ。言ってしまってから、どうしようもなく遣る瀬ない気持ちになった。
 「……みんなどうしてんのかな」
 「さあ、のう」
 溜息を吐いて、すっかりと途方に暮れる。もう少しで掴めたのだ。ベンチで歯噛みしながら祝福した他人ごとの優勝じゃなくて、俺たちの優勝が。最初で最後の全国大会、捕まえたと思った尻尾が幻のように手からすり抜けていったのは俺も仁王も同じだった。
 騒がしかった教室はいつの間にか俺たちを残して誰もいなくなっていた。元々帰宅部だった誰かを捕まえて、放課後ってどうやって過ごせばいいのか聞けばよかった。

 「あ、いたいた!」

 突然、やけに明るい声が響いた。なんだ誰だと思って入り口を見遣ると、幸村くんが教室に入ってくるところだった。それだけじゃなく、後ろには真田と柳も控えている。入ってこない二人を追い抜いて、ジャッカルと柳生も顔を覗かせた。
 「どしたの、皆揃って」
 いささか呆気にとられて俺は言った。仁王も首だけぐるりと回して皆の方を見ていた。
 「テニスしない? 俺と真田が昔通ってたテニススクールでコート借りられたんだ」
 「行く!」
 考えるより先に答えていた。同時に勢いよく立ち上がると、椅子が後ろの席にぶつかって派手な音がした。
 「ブン太ラケット持ってきてたのか」
 ジャッカルが机の上を見て少し驚いていた。かく言うジャッカルの肩にもラケットバッグが掛かっている。さすが相棒。
 「まあな。こんなこともあるかと思って」
 軽く腕を掲げるとジャッカルも手首をぶつけてきた。ああ、やっぱいいな、こういう感覚。嬉しくなって頬が弛むと同時に、下から聞こえたのは馬鹿にした笑い声だった。まだ机から剥がれない仁王だ。
 「なんだよ」
 「朝思いっきり間違えたって言うとったじゃろ」
 「てめーは黙ってろ」
 「仁王は? 行かない?」
 遮るように、幸村くんが仁王を覗き込む。突然視界に現れた幸村くんに驚いてか、微かな瞠目が見て取れた。
 「……おまんらも好きじゃのう」
 取り繕うように、すっと目を細めて仁王は言った。口調はあくまで呆れを含み、けれど仁王もケツから根が生えたように動こうとしなかった椅子からすっと立ち上がった。
 「あ、でもラケット持っとらん」
 「私が貸しますよ。三本ありますから」
 扉へ向かう仁王を待って、柳生が当たり前のように並んで歩く。ところでどうしてブレザーなんです? そんな柳生の疑問が聞こえて、今朝俺と交わした会話をもう一度繰り返している仁王の足取りは、軽かった。
 「さあ、行こうか」
 幸村くんが笑って、頷き返し後を追う。

 みんな大概だなと思う。嫌になったこともあったのに、半年も経てばまた同じメンツで毎日毎日吐くほどテニスをするんだろうに、もう恋しいだなんていっそ病気だ。
 だけど他愛もない話をしながら並んで歩く廊下はやっぱり居心地がいい。悔しいのは皆一緒で、恋しいのも皆一緒。テニスが好きで、このチームが好きで、それだけで走ってきた俺たちは、これからもそれだけで走っていくんだろう。俺たちの居場所は、やっぱりここにしかないんだ。ここからまた、夢の続きが始まるのだ。

2015.1.28