「抜くな!」
突然の大声に起こしかけた身体を止め、千歳は白石を見下ろす。しっかりと見上げる目にはいっそ睨んでいるといった方がしっくり来るほど力が篭められていて、中途半端な体勢で千歳は動けなくなる。午後十一時、千歳の部屋、薄い布団の上で絡まり合い、互いを搾取し合ったその後だ。
「どげんしたと?」
「抜くな」
もう一度呟いた白石が泣き出しそうに見えて、その額にひとつ口付けを落とした。けれど白石はそれを払うような仕草をして、そのままその手で両目を覆ってしまう。千歳が気に入っているグレーの瞳。隠されて少し残念に思う。
「ばってんこんままじゃ寝られんばい」
「ええから、抜かんとって」
行かんとって。消え入りそうな声でそう付け足した。仕方なしに千歳は萎えた性器が抜けないよう注意深く体勢を変える。体を折り曲げ正面から千歳を迎えていた白石を半回転させ、後ろから抱き込むように横になる。白石の中で千歳の精液が卑猥な音を立て、その音にか動きにか判別はつかないが、どちらともなく体を震わせた。
「白石、どげんしたと?」
宥めるように色素の薄い髪を梳かしながら、その耳元に千歳が囁きかける。まるで恋人にするみたいに。後ろを向いた白石がどんな顔をしているのか、彼からはわからない。
「何でもない」
「そげんわけなかろ。おかしか」
「何もおかしないって」
「おかしか」
「ええから、黙れや」
白石の体に力が籠もり、その中にいる自身が再び熱を持ち始めるのを感じる。どうしたものか、途方に暮れて千歳はひとつ溜息を漏らす。その吐息に白石の肩が揺れて、しまったと思ったときには遅かった。
「何お前、今俺のことめんどいて思た?」
「思っとらんばい」
「じゃあ何やねん今の」
「白石」
「もうええわ」
そう吐き捨て、白石は身を捩って千歳から離れようとする。慌てて千歳はそれを押し止める。体勢も体格も圧倒的に白石が不利だった。抜け出そうとする白石、離そうとしない千歳。先程と逆だと千歳は思うが、おそらくこれは離してはいけない状況だ。従えば、きっともっと酷くなる。
「離せや」
「白石」
「離せ言うとるやろ」
「白石」
わかっとうけん。選んだ言葉がまた間違いだったことは、白石の拳が裏向きに飛んで来て判明した。寸でのところでその手を受け止める。反射神経には自信があった。
「何がわかってんねん」
「……俺はここにおるけん」
「自惚れんな!」
堪え切れず振り向いた白石の唇をすかさず塞ぐ。噛み切られては困るから舌は入れない。以前似たような状況でうっかり差し入れてしまい、一週間ほど喋るのも辛かった。窮屈な体勢でそれでも白石は逃げようと力を込めるが、繋がったままの腰を少し揺すってやると抵抗が緩んだ。結局これしかないのか、胸の中でだけ呟いて白石を組み敷き直す。幸か不幸か、白石に埋まったままの下半身はすっかり臨戦態勢となっている。
「ふざけんな」
「ふざけとらんたい」
ちぃと口閉じなっせ、半分立ち上がった白石の性器を握り込むと、ぴくりと身体を強張らせて悔しげに千歳を睨み付けた。それでも余韻の抜け切らない身体はすぐに熱を集める。動く千歳の手に合わせて小さく声を上げた白石に口付けると、今度は彼の方から舌を伸ばしてきた。
結局そのまま何度か抱いた。こういうとき、常人よりタフな自分達は不便だと千歳は思う。いつもより激しく動いて、求めて、漸く白石が意識を飛ばした頃には千歳も精魂尽き果てていた。酷い気怠さに後始末をする気力も湧かず、投げ遣りに体を横たえる。隣で眠る白石は死んだように動かない。生臭い匂いが充満する澱んだ部屋の中、明日は昼まで眠ろう、と決めて千歳も意識を手離した。
THESE DAYS
最近、白石は少しおかしい。何が、と問われればはっきりと答えることは難しいが、とにかくおかしい。夜二人きりでいるときにそれは顕著になる。昼間は普通だから余計にそれは際立った。
夜になると白石は突然癇癪を起こす。毎回何か大きなきっかけがあるわけではないから、いくら気をつけても予防できる種類ではない。そんなときは何を言っても空回るばかりで、大人しくなるまで抱き続けるしかない。
そもそも、週に一度もなかった夜の逢瀬がこのところ激増している。始めのうちは千歳が気まぐれに誘うだけだったが、最近では白石が言い出すことも少なくはない。中学生がそうそう外泊できるはずもなく、白石は時折夜に家を抜け出して来るようになっていた。嗜めるべきなのか千歳は迷う。けれど夜中に突然やって来る白石は、千歳が部屋に居ることを確認すると心底安堵したような顔をする。その表情を見ると千歳は何も言えなくなった。そうさせているのが自分だとわかっているからだ。そして行為を終えて、夜が明ける頃白石は家へと帰って行く。
今週はもう三日目だ。それも連続で。
特に何にも縛られず生活をしている千歳はまだしも、自ら望んで雁字搦めの日々を送る白石がそんな生活を続けて大丈夫だとは思えなかった。けれど千歳が心配することを彼はひどく嫌う。優しくされるのが嫌だといつか呟いていた。そんな恋人みたいな扱いはするな、とも。
まだぼんやりとする意識を叩き起こして学校へと向かう。徒歩で五分しかかからないのに、強い日差しが体力を消耗させる。今年は猛暑になるらしいと金色が言っていた。雲一つない青空は逆に何の感慨も湧かせない。千歳は流れ移り変わるものが好きだった。
午後三時、最低限のテニス道具だけが入ったスカスカのラケットバッグが千歳の背中で音を立てる。
ギリギリ間に合ったホームルームにだけ顔を出し、『千歳は今日来ない』に賭けたクラスメイトからの文句を受け流しながら教室を後にする。通りすがりに隣のクラスを覗けば既に閑散としていて、所属する白石と忍足のどちらも見当たらない。珍しいこともあるものだ、と思いながら部室へと向かう。忍足はともかく、白石は大抵千歳が逃げないよう教室の前で待っているのに。もしかすると怒っているのかもしれない。昨夜の様子を思い出す。けれど夜の出来事を翌日に引きずるほど白石は馬鹿ではないし、そうであったなら関係はとっくに終わっていたはずだ。
果たして部室の前で白石に会った。着替えを終えて出てきたところに鉢合わせた。
「おはよう」
のんびりとそう言った千歳に、白石は僅かにその形の良い眉を寄せた。怒っているというよりは怪訝な風に。
「今日、もう来んかと思った」
「なして?」
「いや……」
昼過ぎに千歳が目覚めたとき、白石の姿はなかった。真面目な彼はきっと重い身体を引きずって一旦家に帰り、朝練にも行ったのだろう。いつもより少し青ざめたように見える顔色に謝ろうかと思ったが、何を謝ればいいのかわからない。心配したって嫌がられるだけだ。だから千歳は白石が続ける言葉を待つしかない。
「せや、来週の土曜練習試合入れたから。サボんなよ」
続いた言葉は、結局千歳の質問を全く以て無視した内容だった。
「どことね?」
素直に話題の転換を受け入れた千歳に対し、白石は府内にある中途半端な強豪の名を挙げた。別に自分が居なくても勝てる相手だろうと思ったけれど、千歳は大人しく了承する。細かいテニスの話をしているうちに、白石の気まずさは消えていた。こういう切り替えの良さが彼の長所だけれど、それは表面的なものにすぎないと千歳は薄々感じている。わかったところでそれに付き合うしかないのだから、わかっていないのと同じだったが。
「にしても今日暑いな」
「せやね。溶けそうったい」
「さすがのお前もこの暑さやとどっこも行く気にならんやろ」
少し意地悪めいた目で白石が言う。大人びた白石がこういう子供っぽい嫌味を言ったりするところが千歳は嫌いではない。放っておけば肩肘ばかり張りたがるから、千歳はいつも笑って受け止める。
さあ部活始めるで、と言って白石が背を向けた。そのとき踏み出した一歩が少しよろめき、身体が傾ぐ。慌てて千歳は腕を掴みそれを支えた。
「白石、」
「大丈夫や」
掛けようとした言葉を先回りされ、掴んだ腕を振りほどかれる。思いがけない程強い力で、宙に浮いた腕を見つめて千歳は呆気に取られ立ち尽くす。それを見て悪い、と気まずそうに白石は俯く。
「ちょっとした立ち眩みや」
「ばってん昨日、」
「千歳」
言いかけた言葉をまた遮られる。
「昨日のことは関係ないし、こんなとこでする話やない。あまりに暑うてフラついただけやから」
やから何も言うな。小さく呟いて踵を返す。
何かとんでもない間違いをしているような気がした。昨日までの無茶が響いていることは確かで、なのに白石はそれを心配どころか指摘させてもくれない。いつの間にこんな風になってしまったのだろう、千歳は途方に暮れる。確かに自分達ははっきりと言葉で表現できる関係ではないけれど、抱き合ううちに距離が縮まっていると思っていたのに。午後四時過ぎ、部室の前で、首筋を焼く太陽にじわりと汗が流れた。
「千歳」
去っていく背中をぼんやりと眺めていると、後ろから声を掛けられた。振り向くと綺麗に染め抜かれた金髪が目に入る。忍足だ。太陽を反射させる日本人離れしたその色はそれでも彼によく似合っている。
「なんね」
ちょうど千歳の目線に位置する頭が眩しい。晴れた日の日向を思わせるその色が千歳は好きだった。
「お前、白石とケンカでもしたん?」
「……なして?」
その質問に、内心ギョッとして勝気な瞳まで目線を落とす。表情が強張るのを感じた。秘密も頻度が上がれば綻びも増える。千歳としては白石との関係に後ろめたさを感じているわけではないが、向こうはそういうわけにもいかないだろう。特に純粋めいたこの親友に何かを気取られることを彼が許すとは思えない。
ところが見返された忍足は特に確信めいたものがあったわけではないのか、逆に居心地悪そうに目を泳がせてしまった。ややあって、いや、と歯切れ悪く口を開く。何事もハッキリと口にする彼には似合わない気がした。
「ほら白石って授業終わったら大抵お前のこと探しに行くやん。けど今日は俺と一緒に部活行こうとか言うから、千歳は?て聞いてん。そしたら、知らんわ寝てんちゃうとかどうでも良さそうな感じやってんか。んでさっきも何か難しい顔して話してたみたいやし」
そこまで言って忍足はコートに目を走らせる。その先で白石は柔軟を始めていた。日頃のヨガの賜物か、開いた脚の間でピッタリと胸を地面にくっつけている。千歳はあんなに柔らかくない。白石と正面から抱き合えるのは偏に彼の柔らかさによる恩恵だった。そこまで思い至ってから、千歳はこの期に及んでそんなことを考える自分が酷く汚れている気がした。
「なんにもなか」
共にコートを見つめたまま千歳がそう呟くと忍足が見上げて来たのがわかって、千歳もそれを見返す。大丈夫、と言い聞かせるようにもう一度言った。
「大会も近付いとるけん、俺ばっかりに構ってられんのやなかと?」
「ほなさっきのは?」
「今度の練習試合んこつ話しとっただけったい」
そうか、と忍足は分かるような分からないような顔をしたが、やがて考えるのを諦めたように肩を竦めた。そしてもう一度コートの白石に目を向ける。
「お前は強いから」
「え?」
「ヘタし白石よりも強いやろ。あいつは完璧な奴やけど、ことテニスに関しては完璧で居すぎようとするとこがある。結構抱え込みやすい奴やねん」
確かに、と千歳は思うが要領を得ない忍足の話し方の方が気になった。
「それと俺と、どげん関係ばあると?」
「お前の強さはチームにとってプラスやし、俺らもお前が来てくれてよかったと思ってる。オモロい奴やとも思うし」
ゆうて笑いに関してはまだまだやけどな。矛盾しているようでこの土地ではそうでない価値観を挟み、少しだけ忍足が笑う。千歳は黙って先を促す。
「ただな、その分白石も何かと扱いにくいんちゃうかって思うねん。せやから、あんまあいつを悩ませるようなことせんといたってな」
決まり悪そうに、けれどはっきりと忍足は言った。思い当たる節のある千歳は内心ドキリとする。きっと忍足は千歳を責めたいのではなく、白石を守りたいのだ。その姿は彼の髪色の所為でなく眩しかった。そんな風に思える親友が、かつて千歳にもいた。彼と同じように金の髪をした相棒は、けれどもう遠く離れた地にいる。
目の前の彼に、白石とのことを洗いざらい話せばきっと激怒するだろう。それだけのことをしている自覚は千歳にも芽生え始めていた。貶めようと思っていたわけじゃない。むしろ白石には興味を惹かれたし、好ましく思っている。愛情表現として抱いていたはずだったのに、白石がどんどんおかしくなっていくのは何故なのだろう。
「謙也は、友達想いやね」
「なっ……馬鹿にしてんちゃうぞ!」
「しとらん」
笑わないで言えば忍足は居心地悪そうに黙った。
「練習始まんで、早よ着替えや」
言われて初めてまだ自分が制服だったことを思い出した。忍足はそれを最後にさほどの距離もないコートへ駆け出して行く。彼はいつでも走っている。あんな急いでどこ行きたいんやろなあ、といつか白石が笑っていた。
彼らの友情は眩しくて、いつももう戻れない日々を千歳に思い起こさせる。金髪の親友、橘と共に居た頃のことだ。
思えば九州にいた頃は楽だった。橘の暑苦しい正義感が千歳の優柔不断と行き違っても、どつき合って、殴り疲れた頃二人同時に倒れて、顔を見合わせて噴き出し笑い合えばそれでよかった。それが何よりの信頼で、親愛だった。
だからといって、同じ方法が誰にでも通用するわけではないことくらいはわかっていた。右目が見えなくなってからは橘ですら千歳を殴らなくなった。橘が上京し、自身も地元を離れることが決まったとき、二度と暴力は振るわないと彼は自分に誓った。残されたのは思い出に変わってしまった親友との夢、それから漠然としたテニスへの未練だけだった。
辿り着いた大阪で白石と出会い、流れ者の自分に甲斐甲斐しく世話を焼く姿を見て、愛しいと思った。その瞳に、救いを見た。けれど暴力を封じた千歳はそれを伝える術を持たない。だから、暴力に一番似ているセックスを選んだ。暴力がセックスに似ているのか、セックスが暴力に似ているのか、それはわからなかったけれど、白石との間にもどかしく横たわる距離が縮まると信じた。
その信じた愛の形が、白石を追い詰めてしまっているのだろうか。
「白石ぃ!」
遠山の声がコートに響き渡った。午後五時半、しぶとい太陽はまだコートを焼き続けている。白石、とか部長、とか部員が口々に叫び、コートの一角にあっという間に人だかりができた。熱中症や、と誰かが叫んで、千歳も慌てて駆けつける。白石は石田に背負われて人だかりを抜けて来るところだった。その肩に凭せかけた顔は蒼白で血の気がない。白石死んでもうたんか!?と遠山が悲痛な表情で周りをうろつき、滅多なこと言うもんやない、と財前に嗜められている。
ひとまず木陰に下ろすと、俊足で保健室へ向かった忍足がアイスノンを持ち帰ってきた。それを首の後ろに当てる。
「保健の先生が担架持って来てくれるらしいわ」
それにしても、白石が熱中症とか。白石の体を冷やしながら忍足が複雑な表情を浮かべている。この季節、屋外スポーツでの軽い熱射病は決して珍しいことではないが、だからこそ水分補給は徹底してきたし、何より白石は普段から人一倍健康に気を遣っていた。
止めればよかった、千歳は誰にも知られず後悔する。ふらついた彼に部活を休ませればよかった。癇癪を起こす彼を寝かしつける方法をきちんと探すべきだった。夜に訪ねて来る彼を追い返せばよかった。そもそも始めから抱かなければよかった。いっそ大阪へなんて来なければよかった。後から後から溢れ出す後悔は、けれど今更何の意味も持たない。
やがて到着した担架に乗せて、体格のいい千歳と石田で保健室まで運んだ。三十分ほど残された部活動は、部長の不在と混乱が相俟ってそのまま解散となった。どうやら今年一番の暑さだったらしく、他にも体調不良を訴える部員がいたことも理由のひとつだった。
「最近、白石はんは何やら思い詰めてはるな」
「え?」
四捨五入すれば共に百九十センチある二人が並ぶには、保健室のベッドサイドは狭かった。白石はまだ目を覚まさない。完全下校の時間が近付いている。
「時期が時期やさかい、大会のことやろうけど、倒れるまで気張るんは無謀というものや」
「師範はわかっとっとね?白石のいっぱいいっぱいになっとうこつ」
「何となくな。もう三年目の付き合いやさかい」
「すごか」
千歳から見る白石は、夜こそ手がつけられなくなるときがあったが、少なくとも昼間は完璧なままだった。それでも今日忍足がそこはかとなく心配していたこともあり、過ごした年月が違うのだと実感する。頼もしい仲間に支えられ見守られてきた彼に対し、自分がしたのはその平和を崩したことだけだったのではないか。今まで考えも及ばなかった罪悪感ばかりが千歳の胸を締め付ける。
「せやかて、千歳はんもわかってはるんやろ?聞くゆうことは」
「いや、俺は何も気付けんかったばい」
何も。そこに何が含まれているかは言えない。
「白石はんは、色んなことをすぐに抱え込もうとしてしまう」
「……それは、何となくわかるばい」
それは忍足も口にしていたことだった。何事も卒なく器用にこなせてしまえるが故の、不器用さ。人にうまく頼ることのできない人間は遅かれ早かれ崩壊してしまう。出会った頃、彼のそういう部分が少しだけ橘に似ていると千歳は思っていた。彼も頼るのが下手な人間だった。けれど反骨精神のようなものは人一倍強かったから、あれでうまく自己を発散させていたのだと思う。それに比べて白石は自己表現が下手すぎる。千歳が白石と抱き合うことに互いの幸福を見付けたと勘違いしてしまう程度に、何重にも張り巡らされた心の壁の表面だけで笑っている。
「前にも一遍、身動きが取れんようになったことがあったんや。あれは部長になって暫くした頃やった」
「何があったと?」
「部長故の責任感言うんかな。理想通りのチームを作ろうとして、部員のことが見えんようになっとった。あのときはまあ色々あって、今のように出来ることを伸ばそういうチーム作りに方向転換できたんやけど」
石田の話し方は他の人間と違ってゆったりとしている。低めの声と相俟ってとても耳障りが良い。彼は近くの寺に下宿していて、将来は仏門に入るのだという。千歳はまるで無宗教だったけれど、彼の説法なら聞いてみたいと思った。
「それでも、人の根底はなかなか変わるもんやない。どうしても追い詰められたとき、選ぶ道は同じになりやすいもんやからな。失敗から学ぶのが人やけども、そううまくいくもんでもあらへんのが現実や」
「そうやね」
石田の言葉に、千歳は深く頷く。同じ痛みを受けないために、別の失敗を繰り返す。何にも縛られないように行動しているうちに、別の何かに絡まって身動きが取れなくなる。自分一人で溺れていればいいのに、他の誰かを傷付ける。うまくいかないことばかりだ。無我の扉を開けて先が読めるようになったって、世界には不確定要素が多すぎる。ダブルスになれば途端に使えなくなる程度の力ではそんな世界に太刀打ちなどできるはずもなく、光を失った右目は目の前の現実すら見極められない。千歳は泣きたくなった。けれど泣く権利などなかった。
「ワシはな、千歳はん。千歳はんとおるときの白石はんは、少し雰囲気が違うと思うとるんや」
思いがけない言葉に千歳は目を見張る。そんなことは言われたこともなければ、感じたこともない。
「どげん風に?」
「たまにな、年相応にならはるときがある。雰囲気がそうさせるんか、別の何かがあるんかは未熟にしてワシにはわからん。せやけどあんたは変わったお人やからな。普段言わん我侭や戯れめいたことも千歳はんには言うたりするやろ」
そうだろうか、千歳はいくつもの場面を思い出す。自分を探しに来る白石。悪戯めいた軽口を叩く白石。夜に癇癪を起こす白石。ある意味では石田の言うことが当てはまるかもしれないが、きっとそれはセックスでもたらされたものだから、何の解決にもならないと千歳は思う。セックスをしている最中は確かに心の奥まで触れた気分になるけれど、近頃では終わった後さらに壁が増えているような感覚ばかりが募っている。考えている最中で、もしかすると石田は全て見抜いているのではないかと思えてきた。超人めいたこの人物はその考えに妙な説得力を持たせる。もちろん確かめるわけにはいかないが。
「ワシらでは出来んことを、きっと千歳はんなら出来る。少なくともワシはそう思っとる」
「……買いかぶりばい」
自分が居なければ白石が倒れることもなかった。千歳に出来ることは白石を追い詰めることばかりだ。自嘲めいた千歳の呟きは白いカーテンに吸い込まれて消えた。
薬品の香りが漂う保健室、午後六時半。家族に連絡がつかなくて、目を覚まさない白石は家が近い千歳に任されることとなった。
「……ここは?」
小さな声が響いて、白石が意識を取り戻したことがわかった。
「俺ん家ばい」
体を起こそうとした白石を千歳の手が押し止める。買ってきた二リットル入りのスポーツドリンクを取り出し、少し思案してからコップに注いだ。飲めっと?差し出せば白石は弱々しく頷き、横向きになって首を浮かして一息に飲み干した。
「何?何が起こったん?」
返されるコップにもう一度ドリンクを入れると、今度は半分だけ飲んで息を吐く。
「白石、部活中に熱射病で倒れたんよ。覚えとらんと?」
「全っ然」
白石は、そっか、とかあー、とか呻いて、部活は?と控えめに問いかける。この期に及んでそんなことを心配するとは、責任感を持つにも程があると千歳は内心苦笑する。そんなものをほとんど持ち合わせていない千歳には理解できない。
「中止んなったばい」
「……最悪や」
「もうほとんど終わりかけとったけん、気にせんでよか」
ああそう、と白石は頷いたけれど、ちっとも気が晴れた様子はなかった。
「ほんで何でお前ん家なん」
「近いけん」
「あっそ。……腹減った」
「うどん作っちゃるけん、待ちなっせ」
「うどん?この暑いのに?」
「ばってん体調悪かときには一番たい」
「どうせインスタントやろ」
「バレたばい」
「ええよ、それで。頼むわ」
千歳はほとんど自炊をしない。見かねた白石が家に来るついでだからと作ってくれる夕食が唯一のまともな栄養源だ。実家から送られて来るインスタント食品のストックを見て、湯を入れて三分ではなく鍋で五分茹でるタイプのうどんを選んだ。ほとんど変わらないかもしれないが、何か一手間加えたい気分だった。
冷蔵庫に残っていたネギを散らしたうどんを見て、微かに白石が苦笑する。別にええのに、そんなん。午後八時、冬はコタツになるそのテーブルに電気が通ったことは未だない。
「そういえば、家には連絡したと?」
ちゅるちゅると一本ずつうどんを啜り上げながら白石は頷いた。既に夕飯を済ませていた千歳は手持ち無沙汰にそれを眺める。こんな庶民的場面でまでいちいち美しいのだから始末が悪い。
「迎えに行く言われたけど断った。動くんめんどいし」
「何か言われんかったと?」
「別に、近くの寮に住んでる友達がいてるゆうんは知ってるし、そこに泊まる言うたらわかった、て」
あかんかった?次の麺を掬い上げながら白石が言って、よかよ、と千歳は答える。毎回家族に黙ってこの家に来ていたわけではないのだから、当然といえば当然だった。
「ほとんど食ったことなかったけど、たまには美味いな、インスタントも」
「悪くなかろ?」
「せやけどこればっかりになるんはあかんで。塩分どんだけ入ってるか知ってるか?」
「知っとっとよ。白石に言われたけん、汁は捨てとるばい」
「ほなまあええけど」
千歳は今日色々と考え込んだけれど、実際に白石と話せばその態度はやはりいつも通りあっけからんとしていて、昨夜のことすら現実感を失っていく。これが白石なのだ。色んなものに蓋をして、表面だけはいつも完璧だ。倒れた原因を千歳が口に出来ない雰囲気ばかりを作っていく。千歳はそうしたがる白石に付き合ってやることしか選択出来ない。狡いという単語が千歳の脳裏を掠めるが、どちらが狡いのかわからない。
寮で共用の風呂に白石を先に入らせ、続いてシャワーを済ませた千歳が戻って来たときには白石はヨガをしていた。元気やね、と苦笑するとこれしてるから元気やねん、と返ってくる。そういう意味で言ったのではなかったけれど、気を失って眠っていた所為か白石の顔色は随分良くなっていた。
「お前もやったら?体硬かったら怪我しやすいで」
「ばってん、痛そうばい」
「痛いんは始めのうちだけやって。来てみ、教えたるわ」
「遠慮すっばい」
拒否する千歳にふうん、と不満げに呟くが、この遣り取りは初めてではない。布団の上で白石はわけのわからないポーズを続ける。それを横目に、千歳は布団の外でごろりと寝転んだ。古い畳の匂いが鼻をつく。やがて白石がヨガを終えて千歳に声をかけても、彼は動かない。白石に背を向けておやすみ、と言う。
「え、何、お前そこで寝んの?」
「一応病人さんやけん、ゆっくり布団使いなっせ。二人では狭か」
「そんなん今更やろ。お前が風邪ひくで」
「大丈夫ばい、鍛えとるけん」
「そんなん俺も一緒やし。まともな飯も食ってへん奴が何言うてんねん」
「そんでも今日はこっちでよか」
「あかん」
「よか」
「嫌や」
「……白石?」
説教めいていた口調が急に駄々をこねる子供のようになって、千歳は背を向けていた身体を反転させる。白石は布団の上に座ったまま、シーツを握りしめている。始まった、よりによってこんな日に、いやこんな日だからか。動揺を悟られないようにゆっくりと身体を起こす。
「白石、今日は一人で寝た方がよかよ」
「俺と寝るん嫌なん?」
「そげんこつ言っとらんと」
「手出してまうから?」
「それは……ちょっとあるばい」
隠しても仕方がないので正直に言う。肯定しても否定しても白石は収まらない。
「せやったらいつも通り抱けや、今更逃げるんか?」
「逃げるてや?そげんこつ」
「あるやろ。俺が倒れたからビビってるんか?もう付き合いきれんてか?」
「違うばい、俺は白石ん体んこつ思って」
「大きなお世話やわ。お前に心配なんかされたないねん」
「白石」
今にも泣き出しそうな白石を見て、千歳も泣きたくなる。何故白石はこんな風になってしまうのだろう。石田の言う我侭とは性質が違う。最近の白石は何か意固地になっている。この状況が悲劇的なのは、宥められる術を千歳は一つしか持っていないからだ。
「千歳」
シーツを掴んでいた白石がおずおずとその手を伸ばす。呆然と見つめる千歳の服の裾を引っ張る。まだ千歳は動かない。
「お願いやから、こっち来て」
「白石」
「頼むから、千歳」
師範、やっぱり、人間そう変われるもんやなかね。見つめるグレーの瞳に、伸ばされた手をまた千歳は取ってしまう。
本当は、千歳には既に白石の求めているものがわかっていた。結合を解くことを嫌がるのがどんな感情から溢れた願いだったのか、わかっていたから千歳はそれに従った。白石は千歳が去ることを異様に恐れている。その存在を確認することに必死になっている。
だからといって千歳には永遠など約束できない。元より流れ移り変わるものを愛してきたし、一緒に居ることが当たり前だった親友とも決別してしまった。別れの痛みを知る千歳は、別れを恐れる白石を救うことはできない。それでも今近くにいる白石を愛しいと思うから、求めることも求めに応じることもやめられない。
きっと手段を間違えたのだ。暴力でセックスのように愛を確かめてきた千歳は、セックスでは暴力のように白石を傷付けてばかりいる。だからといって今更どうすればいいのかなんてわからない。間違えたからと一方的に切ってしまえる関係ではなくなってしまっていた。少なくともこの夏が終わるまでは、現状維持しか方法がなかった。
荒い呼吸の合間に白石は何度もその名を呼ぶ。
「千歳」
「ん?」
「千歳」
「何ね」
ちとせ、ほとんど無意識なのかもしれない。包帯などとっくに解けてしまった白石の左腕が宙を彷徨い、空を掴む。自分を探しているのだと悟った千歳はその手に自身の右手を絡ませる。握り返す力は強い。千歳、ちとせ、チトセ。壊れたラジオのようにそれだけを繰り返す。呼ばれているうちに、それが自分の名前だということがわからなくなってくる。堪らなくなって掴んだ手をシーツに押し付け、耳を塞ぐ代わりに深く深く口付ける。
「千歳」
一度塞いだ唇を離しても白石は千歳を呼び続ける。千歳は腰の動きを止めないままで、紅潮した耳元に口を寄せる。
「大丈夫ばい。俺はここにおるけん」
泣かんで。強く閉じられた目の端から流れた涙が、生理的なものなのか、それとも何らかの感情が発露した結果なのか千歳にはわからない。あんな急いでどこ行きたいんやろ、忍足を笑った白石を思い出す。この関係が行き着く場所がわからない。ただ今夜は繋がったまま眠ろう、千歳は思った。そんな一時しのぎでは何も解決できないけれど、それ以外に出来ることが千歳には何も思いつかなかった。
午後十時、うわ言のように自分を呼び続ける白石の声を聞きながら、彼の中で千歳は果てた。