シャープペンシルがノートを走る。微かな抵抗に起こる摩擦が立てる音を、千歳の左耳が捉えた。普段喧噪に紛れているか、いくつも重なっているかのどちらかであるその音は、こんな風に空間へ響いてしまうとまるで異質な予感のように聞こえる。その細い芯を走らせているのは千歳ではない。その所為もあるかもしれない。
 重力に任せていた左腕をのろのろと上げる。上半身を捻ると安物のパイプ椅子が微かに軋んだ。傍らの長机に頬杖をつく。置いた肘が僅かな振動を与え、音が止まった。
 「揺らすなや」
 「すまんばい」
 悪びれもせず千歳は笑う。脚を流す千歳とは正反対に、姿勢良く机に向かう白石と目が合う。形の良い眉が顰められて眉間に少し皺が刻まれている。
 「何してんの?もう皆帰ったで」
 すぐに落とされ、長めの髪に隠された視線をもったいなく思う。そんな表情でさえ絵になるほど白石の造形は美しい。
 「そやね」
 答えにならない相槌をひとつ打って、千歳も手にした本に目を落とす。再び流れ始めた微かな音が、狭くはない部室に響き渡る。それは削られる音でもあるし、削る音でもある。
 けれどすぐに音は止む。千歳は視線に気がつく。左側を振り返ると、シャーペンを挟んだままの包帯を巻いた手に、白石が頬杖をついてこちらを眺めている。
 「なんね」
 白石は暫し怪訝な瞳で千歳を見つめ、いや、とまた手元に視線を戻す。千歳はそのまま白石を見つめ続けた。千歳と同じ左利きの白石は、包帯を汚さないようにと字を書くときいつも手を少し浮かせている。書きにくくないのだろうかと千歳は思う。思うだけで口にはしない。
 「いつも遅刻ばっかしとるくせに終わっても帰らんとか、難儀な奴っちゃなあと思て」
 「白石も残っとるとよ」
 「俺は用事があるから残ってるだけや。終わったら帰る」
 「俺もばい」
 そしてまた白石の少し浮いた左手が動きを止める。その顔は上がらない。千歳には彼が何か言葉を探しているように見えた。けれど結局白石は何も口にはしなかった。シャープペンシルがノートを走る。
 千歳は少し笑っている自分に気が付いた。鏡が無いからわからないけれど、あまり上品な笑顔ではないだろうと思った。

 彼は待っている。あの日の二人を待っている。どちらの彼かはわからない。

THE FIRST MISTAKE

 「帰らんの?千歳」
 総合運動公園での地区予選を終え、どうせならと付近をぶらつこうと考えた千歳を引き止めたのは、既に耳に慣れ切っていた白石の声だった。
 「まだ明るかけん、折角の公園やけん散歩ばして帰るばい」
 「自分そうゆうんほんま好きやなあ」
 彼は目を離せばふらりと消える千歳を見つけては、いつも小言を流しながら引きずり戻した。そんな光景もその頃には日常となっていたが、解散の号令をかけた後だからか見上げる白石は呆れたようにそう返しただけだ。
 「まあ天気も良いし、勝ったし、わからんでもないけどな」
 そう言って白石は傍らの桜の木を振り仰ぐ。とうに散らしてしまった花弁の代わりに新緑の葉が茂っている。密に見えるその合間をぬって、夏に向けて強くなり始めた日差しが目を焼いた。まだ蝉は鳴かない。短い命を一番良い時期で散らせるようにと、地中で機会を伺っている。一筋の風が吹いて、しがみつく春と迫り来る夏の混じったどこかくすぐったい匂いが彼らの間を通り抜けた。そうだ、こんな日は最適な散策日和だ。
 「何なら、一緒に行くと?」
 それはほんの気紛れだった。自然を愛でる千歳が白石に見つかるときは、そこにいつも目的があった。授業であれ部活であれ、白石は常に彼をどこかへ連れて行くためにやって来た。けれどその日はそうではなかった。だからそれはただの、気紛れだった。
 白石は一瞬の驚きを見せた後、お前がええんやったら、別に今日他に用事無いし、と言って一度他の仲間の元へ戻った。そのとき本当は別の約束があったかどうかを、千歳は知らない。ただ、千歳が誘って、白石が了解した。その事実のみが存在した。
 「で、どこ行くねん」
 戻ってきた白石が言う。そうやね、言いながら何も考えていない自分に千歳は気付いた。彼はいつも目的地を決めない。流れる風や草木の匂い、気紛れな野良の動物たちに全てを任せる。いつも目的と過程を明確化する白石のやり方とはまるで違っていた。
 「ほなけん、飛行機、見に行くったい」
 「飛行機?」
 思い付きで飛び出した提案に対し、白石は怪訝に眉を寄せる。
 「白石、飛行機嫌いと?」
 「いや、そんなことないけど」
 「近くから見えるとこばあっとたい」
 すごか迫力とよ、笑う千歳に白石が頷いた。カラン、と硬度の高い音がした。千歳の鉄下駄がコンクリートの地面を擦る音だ。
 「決まりやね」

 その場所は、運動公園から電車で三十分ほどの距離にあった。ほとんど枯れた小さな川を挟むその河川敷は雑草が自由に生い茂っていて、あまり手入れされていないことが分かる。閑静な住宅街に挟まれ、ほとんど人気は感じられない。千歳は急な土手を、一見歩きにくそうにも見える重い下駄で軽やかに滑り降りて行く。
 「こんなとこから飛行機が見えるん?」
 注意深く足元を確かめながら白石も急斜面を追う。千歳は中腹にラケットバッグを放り投げ、斜面に沿って大きな身体をゆったりと横たえた。
 「もうすぐ来ったい。名所になっとうとこもあるばってん、そっちは人の多か」
 「穴場、ゆうことか?」
 「そやね」
 遅れて白石が隣に腰を下ろす。千歳の反対側にラケットバッグを慎重に置きながら。迫り来る夏の予感に青々と茂る雑草達は座る白石の肩辺りまで伸び盛り、千歳の体はほとんど覆い尽くされている。若く瑞々しい草の香りが鼻腔をくすぐった。夏至を一ヶ月後に控えた空はまだ夜の気配など微塵も感じさせず、潔いほど青々と透き通っている。白石は元から姿勢の良い背を更に反らして深呼吸をした。
 「何かたまにはええなあ、こういうんも。のんびりしとって」
 「よかっちゃろ?こっち来てすぐ見つけたとよ」
 「お前いつもこんな過ごし方してんねんな」
 「うん、ばってんまだ飛行機ば来とらんけん、これからばい」

 程なくして、耳鳴りじみた波の混じる轟音が聞こえた。正面から迫り来るその音は、やがて音源を伴って近付いて来た。正面から現れ、丁度彼らの真上に差し掛かった機体が、時折見かける豆粒みたいな影ではなく十分な質量を持って通り過ぎていく。白い腹と真っ直ぐに伸ばされた翼。少し離れた場所から飛び立ったであろう鉄の塊は十分でない高度にあって、それでも彼らが何人束になっても届かない場所を通過する。あんなものが空を渡っていけるなんて人間の技術はどうなっているんだろう。感心している間にもそれはみるみる間に舞い上がっていく。

 「……すごいな」
 その姿が視界から消えて高音だけが残響として残り、漸くお互いの声が聞こえるようになった頃白石が呟いた。そちらに目を遣れば惚けたように目を見張る彼の横顔があった。
 「俺ん放浪癖もたまには役に立つっちゃろ?」
 得意げになって千歳は笑ってみせる。振り返った白石は気の抜けた表情を見られるわけにはいかないと言わんばかりに、端正な顔を歪め皮肉めいた笑みを作ってみせた。造型美に恵まれた彼はそんな表情を浮かべてすら美しいと千歳は思う。
 「せやから言うて、勝手におらんなってええとは言うてへんで」
 「厳しかー」
 白石が左側にいてよかったと千歳は思った。彼に右半分の光が閉ざされて久しい。通り過ぎる飛行機との距離だって、おそらく白石以上に掴めていない。そっと左目を閉じてみる。途端に草と空と雲の混じり合った抽象画の世界が広がる。その光景も幻想的で嫌いではないが、もし白石が右側に座っていれば、その美しい表情をきちんと捉えることができない。それはあまりに惜しい。
 そう思ってから、そういえば白石はいつも自分の左側に立っているのではないかと思い当たる。視覚的記憶が左側の白石しか覚えていないのか、それとも彼が意図して常に千歳の明瞭な世界に立ってくれていたのか判別はつかない。何となく後者であれば嬉しい、と千歳は思った。

 彼らはいくつもの飛行機を見送った。その一つ一つにどこかへ旅立つ人間がすし詰めにされているなんて想像できなかった。大小様々な機体が飛び立っていく様を見ていると、海底でクジラやイルカを見上げているような気分になった。
 旅立つ機体が唸る合間に、他愛もない話を重ねた。今日の試合について、チームメイトについて、部活以外の学校生活について。部活だけの付き合いと言っても過言でなかった彼らは、友人としての距離が縮まっていく感覚をそのとき確信していた。
 実のところ、チームの頂点でなければならない白石と、全国レベルでの知名度が優る千歳との間には、千歳がチームに溶け込んでなお少しだけ余所余所しさがあった。定期的に行われる部内戦での勝率は拮抗していたが、左目しか見えていない千歳に勝っても白石が満足することはなかったし、どこか悔しささえ滲ませることもあった。「勝ったもん勝ちや」と白石は表面上チームの長として千歳の実力を素直に歓迎したけれど、もしも彼らのどちらよりも強いあの一年生がいなければ二人は仲間としてうまくいかなかったかもしれない。
 一方で、そうあっても別によかったと千歳は思っていた。大阪に流れて来た頃、彼には彼なりの目的があった。だから新しいチームに於いて必要以上のライバル視も信頼も望んではいなかった。たとえ人間関係がうまくいかなくとも、テニスさえできればそれでいいと思っていた。
 それなのに、こうして白石と邂逅していく過程を、千歳は嬉しく思った。こんな雑談で縮まる距離に心地良さを感じている自分に戸惑った。
 白石は千歳に対して持つ対抗心と信頼感の間で揺れながらも、すぐに消えてしまう千歳をいつも迎えに来た。千歳は自由を愛していたにも関わらず、そんなとき自分を呼ぶ呆れたような声が嫌いではなかった。楽しみですらあったかもしれない。その感覚が関係しているのかはわからない。けれど、今隣で連れ去る先もなく何でも無い話をする白石を愛おしく感じていることは確かだった。

 「なして白石は、いつも俺んこつば探しに来っと?」
 もう何機目かわからない飛行機を見送った後、千歳はその疑問を口にした。は?まだ上空に残していた視線を下ろし、白石は何を言ってるんだと目で訴える。
 「おらんかったら探すのが普通やろ」
 「前ん学校んときは放ったらかしやったとよ、そのうち戻ってくるちいうごたる」
 「……そっちの方がええか?」
 少し言い淀んで白石が問う。彼は千歳が昔の話を持ち出すと、いつも少しだけ戸惑うような態度を見せた。口にしない方がいいのかと思わないでもないが、後ろめたいことなど何も無いからと必要があれば千歳は九州時代を語った。大抵の場合、過去はある人間を理解するために欠かせない要素だ。
 「うんにゃ」
 白石の揺れる瞳を見上げてしっかりと否定した。
 「面白か、どこ行っても見つけよるけん」
 「アホ、かくれんぼちゃうねんぞ」
 きつく聞こえる言葉を口にしながらも、その否定に白石の表情は緩んだ。千歳は大阪に来てからこの土地流のコミュニケーションをいくつか教わった。馬鹿はただの悪口、アホは親愛を込めた軽口。「関東の奴らがたまに”馬鹿じゃん”とか言うやろ、あれほんま腹立つわ」と言ったのは忍足だ。
 「大阪、慣れたか?」
 そんなことを千歳が思い返していると、白石は不意に笑みを隠し、独り言のように呟いた。目は合わせないで、次にやって来るであろう機体を見定めるかのように遠くを見て。
 「そやね、食い物もうまかとだし、みんな面白か」
 何も考えずに千歳はそう頷いた。本当にそう思っていた。突然やって来てレギュラーを掻っ攫った千歳に悪意を向けるような人間は一人もいなかったし、それどころか進んで溶け込ませようとしてくれる。温かい街で、温かいチームだと心の底から思っていた。
 けれど白石の言葉はすぐには続かなかった。見上げると、少し考え込むような素振りをしている。白石?何か気に障ることでも言ったのか、そう思ってその名を呼んだ。やがてゆるゆると千歳に視線を移し、真剣な目で白石は言った。
 「帰りたいとかは、思わん?」
 「熊本に?」
 「うん……うん?たぶん」
 問い返した千歳の言葉に白石は腑に落ちないような表情を作る。自分でも何を問いたいのかはっきりとはわからないらしい。何かを言い淀む白石などなかなか見られるものではない。
 「……思っとらんばい」
 簡潔にそう答えた。ある意味では嘘だったし、またある意味では本当だった。
 白石が聞きたいことは、何となくわかる気がした。千歳は故郷を思い出す。大阪と比べて圧倒的に多い自然、若い苗床の広がる畦道、それから、当たり前のように隣にいた金髪。突然の怪我で不渡りに終わった、全国への約束手形。
 そこに帰りたいのかと聞かれれば、おそらく千歳は肯定する。何もかも中途半端なままで崩れ去ってしまったその先を、見られるものならば見てみたかった。けれどその願いは叶わないと誰よりも千歳が知っている。金髪の彼も自分も、あの頃とは違う場所に旅立ってしまった。もしもあの土地に帰ったとしても、描いた未来はそこにはない。
 何事にもいつかは終わりが来るのだ。千歳の場合は少しイレギュラーで早かっただけで。この大阪での暮らしもいつかは終わりを告げるだろう。ならば折角目の前にある居場所を楽しむことが、前向きな生き方というものだ。
 それを言葉だけで伝えるのは難しい。だから千歳はシンプルな否定を口にした。そうか、と言った白石がその答えに満足したのかはわからなかった。やって来た轟音が視線を奪い、会話を隠したからだ。彼らは黙って白い腹を見上げる。あの飛行機にはどこかへ旅立つ者と、在るべき場所へ帰る者が詰め込まれている。けれど彼らは今この河川敷に留まっていて、二人並んで風に吹かれている。そして少なくとも、その事実に居心地の悪さはなかった。

 帰ろか、と白石が言った頃には空がオレンジ色に染まり始めていた。その色は昼間の晴れた空を反映して、どこまでも澄んでいた。まだ夕立の起こる季節でもなく、掠れるような雲が一見してわからない速度で動いている。
 どれだけの時間が流れていたのかはわからない。時計は白石の包帯が巻かれていない方の腕と、千歳のポケットの中で電池の切れかけている携帯電話にある。千歳が正確な時刻を確認することは少ない。空の色や空気の匂いで大雑把に掴むだけだ。
 「ほなけん、帰ろかね」
 「ちょ、千歳ストップ」
 半身を起こした千歳に白石は言う。
 「何ね?」
 「自分、頭にめっさ草絡んでんで」
 剛毛で癖のある自身の髪質に関して、千歳は特に気にかけたことはなかった。起き抜けに手櫛で整えるだけで見慣れた形には落ち着いたし、故意にパーマをかけていると思われることも多かった。グラウンドで忍び込んだ砂も、今のように草原に寝そべって紛れ込んだ雑草も、一度シャワーを浴びれば消えていく外来者だった。そんなものを白石は神妙な顔をして落としていく。身長に比例して差のある座高は、彼を自然と膝立ちにさせている。
 取りにくいと言いながら絡みついた雑草を払う白石の髪が千歳の視界に揺れる。色素が薄いのか染めているのかは知らなかったけれど、ミルクティー色の髪は夕陽によく映えた。普段整髪料で無造作にハネさせられた彼の髪は試合で動いた所為か汗の所為か、いつもより幾分大人しい。
 「っしゃ、取れたで」
 笑う彼の髪に手を伸ばした。それは日頃無意識に指を通す自分のものより何倍も細く、日焼けの目立つ大きな手を柔らかく受け止める。過去に素通りした、手入れは怠っていないと言い張る脱色を繰り返した何人かの女の髪よりずっと素直に。そんな手触りを千歳は知らなかった。
 「どしたん?俺もついてる?」
 抵抗なく滑り降りた手はそのまま頬を捉える。沈黙が降りる。千歳?小さな声は風にかき消え、グレーの瞳が揺れる。虹の色だ、と千歳は思った。虹の色を掻き混ぜると丁度こんな色をしている。
 やがて距離が縮まる。ほとんどが千歳が詰めた距離だったけれど、白石がそれを広げることもなかった。そして夕陽の逆光に影は重なる。その腰を引き寄せる。
 伝わればいい、と千歳は思った。言葉では表せない故郷への寂寞と、この地への慈しみが、正しく伝わればいい。見開かれた虹の瞳は、しばし戸惑いの色を混ぜた後、千歳の目蓋が落ちると共に閉じられた。

 轟音が鳴り響き、救援信号のように明滅するテールライトが暗い東の空へと飛び立った。その日初めて二人は同じ扉をくぐった。

 シャープペンシルがノートを走る。微かな音が響き続けている。千歳が手に持つ詰め将棋の書籍に書かれた内容は頭を素通りしていく。あの日の記憶ばかりが浮かんでは消える。

 あれから一週間近く経つ。あの日は完璧すぎた、と千歳は思う。試合には勝ったし、いつも連れて行くだけの白石がついて来たし、若草の匂いが充満して夕陽が綺麗だった。飛行機が頭上を飛んで、彼らは海底のような河川敷からそれを眺めた。成長期も甚だしい男二人が手を繋いで電車に乗れてしまう程度には浮かれていた。
 仮宿みたいな千歳の家に白石が来るのは初めてで、殺風景でありながらもどこか雑然とした部屋に小言をいくつかぶつけられた。冷蔵庫の中にまともなものが無いと知って彼は怒ったけれど、二人で出た買い出しにはやはりどちらも浮かれたままだった。
 白石の作ったリゾットは美味しかった。作り方は企業秘密や、と楽しそうに彼は笑った。食事を終えて、千歳はもう一度彼に手をのばした。彼らはまだ浮かれていたのかもしれない。緩い力で肩に回された手を白石が払うことはなかった。
 そのままセックスをした。千歳は男が初めてだったし、白石はその行為自体初めてだったにも関わらず、ごく自然な流れで当たり前のように彼らは抱き合った。
 あれは何だったのだろう。千歳は思う。翌朝目覚めると白石の姿はなくて、学校で会ってもその態度はそれまでと何一つ変わらなかった。それでも夢と片付けてしまうには、身体の隅々に残る感触があまりにも現実を伴い過ぎていた。
 白石は、無かったことにするつもりなのだろうか。そうしたいというならば千歳にも拒否する理由はなかったし、だから態度の変わらない白石にも無言で同調したが、それは些か惜しいような気もした。少なくともあの日白石は何一つ抵抗を見せなかった。協力的でさえあった。初めての感覚や痛みに歪んだ表情はあったけれど、千歳を拒むような態度は欠片も見せなかった。千歳はその夜、幸福さえ感じた。

 パイプ椅子の軋む音がして、続いて床に擦れる音が響いた。千歳が目を向けると、立ち上がった白石が荷物を鞄に詰め込んでいる。
 「俺帰るけど、お前は?」
 「帰るばい」
 千歳も立ち上がる。出していた荷物は本一冊だから、すぐに帰る準備は整った。
 ラケットバッグを背負った白石が、長机を迂回して出口へ向かおうとする。千歳は彼に対して入り口側にいた。脇をすり抜けようとする白石の前に、長い腕を伸ばしてみた。壁に並んだロッカーの一つに手をつく。通せんぼをされる形になった白石は、少しだけ肩を揺らして千歳を見上げた。
 「何?」
 千歳は答えないで、白石を挟む形でもう片方の腕も伸ばした。部室の中央にある蛍光灯が背中から千歳を照らし、白石に影を落とす。
 振り払おうと思えばできるし、文句を続けることもできた。けれど白石が選んだ態度は、何かを決めかねるような戸惑いだった。そんな白石に、千歳はあの日が夢でなかったことを確信する。

 こういうことは二度目が一番難しい、と千歳は思う。一度だけなら何とでも言い訳が立つ。三度目からは日常だ。
 千歳は九州時代、何人かの女と寝たことがあったけれど、二度目があったのは彼女達が望んだときだけだったからその方法を知らない。彼女達はどんな風に自分を誘ったのだったかと記憶を辿ろうとしても、思い浮かぶのは凶器みたいなネイルや脱色されて傷んだ髪ばかりで顔も声も何一つ思い出せなかった。服を脱がしてしまえば皆似たようなものだったから、千歳は彼女達に個性を見出すことをしてこなかったのだ。
 白石は違ったな、と千歳は思う。そりゃあ白石は男だから、そういう意味で何もかもが違ってはいるけれど。ただそれだけではなく、白石はどこまでいっても白石だった。自分を呼ぶ声だとか、少し戸惑ったような表情だとか、そういった一つ一つの要素が全て白石蔵ノ介的であり、もしもこの先他の男と寝るようなことがあっても彼は白石蔵ノ介として千歳の記憶に残る気がした。

 ゆっくりと距離を詰める。あの日夕陽に照らされながらそうしたように。グレーの瞳は影に紛れてよく見えないけれど、揺れていることだけはわかった。白石の戸惑いが大きくなって、開かれる口を千歳の目が捉えた。
 「……あかん」
 紡がれた言葉が拒否だとわかって、千歳はすぐに身体を離した。無理強いをしようとは思っていなかった。無言で踵を返そうとして、けれどつっかえる感覚に千歳はもう一度振り返る。見下ろすと白石が千歳の制服を掴んでいた。
 「そうやなくて……部室は、あかん」
 だから、と言って言い淀む白石に、千歳は微笑んで見せた。影の去った白石の瞳は正しく虹の色をしている。
 「なら、うち来っと?」
 先の言葉を代わりに継いだ。押し黙って白石は小さく小さく頷いた。
 伝わったのだろうか。千歳は思った。九州時代、身体を重ねて何かを伝えようとした女はいなかった。けれど、白石には伝えたいことがある。
 千歳は左手で彼の右手を取った。明瞭な世界の中で、僅かに握り返される力を感じた。そして彼らは同じ扉をくぐるため、誰もいない部室を後にした。

2012.8.27