夜中に突然目が覚めた。見慣れた自室の天井ではない風景に一瞬混乱し、隣の寝息に気付いてそういえば千歳の部屋だったと思い出す。この部屋に訪れるようになって暫く経つが、やはりまだ他人の家という感覚が抜けないのだろう。妙に冴えてしまった意識を持て余し、そっと身を起こす。俺の枕替わりになっていた褐色の腕が目に入った。腕の持ち主は無防備な顔で夢の中にいる。体格の所為もあって普段いくつも年上に見える千歳は、それでもこうしていると年相応に見えて自然と頬が緩んだ。
 布団を出て、何も身につけていないことに気付いた。少し逡巡して、散った衣服の中から下着だけを拾い上げ脚を通す。身体に妙なベタつきなんかはない。おそらく千歳が始末してくれたんだろう。

 半分だけ開けられた窓辺に頬杖をつき、車の音ひとつしない外を見遣る。外といっても二階から見える風景なんてたかが知れていて、向かいのアパートとその隙間に見える寂し気な街灯があるだけだ。忘れられたような寂れた路地にある木造二階建ての旧いアパート、財政の厳しい公立中学が用意できる学生寮なんてそんなものだった。うちの中学だけではない、学生という肩書きを持った多様な人間を収容するためにこの建物はある。
 それにしても静かだ。俺の生まれ育った大阪という土地は眠らない繁華街と閑静な住宅街が背中合わせに存在する。堕落と喧騒を極める街のすぐ裏でこんな寂れた風景がある、少し物悲しいけれど大阪のこういうところが好きだと思う。

 「白石、何ばしよっと?」
 後ろから俺より少しだけ高い声が響いて、日焼けした腕に包まれた。千歳だ。
 「別に何もしてへんよ、起きてもうたん?」
 「うん」
 その腕に左手を這わせると普段陽に当たらない、今は包帯を解いた肌がやけに白く浮いて見えた。陽に当たる部分でさえ満足に焼けないから、千歳と並べばどこを取っても俺は白く見えてしまうのだけれど。
 千歳はそのまま俺の左肩に顔を埋める。何をするでもなくただ頭を預けてくる。数時間前に抱き合ったときとはまるで違う、穏やかな体温が染み渡る。
 「どしたん?」
 「何でんなか」
 千歳は動かない。左手を外し、腕だけを回して千歳の髪に埋めてみる。俺はゆっくりと彼の頭を撫でる。縮れた毛は硬く、視界の端に映るその色は真っ黒だ。色素が薄く、細くて絡まりやすい俺の髪とは対照的だった。
 そのまま暫くそうしていた。千歳も、俺も何も言わない。右目の見えない千歳は普段俺の右側に立ちたがるけれど、たまにこうして見えない俺に甘えてくることがある。そういうとき千歳が何を考えているのかは検討もつかない。けれどきっと必要な時間なのだろうと思うから、千歳の気が済むまで俺はそのままでいる。
 「……布団、戻らんね?」
 やがて千歳がそう言って、俺は小さく頷く。右肩に回された腕が温かくて、自分の身体がすっかり冷えていたことを知る。昼間はもう夏のような日射しが時折降ってくるが、夜はまだまだ気温が落ち込む。

PAINT IT,BLACK

 狭い部屋の狭い布団で、俺たちはいつも抱き合って眠る。日本人として規格外にデカい千歳はもとより、俺自身同年代と比べると十分に恵まれた体格をしているから、自然密着する形となるのだ。今は互いの体温を心地よく感じるけれど、あと一ヶ月もすれば暑くてやってられないかもしれない。千歳と夏を過ごしたことはまだないからわからない。
 一度覚醒した意識はなかなか落ち着いてくれなくて、目の前にある黒い髪に何となく指を絡めては解く。形だけ閉じた目の奥で千歳も眠っていないことはなんとなくわかった。
 「俺ん髪いらっても気持ちよくなかろ?」
 「そんなことないで、俺のと全然違うしおもろいわ」
 瞳を閉じたまま千歳が小さく笑う。背に回された腕に力が籠って、距離が一層近くなる。少し身体を浮かせて顔ごと千歳の髪に埋まってみた。日向をふらふら出歩く千歳の髪は、いつも少しだけ太陽の匂いがする。
 「そういや千歳、昔髪染めとったよな」
 ふと思い出してその髪から離れる。指は絡ませたままだ。
 「知っとっと?」
 「そらな。自分有名人やもん」
 俺が千歳を初めて見たのは昨年の全国大会だった。九州地区で他を寄せ付けなかったという彼らの実力は本物で、直接当たりこそしなかったけれど前評判に惹かれて観戦しに行ったのだ。テニスそのものにも釘付けになったが、彼らの外見も常軌を逸していたのが印象的だった。
 まず相棒の橘くんは金髪のロン毛。そのくせチャラさはあまりなく、鋭い眼光に何か一本通った太い芯のようなものを感じさせた。そして千歳は当時既に百九十あった身長に、青い髪。一見橘くんの明るい髪の方に派手さを感じるが、青髪なんてそうそういるものではない。そんな日本人どころか人間として不自然な髪色が、それでも妙に似合っていたことを覚えている。
 「なんで黒にしたん?」
 純粋に不思議に思って尋ねてみる。この春大阪にやってきたとき、千歳の髪は既に真っ黒だった。だからといって俺たちが千歳の正体に気付かないなんてことはまるでなかったけれど。
 「……前ん方がよかったと?」
 千歳は薄く目を開き、髪に埋めていた俺の手を取る。自分の指を絡めて、甲に小さく口付けた。
 「いや今のもええけど。あれはあれで似合てたで」
 うちの学校校則緩いのに。そう付け加える俺の手を解き、その手で厚い胸板へと抱き込まれる。今度は千歳が俺の髪を梳く。
 「白石は、地毛ね?」
 「せやで、なんやよう知らんけど外国の血入ってるらしいわ」
 「クオーターと?」
 「いや、八分の一とかかな?影響あんの兄弟で俺だけやねん。姉ちゃんと妹は普通やし」
 「国は?」
 「さあ、確か北欧らへんとかなんとか」
 「興味なかと?」
 「うん、そこまで上の先祖やと関係ないしな」
 「ばってんよう似合っとうよ、綺麗か」
 「……ありがとう」
 頭上から降る声が心地良い。見た目の印象よりは少し高いけれど、俺はこの声を聞くと不思議と落ち着く。独特のイントネーションの所為もあるかもしれない。その声と頭を撫でる手付きに、漸く眠気が訪れて欠伸が零れる。
 「もう寝なっせ、明日も早かとだろ?」
 「他人事みたいに言うとるけど、お前もな」
 「えー」
 「えーやない、叩き起こすからな」
 千歳は朝練にほとんど顔を出さない。そもそも参加しようという意識がない。だから俺がこの部屋で朝を迎えるときだけは必ず連れて行く。一度布団から引きずり出せば案外素直に付いてくるのだ。
 「おやすみ、白石」
 「うん、おやすみ」
 千歳の腕の中で緩やかに眠りの世界へと引き込まれる。意識を手放す直前で、そういえば結局千歳が髪を黒く染めた理由を聞きそびれたな、と思った。

 千歳は突然やって来たチームにもうまく溶け込み、心を開いてくれていると思えるほどに人懐こい性格であるが、本当に気を許しているかと聞かれれば実はそうでもない。たとえば楽しいとか嬉しいとか、そういった種類の感情はとても素直に伝える。けれど、悲しいとか寂しいとか、そんな負の感情となると途端にその所在がわからなくなる。
 境遇ひとつとって、共に全国出場まで果たしていたチームにいられなくなって悲しくないわけがない。一人故郷を離れ、誰もいない真っ暗な部屋に帰ることが寂しくないわけもない。それでも千歳はそういう想いを欠片も出さない。馴れ合いを是とは思わないが、そうすることで千歳は俺たちに染まるまいとしているように見えた。九州時代の話も、必要以上にはほとんどしなかった。
 そんな態度がもどかしくて、身体を重ねるようになった。千歳とのセックスには、確かに普段口に出さない負の感情が表れる。今となっては千歳の中にある悲しみや寂しさに気付いたのが先だったのか、セックスをして初めてそれらが混ざり込んでいることに気付いたのかは定かでない。それでも何かを堪えるような表情をして俺を抱く千歳を放ってはおけなかった。言葉にできない感情をその行為で吐き出せるというのなら、俺は全て受け止めようと思った。それに加えて時折背後から無言で甘えてくるようになった千歳を好きにさせるし、言いたくないことはうまくはぐらかす千歳に無理強いをしない。それが出会うのが普通より遅かった俺たちのやり方だった。少なくとも俺はそう思った。

 その事件が起こったのは、制服の衣替えがあってすぐの頃だった。俺たちは部活を終えて、二人だけの帰路についていた。学校から徒歩五分の寮へは直接向かわず、切らしたグリップテープを買いに繁華街にあるスポーツ用品店に寄った帰りだった。
 ガタイの良い男二人が並んでのんびり歩いていたのも悪かったのかもしれない。他愛ない話をしながら歩く先、俺の肩が誰かにぶつかった。
 「あ、すんません」
 それなりによくあることだから、軽く振り返って謝罪する。そのまま歩こうとして、けれど肩を掴まれ制止される。
 「それが謝ってる態度か?兄ちゃん」
 もう一度振り返れば、そこには近くにある高校の制服を身に纏った二人が立っていた。その高校は所謂底辺高で、名前を書けば受かると揶揄されており、あまりガラの良くない連中ばかりが溜まることで有名だった。
 「ほんますんません、気ィつけます」
 内心面倒な奴に捕まった、と思いながら再度謝罪の言葉を述べる。大体が肩をぶつけたくらいで文句を言ってくる奴なんて、常にどこかに何かを発散させたがっている種類の人間しかいないのだ。何とかやり過ごそうと、聞こえないとか誠意が見えないとか言ってくる相手に延々と謝罪を繰り返す。
 「すんませんで済むんやったら警察いらんねん」
 そんな台詞どこの小学生やねん、と思った瞬間に胸倉を掴まれた。え、殴られる?と思えばそのまま突き飛ばされ、その勢いのまま右腕を電信柱に打ち付けた。それなりに踏み止まったから強く打ったわけではないけれど、妙なツボに入ったのか指先まで痺れが走る。いい加減俺も頭にきた。
 「ったあ……何すん」
 ねん、と言葉を続ける前に、俺を突き飛ばした不良が吹っ飛んだ。何事かと見れば千歳の長い脚が水平に上げられている。どうやら蹴り飛ばしたらしい。鉄下駄装備のままで。
 「ちょ、千歳そこまでせんでも」
 俺は焦って千歳に駆け寄る。向こうからは何じゃワレェという頭の悪そうな声が上がって、標的を千歳に変えた不良が今度は二人掛かりで殴りかかってくる。
 「千歳、相手せんでええで」
 逃げよ、と声を掛けた千歳は、けれど俺の声なんてまるで届かないみたいにこちらを見向きもしない。
 「千歳……?」
 そして次の瞬間には向かってきた不良が二人とも吹っ飛ばされる。速すぎて見えなかった。呆気に取られた俺を余所に、千歳は俺を突き飛ばした方の奴に馬乗りになって何度も殴りつけた。もう一人が加勢しようとしても一撃で蹴散らしてしまう。千歳の勢いと強さに二人は完全に戦意喪失していた。千歳の下で頼む、とかやめて、とかいう声が聞こえて俺は我に返る。
 「おま、何してんねん千歳!」
 俺はそのとき、千歳を初めて見たときの、もうひとつの印象を思い出した。あのとき、隣にいた謙也が「せやけどあれ、完全にヤンキーやな」と言っていたことが記憶の片隅から蘇る。大阪にやって来た千歳はそんなイメージとはかけ離れていたからすっかり失念していた。昔は多少やんちゃしていたこともあると千歳が笑っていたこともあったのに。だからといって、これは多少で済まされるようなものでもない。単なる暴力だ。
 「千歳、もうやめえ!やり過ぎや!」
 後ろから羽交い締めにして耳元で叫ぶと、漸く千歳は動きを止めた。ゆっくりと振り返り、また前を見遣って、呆然となる。その隙をついて、軽傷の方が覚えてろとか何とか言いながら、ほとんど意識のない相棒を担いで逃げて行った。ケンカや、という声がどこからか聞こえて、俺は反射的に千歳の腕を引っ掴みその場を走り去る。寮までの道を辿りながら、制服で身元割れるんちゃうか、とかいやいや特徴のある制服でもないし、とかそれでも千歳のデカさはそうそうあるもんやないし、とか色々考えた。報復や警察沙汰や部活停止なんて単語が頭の中を飛び交っては消える。けれど、俺に手を引かれるまま一言も発しない千歳が一番気がかりだった。

 逃げ込むように千歳の部屋へ帰り着き、息を整える。靴を脱いで玄関を上がっても、千歳は扉の前で立ち尽くしたまま動かなかった。夏服のカッターシャツに点々と赤い染みがついている。返り血だ。
 「千歳?とりあえず入りや」
 なあ、と腕を掴むとハッと俺を見遣り、
 「すまん、ほんなこつすまん!」
 必死の形相で謝り出した。
 「……ええよ、俺のこと守ってくれたんやろ?まあやり過ぎやとは思うけど」
 「すまんばい!暴力は、やめとったとに!」
 あまりに千歳が謝るから、俺もどう言えばいいのかわからなくなった。身体の横で握りしめられている拳に血が滲んでいることに気付き、とにかく手当しよ、と言って千歳を部屋の中へと促す。

 「白石は、大丈夫と?怪我、しとらん?」
 「俺?俺は大丈夫やで。肘打ったらジーンてなるやつあるやん。あれなっただけ」
 千歳の部屋には救急箱など置いていないため、普段持ち歩いている消毒液で手当てをすることにした。予備の包帯も取り出したけれど、そこまでしなくていいと言われたのだ。
 「ばってん、左やなくてよかったと」
 まあそれは確かにな、と言いながら左手の甲にできた傷に消毒液をかける。歯か何かに掠ったのか、傷自体は深くなさそうだった。痛がる素振りも見せない。下手に打ち身となってテニスに影響が出なければいいけれど、と口には出さず考える。
 「部に迷惑かかったら、俺、退部すっけん」
 「アホなこと言わんとき。まあ大丈夫やと思うで、先に手出してきたんは向こうやし、あの高校しょっちゅう暴力沙汰起こしてるしな」
 はい終わり、と言って消毒液を鞄に仕舞い込む。俺に預けていた左手を何度か開閉し、そのまま千歳は膝を抱える。いつものびのびしている千歳らしからぬ姿勢だった。こんなに大きいのに、迷子の子供みたいに見えた。やがて小さく口を開く。
 「……たまに、あぎゃん風になってしまうこつばあっと」
 「九州おった頃か?」
 千歳は小さく頷いた。大阪に来てから、千歳が暴力事件を起こしたなんて話は聞いていない。
 「白石、前に、なして俺が髪ば黒くしたか聞いたこつあったばいね?」
 「え?ああ、うん」
 そういえばそんなこともあったな、と思い出して俺は頷く。けれど話の関連性が見えない。頷いた俺を確認して、千歳は先を続ける。
 「桔平、わかると?」
 「橘くんか?」
 「うん。俺が髪ば青に染めよったんは、桔平の影響ばい」
 千歳はそう言って、ぽつりぽつりと話し始めた。

 ーー俺は昔から背高かったけん、ようわからん絡まれ方されるこつも多かったと。返り討ちにしてきたっちゃけど、加減があんまわからんで、一回スイッチ入ったら相手が気失うまで殴ってしまうごたるこつばようあったとよ。ばってん桔平に会った頃、お前のそれは喧嘩やなか、ただの暴力ばい、ち言われたと。そんで俺が喧嘩のやり方ば教えちゃる言うて、本気で殴り合いばした。そん頃俺と桔平は二十センチ以上離れとったばってん、あいつは強かった。結局勝負はつかんで、へろへろになって二人ともへたりこんだときに、これが喧嘩ばい、面白かろ?ち言うて桔平は笑いよった。それから俺は一方的に人殴るんばやめて、暴走しそうになったら桔平に止めてもらいよったと。まあ桔平もキレたら何しよるかわからん奴やったけん、俺の止めるこつもあったけんね。
 テニスば始めたんも桔平の勧めたい。力の抑え方知らん奴にはよか発散と訓練になる、ち言うて。
 そんで髪のことやけど、俺はそん頃理不尽に弱か奴に絡まれるんに嫌気が差しとって、いつも背ば丸めて歩きよったんよ。したらある日突然桔平が髪ば金色にしてきて、お前は何も悪かこつしとうわけやなかけん、堂々としなっせ、言うて、俺に絡んでくる奴らば半分受け持ってくれたとよ。いっそお前も髪ば染めたらどぎゃんね、ち言われて、そうすることにしたとや。俺は桔平の黄色い髪を好いとった。そんで、お前は何色が好きかち聞いたら、青、て言うけん。

 「ーーそれで、青に染めたんか」
 俺は千歳の独白を黙って聞いた。千歳がこんなにも過去の話をすることは初めてで、不謹慎にも嬉しかった。俺は少しだけ、彼が時折見えない俺に甘えてくる理由や、セックスに滲む哀しみの意味を、本当に少しだけわかったような気がした。
 「桔平は喧嘩とテニスば教えてくれたばってん、俺は桔平からテニスば奪ったけんね。もうあいつの好いとう色を持つ資格なんてなか」
 「せやけど、それは橘くんが」
 「桔平は悪くなか」
 千歳ははっきりと言った。噂で聞いた話では、橘くんの放った打球が千歳の右目に当たり、それが原因で視力が落ちたということだった。ならば、どちらかといえば橘くんが千歳からテニスを奪ったのではないか。けれど千歳はそれを否定する。
 「あれは事故ばい。俺が桔平の球に反応できんかったんが悪か。ばってん桔平は責任ば感じて、テニスば辞めたと。俺ん好いとった金髪もやめて」
 「そっか。でももう橘くん、テニス再開したんやろ?」
 「それは多分、俺がまたテニスば始めたからたい。そんでももう昔には戻れん。俺が壊したとや。やけん、俺には黒が似合いばい。桔平がおらんなって、喧嘩んなるようなこつ避けてきたとに、結局自制もできんで」
 俺は最低な奴ばい。そう言ったきり、千歳は俯き黙り込んでしまった。

 そのとき、千歳が黒く染めたのは髪だけでなく心もなのだと悟った。満ち足りた日々が崩れ去ったとき、自責の念に囚われた千歳はその全てを内に溜め込み、自分を黒く塗りつぶしてしまったのだ。見えない目でテニスにしがみつき、新しい生活を始めても、千歳はもう他の色に染まらない。黒というのはそういう意味を持っている。
 そうと決めてしまった千歳に俺ができることは何があるだろう。わからなくて、俺はそっと千歳との距離を縮めた。
 「話してくれてありがとうな」
 膝を抱えて俯く千歳を横から抱き締める。黒い髪に顔を埋める。俺の好きな太陽の匂いに、少しだけ血の鉄臭さが混じっていた。
 「せやって自分のこと最低やなんて言うもんやないで。だってお前、俺のこと守ろうとしてくれただけやん。お前はええ奴や。理不尽な暴力なんか振るわんやろ?もし今度暴走しそうになったら、俺が止めたる。俺では橘くんの代わりにはなれへんかもしれんけど、俺は俺として千歳と一緒におりたいと思うで。黒い髪も好きやしな。やから、何でも話して。言えへんことは、身体で伝えてくれたらええから」
 俺は祈るように千歳を抱き締める腕に力を込めた。千歳は俺には到底入り込めない過去を抱えている。傷を負っている。暴走してしまったことでその傷が表面化したのなら、今ここで千歳を閉じこもらせるわけにはいかないと思った。過去を癒すことはできなくても、今を抱き締めることはできる。誰かの温もりは人の心を溶かせると信じたかった。そうすることしかできなかった。

 どのくらいの時間そうしていたのかはわからない。俯いたままだった千歳は、やがておずおずと俺の背に腕を回してきた。顔は上がらなくて、もしかしたら泣いているのかもしれないと思った。泣きたいなら泣いてほしい、とも。
 「……桔平も、見つけたかね」
 「え?」
 「桔平も、白石のごたる人、見つけたんかね」
 俺のような人、というのが、何を指すのかはっきりとはわからなかったけれど、俺が千歳の中である一定の意味を持つなら嬉しい。千歳の声は震えていた。きっと、泣いている。
 「見つけてるやろ。橘くん、ええ奴なんやろ?見つけてるに決まってる。千歳と一緒や」
 俺の肩口に顔を埋めて、千歳は頷いた。それから、ありがとう、と小さな声で言った。

 俺は千歳の黒ごと愛そうと思った。千歳にとっては俺の存在なんて橘くんに比べればちっぽけなものなのかもしれない。それでも、少なくとも千歳は俺を守ろうとしてくれたし、俺に甘える姿を見せてくれるし、感情の溢れるセックスをしてくれる。だからきっと俺にしかできない。その過程で、あるいは結末で俺自身が黒く染まってしまうことになろうとも、不器用で真っ直ぐな千歳を愛そうと思った。

 その日はセックスをせず、ただ抱き締めあって眠った。眠りに落ちるまで千歳は九州時代の色々な話をしてくれた。そのほとんどが橘くんとの悪ふざけや武勇伝で、それでも不思議と嫉妬じみた感情が湧くこともなく、俺は笑ってその話を聞いた。千歳はとても楽しそうで、そうして話してくれるということが純粋に嬉しかった。
 「俺はもう人と深く関わるんはやめようち思っとったばい。どうせ傷付けたり、離れたりせんといけんのなら、始めからいらんって」
 千歳が綺麗だと言ってくれた俺の髪を梳かしながら、そんなことを言った。
 「ばってん人間、人の温もりからはなかなか離れられんもんばいね。白石は、俺んこつ全部受け止めようとしてくれよるんがわかったけん、近付かずにはおれんかったと」
 「……後悔、してへん?」
 「しとらんたい。白石は?迷惑やなかと?」
 アホか、と言って千歳の黒い髪をくしゃくしゃと掻き回す。
 「そんなわけないやろ、俺の方が迷惑なんちゃうかってビクビクしとったっちゅーねん」
 言うと笑って口付けが降ってきた。すぐに離れて、至近距離で見つめ合う。
 「白石、好いとう」
 「……俺も、好きやで、千歳」
 そうして今度は少し長めのキスをする。そういえばまともに「好き」だなんて言ったのも言われたのも初めてだと気付く。なんとなくは伝え合っていたけれど、言葉にするとやはり違う。これが幸福ってやつなのかなとぼんやり思って、俺を包む太陽の匂いに酔いしれた。

2012.9.2