ボストンバッグに着替えを詰め込む。どれくらいの量が必要かなんてわからない。着回しのきくデザインのトップスを五枚選んだ。ボトムスは今着ているものも含め三枚もあれば十分だろう。夏服をどうするか迷って、結局クローゼットの奥に仕舞い込んであるから諦めた。下着は洗濯から上がっていた分だけ引っ掴んで入れる。あとは遠征やら合宿やらの為に洗面用具をひととおり詰め込んであるポーチと、常備薬一式。あまり大きな荷物は危険だった。足りないものがあれば、買えばいい。
 引き出しの中から通帳を取り出す。目的も無く小遣いやお年玉を放り込んで、改めて見れば結構な額になっていた。口座二つで三十万少々。この年にしては溜め込んでいた方だと思う。小学校の卒業記念品としてもらった判子も一緒に掴む。確か、口座の認め印になっていたはずだ。これはショルダーバッグの方へ。
 同じ引き出しの隅、紺色のパスポートが目に入った。さすがに日本を出ることはないだろうと思ったけれど、それもショルダーに入れた。二年前家族旅行の際に更新したから、あと三年は使える。
 携帯の充電器。もう随分長い間電源を入れてもいなかったけれど、これからは確かに無いと困る。ボストンに放り込む。あとは何が必要だろう。迷っている暇はなかった。約束の時間まで、あと一時間もない。
 親不孝ついでに冷蔵庫から少々食糧を掻っ払っていこう。ボストンバッグに空いた余裕を見てそう決め、忘れ物はないかとぐるりと部屋を見渡す。
 机の上、二つの写真立てが目に入った。ひとつは家族旅行で撮った写真、もうひとつは夏の大会で撮ったテニス部の集合写真。どちらの俺も笑っていた。両方とも伏せた。思い出は、置いていく。

 未練を断ち切るようにひとつ深呼吸をして、自室の扉を開けた。さあ、と踏み出した一歩は、けれど思いがけない人影に止められた。
 「クーちゃん?」
 「……友香里」
 扉の前に、隣の部屋で寝ていたはずの妹が立っていた。音を立てないよう慎重に行動していたつもりだったけれど、思ったより焦っていたのだろうか。眠ってしまえばなかなか起きない子だったから、どこかで油断していたのかもしれない。妹は俺のコートの袖を掴んで睨み上げてきた。
 「今までどこ行ってたん?お母さんとかも心配しててんで!携帯かけても出えへんし……」
 そう捲し立てる中、俺の荷物に目を留め、妹は言葉を切った。あまり騒がないでほしかった。他の家族が起きてしまう。
 「何なん、その荷物」
 表情に緊張が走る。俺とよく似た意志の強い目が真ん丸に開かれている。この子に会うのももう最後かもしれない、そう思えば急に愛おしくなった。歳が近い所為で喧嘩もよくしたけれど、俺によく懐いたいい子だった。
 「なあ、クーちゃん」
 「堪忍な、友香里」
 俺は笑っていたと思う。妹は更に目を見開いて、それから眉間に皺を寄せて唇を噛み締めた。あ、泣く、と思った。妹は喧嘩をするといつもこうやって限界まで我慢して、最後には大粒の涙を流したものだった。
 コートを掴んだままだった手を包み込んでそっと外した。いつの頃からか随分下に位置するようになった頭をぽん、と撫でてやる。溜まる涙が零れる前に、去らなければ。
 「幸せになりや」
 そう言い残し、横を通り過ぎる。妹が放心した数秒の間に階段まで走り、一気に駆け下りた。
 「待って!クーちゃん!」
 食糧は諦めた。妹が一階で眠る両親を起こす声が聞こえる。泣き顔が容易に想像できた。

 ごめんな、友香里。お前は俺みたいになったらあかんで。ちゃんとオカンの言うこと聞いて、オトンのことも邪険にせんといたってな。ちゃんと勉強して部活して、そんでええ男捕まえや。恋愛相談は姉ちゃんが乗ってくれるやろ。そんで、いつか親に孫の顔見せたって。俺には無理やから。悪い兄ちゃんでごめんな。

 勢いに任せて玄関の扉を開けば、二月の冷たい風が突き刺さった。早朝四時過ぎ、まだ陽は昇らない。門の前に止めたままだった自転車に跨り、一気に漕ぎ出した。
 最初の曲がり角に差し掛かったあたりで背後から母親の声が聞こえた。俺は振り返らなかった。

津軽心中

 千歳の誕生日以降のほとんどを、俺は彼の部屋で過ごしていた。始めのうちは気まぐれに家へ帰ったりもしていたけれど、徐々に増える親からの小言も面倒で、三学期が始まって数日が過ぎた頃にはほとんど寄り付かなくなっていた。
 自由登校になった学校へ行くわけもなかった。高校は冬になる前にスポーツ推薦で決めた。デリケートな時期に進路の決まっている人間なんて邪魔にしかならない。
 日時などまるで関係のない毎日を送っていた。人体は日光を浴びなければ一日数時間ずつズレていく仕組みになっているらしい。カーテンを締め切り、換気もせずに一日のほとんどを湿った布団の上で過ごしていたのだ。十六年近くかけて体に叩き込んできた体内時計はみるみる間に崩れていった。

 「あと、何日?」
 そのうち溶けてしまうんじゃないかというくらいセックスばかり繰り返し、すっかり慣れた体温の中で俺は呟いた。いつ繋がっていていつ離れているのか、もうよくわからなくなっていた。
 「十日、やね」
 俺を抱き込んだまま枕元の携帯に手を延ばし、千歳が答えた。
 こんな生活も期限があればこそだった。千歳も俺と同時期に進学先を決めていた。

 九州だった。

 出会った頃にも聞いたし、何故か参加させられた三者面談でも聞いていた。大阪にいられるのは、この春までだと。
 「もう半分もなくなったんか」
 「早かね」
 どちらともなく抱き合う腕に力を込めた。この部屋には炬燵以外の暖房設備はなく、俺たちは主に布団と互いの体温で暖を取っていた。服も満足に着直さないままだった。
 「こないだも電話してみたばってん」
 「うん」
 「駄目やったばい」
 「そうか」
 千歳は何度か、大阪に残れないか親に相談していたらしい。意外だった。元々ふらふらしている人間だったから、この地へ来たときのように何も考えずふらりと消えてしまうものだと思っていた。
 「今まで放任やったとに」
 「まあお前も長男やしな、しゃあないやろ」
 俺は千歳の進路に関して何も言わなかった。九州へ帰ると聞けばそうかと答え、大阪に残れるよう打診すると聞いてもそうかと答えた。どれだけ外見が老けていようが、大人びた性格をしていると言われようが、漸く義務教育を終えようとしている俺には何の権限もないからだ。そりゃあ大阪に残ってくれれば嬉しい。だからといって俺がそれを口にしてしまえば、きっと千歳は身動きが取れなくなる。だから彼に任せていた。俺たちは元々、本音を言葉で語ることをあまりしてこなかった。
 「白石は、寂しくなかと?」
 「聞くか?それ」
 また腕に力が込もる。何も言わなくたって、俺が千歳以上に寂しがっていることなど筒抜けだっただろう。そうでなければさっさと地元へ帰ったはずだ。
 「白石」
 千歳が俺の髪を撫でた。彼を見上げた。唇が重なった。そんなことの繰り返しだった。どれだけ抱き合ってもひとつになどなれないことなんて、もうとっくに気が付いていた。

 千歳が地元へ帰るということは、そのまま俺たちの終わりを意味した。好きとも愛してるとも口にしない俺たちは互いの体温に載せてしか本音を伝えることができなくて、電話やメールなど何の価値も持たないことを一番理解していたのは俺たち自身だった。
 終わりが近付いて初めて千歳は何かと気持ちを言葉に載せる努力をし始めたようだったが、俺はそれに乗る気になれなかった。そんなのは俺たちじゃない。とかく先回りして頭で考えてしまい何も言えなくなる俺と、何かに縛られることを嫌って明確な意思表示をしない千歳は、その代償として手に入れた相手の些細な表情や行動から何かを読み取る力で惹かれ合い、身体を繋げることで初めて意思疎通を可能にした。今さら普通のコミュニケーション手段を取ったって、破綻は目に見えていた。

 そもそも俺たちの関係については誰も知らなくて、千歳の部屋だけが全てに対し正直になれる場所だった。この場所を失うことがわかって、どうして未来など信じることができただろうか。
 俺には終わりゆく日々をただ黙って見ていることしかできなかった。千歳と共にあることを許してくれる世界なんて、どこにもなかった。

 「どっかに、逃げんね?」

 そのときそう言い出したのは、千歳だった。
 「どっかって、どこへ?」
 「どこでんよか。誰にも邪魔されんとこ」
 「いつもの放浪と違て?」
 「うん、住むとこば見つけて、働いて、二人で暮らさんね?」
 始めは、よくある思い出作りみたいなものかと思っていた。けれどよく聞けば千歳の計画は意外にしっかりしていて、放浪で身につけた知らない土地での生活の知恵や、大阪へ来たとき不動産屋に聞いた未成年者の契約の穴なんかをつらつらと話し出した。
 その生活を想像した。この部屋のように、千歳だけを見ていればいい世界。ただ崩壊するだけだと思っていた世界が再構築されていく感覚。

 俺は、首を縦に振った。

 明け方の大阪駅は始発待ちの酔っ払いがちらほら目に付くだけだった。夏ならばもう少し多いかもしれなかったが、冬の夜に酔っ払って寝込んでしまう恐ろしさを知っている人間もそれなりにいるのだろう。
 もう撤去など気にしなくてもいい自転車を適当に停め、待ち合わせの場所に向かった。昼間は人の溢れる構内は閑散としていて、ただでさえ無駄にでかい千歳を見つけるのは簡単だった。部活を引退してからある程度の習慣を伴って吸い出した煙草を吹かし、俺のボストンバッグより一回り小さい鞄だけを持って桜橋口の入り口に立っていた。
 「うまくいったと?」
 「あー、妹に見つかった。けど、まあ大丈夫やろ」
 千歳は少し苦笑して携帯灰皿に吸殻を押し付けた。言ってもやめないからせめてと付けさせた習慣だった。
 「どこに向かう?」
 券売機の上、一番広域の路線図を見上げて尋ねた。待ち合わせを大阪駅にしたのは、新幹線を使うつもりがなかったからだ。時間だけはたっぷりある。浪費は控えたい。ゆっくりと鈍行で旅立つつもりだった。
 「どこがよか?」
 せやなあ、と考えを巡らせた。まず紀伊半島からは絶対に出たい。そして九州からはなるべく遠ざかりたい。だからといって東京近郊には何かと知り合いが多いから向かいたくなかった。
 「ほな、北」
 「北?」
 「うん、誰も俺らのこと知らんとこ」
 経路をいくつか考えて、日本海沿いに北上することにした。一番関係のない土地ばかりを通れたし、千歳とは桜も海も紅葉も一緒に見たけれど、雪景色だけは大阪で臨むことができなかったからだ。
 春季販売が始まったばかりの青春十八切符を購入した。一日一枚、五枚綴りで一万円。俺たちみたいな旅立ちには最適だった。
 手を繋いで改札をくぐった。これからはもう人目なんて気にしなくてもいい。俺がいて、千歳がいて、それだけで世界が成り立つのだ。他の一切のことは、どうでもよかった。

 移動には五日間丸々使った。観光気分と、思ったよりも日本海の雪が深くてダイヤが乱れ放題だったという理由もある。気が向いた駅で途中下車して特産品を食べたり、辺りを散策したりして、そういう過ごし方は千歳お得意のものだった。車窓を流れる風景は概ね真っ白で、それには正直一日で飽きた。
 電車の中でも、雪道を歩く途上でも俺たちはずっと手を繋いでいた。夜になれば大して身分確認もしない、素泊まりの安い宿でセックスをした。二人離れることなど一度もなかったから、お互いに携帯は切ったままだった。三日目、思い出したように電源を入れると着信通知とメールの嵐で、ロクに確認することもせず全消去してアドレスを変え、目ぼしい連絡先を全て着信拒否に設定した。本当は番号も変えてしまいたかったけれど、新規契約をするにはあと五年も待たなければならなかった。

 北へ北へ。時には二時間も待たなければならないローカル線も使いながら、とにかく電車を乗り継いだ。通帳に入っていた現金は、途中のターミナル駅で全額下ろした。親が本気で探せば足がつくからだ。どういう理由で身につけたのか、千歳はそんな知恵ばかりを持っていた。
 「お前家出考えてたことあるん?」
 「いや。ばってん放浪しとる間は誰にも邪魔されとうなかったけんね」
 飄々とそんなことを言う千歳からは、やはりいつも通りふらりと遠くへ出掛けるみたいな空気が拭えなかった。いつか聞いた千歳の最長放浪記録は一ヶ月だった。だから、一ヶ月を超えれば、この現実離れした駆け落ちも本物に変わると信じた。

 津軽海峡を目前にして俺たちは北上をやめた。青春十八切符でその海を渡る方法がないわけでもなかったけれど、ここまで来れば十分だと思った。大阪とは比べものにならない北風が吹きすさんで、千歳のポケットの中で互いの手を握りしめ真っ白な道を歩いた。
 「これからどうするん?」
 「まず住み込みで働かしてくれる専業農家ば見つけるばい。うまくいけばそのうち家借りる保証人になってくれっとよ」
 「せやけど保証人て親やないとあかんのちゃうん?」
 「こげん田舎はそのへん緩いとこが多か。ばってんしばらくは人ん家に世話んなるけん、セックスはお預けばい」
 笑う千歳にアホか、と言ったけれど、確かにこの二ヶ月近くセックスをしない日などほとんどなかったから、その日はまた安宿で気が済むまで抱き合った。もし一生の間に吐き出せる精子の数が限られているならば、その全てを浪費してしまうのではないかというくらい俺たちはセックスばかりしてきた。何も生み出せない俺たちのセックスに意味があるならばその搾取がそれだったのかもしれない。おそらく二人ともに用意されていたであろう一般的幸福な未来を束縛するように、互いを搾り取ることに躍起になっていたような気がする。

 果たして本当に千歳はとある林檎農家と話をつけてきた。俺たちは年齢にサバを読み、ボランティアと偽ってひとまずの生活基盤を手に入れた。
 冬の間は農家としての仕事は殆どなかったから、主に雪掻きばかりを行った。高齢化の進んだその地域で、下宿先の農家以外でも俺たちは重宝された。千歳のでかさなんてほとんど神様みたいな扱いだった。初めての雪掻きは三セットマッチ並に過酷で、堕落しきって落ちかけていた筋力と体力をすぐに回復させてくれた。きっともうラケットを握ることもないだろうけれど、そのことは少なからず俺の支えとなった。

 解けかけの重い雪を運びながら卒業式の日を迎えた。本来ならば千歳が九州へ戻る日で、その日初めて千歳の携帯が鳴った。
 「出んでいいん」
 「よか」
 そうして千歳も実家の連絡先を着信拒否にした。もう引き返せない、と思った。俺の携帯には謙也と健二郎からそれぞれ着信があった旨の通知が来ていた。既に拒否していたから、リアルタイムには鳴らなかった。俺はその通知を消去した。

 農家での暮らしは悪くなかった。還暦を迎えた夫婦は優しかった。本当の息子みたいに俺たちを扱ってくれた彼らを、俺たちはお母さん、親父さんと呼んだ。お母さんの料理はすごく美味しかった。林檎について、日本における農家の将来について熱く語る親父さんを素直に尊敬した。
 俺は飲まなかったけれど、千歳は毎晩親父さんの晩酌に付き合っていた。なんとなくそうだろうと思ってはいたけれど、千歳は正直引くくらい酒に強くて、それは親父さんを喜ばせた。地酒を煽りながら煙草を吸う千歳はどこからどう見ても十五歳には見えなかった。
 ある日酔っ払った親父さんが、長男が東京で就職したまま戻ってこなかったのだと愚痴を零した。親だけは大事にしろとキツい東北訛りで話す彼に、俺たちは苦笑いするしかなかった。
 雪がほとんど解けた頃からは、本格的に林檎作りを教わった。木の剪定ではやはり千歳の長身が重宝された。林檎作りは害虫との戦いが勝負だと聞いて、俺は元来の趣味と迎合しやすかった農薬についての知識をどんどん吸収した。

 何もかもがうまくいっているような気がした。それなのに、俺の心には俺自身気付かないうちに少しずつ靄のようなものが掛かってきていた。もちろん大阪が恋しくなったとか、農作業がきついとか、そういうことが原因ではない。
 これだけ良くしてくれる人達に対して、何ひとつ正直になれないことが苦痛だった。身分を偽り、千歳との関係を偽り、俺たちには嘘しかなかった。誰も俺たちを知らない場所で人目も気にせず手を繋いでいられるはずだったのに、千歳が大阪で世界を築いたように新しい土地ではやはり新しい世界が広がってしまい、俺たちは物陰でそっとキスをするような後ろめたい関係に逆戻りしてしまった。
 そんな俺の変化を敏感に感じ取ってしまう千歳は、物陰で遠慮がちに俺の髪を撫でた。
 「家借りるまでの辛抱やけん」
 「わかってる、大丈夫やから」
 俺は少しずつ食事が喉を通らなくなっていった。食の細くなる俺をお母さんが心配し、その心配がさらに俺を追い詰めていった。

 破綻は呆気なくやってきた。俺の中でひとつの目標だった一ヶ月を達成しようかという頃、納屋に隠れてキスしていたところを近所のおばさんに見られてしまった。
 狭いコミュニティの中で、当然すぐに下宿先の夫婦の耳にもその情報は届くこととなる。俺たちは全てを正直に話した。持ってきていたパスポートも見られ、本当の身分を明かした。
 彼らは俺たちの関係については何も言わなかった。俺の様子から何かを隠しているだろうことは察していたのだと思う。それでも、家出少年だったということがまずかった。親に連絡するという親父さんを何とか説得して、すぐに大阪へ帰るという約束で話をつけてもらった。結局は最後にまた嘘を吐いたことになる。
 よく働いてくれたから、せめて交通費だけでも、とお母さんに封筒を渡されたけれど、俺たちは受け取らなかった。元々ボランティアだと言って泊めてもらっていたのだ。この一ヶ月の生活費がいらなかっただけで充分だった。
 感謝と謝罪を繰り返して農家を後にした。雪のすっかり無くなった道を手を繋いで歩く。田舎のネットワークを舐めてはいけない。もうその近辺にはいられなかった。それでも、不思議と俺の気持ちは軽くなっていた。手を繋いで歩けることだけが嬉しかった。

 津軽海峡沿いに、東へと移った。同じような方法でうまくいくまで転々としてもよかったけれど、思ったよりも俺が疲弊していたためひとまず宿を取った。繋いだ手が熱いと千歳が言うので熱を測ってみれば、三十八度近くあった。
 「すまん、千歳」
 「よかよ、慣れとらんけん、しょんなか」
 千歳は優しかった。誘ったことに責任を感じているようにも見えた。違うんだと伝えたくて、頬に手を延ばした。千歳は困ったような顔をした。
 「休まんといけんよ」
 「ええから、抱いて」
 約一ヶ月ぶりにセックスをした。濃縮された千歳の精液を飲んだ。千歳も同じようにした。そうすることでしか死にゆく精を身体に留めておけなかった。千歳は俺の体を案じたけれど、俺は求めることをやめなかった。俺は望んでお前と一緒にいるんだと、これが幸せなんだと、必死でその身体にしがみついた。

 そのままずるずると何日も過ぎていった。昼間千歳はどこかへ出掛けるようになっていた。日雇いの仕事をしてその日の生活費を稼いだり、近所の漁港から魚をもらってきたりしてくれた。熱が下がっても俺は宿からほとんど出なかった。雪掻きで取り戻した筋肉はまた落ちていった。
 俺は昼間の時間をぼんやりとやり過ごし、そうして夜は欠かさず抱き合った。精液はまた薄くなっていったけれど、枯れる気配はなかった。
 千歳はどこまでもタフで、俺は貯金を大きく崩すこともなくそんな彼にどこまでも甘えた。

 怪しまれないように何度か宿を変え、大阪にいれば高校生活を謳歌していたであろう季節は遅咲きの桜と共にどんどん過ぎ去っていった。もう携帯に着信通知が入ることもなかった。これから帰るとか何とかいう千歳からの着信だけで埋まっていった。
 「俺ももう働けんで」
 いつかそう言ってみた俺は、たぶん本気ではなかった。外へ出ることが怖かった。また新しい、千歳と手を繋げない世界がやってくるような気がして怯えていた。
 千歳は俺の感情をきちんと読み取ってくれる。優しく笑って俺の髪を撫でてくれた。
 「俺ので足りとるけん、よかよ。白石は俺ん帰りば待っとってくれるだけでよか」
 俺の世界は今度こそ千歳だけで成り立っていた。それが幸福なんだと信じた。千歳は嬉しそうだった。他の誰とも会わない俺が、人の表情を読む力を落としていなければの話だが。

 北国にも夏の気配が訪れようとしていたある朝、変な時間に目が覚めた。千歳は隣で気持ち良さそうな寝息を立てていた。そのとき俺たちは崖に面した宿に泊まっていて、波の音とカモメの鳴き声が薄紫色の空に響いていた。
 海が見たくなった。俺はそっと布団を抜け出した。
 久々に出る外の風はやけに澄んでいて、大して汚れもしないのに機械的に毎日洗っている髪をさらさらと撫でた。少しだけベタついているのは海辺だからだろう。潮の匂いには、ずっとこの裏の建物にいるから慣れ切っていた。
 岩壁に座り込み、ぶつかっては弾ける波を眺めていた。何だか見たことのある光景だと思って、そういえば千歳がいない間いつも窓から見えるのはこの風景だったのではないかと思い出した。千歳のいない時間のことはあまり記憶に残らないから、すぐにはわからなかった。

 千歳。もうずっと一緒にいる。

 数日前の夜、いつもよりテンション高く千歳が帰ってきた。何でも度々世話になっていた日雇い先で継続的に働かないかと言われたらしい。それはつまり定職に就くということで、会社名義で家も借りてもらえるという。連れ合いがいても構わないとのことだった。
 千歳がどんな仕事をしているのかは知らなかったが、引きこもる俺と正反対に逞しい筋肉は落ちるどころか増強される一方だったから、まあ肉体労働なんだろう。彼の体格を思えばそんな話が舞い込んでもおかしくはないのかもしれない。
 「嬉しくなかと?」
 その報告をどこか他人事のように聞いていた俺に、千歳は不安気にそう言った。
 「そんなことないで、よかったやん」
 俺はうまく笑えていただろうか。返事はこれで合っていただろうか。少し寂しそうな目で千歳は俺の髪を撫でた。どうしてそんな目をするのか俺にはわからなかった。ただその手は心地良い、と思った。

 引きこもり始めてからどうにも色んなことがわからなくなっている。嬉しいとか悲しいとか、少し前までもっと色んなことを感じていたような気がするのに。
 目の前では海が割れ、飲み込まれ、また割れる。遠くに見える灯台の周りにカモメが飛んでいる。
 どうしてこんなところにいるんだろう。俺は何をしているんだろう。いつまでこんな生活を続けるんだろう。この先に何があるんだろう。

 何もわからなかった。もう千歳だけが全てだった。

 「白石!」
 しらいし?俺の名前だ。この土地で俺を呼ぶ唯一の声を認識して、ゆっくりと振り返る。スウェット姿で駆け寄ってくるのはやはり千歳だった。
 「どげんしたと?起きたらおらんけん、たまがったばい」
 走ってきた千歳はどこか焦ったような顔をしていた。自分はふらふらと居なくなっていたくせに、ともう随分遠いことのように思える大阪時代を思い出していた。そういえば大阪を旅立ってから、千歳は一度も勝手に居なくなったりしていなかった。いや、あの千歳の部屋にこもっていたあの頃からか。
 「……海、見たくなってん」
 「いつも窓から見とるとだろ」
 俺が答えると安心したのか、千歳は笑って隣に腰を下ろした。ポケットから煙草を取り出し、火を点けようとする。
 「嫌や」
 「え?」
 「煙草、嫌や」
 咥えていた煙草をゆっくりと離し、千歳はそれをボックスに仕舞ってポケットに戻した。困ったように頭を掻き、俺を抱き寄せる。俺はすんなりとその腕の中に収まった。この世界で唯一の俺の場所。世界の全て。
 「最近言わんかったとに、どげんしたと?」
 聞かれてもよくわからなかった。なんだかとても嫌な気がしたのだ。
 「白石」
 千歳の大きな手が俺の頬に添えられて、反射的に目を閉じた。唇に柔らかい感触がある。これはキスだ。少し煙草の香りがする。これが嫌なのかな、と思った。だから吸って欲しくなかったのかもしれない。
 「白石」
 長く続くのかと思った口付けがすぐに終わって、代わりに名前を呼ばれた。何だろうと目を開ければ、千歳の黒い目がまっすぐに俺を見つめていた。
 「何?」
 「白石、帰りたかと?」
 「え?」
 突然の問いに、うまく反応することができなかった。間抜けな声を出したきり何も言わない俺を、千歳は正面から抱き締めた。
 「白石、あんま幸せそうやなかけん、帰りたかかち思ったと」
 「帰るて?大阪に?」
 「うん」
 「何で?大阪帰ったら千歳おらんくなるんやろ?」
 千歳がいなくなる。それだけは嫌だとはっきり思い続けていた。そもそもそれが嫌で、大阪を出てきたはずだ。そのために家族も友人もテニスも、全てを捨ててきた。
 「ばってん今ん暮らしも気に入っとらんとやなか?」
 「そうなん?」
 「俺が聞いとるとよ、白石」
 聞かれても答えられない。今の暮らしと言われても、俺は千歳の帰りを待って、帰ってきたら食事をして、セックスをして、眠って、それを繰り返しているだけだ。それでも千歳がいるのだから、嫌なことは何もないだろうとは思った。
 「俺は千歳がおるんやったら何でもええで」

 「ならなして笑わんと?」

 はっとして千歳を見上げた。少し空いた距離の先で、千歳が悲しげな目で俺を見ていた。
 「俺、笑ってへんの?」
 「笑っとらんばい、もうずっと」
 「ずっとて、いつから?」
 「この辺ば移ってきてちょっとしたくらいから」
 俺は息を呑んだ。俺が引きこもり始めてすぐということになる。何ヶ月単位だ。知らなかった。
 ならば引きこもったのがいけなかったのかと考えてみた。けれど、もう新しい世界を作るのは嫌だった。折角誰にも邪魔されない、二人だけの世界が手に入ったのだ。俺がいて、千歳がいて、それだけで全てが成り立つ世界。他の一切はどうでもいいと、大阪を離れるときは確かにそう思っていた。ならばなぜ俺は笑っていないのだろう。わからないことばかりだ。
 俺はスイッチが切れたように過ごす昼間の時間を思った。何も考えず、たぶん海だけを眺めているその時間、千歳は外に出ている。外に出ているということは、他に世界があるということではないのか。それなのだろうか。俺はそれが気に食わないのだろうか。
 「あれちゃうん、昼間千歳がおらんから?」
 「そげんこつ言われても、働かんと生きていけんとよ」
 「俺の貯金全然手つけてへんで」
 「ばってんそげんもんすぐなくなるばい」
 「なくなったらどうなんの?」
 「生きていかれん」

 「ほな死んだらええやん」

 千歳が息を詰めたのがわかった。俺は、変なことを言ったのだろうか。
 「何、言っとると?」
 「俺から離れてまで、生きていく必要ある?」
 固まる千歳の首に腕を回した。目に入った自分の腕を見て、細くなったなあ、と他人事のように思った。
 「俺は千歳がおったらそれでええねん」
 それでいい、それがいい、と思った。他に世界を作らなければ生きていけないというのなら、二人だけの世界のまま一緒に死んでしまえばいい。
 「本気で言うとっと?」
 「うん」
 背中に大きな手が回されたのを感じた。この手が、この腕の中だけが俺の世界だ。他のことはどうでもいい。
 「……白石がそうしたかち言うとなら、そんでよかよ」
 そう言ってゆっくりと千歳が俺の腕を解き、覗き込んできた。合った瞳の光がふと和らいだので、きっと俺は今笑ってるんだろう、と思った。

 そうして距離がなくなって、俺たちはいつまでもいつまでもキスをし続けた。津軽海峡の波が、ぶつかっては弾けた。

2012.9.19