カチャカチャと響く控えめな金属音を聞いていた。白石の視界の隅、千歳の手の中で奇妙な形をした鉄細工が安っぽい蛍光灯の光を反射させている。周りには様々な細工が無秩序に散らばっていた。絡まっているものもあれば、そうでないものもある。
何か声を掛けようかと思って、やめた。千歳は一度興味を惹かれたものはとことん探求する。テニスや無我はもちろん、たこ焼きも中途半端な大阪人より上手く焼けるようになったし、近くにある将棋会館も数ヶ月で大方制圧してしまった。部活や授業に頓着しないにも関わらず何においても成績の良い千歳を天才と讃える人間をよく見るが、個々に天才というよりは何においても秀才になれる才能があるのだと白石は考えている。今はその情熱のようなものが手の中にある鉄の玩具に向いている。だから声は掛けない。
ALL OVER LOVE
始めに興味を示したのは遠山だった。
「小春何してるん?」
部活終了後、早々と着替えを終えた金色の手の中を覗き込み、無邪気な瞳を爛々と輝かせて遠山が言った。
「知恵の輪よ」
「チエノワ?」
「このリングがね、うまくやればバラバラに分かれるんよ」
「何や、金ちゃん知恵の輪知らんのんか?」
そう声を掛けたのは忍足で、けれど遠山の肩越しに金色の手元を見て彼は少し目を大きくした。
「え、それ知恵の輪なん?」
「最近は色んな形が出てるんよ。針金やないから金太郎さんでもそうそう力尽くでは抜けへんのやない?」
それはただのシルバーリングに見えた。金色はリングを遠山に手渡す。
「何これ、どないするん?」
「貸してみ金ちゃん。浪速のスピードスターが一瞬で解いたるっちゅー話や」
要領を得られず持て余されたリングを忍足が半ば奪うように貰い受けた。まず何度かひっくり返して全体を俯瞰し、微かな継ぎ目を確認して指先に力を込める。
「さっきも言ったけど、力尽くでは無理よ」
金色の言葉に曖昧な相槌を返し、忍足はそのまま手の中のリングの向きを変え、力の加減を変え、何とか外そうと試みる。けれど元来せっかちな性分が災いをして、一分も経とうかという頃には苛立ちに任せて頭を掻きむしった。
「あー、何やねんこれ、イライラする!」
「何やねん謙也、だっさいなあ」
「面白そやね」
そして次に興味を持ったのが千歳だった。早々に匙を投げた先輩を揶揄する遠山と、決して身長の低いわけでない忍足の頭をポンポンと撫でて、貸してくれんね、と笑った。解けなかった悔しさや子供扱いのような千歳の行動に居心地の悪い表情を浮かべながら忍足はリングを手渡した。受け取った千歳は先程忍足がそうしたようにくるくると手の中でリングを弄び、解答のきっかけを探そうとする。
「ああ、千歳クンなら解けそうやね」
そう笑った金色に忍足は不満気な表情を浮かべた。
「ちょお小春、俺がアホみたいな言い方すんなや」
「いやー、小春先輩の言う通り違います?」
「何やて!?」
割って入ったのは財前で、忍足の意識はそちらへ移る。そのまま始まった喧嘩とも言えないよくある応酬には目もくれず、千歳は一心不乱に受け取ったリングに集中していた。
一連の流れを、着替えを終えて部室の再奥に置かれたデスクに着いていた白石はただ傍観していた。記入途中の部誌に集中していた手を休め、頬杖を付きながら反対の手でくるくるとシャープペンシルを回す。知恵の輪に夢中になる千歳と、それを囲む部員とをぼんやりと見る。とうに見慣れたはずの風景に少しの違和感を覚えた。その感覚は白石にとってもはや馴染みのものだった。
「取れたばい!」
そう千歳が叫んだのは、そんなに長い時間の後ではなかった。
「やっぱり千歳クンには簡単やったわね」
金色はそう笑ったけれど、せっかちな忍足は遠山を含む着替えの終わっていた何人かを連れて既に部室を去った後だった。
「久々にやったら面白かね」
笑みと共に外れたリングを返しながら千歳は言った。
「今日ウチもう一個持っとるんよ。貸したげるさかい、宿題ね。さっきのよりかは難しいわよ」
そうして金色が取り出したのは、鍵の形をした二つの細工が絡まっている新たな知恵の輪だった。
「ほなこつ?ありがたか」
にっこりと笑って千歳はその細工を受け取った。宿題という言葉も気にかけず、すぐに外そうと取り掛かる。
「先に着替えた方がええんやない?ウチはもう帰るさかい」
まだジャージ姿のままだった千歳に苦笑を漏らし、金色は言った。
「ばってん、気になってしょんなか」
「蔵リンが待ってるわよ」
水を向けられた白石は書き終えても視線を落とし続けていた部誌から顔を上げた。
「白石、仕事終わったと?」
金色の言葉に千歳も白石の方を見遣る。傍観を決め込んでいたにも関わらず二つの視線が届き、白石は些か居心地の悪さを感じた。
「ああ、うん、まあ」
不意をつかれて下手くそな返事になってしまった。金色も千歳もそんなことは気にしない。気にするのは白石だけだ。
「ほら、早よ着替えたって。ユウくん、帰るわよ」
「小春ぅ!待っとったで!」
一言も発せず金色の後ろに張り付き、知恵の輪に集中する二人に恨めしい視線を送り続けていた一氏が漸く笑顔を見せた。彼は最近、少しだけ我慢を覚えたらしい。絡みつく彼を適当にあしらいながら金色は白石と千歳に別れの挨拶を告げ、部室を後にした。パタン、と重い金属の音を最後に、静寂が部屋の中を包み込む。
「……早よ着替え」
「うん」
急激に静かになった部室に、二人の声が響く。千歳は手にしていた知恵の輪をデスクに置いた。金属で出来たそれは安っぽい蛍光灯の光を素直に反射する。白石はそれを摘み上げた。ぼんやりと眺め、けれど大した興味も湧かなかったのですぐに手放し、ついでに部誌も閉じた。
千歳の着替えが終わるのを待ち、二人は連れ立って外に出た。珍しい光景ではない。金色が言った「蔵リンが待っている」が単なる鍵当番としての白石を指しているのか、少し前から特別になった二人の関係を考慮してのことなのかはわからなかった。頭が良く察しも良い金色のことだから後者だろうと半ば確信はしていても、白石はその曖昧さを崩したくはなかった。金色と一氏のおかげで同性愛に大きな偏見のある部ではなかったけれど、白石はこの関係を公にしないままでいる。わかりやすい言葉で表すならば、白石と千歳は恋人だった。それが当たり前であるかのように千歳が一人で住む寮へと足は向かう。
「白石、知恵の輪買いたか」
けれど夕陽もほとんど沈もうかとする帰り道、金色の残した知恵の輪を弄りながら千歳が言った。
「そんなハマったん?」
「うん。難しかやつ売っとうとこ知っとっと?」
「さあ、ロフトとかハンズやったらあるんちゃう?」
「どこにあると?」
夕陽が綺麗に見える場所だとか珍しい花を咲かせている生垣だとか野良猫の溜まり場なんかには地元の白石より詳しい癖に、千歳は実用的な店などは全く覚えようとしない。仕方なしに白石は最近できたばかりのショッピングモールへと連れて行くことにした。学校からはそう遠くない。電車なら一駅しかない距離だから、徒歩を選んだ。
最初に見えた地下道への入り口に潜ると激しい往来に迎えられた。流れを乱さないように目的の方向へと足を向ける。白石は向かいから歩いてくる女子高生が自分達を見て俄に色めき立つのをぼんやりと見ていた。今更謙遜するのも面倒なほど白石は綺麗な顔の造りをしているし、千歳だってどう見ても男前としか言いようがなかった。おまけにすれ違う人々の誰よりも千歳の背は高い。繁華街を並んで歩くのは初めてではなかったけれど、どうにも目立ち過ぎて好きにはなれない時間だった。
「この辺は人の多かね」
「まあ一応大阪で三番目の街やしな」
道行く人々の注目に気付いているのかいないのか、至極のんびりと千歳は辺りを見回す。歩きながらも小春にもらった知恵の輪を離そうとしなかった千歳は、足元に寄ってきた子供を蹴飛ばしかけたところで漸く周りを見るようになった。ただでさえ視点が高いのだから、せめて人通りの多い場所では凶器のような下駄などやめればいいのにと白石は思う。
「白石はキタに住んどっとだろ?もっと人の多いんやなか?」
「俺ん家自体は住宅街やしそんなやで」
他愛ない話を交わしながら、白石は何となく隣の千歳を見上げた。部室で感じた違和感がまた首をもたげる。
千歳はよくふらふらと姿を消すけれど、白石はこうして並び歩いているときや部員たちの輪にいるときにこそ彼の存在感が希薄になるような気がした。馬鹿げた感覚だとはわかっている。部内の誰より恵まれた体格を持ち、特徴のあるイントネーションを紡ぎ、時折狙っているわけではない奇妙なボケをかます彼は輪の中で目立つ。浮いているようですらある。それでも白石はいつもこういった場面で千歳の不在を意識する。
「どげんしたと?」
視線に気付いた千歳が首を傾げる。いや、別に、と言って前を向き直ったとき、工事中の区画に入った。少し前までテナントの入っていたその道は薄い即席の壁で覆われ、圧迫感を与えていた。余計に二人目立ってしまう気がした。
「狭苦しか」
「最近めっちゃ再開発してるからな、この辺」
鉄下駄の特徴的な足音や独特のゆったりとした歩調、見上げなければ合わない視線、その全てが千歳を限りなく千歳たらしめているというのに、言葉を交わしながらもやはり白石は千歳の不在を思った。元々ここにいなかった、あるいはいるはずがなかったという事実がそうさせるのかと始めのうち考えていたが、結果として千歳がここにいるということも事実なのだから少し的外れだと暫くして気が付いた。
やがて見えてきた動く歩道は白石にとって慣れたものだ。物心ついたときには既に近所の繁華街では稼働しており、今も通学路上にあるそれを毎日見ている。
「白石見て!平べったいエスカレーターばい!」
こういう都会的な装置を見ると千歳はいつも目を輝かせた。白石からすれば人間の歩く速度より遅いその機械は電気代の無駄以外の何ものでもない。全く共感できないその感動に、せやなあ、とだけ返す。千歳の故郷である熊本を訪ねたことはない。色んなものにいちいち感動する千歳を見ていると、もしかして外国から来たんじゃないかと思うことすらある。
普段は意味がないとばっさり切り捨てて利用することはないが、千歳が乗りたがったので白石はその機械を使うことにした。ローカルルールに倣って右側に立つ。左側に空いたスペースを急ぐ人々が通り抜けて行く。白石はそんな急いでどこいくねん、と内心思いながら、いつか一緒にライブへ行ったとき、湊町へ向かう動く歩道を走っていた忍足を思い出した。
「お、あっこに売っとっと?」
今度は異なる高さを繋ぐエスカレーターが姿を表し、その先にショッピングモールが見えてきた。人々の行き交う施設を眺めて千歳が言った。
「うん、地下一階にハンズが入っとったはずやで」
動く歩道が終わり、二人連れ立ってショッピングモールへと入った。東急ハンズへ赴くと、趣向の凝らされた最新型の知恵の輪は一定の特設コーナーを設けられて販売されていた。無理矢理分けさせている生活費用の財布にまで手をつけて片っ端から買い占めようとした千歳を叱咤し、小遣い内で、と言った白石に千歳はしぶしぶ難しい方から順番に予算で買えるだけの知恵の輪を購入した。
そうして千歳の家に帰り着いてから、食事もそこそこに千歳はずっと知恵の輪に熱中していた。当然白石は暇を持て余すことになった。テレビを点けて適当にチャンネルを回してみても、特に興味を惹かれる番組は無かった。観たい映画がいくつか溜まっていたことを思い出し、こんなことならレンタルショップにでも寄って来るんだったと後悔した。それでも一人でもう一度DVDを借りに行くのも面倒で、適当な時間になれば今日は帰ろうかと溜息を吐く。そのままごろりと床に転がれば、いくつもの鉄細工が同じ平面上に光っていた。何の気なく放置されたままの一組を手に取ってみた。割と重い。
「なあ、こういうのって元に戻すまでがパズルちゃうん?」
背を向けていた千歳の方へ寝返りを打ちそれを掲げた。千歳は数秒遅れて振り向き、惚けたような表情を浮かべた。白石が手にしているのは、鎖で繋がれた一対の蹄鉄のような細工とシンプルな銀色の輪だった。無言で千歳はそれらを受け取り、蹄鉄を重ねて輪を通した。慎重に捻りながら二つの蹄鉄を引っ張る。どういうわけか輪は二本の鎖を内包し、千歳が片方の手を離してもカシャンと蹄鉄に引っ掛かって決して落ちなくなった。
「解けたときと同じように嵌めたらよかだけやけん、面白くなか」
そう言って至極つまらなさそうな表情で元に戻った知恵の輪を白石に差し出す。あっそ、と言って寝転がったまま白石はそれを受け取った。そういえば千歳は頭が良いんだったなあと他人事のように思う。事実他人事だ。また捕らわれてしまった輪を救い出してみようかと思ったけれど、そんな義理はないのでやめた。
またごろりと転がって白石は天井を眺めた。もう見慣れている。いつも千歳の肩越しに目に入る、何の色気もないいくつかの染みの目立つ天井だ。この部屋で白石はいつも千歳に抱かれる。その行為が白石は好きだ。気持ちの良いことが元から好きだというのもあるし、その間だけは千歳の不在を感じずに済むというのも大きな理由だ。
持て余さざるを得なくなった時間、白石はまた千歳の不在について考える。今だって感じている。
誰とどこにいても千歳から希薄さを拭えない理由は、やはり彼個人にある。どうにも千歳には「ここにいよう」という意思のようなものが欠けているのだ。ここ、というのは四天宝寺や繁華街の雑踏といった固有のチームや場所を指すのではない。そうではなくて、どこにいても誰と話していても千歳の存在は常にふわふわと定まらない。それでいて故郷に帰りたいとか一定のどこかへ行きたいというような意思も感じられない。ただ千歳千里という個だけはいやにハッキリとした輪郭を保っていて、喩えるなら海を揺蕩うボトルメッセージのようなものだと白石は思う。ひとところに留まらないし明確な宛てもないけれど、意味だけはしっかりと濡れないように保持されている。
厄介なのは、千歳が今いる場所が打ち上げられた砂浜ではないということだ。白石は通りかかった船からそのボトルを拾ったようなもので、そのまま所有したって誰にも咎められることはないけれど、それは正しくないことを知っている。なぜならば白石はその蓋を開けることができないでいるからだ。中にどんな意味が込められているのか、どこへ向かうべきなのか、知ることが怖くていつも大切なことには触れられない。
ーーでもなあ、何でか今はここにおるんやもんなあ。
白石は天井から目を逸らし、他に見るものもないので千歳に視線を向けた。未だ知恵の輪に熱中している。
どうにも希薄な千歳の存在を確かめるように、白石は彼に触れた。体を起こすことは億劫だったため、辛うじて指先に届いただけだった。それでも鉄細工を弄ぶ指先は温かく、同じ次元に存在する同じ生き物なのだときちんと実感した。
「なんね、白石もやりたかと?」
十二個目の知恵の輪に執心していた千歳は動きを止め、まるで的外れな感想を白石に寄越した。
「いや、ちゃうけど」
失敗だったな、と白石は思った。触れている間は確かにそこにいると感じることはできるけれど、今度は離れるという作業を行わなければならなくなる。それがもたらすのは更なる存在の不確かさと、微かな喪失の痛みだ。
今さら後悔しても遅い指先を持て余したまま暫し沈黙が流れる。振り払われないことを幸いと思うべきかもわからない。
暫くそのままでいると、ああ、と千歳が一人勝手に納得したような声を上げた。次の瞬間には触れた指先を掴まれ、強い力で引っ張り上げられる。
「構って欲しかったと?」
そうして白石は千歳の腕の中にすっぽりと収められた。指先どころではない体温が背中全体を覆う。
「誰もそんなん言うてへんけど」
「もうちっと待ちなっせ、これで最後やけん」
白石の言葉を華麗に無視し、前に廻った千歳の両手が動きを再開させる。カチャカチャと微かな金属音がその動きに合わせて響いた。これで最後、ね。白石はぼんやりと目の前の大きな手を見つめた。
出会わなければよかったと、いつか思う日が来るのだろうか。触れなければよかったと思ったように、千歳という存在そのものを知らなければよかったと思う日が。
いずれ千歳が本当に消えてしまうことはわかっている。それが前提で近付いたのだから、今更引き留めようとか縋り付こうなどという気はさらさら持ち合わせていない。むしろずっと一緒にいる方が危険だとすら思っている。確かな体温と喪失の恐怖に挟まれ続けて正気を保てるほど白石は千歳を傍観できていない。千歳はいずれいなくなる。全ての前提はそこにある。
喪失が確定的未来だとして、ならばそのとき自分に残るものは何だろう。白石はぼんやりと散らばった知恵の輪を見遣り、小さな溜息を吐いた。
「取れた!」
耳元と背中の両方から聞き慣れた声が響いて、白石は視線を戻す。千歳が格闘していた鉄の塊は、どういうわけか四つのパーツに分かれていた。
「よかったな」
「疲れたばい」
四つの鉄細工をバラバラと床に落とし、千歳は力を籠めて白石を抱き締めた。肩口に頬を摺り寄せ、思い切り息を吸い込む。
「しらいしー」
「ん?」
振り向けば千歳は実に簡単に唇を重ねてくる。指先に触れることすら恐れる自分を馬鹿馬鹿しく思うくらいだった。白石は目を閉じる。これも、慣れすぎるほど慣れた感覚だ。唇の柔らかさも、滑り込む舌の熱さも、既に身体中に染みついている。知りすぎてしまっているという自覚はあった。
そのまま押し倒されて、白石の視線はまた散らばった知恵の輪と同じ高さになる。唇を捕えて離さない千歳を拒否はせず、目線だけを冷えていく鉄細工に向けた。千歳の興味を惹き、熱中させ、千歳の体温で散々温められた後、バラバラに解かれて無残に投げ出された残骸を。とうに熱を失った金属たちは畳の上で冷え冷えと安い光を反射させている。酷く自虐的だということは承知の上で白石はその残骸たちに自分を重ねてみた。いつかそんな風に千歳が自分を投げ出す日が来ることはわかっている。これが最後、とでも言って千歳は簡単に白石を手離すだろう。それは約束に近かった。
それでも白石は金属ではないのだし、ただ冷えていくだけでいられるとは思えなかった。たとえ熱が失われたとしても、望むと望まざるに関わらず残るものはあるはずだ。
千歳が目の前から姿を消して、体温が失われて初めて白石は千歳の存在を確信するだろう。ここにいる千歳よりよっぽど信用できる自らの記憶が千歳は確かにいたのだと刻み込むことで漸く不安は消える。もしもそうして残るものが感傷めいたものであったとしても、白石はいつまでもそれを大切にして生きていくだろう。むしろ感傷こそが千歳が存在した証拠であり、それを知ることに出会った意味があるのだろうと白石は思った。だから白石は投げ出されることを待っている。熱を失う日を心待ちにしている。
「白石?」
自分を見ていない白石に気付き、千歳が不満気な声を上げる。
「何考えとっと?」
「……何でもあらへんよ」
だから今は体温に怯えるべきではない。やがて来る喪失の痛みが千歳の存在を教えてくれるのならば、より強く刻み込んでおけるようにと白石は千歳を強く抱きしめた。今ここに千歳はいたのだと強く思った。