「太陽やろ、空気やろ、あと水と、ちょっとの肥料」
ひとつひとつを指で示し、最後に小振りな白い花弁を一撫でして、白石は満面の笑みで振り返った。
「たったそれだけや。それだけでこいつらは生きていけるんやで?ほんま無駄ないわ」
な、と言って今度は隣の、一見金木犀のようにも見える黄色い花を弾いた。千歳は少し離れた場所に立って白石の背中を眺めている。色素の薄い髪が柔らかく太陽の光を反射して、それを綺麗だな、と思う。
「それに比べて人間はどうもあかん」
よっこらせ、とあまり似つかわしくない掛け声を上げて白石は立ち上がった。傍らの空になった如雨露を拾い上げる。千歳が越してきた頃は雑草が生い茂るだけだった中庭は、今ではある程度の秩序を持って様々な花を咲かせている。ただしそのほとんどが何かしらの毒を持っているらしい。勝手に寮母さんと仲良くなり、勝手に好きな種や苗を持ち込んだ白石は、痒なったりするから触ったらあかん、と子供を嗜める母親のように千歳に告げた。そんなものを人の家に植えるなと、そういった普通の感性を持たないのが千歳だったので、綺麗か花やねえと遠巻きに眺めて微笑む彼に満足して白石はいつも包帯を巻いた部分だけで花々に触れた。
「どのへんがね?」
「なんや色々。めんどいこと好きやん、人間て」
必要最低限の屋根と壁しかない寂れた納屋へ足早に向かい、如雨露を片付ける。何の予定も無いこんな休日の昼間でも白石の行動はいちいち迅速だ。待ち合わせの時間を何十分過ぎても変わらない千歳の足取りとはまるで対照的で、時折白石は別の生物みたいに見える。
「もの食べんのにいちいち何か殺さなあかんし、暇があったら意味の無い遊びもしなあかんし、誰に見せるんか知らんけど着飾って、ほんで寝るときは気持ちの良い寝具が必要やて?無駄だらけやわ」
そのまま踵を返して、突っ立ったままの千歳に並んだかと思えばもう通り過ぎて行く。千歳は大きな身体をゆったりと反転させ、のんびり後を追った。
「一番無駄なんは言葉やな。嘘吐いたり守れもせん約束したり、ほんまめんどくさい」
「ばってん言葉が無かったら、何も伝わらんとよ」
「せやから、それが無駄や言うとんねん」
表に回って錆びた階段を上る。影になっている玄関は日溜まりだった中庭との温度差が激しい。最近街中には分厚いコートが目立ち始めていた。少し身体を震わせ、階段を上り切って二つ目の部屋を目指す。
「言葉にせな伝わらんようなもん抱えることが無駄や」
そう思わん?ドアノブに手を掛けたとき、初めて白石が動きを止めた。探るような目線がぶつかって、千歳は曖昧に微笑んで見せた。いつもそうする千歳のやり方を白石が嫌っていることは十分知っている。
GET WHAT YOU NEED
安っぽい蛍光灯ひとつしかない千歳の部屋はいつも少しだけ薄暗くて、こんな天気のいい日であれば簡単に外の明るさに負けてしまう。外の光で十分やと言ってその電気すら白石が早々に消してしまったので、今日は一層暗い。窓から差し込む光量云々よりも激しいコントラストの影響力の方が強いにも関わらず、白石はそれでもう満足気なのだから、千歳には彼の中にある様々な基準がよくわからないでいる。
「ええ天気やなあ」
窓の外に向かって白石がぽつりと言った。寝転がる千歳は弄っていた携帯電話から少し視線を外す。逆光に包まれた白石の向こう、能天気な青空が目を焼いた。
「ほなこつ、テニス日和ばいね」
「せやなあ」
寮からそう遠くない学校のコートでは、今日も元気に後輩たちが走り回っているだろう。耳を澄ませば掛け声の一つでも拾えるかもしれない。夏までの自分達がそうであったように、放課後と休日の全てをその活動に注ぎ込むことに何の疑問も感謝も持たず、彼らはただ夢中でボールを追っているに違いない。
「覗きに行くと?」
「ええわ」
千歳の提案を、白石はぴしゃりと拒絶した。あまりにきっぱりとしているので、千歳は怒られたような気分になる。
全国大会が終わってから白石はぱったりとコートに寄り付かなくなった。新部長の財前には全ての引き継ぎを済ませていたからと言って、いっそ気持ちいいほど潔く引退してしまった。もちろんテニスそのものを辞めるつもりは毛頭ないので、近所の貸しコートなんかには足を運んでいるようだったけれど、部活自体には無関係を貫いていた。
「お前現役んときはしょっちゅうサボっとった癖に、引退してから妙に行きたがんねんな」
「そうとね?」
「自覚なしかい」
はは、と千歳は曖昧に笑った。白石の気持ちはわからないでもなかった。白石は二年間部長を務めてきたので、今残っている部員たちは部長といえば白石しか知らない。余所者だった千歳には何の影響もないことだけれど、他の部員は白石がそこにいるというだけである種の完結を感じてしまうらしかった。そんな存在がいつまでも新チームにちらつくことは確かに良くないのかもしれない。千歳は他の三年生に誘われて何度か体を動かしに行ったけれど、白石のいない四天宝寺テニス部は実際持て余されがちだったように思う。それでももう三ヶ月も経とうとしているのだし、そろそろ顔を出してやってもいいのではないかとも千歳は思っていた。白石の選択はある意味では正しいけれど、一方で突然突き放される形になった部員の気持ちや、白石自身の寂しさや、他の多くの要素を無視してしまっている。彼はいつでもそういう選択の方法を取りたがる。
白石には基本的に零か十しかなかった。その潔さは一種彼の美しさを彩る要素でもあるけれど、何も言わないでおくことが最善なのか、千歳にはわからないでいる。いくら白石が何事をもシンプルに進めようとしても、世界には三や五や八の物事が溢れ返っているのだ。千歳は一年前の事件だとか、新たに得た力だとか、夏が終わっても未だ大阪に居座っていることだとか、結果論として世界の多義性に一定の価値を見出したけれど、白石は頑にそれを認めようとはしない。何かを天秤に載せるなら、それは須くどちらかに傾くものだと信じ込んでいる。物事にシンプルさを求めるということは多くの事柄を切り捨てるということで、そのことに白石自身が気付いているのか未だに千歳にはわからない。
「あかん、暇や」
白石は突然そう叫び、窓に背を向けたかと思えば千歳の元まで這ってきた。千歳が意識を戻していた手の中の携帯を取り上げる。
「……どげんしたと?」
「やりたなった」
あっけらかんと言い放って白石は千歳の腰を跨いだ。取り上げられた携帯は無造作に畳の上へと放り投げられてしまう。他人事のように打ち捨てられた自分の携帯を見て、それから千歳は白石に視線を移した。見上げた白石があまりに純粋だったので思わず笑ってしまった。何やねん、と言って不機嫌じみたキスが降る。
「ほんなこつ白石はエロかね」
「欲望に忠実って言ってくれへん?」
「変わらんばい」
「変わるわ、欲望は本能でエロさは邪念やろ」
よくわからない理論だ、と千歳は思った。よくわからないけれど、白石がそう言うならそうなんだろう。
「白石にとって、セックスは無駄やなかと?」
「ちゃうな、立派な生殖活動や」
ふーん。ふと疑問に思って、千歳が寝間着にしているスウェットにさっさと手を掛けようとする白石を見遣った。
「なら、俺とのセックスはどげんね?」
瞬間、白石から一切の表情が消えたので、千歳は慌てて手を延ばした。当然白石は振り払おうとする。構わず肩を掴み、身体を反転させれば簡単に白石は畳へと沈んだ。
見上げる白石の視線が突き刺さり、千歳は思わず息を呑む。威圧感とかそういうものではない。白石の鋭い目線は、もっと原始的な、捕食者に対峙したときの恐怖を与える。千歳の脊髄に快感が駆け上がった。こんな瞳をする女はまずいない。何度抱いても白石は限りなく雄であるので、千歳はそんな彼を気に入っていた。
「どけや、萎えた」
「すまんて白石、怒らんで」
押し返す手を握り込んで頬に口付けた。逃げるように顔を背けた所為で顕になった首筋に吸い付く。尚も逃れようとするのでシャツの裾から手を這わせ、胸の突起を弾いた。一瞬だけ抵抗が緩み、その隙に唇を奪う。噛みつかれないよう注意して徐々に深くしていけば、やがて押し返す力が弱まった。最後には千歳の後頭部を掴み、もっと深くとせがむので、欲望に忠実だというのは確からしかった。
「……お前はもう、何ていうか一から十まで全てが無駄や」
「なんねそれ」
長い口付けを一旦離せば知らない間に息が上がっていて、上気した瞳に色気が混じる。もう怒気は含まれていなかったので、千歳はペースダウンを試みて小さな口付けを白石の顔中に降らせた。休日の晴れた昼間にはそれなりに似合うセックスというものがある。
「まずそのデカい体が無駄やし、買い食いばっかの食生活も無駄やし、テニスに個人的な事情を持ち込むとこも無駄や」
「ひどか言い草とね」
「せやから無駄なお前と生殖活動やないセックスするんなんか無駄の極みや」
千歳は無言で先を促す。だったら何で、などと聞いてまた機嫌を損なう必要はなかった。
「けど俺がやろう言うてんねんからお前は黙って従っとったらええねん、せやろ?」
「……そうやね」
千歳が笑えば白石も笑った。そうして白石は徐に千歳の頭を抱き寄せる。
「俺はな、お前の何も言わんとこだけは評価してんねんで」
やから、黙って抱いて。耳元でそう囁いた。
それにしても、何故自分は白石を抱いているのだろうと、時折千歳は不思議に思う。
別に始めからそうだったわけではない。初めて白石を見たときは、なんて生き辛い子なんだろうと思った。高すぎるプライドと潔癖さで自分を雁字搦めにして、他人に寄りかかることを依存と決めつけ勝手に溺れていくような彼はいっそ滑稽だった。だから最初に白石が手を延ばしてきたときは、そりゃあまあそうだろう、と安心に似た納得を感じたものだった。
出会ったときにはもうある程度完成された世界の中にいた白石にとって、要するに千歳は都合が良かったのだ。突然現れた割に白石たちの世界を脅かそうとするでもなく、一人で完結してしまっているような千歳は、潔癖故に溜まっていく澱のようなものを投げ捨てるには丁度いい受け皿だったのだろう。白石は決して言葉にしない感情の端くれを千歳にぶつけ、千歳にしたってその点に関しては似たようなやり方を好んだので、互いに好きなように利用し合った。
そんな利害の一致だけで成り立つ関係だったので、引退すればそこまでだと思っていた。白石は部長でなくなったし、千歳もコートに置いたままだったしこりを清算してしまったし、二人で共にある理由はもう何も残されていなかった。
それなのに、無駄だ無駄だと何もかも切り捨てていつでもシンプルであろうとする白石は、こうして今でも割り算の余りみたいな千歳を受け入れている。その理由が千歳にはよくわからない。
千歳の肩先を熱い息が掠める。体温は白石の方が低くて、なのにどういうわけか呼吸だけはいつでも火傷しそうに熱かった。千歳は向かい合って座る白石の後孔に潜り込ませた指を不規則に掻き回す。探る指に合わせて背中に回った白石の指先が千歳の皮膚を剥ぐ。
「千歳、……っ、早よ、せえ」
「ばってん、ちゃんと慣らさんと白石が辛かよ?」
肩口に埋まっていた白石の額を空いた右手で上げさせる。汗で湿った前髪を掬い上げ、きつく寄せられた眉間に軽く口付けた。瞼は堅く閉ざされているので、白石の瞳を見ることは出来なかった。千歳はそれを残念に思う。
「……もうええっ」
「え?」
突然背中から白石の手が離れ、そうかと思えば思い切り肩を突き飛ばされた。後頭部をしたたかに打ち付け千歳は眉を顰める。いくら畳でもそれなりに脳が揺れた。
「……白石?」
状況判断の遅れた千歳に白石はそのまま乗り上げる。そうして千歳の陰茎を掴み、自らの体内に沈めようとする。千歳は慌てて腰を引こうとしたけれど、畳に押し付けられて逃げ場はなかった。先端が狭い場所に捩じ込まれ、区別のつかない痛みと快感が駆け上がる。
「……っ、白石」
「黙れ」
余裕のない声が降って、白石を見れば射竦めるような視線が届いた。ああこれだ、と千歳は思う。もしも自分が今でも白石を抱く理由があるとすれば、この瞳だ。でもだからといって、それは決して白石の理由ではない。
「……しょんなかね」
そのままの体勢で千歳は白石の腰を掴み、勢い良く引き寄せた。肉が肉を割る独特の感覚に二人同時に息を詰める。
以前の白石は、こんなに性急な抱かれ方を望んだだろうかと千歳は考える。以前というのはまだ白石が部長だった頃の話だ。あの頃を思い返せばどちらも相手に唾を吐きかけるようなセックスばかりで、ほとんど自慰みたいな行為をしていたように思う。言わばそれが目的だったのだし当たり前だ。だからこんな風に、刹那的快楽だけを求めるような行為はなかったはずだ。
千歳だけを取れば、確かに彼は場当たり的で刹那的である。千歳の基本的なスタンスは、どうせ最後に行き着く場所は決まってしまっているのだし、その過程にある些末なことにはあまりこだわらないというものだった。
例えば、白石の温もりを抱いたままでも、眠りに落ちるときはいつでも一人ぼっちだ。瞼の裏にある闇は共有されないし、同じ夢を見ることだってない。朝起きて適当に一日を過ごし、夜また眠りに落ちることは、人の一生とよく似ている。だから人間誰しも、いつかは一人ぼっちで死んでいくのだろう。そういった感傷を抱いてもどうにもならないことに千歳はいちいち気を取られたりはしない。だから目の前の面白いことや気持ちのいいことだけを楽しむ、千歳はそういう意味で刹那主義と言えた。
でも白石は違う。目の前のことに逐一真剣に向き合い、彼なりに公正なジャッジを下し、許せるものと許せないものとをきっちりと分けていく。そんな白石にこんな態度は似合わない。ましてそれが最近珍しいことでもなくなっているのだから、ますます千歳は白石がわからなくなる。何故抱かれるのだろう。何を焦っているのだろう。そんなに必死に、何を求めているのだろう。
部屋には二人分の荒い呼吸と、粘膜が立てる水音だけが響いて、外は馬鹿みたいに晴れている。
「白石」
「……っ、何」
「何が欲しかと?」
「っは、何言って、」
別に自分が持っているものならば、何でも与えてやるのに。千歳はそう思って、思った瞬間に愕然とした。何かを与えてやりたいなんて、まるで白石を愛しているみたいだ。それはいけない。愛なんて重たいものを持ち込めば、この関係は途端に悲劇に変わってしまう。それはいけない。そこだけは譲れない。
「無駄口、……叩くなって、言った、やろっ」
「うん、そやったね」
千歳は上体を起こし、そのまま白石を押し倒した。そうして自由になった身体をめいっぱい白石に打ち付ける。喉を仰け反らせた白石がまた千歳の背に爪を立てた。
「千歳、もっと」
「うん」
「もっと、酷くしてくれな、……っ、何も、わからん」
「うん、わかっとうよ」
白石の柔らかさに甘えて、力任せに脚を持ち上げる。深くなる結合が言葉を奪い、思考を奪い、快楽だけを際立たせる。千歳は白石に口付けた。呼吸も奪ってしまえば舞台は整う。欲しいものがあるなら自ら奪えばいい。残された快楽の奥に求めるものを見つけて、勝手に持っていけばいい。あるいは白石は捨て過ぎた何かを取り返したいだけなのかもしれない。どちらにせよ白石を理解出来ず、愛すことも出来ない千歳は何も差し出すことができないのだし、白石が求めるものは白石自身が掴み取るしかないのだ。その結果として千歳が抜け殻のようになったってそんなのは些細なことだ。
「白石」
唇を離して至近距離で囁いた。生理的な涙を零す白石の目が薄っすらと開く。理性が消え失せて尚強い光は消えない。むしろ強くなっている。そのままで居て欲しいと千歳は思った。その強い光でいつまでも潔癖さを貫いて欲しい。
視界の端に映った晴れ渡る空は白石の光に負けてコントラストを弱めていた。それに気付いて初めて、言葉の介在しない刹那的なこの行為が、最高に白石に似合っていると千歳は思った。