※千歳+仁王+幸村 [SAYLING DAY] の続編です。
その旧い友人から電話があったのは、まだ寒さの残る三月の始めだった。学生時代にテニスを通じて知り合った彼とは、元から居住地が離れていたためそこまで仲が良かったわけではない。高校を卒業してプロに転向した彼は海外にいることも多く、もう何年も連絡を取っていなかった。時折テレビから流れるその名に遠い記憶を呼び覚まさせられるだけだった。
番号が変わってなくてよかった、と出会った頃から変わらない高めのテノールで彼は言った。俺が、知らん番号からかかってきてビビったで、と返すと、アドレスを変えたのはそっちだろうと笑う。その声はテレビの中にいる精悍な顔付きの彼よりも、学生時代コートの外で言葉を交わした穏やかな顔を思い出させた。
「ほんで急にどないしたん?幸村クン」
『白石の住所を教えて欲しいんだ』
「住所?別にええけど、何で?」
『キミ宛ての荷物を預かってる』
「誰から?」
『仁王って覚えてる?』
「仁王クン?そりゃ覚えてるけど」
化物揃いだった彼らのチームでも殊更異彩を放っていた銀髪の男を思い出す。その特異な外見もプレイスタイルも忘れるはずがなかったが、突然出てきたその名には戸惑った。彼が特技の延長として俺に化けたことはあったけれど、直接の交流などほとんどなかったからだ。彼に化けられることはそれなりに名誉なのだと、いつか彼の相棒に聞いた。それも随分と昔のことだ。
『アイツからなんだ。俺ならキミと連絡を取れるだろうからって』
俺を顎で使うなんて偉くなったもんだよね、と顔に似合わない毒舌が相変わらずで苦笑する。
「一体何の荷物なん?」
『さあ?勝手に送りつけてきて、俺が連絡したときには音信不通になってたから』
「え、大丈夫なん、それ」
『まあ生きてはいると思うよ。これで報告したつもりなんだからつくづく勝手な奴だよ本当』
「話がいまいち見えへんのやけど……」
『あ、こっちの話だから気にしないで。それよりどうする?キミが良いって言うなら中身確認してから送るけど』
まともに言葉を交わしたこともない相手からの荷物には困惑したが、暫し考えて、結局はそのまま転送してくれと伝えた。メールアドレスがお互い変わっていたため、ショートメッセージで住所を送る約束をし、電話は切れた。今度飯でも行こう、という明らかな社交辞令が最後の言葉だった。
荷物が届いたのはそれから三日後のことだ。
中肉中背という表現がぴったりと似合う宅配員は、とってつけたような笑みで判子を求めて来た。玄関先に常備している安物のシャチハタで応えると、荷貼りの一枚目だけを千切って荷物を渡す。
「美術品ですのでお取り扱いにご注意下さい」
やはり作り物の愛想を上塗りして定型文を暗唱すると、宅配員はさっさと踵を返し去って行った。
仁王クンからの美術品。それは俺をさらに混乱させた。
戸惑う俺をよそに勝手に閉まった扉に鍵とチェーンをかけ、直方体というよりは板状の荷物を手に部屋へと取って返す。就職と同時に始めた一人暮らしの住まいは有りがちな1Kで、必要最低限の荷物しか置いていない。十五畳の部屋の隅に鎮座する無個性なシングルベッドにそっと荷物を降ろした。幸村クンらしい、流れるような字で書かれた荷貼りに手を滑らせる。まだ冷たい風が抜けない外気の所為か冷んやりとした感触があった。
カッターを使ってガムテープを注意深く剥がし、蓋を開ける。中身はあのプチプチできる包装で厳重に保護されていた。箱とほぼ同じ大きさのそれをそっと引き出す。何かの絵のようだ。
半分まで出したとき、パサリと音がして同梱物が落ちたと知る。床を見遣ると麻紐で縛られた葉書の束だった。ひとまず段ボールをベッドに置き、それを拾い上げる。裏向きに落ちたらしい束の一番上は、筆記体で書かれた宛名だった。何気なく差出人の欄に目を遣り、息を呑む。
『Senri Chitose』
すう、と血の気が引くのを感じた。消印は先月と示されている。慌てて束を裏返すと、麻紐が結んであるすぐ下に、味気ない走り書きのメモが挟まっていた。たったの二行、見慣れない細い筆跡は、恐らく仁王クンのものだろう。
『ずっと黙っとって悪かった。
今更かもしれんが、あいつが最後に見た物を送る』
心臓の音が一段変化する。一度引いた血の気が一気に体を駆け巡る感覚があった。掌に汗が滲み、乾いた喉がひゅうと鳴る。耐えられなくなって台所に駆け込んだ。乾燥棚に置きっぱなしになっていたガラスのコップを引っ掴み、水道水を汲んで一気に飲み干す。いつも飲んでいるミネラルウォーターを出す余裕なんてなかった。少し塩素の香りがしたが、気のせいだろうか。口の端から溢れた水を左手で拭う。昔巻いていた包帯はもう無く、水気はどこにも吸い取られないまま、皮膚に薄く拡散した。シンクの縁に手をついて息を整える。
——なぜ今更。なぜ仁王クンが。最後とは何か。
あらゆる疑問が駆け巡っては消えていく。封じ込めていた記憶が鮮明に蘇ってくる。跳ねる緑色のボール、裏山の木の匂い、汗が染み込んで黴臭い部室。木造二階建てのアパート、薄い布団、金属がコンクリートと擦れる音。それから、頭を撫でる大きな手。
深呼吸をして、投げ出した荷物に歩み寄る。葉書の束を拾い上げて麻紐を抜き取る。仁王クンのメモを取り去れば、そこから現れたのは油絵具で描かれた何処かの風景だった。
シスター
千歳千里が俺の前に現れたのは、十五歳の誕生日を控えた春の日だった。俺達の世界ではちょっとした有名人だった彼は、一度辞めたと聞いていたテニスを再開するため、九州からはるばるやってきたと言った。
日本人にしては規格外の高身長を持つ変に人懐こい彼は、多少浮いたポジションでありつつも、俺達の日常にすんなりと溶け込んだように思う。コートを退くきっかけになった右目の失明を以てして尚テニスの実力は他と一線を画していて、全国制覇を目指していた俺達としては願ってもない戦力だった。だから快く彼を歓迎した。
当時俺と千歳との間に起こったことを、簡潔に述べるのは難しい。
彼はテニスの強さに於いては申し分なかったが、如何せん変わった人間で、目を離せばすぐに姿を消した。そんなときの行き先は様々で、学校の裏でただ居眠りしていただけのときもあれば、平気で他府県まで出掛けて行ったりもした。ド平日に沖縄から紅芋タルトを持って帰ってきたときには、呆れてものも言えなかったものだ。
いくら実力重視と言ってもそんな人間をレギュラーに据え続けることに納得するようなプライドのない者ばかりではなかったから、部長を務めていた俺には消える千歳の首根っこを掴んでは引きずり戻すという奇妙な日課ができた。そうこうしている間に俺と彼との間には奇妙な絆ができて、気付けば恋に落ちていた。
それにしたって男同士、しかも先に繋げ合ったのは心でなく身体だったものだから、何もかもがイレギュラーで俺達は迷走を極めた。正直言って黒歴史だ。どちらも変に頭の回る中学生だったが故に決定的に言葉が足りず、漸く恋人同士だと言える間柄になったのは中学最後の大会も終わった秋の始めだった。
それまで抱えていた様々な葛藤や心の距離も一度瓦解すれば簡単なもので、中学を卒業すれば去るものだと思い込んでいた千歳は意外にも俺と同じ高校に進学を決めた。俺がいなければ出席日数に煩い高校など卒業できるわけがない、と彼の語る理由は単純だったが、別れを覚悟していた俺は純粋に嬉しかった。
高校生になってからも千歳の放浪癖は相変わらずで、それでも中学時代の迷走が嘘のように穏やかな三年間が流れた。彼は俺を愛してくれたし、俺も彼を心の底から愛した。幼い恋だと嗤う人間がいたとしても、俺達にとってそれは本物だったと今でも胸を張って言える。
けれど結局、千歳は俺の前から姿を消した。ちょうど十年前の冬の終わりだった。
「遂に高校も卒業かあ」
「早かね」
厳しい寒さはまだ和らぐ気配を見せず、それでも少しずつ日本海側の降雪量は減ってきていると気象予報士が告げていた。学校の帰り道、少し寄り道して帰ろうかと訪れた公園で、俺達はブランコに腰掛けて他愛もない話をしていた。すっかり葉の落ちた木々には目を凝らせば新芽が確認できて、少しずつ少しずつ、春が迫っているのだと知れた。
「しかし千歳、よう卒業できたな」
「白石んおかげばい」
「ほんまにそう思とる?」
「思とる思とる」
「もうちょっと気持ち込めんかい」
翌日に高校の卒業式を控えていた。三学期から授業の無くなった学校へ行くのは久しぶりのことで、式の簡単な予行演習、進路の連絡方法の説明なんかを終えて、まだ陽の高いうちに解散となった。名残惜しさからか学校に残る者も多く、俺達も級友と話したり、とうに引退した部活を覗いたりして、空はもう夕方の様相を呈していた。
「なんやあっちゅう間やったなあ。中学の卒業式からもう三年も経つんか」
「懐かしかね。式が終わったら一瞬で白石んボタン無くなって」
「その辺はお前も似たようなもんやったやろ」
あはは、と笑って千歳は言葉を濁した。俺も千歳も目立つ外見をしていたものだから、同級生や名前も知らない後輩にもみくちゃにされたことはよく覚えている。
「ね、白石。今のうちにくれんね、ボタン」
「は?」
「やけん、第二ボタン」
窮屈そうに収まるブランコを微かに揺らし、千歳は俺の胸元を指差した。らしくない言動に面食らい、次に笑いが込み上げた。
「何、お前そんなん欲しがるキャラやったっけ?」
「最後やけんね。制服」
千歳が物を欲しがるのは珍しかった。誕生日やイベントにそれとなく欲しい物を聞いても、少しだけ考える素振りを見せ、白石のくれるもんなら何でも、と答えるのが常だった。それでいて俺の選んできたものは全て、ありがとう、と心底嬉しそうに受け取ってくれたものだ。
「本気で言うてる?」
「うん」
随分とセンチメンタルな提案だ。中学のときはお互いそんなものには無頓着で、どこの誰ともわからない相手に知らない間にもぎ取られていたというのに。
それでも、そんなセンチメンタルさはわかるような気がした。春から俺達は別々の進路を選ぶ。俺は滑り止めの薬科大に合格しており、府内にある国立大薬学部の合否待ち。千歳は、大阪を離れるわけではないけれど、美大への進学が決まっていた。互いにラケットは手放す。この四年間とはまた生活が変わっていくだろう。
「……ほな明日、お前がちゃんと式に来たら渡したるわ」
「今じゃいけんの?」
「お前のことやし式サボらんとも限らんやろ。せやし、保険」
「信用なかね」
「信用してもらう努力したことあるんか?」
厳しかね、と言って千歳は笑った。それは全く以ていつも通りの千歳であって、いつも通りの遣り取りだった。それでも後から思えば、そんなことを言い出した千歳自体に、俺は違和感を感じ取るべきだったのかもしれない。
「ほな、千歳も取っといてや、第二ボタン」
「……うん」
俺が立ち上がると、千歳も立つ。成長期後半に出会った俺達の身長差はほぼ縮まることなく、慣れた角度で見上げれば、ふっと微笑む千歳と目が合った。千歳の笑顔はいつも、どこか少しだけ哀愁が混じり込んでいる。そのまま千歳が徐に手を伸ばしてきた。
「白石は、綺麗か顔しとるね」
「何やいきなり、気持ち悪い」
慣れた感触の、俺より少し体温の高い大きな掌が頬を包む。イレギュラーな恋であっても、千歳自身がふらふらしていようとも、この手さえあれば何も怖くないような気がしていた。
ゆっくりと頬を撫でる千歳が目を細める。慈しむように、いっそ懐かしむかのように。色素の濃すぎる千歳の瞳には不思議な引力のようなものがあって、かつてそれを恐ろしいと思ったこともあった。覗いてはいけない、深淵の色だ。事実千歳の目は片方しか見えていなくて、ブラックホールのように、瞳の奥で光が迷子になっているのだとか、そんな風に考えたこともある。それさえ愛おしく思うようになったのは、いつの頃からだっただろうか。
「……白石、俺、もうちゃんとすっけん」
「え?」
不意にぽつりと、そう呟き、遅れる反応の合間に唇を重ねられた。触れるだけの、軽い、軽いキスだった。
「ちゃんとする、って?」
「春からは白石に起こしてもらうこつばできんけんね」
「……まあ、せやな」
「白石」
「何、」
呼ばれた声に向き直れば、もう一度口付けが降った。今度は少しだけ長い、けれど、やはり触れるだけのキス。
「……帰るばい」
「……うん」
ゆっくりと体を離し、二人並んで歩き始める。今夜は卒業祝いをしようと家族に言われていたから、千歳の家には行けないと予め伝えていた。分かれ道までの間、目立った会話もなく、この通学路とももうお別れなんだなあと、そんなことを思いながら歩いた。
「ほな、また明日」
「うん、またね」
そうやって別れた。それが最後になるだなんて、夢にも思っていなかった。
羽織るだけの上着がはためいて鬱陶しい。生徒数が多かった分、中学よりもさらに酷い人だかりに曝され、ようやく解放されたときには学ランどころかYシャツのボタンでさえ一つ残らず消え失せていた。手には卒業証書の入った筒が二本。そのうち一本が、走る速度に合わせてカラカラと鳴る。予め外しておいた俺の第二ボタンが中で暴れているのだ。
前日の約束はどこへやら、千歳は式に姿を現さなかった。貰い手不在の卒業証書を預かり、せめてテニス部の集まりには引き摺って行こうと、通い慣れた道を走る。どうせまた目覚ましひとつかけずに眠りこけているんだろう。どれだけ言い聞かせたって大切な大会でさえそのようにすっぽかしたこともあったのだ。いつものことだと、そう思っていた。
「ほんま、何がちゃんとする、やねん。最後まで世話焼かせよって」
一人ごちながら最後の角を曲がる。路地の奥にある古いアパートの、金属製の階段を駆け上がる。二階の、二番目の部屋。間違えるはずもない。何度も通い、何度も夜を明かした部屋だった。
さて、どう説教してやろうか。何を言ったって悪びれず笑うだろう千歳を想像しながら、ロクに施錠されていない扉を開け放つ。
「千歳ぇ!卒業式出るって言うたや…」
けれど、ありったけの非難は、最後まで言い放たれることなく、少し黴臭い空気へと拡散していった。
「……は?」
目の前に広がる光景は、勢いも思考も何もかもを停止させるには十分だった。力の抜けた左手から二本の卒業証書が滑り落ちる。始めは高く、次第に間隔を狭めて玄関先を打った筒はやがて転がり、止まった。カラカラとボタンの反響する音が耳をつく。
「千歳……?」
そこには、何も無かった。年中出しっ放しだった壊れかけの扇風機も、幾度となく食事を共にした炬燵も、いつでも風にはためいていたカーテンでさえ。いつかの誕生日にプレゼントした大きなぬいぐるみ、飾ったままで埃を被っていた全中の集合写真、くたびれたテニスバック。寝心地の悪い万年床。
「嘘、やろ」
何も無い部屋に、ふらふらと足を踏み入れる。この部屋はこんなに広かったろうか、と、たった六畳しかない部屋を見回す。奥まで歩き、意味も無いのに押し入れの襖を開けた。俺が何度整理しても気付けば秩序を失くしたそのスペースも、ただ木製の壁が見えるだけだ。
最後にこの部屋へ来てから、まだ三日ほどしか経っていない。そのときには何の変化も感じ取れなかった。此処は確かに、正しく千歳の家だったのだ。混乱する頭を整理しきれないまま、ぼんやりと後ろを振り返る。そのとき、備え付けのキッチンの上に、何か光るものを見つけた。ゆっくりと近付いて、その正体を見極める。
「……は、」
それは、俺が千歳の卒業証書に入れてきたものと、全く同じ形をしたボタンだった。昨日取っておくと約束した、第二ボタンだ。他には何も残されていなかった。手紙ひとつ、メモひとつさえ。
ぽつんと残されたボタンを拾い上げる。キッチンに背を向けて、凭れ掛かり、そのままずるずると座り込む。
『白石、俺、もうちゃんとすっけん』
前日の、千歳の声が脳内に木霊する。あれは、あの言葉は、そういう意味だったのか。
全てを理解した俺は、泣いた。居なくなった。千歳が居なくなった。いつものように自分勝手に、そして恐らく、いつもと違って永遠に。
ずっと一緒にいられるなんて、おこがましいことを思っていたわけではない。千歳はいつ消えたっておかしくない人間だったし、四年間共に過ごしている間、なにか夢でも見ているような感覚さえあった。それでも当たり前になっていたのだ。俺の隣に居る千歳が、千歳の隣に居る俺が。
何もない部屋、誰もいない部屋には不必要なほど嗚咽が響き渡る。ぽっかりと空いた空間がまた悲しみを募らせる。昨日、千歳はさよならと言ったのだ。目の前にいる俺にはわからないように。そして、此処へ来た俺にはわかるように。
握りしめたボタンが体温に近付いても、ポケットの中で、恐らくテニス部の人間が鳴らしているのだろう携帯が震えても、俺はずっとずっと、泣き続けていた。
『お兄ちゃん、どこ行ったと?』
数日後、千歳の妹であるミユキちゃんから電話があった。彼が妹を大切にしていることは出会った頃から揺るぎなく、大阪で高校進学を決めたときも、電話越しに眉を下げて一生懸命謝っていたことを覚えている。彼女が中学校に入学したときには、嬉しそうに送られてきた写メを見せてきたものだ。
『大阪で大学行くっち聞いとったとに、急に下宿先の荷物ば全部送ってきて』
話しながら、彼女の声には涙が混じっていった。
『ウチ宛に、元気で、ちメモば入っとって……なあ、お兄ちゃん、どこ行ったと?』
「……ゴメンなミユキちゃん、俺にもわからんねん」
呟いた俺の耳に、我慢し切れなくなったらしい嗚咽が響いた。
——なあ、千歳、ミユキちゃんが泣いとるで。お前の大切なミユキちゃんが。周りの人間を何人も泣かせて、俺にはやっぱり、お前のやり方が正しいとは思われへん。
けれど、その心の声だって、もう届かない。
何か掴めたら連絡する、と告げて電話は終わった。その後も定期的に連絡を取り合っていたけれど、結局、俺の元にも、ミユキちゃんの元にも千歳の情報が入ることはなかった。
それから俺は大学へ入り、人並みの就職をし、気付けば十年の歳月が流れていたというわけだ。告白された何人かと付き合ってもみたけれど、どれも長続きはしなかった。時折テニス部の仲間と連絡を取ったり、飲みに行ったりしながら、淡々と時を過ごした。千歳のいた日々も、いない日々も、どちらも夢のように思えた。あの日、千歳のアパートでひとしきり泣いて以来、一度も涙は流さなかった。そうやって十年。もう千歳が仲間内の話題に上ることもほとんどなくなっている。その名前が今更、目の前に現れるなんて。
一枚一枚、絵葉書を捲っていく。あるものは草花、あるものは立ち並ぶ商店、そしてまたあるものは子供達の笑顔。油絵具独特のタッチで描かれた絵が次々と目の前に現れる。異国の風情が漂う膨大な風景を、いっそ旅行でもしているような気分で眺めた。差出人は全て千歳、受取人は全て仁王クン。
そういえば、いつだったか仁王クンに、千歳とキスをしているところを見られたことがあったな、と唐突に思い出す。あれは確か選抜合宿のときで、こんな場所でやめろと咎める俺が押し切られた瞬間、仁王クンが通りかかったのだ。酷く狼狽えて、とにかく千歳を引っぱたいたことしか覚えていないのだけれど、結局どこかで噂になることも、彼から直接何かを聞かれることもなかった。気を利かせてくれたのかもしれないし、単に興味がなかったのかもしれない。たったそれきりの話だったから、今の今まですっかり忘れていた。仁王クンが荷物の受取人だったことは、そのことと何か関係があるのだろうか。
意識を絵葉書に戻す。あまり丁寧に保管されていなかったのか、所々絵の具の剥がれ落ちた箇所も目についたけれど、消印を見る限りでは時系列順に並べられていることがわかる。始めのうちはどこかぎこちなく、粗かった線が徐々に洗練されていく過程は、純粋な技術の向上と、それだけの時間が経ってしまったことを痛感させた。
そうやって捲っていくうち、ある違和感に気が付く。徐々に高まっていたはずの写実性が一転し、時を追うにつれ、抽象画のような、ぼんやりとした色の羅列へと変わっていったのだ。
「……千歳?」
もしもこれが千歳の見た風景だとして、この変化は何を意味するのか。
『白石は、綺麗か顔しとるね』
不意に、あのとき見た千歳の表情が思い浮かぶ。優しく、慈しむような、それでいてどこか哀し気にも見えた表情。千歳の目は出会った頃から半分しか見えていなくて、いつでもどこか遠くを見ていた。まるでひとつひとつの風景をその目に焼き付けるように。噛み締めるように。いつも横から見ていたその表情は、あのときのそれと同じではなかったか。
どうして気付かなかったのだろう。ただでさえ目を酷使するスポーツをしているのに、片目だけで全国レベルの実力を保ち続けるという負担がどれほどのものか。元々は目の治療のために訪れた大阪で、高校へ入る頃には通院をやめていたことも知っていた。これ以上良くならないらしいと、事の深刻さなど全く感じさせない笑顔で言ったのだ。「もう慣れたけん、別によか。ばってん白石が右におっときだけ寂しかね」などと冗談めかして。
右目の失明は、左目の視力さえ浸食していたのではないか。千歳はその事実を全て受け入れ、やがて訪れる暗闇に備えて、あのように世界を見ていたのではないか。絵葉書を捲る度、その仮説は確信へと変わっていく。直近半年間の絵葉書は、もうどれも単なる色の羅列となっていた。
——あいつが最後に見た物を送る
漸く、仁王クンの言葉に合点がいった。恐らくもう千歳の目はほとんど見えていないのだろう。失われる視界の中、千歳が最後に見た風景はどんなものだったのだろう。それが、最後に残った大きな荷物に描かれているというのなら。
先月の日付が押された最後の絵葉書を見終わって、ベッドに置きっぱなしだった荷物を見遣る。半分だけ出したままだ。絵葉書をまとめ直して傍に置き、残りを引き出した。ゆっくりと、厳重な包装を解いていく。プチプチの梱包材を取り去って、その下の薄葉紙に手を掛ける。一度目を閉じ、深呼吸をした。そうして恐る恐る、その紙を開く。
「……アホか」
それは光の羅列などでなく、明確な輪郭を持った人物画だった。失われていく明瞭な世界の中、限界までキャンバスに顔を近付けて描いたとでもいうのだろうか。そうとしか思えない。だってこれは、記憶の光景だ。
視界が滲み、生暖かい感触が頬を伝う。この十年、一度も訪れなかった感覚だ。自分が泣いていると気付くまで、少しの時間を要した。十年前、あの部屋で、もう全て出し切っていたと思った涙が、後から後から溢れてくる。千歳が最後に見た物が、これだなんて。
「アホやろ、千歳、お前はほんまに、アホや」
キャンバスの中では、十八歳の俺が笑っていた。
出国手続きを済ませ、待合室に腰をかける。14時50分発、フランス行き。手掛かりは仁王クンが同封してくれた荷張りひとつしかない。記された住所を調べれば、南フランスの片田舎だという。そこに居る保証などどこにもないけれど、行かなければならない気がした。勤務先には、使い道もなく溜まりに溜まっていた有給をありったけ申請してきた。
やがて搭乗のアナウンスが鳴り響く。ひとつ深呼吸をして、手荷物を背負い、立ち上がる。
「待っとってや、千歳」
荷物の中では二つのボタンがカラカラと音を鳴らしていた。