ヘッドホンで耳を塞いでいたから玄関の扉が開いたことには全く気付かなかった。
 キーボードから打ち込んだメロディを流して響かせて、鼓膜を揺らす音と脳内イメージとの相違を探す。洗うのが面倒で飲み終わった傍からブラックコーヒーを注ぎ足し続けているマグカップには、作業に没頭して放置していた数だけのこびりついた暗褐色のラインが走っている。いつも口をつける部分には流れ切らずそのまま乾いてしまった飛沫の跡があって、寸分の狂いもなく同じ場所から冷め切ったコーヒーを啜ろうとしたときだ。最初に音楽で報酬をもらったとき奮発して買ったBOZEのQuietConfortが耳から取り外されて初めて、俺は千歳先輩が帰ってきたことに気が付いた。
 「ただいま、光くん」
 「……ああ、帰ってきはったんすか」
 おかえりなさい、と返事をして立ち上がる。
 返されたQuietConfortのケーブルをゆるくまとめてデスクに置いて振り返る。何食ったらそんなにでかなんねんというくらいでかい千歳先輩は、雑誌や楽譜やイラストやらの積み上げられた俺の部屋に何の興味も示すことなく、リビングへと通じる扉へ向かっているところだった。扉から一直線に俺のいるデスクへと繋がる、辛うじてフローリングの見えた小径を辿って、だ。
 千歳先輩は歩くとき下を見ないくせに人の散乱した荷物を踏みつけるような真似は絶対にしない。昔からでかいとそういうのは癖になるのかもしれない。まして先輩はずっと鉄の下駄を履いていたので、子供など蹴ってしまおうものなら大事になるから。
 作業途中のファイルをショートカットキーで保存して俺もその後を追う。

 千歳先輩は、俺のルームメイトである。

きらきらひかる

 「いつぶりっすか?三週間くらい?」
 「ん、もうそぎゃん経っとっとかねえ」
 千歳先輩を追ってリビングに入ると、テーブルの上に土産物らしき白い袋が置かれていた。特に先輩に断りを入れるでもなく袋の中身を覗き込む。いつも通りの地酒だ。取り出して裏のラベルを見れば、石川県、の文字が見えた。
 「今度は北陸の方っすか」
 「うん。東北にも行ってきたとよ。日本海は海の幸がほなこつうまか」
 「そらよかったっすねえ」
 相槌を返しながら俺は食器棚から冷酒用の徳利とお猪口を取り出す。どちらもガラス製だから、取り扱いに注意して静かにテーブルへと降ろす。

 今年で二十四歳になる千歳先輩は都内にある大学の二回生だ。
 どうして二回生かというと、去年白石先輩の勤め先が東京に決まったとき、それなら俺も、と大阪で通っていた大学をさっさと辞めて再受験をしたからだ。前の大学では四年間で十単位しか取っていなくて、新しい学校へもほとんど行かず、国内外問わず色んなところを旅して回っている。
 結局東京にいることは極稀だから追いかける意味があったのかまるでわからない。それに行きもしない学校など入らないでフリーターでいいじゃないかと思う。そのことについて尋ねてみると、「学割使いたかけんね」となんだか色々間違い過ぎて逆になるほどと頷いてしまいそうな答えが返ってきた。そんな答えが飛び出すということは学費は親持ちなのだろう。千歳先輩のご両親に同情する。白石先輩にもあれでいいのかと問えば、「ああ、うん……ええんちゃう、なんかもう好きにしたら」と遠い目で呟いていた。色々あったんだろうなと察してそれ以上は聞かなかった。そのことについて俺は考えるのをやめた。

 「携帯が繋がらへん、て何回も白石先輩から連絡ありましたけど」
 「あー……充電器、忘れとって」
 「解約したらどうです?先輩の携帯、一年のうち八割はただの箱でしょ」
 あはは、と笑って先輩はぼさぼさの髪をがしがしと解く。ちょっと待て、風呂にはちゃんと入っていたのか。フケ撒き散らすとかほんま勘弁。俺は自室は散らかし放題でも、リビングだけはきちんと掃除している。
 「白石怒っとっと?」
 「まあそれなりに。ちゅーか呆れてる感じでしたけどね」
 「そっか……」
 「先輩たぶんどっかで野垂れ死んでても誰にも探してもらえませんよ。音信不通が当たり前すぎて」
 「ひどかぁ」
 眉を下げて先輩は言ったけれど事実だ。そんな先輩を無視して製氷機から取り出した氷を徳利の側面に空いた穴から四つ入れる。その先に繋がる空洞は二重構造になっていて、氷が瓶の中央に留まって日本酒を薄めることなく冷やしてくれるのだ。地酒を注ぎ込んで、冷えるまで待つ。
 「はい、ちゃんと連絡入れて下さいね」
 地酒を注ぎ終わってからポケットの中のiPhoneを取り出し、ロックを解除した状態で千歳先輩に押し付けた。自分の携帯で連絡を入れろと言ってもたぶん充電が面倒くさくて後回しにしてしまうだろう。白石先輩もiPhoneだから通話料は掛からない。もし掛かってしまうならその分はきっちりと回収させてもらうが。
 「すまんね、光くん」
 そう言って千歳先輩はiPhoneを受け取った。俺はそのまま何かつまみはあったかな、と冷蔵庫を漁る。千歳先輩の土産はいつも地酒だけで食べ物がない。始めのうちはあったのだけれど、俺があまりにも好き嫌いをするので潔く諦めたらしい。自分の部屋に置いているであろう特産品はもっぱら白石先輩のためのものだ。なんだかんだでこの人の世界は白石先輩を中心に回っている。
 「……ね、光くん」
 ウニ海苔と松前漬けを取り出して振り向くと先輩は困ったようにこちらを見ていた。何すか?とつまみをテーブルに置きながら尋ねると、至極情けない顔でこう言った。
 「これ、どぎゃんして電話すっとね?」
 「……前に教えたやないっすか」
 ほとんど呆れて千歳先輩からiPhoneを奪い返す。画面は真っ暗だ。右往左往しているうちに自動ロックが働いたらしい。一分に設定しているから仕方ないか。十桁の暗証番号を入力し直していたら千歳先輩が何か輝かしい目で手元を覗き込んでくる。
 「……何すか」
 「いやあ、魔法んごたる」
 「フツーっすわ」
 千歳先輩の携帯は今でもガラケーだ。別にそれは悪くないと思う。そういう需要もあるからどれだけスマホが普及しようとガラケーの新機種は発表される。けれど千歳先輩の携帯は俺が知る限り五年前から変わっていないし、パソコンもほとんど使えない。一度どうしてもやらなければならない大学の課題があると言われてパソコンを貸したとき、何をどうしたのかあわやクリーンインストールされかけて、それ以来絶対に先輩にはパソコンを触らせないと決めている。
 アドレス帳を開くより履歴の方が早いと電話アプリを起動させ、着信履歴の四番目にあった『白石蔵ノ介』の名前をタップする。発信中、の表示が消える前に千歳先輩に渡す。ありがとう、と言って先輩は素直にiPhoneを耳に当てた。初めて貸したときは相手が話しているときは耳に、こっちから話すときは口元にとさながらトランシーバーのような使い方をしていたので、少しは成長したのだと思うことにする。
 程なくして出たらしい白石先輩は千歳先輩の声を聞くなり怒鳴り始めた。そんなに近くにいない俺にも聞こえてきたのだから相当な声量で怒鳴っているのだろう。千歳先輩は大きな身体を丸く縮めてペコペコと見えもしない相手に頭を下げていた。自分が喋るとき、やっぱり先輩は少しだけiPhoneを口元へとズラしていて、なんだかもうこの人に電化製品の使い方を教えるのはやめよう、と思った。

 千歳先輩と白石先輩は三回同棲して三回失敗した。
 彼らがくっついたり離れたりしながらも何だかんだで一緒にいる期間は、俺が中学二年のときからだからもう九年くらいになる。はっきり言って俺には何故彼らが今でも付き合っているのかまるでわからない。無駄を嫌い完璧を目指す白石先輩にとって千歳先輩なんて存在丸ごと否定したくなるような人間なんじゃないかって思うし、同棲がうまくいかなかったのも毎回そういう価値観の違いが原因だったから。いつだったかそのことを白石先輩に尋ねたとき、彼は困ったように笑って、「せやなあ、俺にもようわからんわ」と言っていた。それでいてひどく幸せそうな声色だったものだからもう勝手にすればいいと思っている。痴話喧嘩の度に俺を巻き込みさえしなければ。
 三回目の同棲が失敗に終わったとき、一人では家賃を払えなくて退去勧告を出された、と発言の割にはのんびりとした口調で千歳先輩が言った。それで俺はこの部屋に転がり込むことを決めた。東京に出てきて最初に思い知ったのは家賃の高さだ。その頃俺はユニットバスの六畳1Kに住んでいて、それで八万五千円だった。冗談じゃない。大阪では御堂筋沿線でも同じ間取り同じ条件で三万円台の物件がごろごろしているというのに。
 かつては千歳先輩と白石先輩の愛の巣で、今となってはほとんど留守の千歳先輩のことを思えば俺の城と言っても差し支えのない2LDKのこの部屋は管理費込みで十二万。どうやら東京では土地代が馬鹿高いだけで、部屋のグレードが変わることによる値上げ率はそこまでひどくないようだった。節約の鬼である白石先輩が選んだ物件というのも大きかったのかもしれない。とにかく二人で割って六万円、月二万五千円の節約は純粋に有り難かった。風呂トイレがセパレートであることが何より嬉しい。俺は部屋の散乱具合やマグカップの汚れなんかには気にも留めないけれど、身体の汚れはバスタブにゆっくり浸かってしっかり落としたいタイプだ。
 そういうわけで俺は、この暮らしを気に入っている。

 「ありがとう」
 何やら謝り続けてすっかり疲弊しきった千歳先輩がiPhoneを返してきた。
 「絞られました?」
 「そりゃあもう、こってり」
 苦笑いする千歳先輩には反省など微塵も感じられなくて、白石先輩も苦労してんねやろなあ、と他人事のように思った。だって他人事だから。それでいて千歳先輩はどこか幸せそうなのだから、やっぱりもう勝手にすればいいと思う。
 「そろそろ冷えたと思いますよ」
 そう言って用意した二つのお猪口へと石川県の地酒を注ぐ。俺は日本酒が好きだ。それも喉をちくちく焼くくらい辛いやつ。食べ物の好みはもっぱら甘党だけれど酒は別だ。千歳先輩は俺が日本全国のどこにでもあるあんこ入りの土産物を好むとは一向に覚えなかったけれど、辛い日本酒を好むことは一発で覚えた。先輩も同じだからだろう。先輩は辛い日本酒と、深い芋焼酎が大好きだ。後者は出身地の影響もあるのだと思う。大阪にも東京にも何年も住んでいるはずなのに先輩からは未だ九州訛りが抜けない。上京してからの五年間でたまに関東弁が混じるようになったことを自覚している俺は、密かに先輩のそんなところが格好良いと思っている。
 「ほな、おかえりなさい」
 「うん、ただいま」
 徳利と同じガラス細工のお猪口が小気味良い音を立てる。一息に喉へと流し込めば食道から胃からカッと熱くなる。この快感がたまらない。
 「うまいっすわ」
 「そぎゃんだろ?試飲ばして光くんの気に入る味て思ったけんね」
 先輩も同じように一息に飲み干して、もう次の一杯を注いでいる。陽のあるうちに飲む酒、というのがまた味覚を刺激する。
 梅雨も明けて世界が夏の様相を呈し始める、七月上旬のことだった。

 『今年二十日土曜日やろ?金曜は遅くまで実習あるから、昼の高速バスで東京行くわ』
 「別にいいですて。アンタ今忙しいんでしょ」
 『何言うてんねん!愛しい恋人の誕生日に一緒におらんやなんて男がすたる!』
 「あ〜はいはい、ほな楽しみにしてます」
 『おま、ちょっとくらい心込めろや!』
 「込めてますて。ほな俺仕事詰まってるんで、切りますよ」
 スピーカーから何やら騒ぎ立てる謙也さんを遮って赤い終了ボタンをタップした。ポリクリ中で忙しいというのに掛けてきた彼を気遣ってのことだ。一応。

 謙也さんは大阪で医学部に通っている。彼が言った通り、俺たちは恋人と呼ばれる関係で間違いはない。いわゆる遠距離恋愛だ。俺と謙也さんが高校時代からずっと付き合っているという事実は、千歳先輩と白石先輩の関係と同じくらいよくわからない事態だと思う。何に対しても熱い謙也さんと何もかもに冷めている俺とでは、お世辞にも合うタイプとは言えないから。
 俺が上京を決めたときには散々反対されたものだった。謙也さんより一つ年下の俺が進路を決めるのは当然謙也さんより一年遅れてのことで、その意思を表明したのは謙也さんが第一志望の大学に通い始めて二ヶ月が経った頃だった。
 何でもっとはよ言わへんねん、と謙也さんは押し殺したような声で言った。
 「俺はお前の近くにいたいから大阪の大学受けたんやで」
 本当は謙也さんの従兄弟の父親が勤めている大学を薦められたのだとそのとき初めて聞いた。
 「……そんなん、俺頼んでませんし」
 「光!」
 「とにかく俺は東京行きます。アンタみたいな特殊な職やら血筋とちごて、俺の目指す業界は東京行かな仕事ないんで」
 大阪を不満に思っていたわけではない。苦手だった、必要以上に笑いを要求してくる環境は学校選びが悪かっただけだと思うし、流行りのものは街へ出れば一通り揃い、人が忙しなく行き交うのにどこか温かい大阪の街は嫌いじゃなかった。それでも東京へ行かなければならないような気がしていた。自分の好きな音を紡ぎたい。尊敬するプロデューサーは皆東京在住だった。
 「……どうしても、なんやな」
 「どうしても、っすわ」
 たとえばこれで謙也さんに別れを突きつけられても仕方がないと思っていた。むしろ望んでいたかもしれない。まだお互いに十代で、謙也さんには輝ける未来が待っていて、いつまでも男相手に恋人ごっこなんて続けてられないだろうと半ば自棄気味に考えていた。俺の東京行きを機に、どうしてか迷い込んでしまった特異な道から、本来用意されていたであろう幸せな人生にでも戻ってくれればいいと。
 けれど、謙也さんは俺の期待を裏切った。
 「わかった。お前がそこまで言うんやったら本気なんやろ。今すぐいうわけにはいかんけど、俺も絶対東京行くから。遠恋でもかまへん、絶対お前に寂しい想いはさせへんさかい」
 せやから、頑張りや。そう続けた謙也さんは泣きそうな声をしているくせに力強く俺を抱き締めた。アホやなあ、と思った。俺なんかに構っててもええことなんかひとつもあらへんのに。白石先輩の隣におったせいで鳴かず飛ばずな中高時代やったけど、アンタ単体で見たらめっちゃイケメンでめっちゃええ人やのに。アホすぎる、と、全力で罵ってやろうと思った言葉はどうしてか喉元に引っ掛かって大気を震わすことはなかった。代わりに頬に何か熱いものが伝って、見られないようにと俺は謙也さんにしがみついた。五年前の初夏だった。

 東京行きにはあれだけ反対した謙也さんが、千歳先輩とのルームシェアを「ああ、ええんちゃう?お前金無い言うとったもんなあ」とあっさり認めたのはひとえに白石先輩のおかげだと思う。謙也さんと白石先輩は俺と謙也さんより、そして千歳先輩と白石先輩より長い親友としての付き合いがある。千歳先輩と白石先輩のことをずっと間近で見てきた謙也さんは多分俺自身よりも彼らのことを信頼している。もっとも、千歳先輩のことは白石先輩が選んだ人物だから、というのがもっぱらの理由なのだけれど。

 可動式の座椅子をくるりと回して壁にかけたカレンダーを見遣る。七月二十日。来週の土曜日、俺はひとときだけ謙也さんと同い年になる。

 「千歳先輩、来週の土曜って何してます?」
 珍しく大学へ行っていたらしい先輩が帰ってきたとき、不躾に聞いてみた。
 「テスト前だけん普通に勉強しとるかと」
 その返答に少なからず驚いた。単位を取る気はあるらしい。
 「……そっすか」
 「土曜って何日ね」
 「二十日っすけど」
 「ああ」
 冷蔵庫の前で麦茶をラッパ飲みしていた先輩は、ものすごい勢いで振り返った。何かと思って一瞬身構えてしまう。千歳先輩の俊敏な動きだなんて、テニスから離れて久しい今そう見られるものじゃない。
 「光くん、誕生日ばいね」
 今度こそ大いに驚いた。一緒に暮らしていようが他人のことなど一切考えてなさそうな千歳先輩が、俺の誕生日を覚えていたなんて。
 「覚えたはったんすか」
 「数字の絡むこつはよう覚えとる自信あっとよ」
 そう言って自慢げに千歳先輩は胸を張った。ああそういえばこの人って頭良かったっけ、と思い出す。才気煥発云々もあるが、将棋だとかなんだとか、普通に異常に頭が回る。何せ不純な理由で在籍している学校は、あの天下の日本最高学府なのだ。天はときに与えなくてもいい人間に最高の贈り物をする。勿体ない。実に勿体ない。
 俺の謙也さんへの気持ちに最初に気付いたのも千歳先輩だった。中二の初夏、「財前くんって、謙也くんのこつば好いとっと?」と何の邪念もなく聞いてきた千歳先輩をどうやって大阪湾に沈めようかと画策した日々が懐かしい。
 「で、その日がどげんしたと?」
 至極純粋な瞳で千歳先輩が問うてくる。切り出したのは俺だけれど、その質問に答えるのは何やら非常に気恥ずかしい気がした。
 「いや、あの……謙也さんが、来るって」
 思わず逸らしてしまった目線を、恐る恐るえらく高い位置にある千歳先輩の目元へと移す。その目元はぱちくりとしばたいた後、ふっと緩んだ。
 「よか、よか。そりゃよかこつばいね」
 そんな優しい態度が余計に俺の羞恥心を煽った。顔が熱いからきっと赤くなっているんだろうと思って再び俯いた俺に、千歳先輩の柔らかく笑う気配が届いた。
 「俺、出とった方がよかかね?」
 「いや、そういうつもりで言ったんやなくて……」
 「ん?」
 慌てて顔を上げた俺を千歳先輩が覗き込んでくる。
 「千歳先輩も謙也さんと長いこと会ってないでしょ。せやし、一緒にウチで飯でも食えたらな、て」
 そう言った俺に先輩は再びぱちぱちと目をしばたたかせた。それからやっぱり、ふっと笑う。
 「そりゃ嬉しかね。楽しみばい」
 いつだったか白石先輩が千歳先輩を『天然タラシ』と評していたことがある。「あいつにその気がなくても周りの奴は片っ端から落ちてまうやろ?ていうか昔の俺もそうやん?」と(アンタの昔のことなんか知るかいな)。そのときは「財前!お前は絶対落ちたらあかんで!信じてるからな!」というオマケがついていた。白石先輩が刺した釘は全くもって大正解だったと思う。謙也さんと白石先輩という縛りがなければ俺はまんまと千歳先輩に落ちていたかもしれない。
 ……いやでもやっぱないわ、こんないつどこにおるかわからん、才能の無駄遣いしかせんような人とか無理やわ。謙也さんと全然タイプ違うし。
 そこまでぐるぐると頭を回して、千歳先輩にほな謙也さんにもそう伝えときます、とだけ告げた。

 とにかくそんなわけで俺の二十三歳の誕生日の予定は決まった。

 「……で、なんで白石先輩までいるんすか」
 七月二十日当日。夕方新宿に着いた謙也さんを迎えに行って家に帰れば、至極当然のように相変わらず見た目だけはパーフェクトな白石先輩がいた。
 「ええやんええやん、変なタイミングで千歳が帰ってきよった所為でどうせ二人では過ごされへんのやし。お、謙也!久しぶり!」
 「久しぶりやなあ白石!お前も来とるとは思わんかったわ!」
 「来るに決まってるやろ!お前がこっち来るて聞いたらおとなしゅうしてられるかいな!」
 勝手にハイタッチを交わす二人を見て溜息を吐く。昔はよくこの光景につまらない嫉妬をしたものだった。まあ千歳先輩に今日の予定を話した時点で白石先輩も来ることは折り込んでいたのだけれど。
 「え、俺帰ってきたらいかんかったと?」
 白石先輩の言葉を間に受けて千歳先輩が不安気な声を上げる。
 「あかんあかん、全然あかん。お前にはデリカシーっちゅーもんが足らん」
 中学時代から見慣れたと思っていたキッチンに並ぶ二人の姿は久しぶりだとなんだかぞわぞわする。距離近すぎるやろ。めっちゃ動き辛そうやん。
 「そう思うならとっととラブホでも行ってくれれば有り難いんですけどね。ちゅーか白石先輩の家もこっから電車で十五分やないすか」
 人の家のキッチンで人のルームメイトといちゃつき人の彼氏とキャッキャするかつて尊敬していた先輩にありったけの嫌味をぶつける。
 「まあそう言うなて財前。たこ焼き久しぶりやろ?」
 白石先輩はそう言ってテーブルの上にあるたこ焼き器を指差した。じゅうじゅうと音を立てるたこ焼き器は千歳先輩のものだ。その昔、金ちゃんに「超ウルトラスーパーデリシャスたこ焼き開発してーな!」と言われて購入したものらしい。ちなみに金ちゃんはプロテニスプレイヤーとなって世界中を駆け回っている。今でも越前を追い掛け回していると風の噂に聞いた。
 「お、今日たこ焼きか!」
 瞳を輝かせる謙也さんが憎い。アンタずっと大阪なんやからどうせ腐るほどたこ焼き食ってるでしょ。それでも、懐かしい故郷の風景に心は緩んでしまう。

 「ほな財前の誕生日を祝って、乾杯!」
 白石先輩の号令で乾杯をする。皆で集まると先輩はいつまで経っても部長だ。
 「おめでとう、財前」
 「おめでとう、光くん」
 白石先輩と千歳先輩からそれぞれ祝福の言葉をかけられる。俺のビールに、白石先輩のチューハイと千歳先輩のビールがかつん、かつん、とぶつけられる。
 「……ありがとうございます」
 なんやこれ。ちょっと気恥ずかしい。別にパーティーをするつもりではなかったのだけれど。
 「光」
 最後に、隣の謙也さんから名前を呼ばれる。
 「二十三歳、おめでとう」
 謙也さんはちょっとはにかんでハイボールの缶を掲げた。
 「……それもう四回目ですけどね、今日」
 「ええやん、なんべんでも言うたるわ。お前が生まれた奇跡に乾杯や!」
 「うわ、恥ずかし」
 そういうことを臆面もなく言える神経が理解できない。俺、絶対今顔赤なってる。隠すように謙也さんのハイボールへとビールをぶつけた。
 「……ありがとうございます」
 目も合わせないで言った俺の頭を謙也さんはわしゃわしゃと掻き混ぜた。その高い温度に、ああ謙也さんだ、としみじみ思う。

 「ほな食おか」
 「せやな!いただきま〜す!」
 白石先輩の声を合図に積み上げられたたこ焼きへと各々手を伸ばす。
 「うわこの味懐かし!これ千歳が極めたやつやろ?」
 「久しぶりに作ったばってん、レシピ覚えとってよかったばい」
 にこにこ笑う千歳先輩はじゅうじゅうと音を立てるたこ焼きを引っくり返している。たこ焼きは油が馴染んだ二回目以降が勝負だ。大阪へ来た頃、焼き方のまるでなっていなかった千歳先輩は中学を卒業する頃には地元民顔負けの技術を身につけていた。
 「あかんて謙也、こっちは追いダネすんねやからそんなはよ引っくり返すな!」
 「お前の焼き方は邪道やねん!九十度回転法が一番に決まってるやろ」
 主に千歳先輩へ技術を叩き込んだ二人は昔から焼き方のポリシーが合わない。謙也さんはたこ焼き店でよく見かける、二回に分けて引っくり返し空洞を作る焼き方。白石先輩は半分焼けたあと全返しし、タネを加えて中までぎっちり詰まらせる焼き方。
 「白石先輩まだその焼き方なんすか?」
 「なんや、俺のエクスタシー焼きにケチつける気か」
 俺はどちらかといえば謙也さん派だった。まあ食べられたら何でもいいけれど。ちなみに銀だこ法は白石先輩が「あんな油まみれにしたら生活習慣病になってまうやろ!」と部内全面禁止を言い渡していた。
 「なあ千歳、お前も結局九十度回転法に落ち着いたもんなあ?」
 「いやあまあ、たこ焼きの肝はタネだけん」
 「いや違う、それは違うで千歳!そんな風に教えた覚えはあらへん」
 「研究の結果ばい」
 「それは俺も違うと思うで。焼きナメんなや」
 全く、この人達はたこ焼きも黙って焼けないのか。ネギはたこと一緒に入れるか生地に混ぜ込むか、そんなことばかり議論の絶えなかった遠い昔を思い出す。アホらしいと俺は焼きには参加しないで、冷蔵庫へと向かった。
 「何してんねん財前」
 「いや、これ」
 氷温庫から取り出した袋を振る。
 「ホタテやないか!」
 「でかした財前!」
 ホタテは、餅やチーズやキムチなんかの変わり種は邪道だ、と言って憚らなかった彼らを鞍替えさせたキラーコンテンツだ。俺は密かに、たこ焼きの肝は具だと思っている。

 もうしばらくいらないというくらい大量のたこ焼きを消費しながら、思い思いの酒を飲む。謙也さんの実習の話や千歳先輩の旅の話を聞いたり、白石先輩が自宅のベランダで育てている毒草についての講釈を遮ったり、十代の頃の思い出話に花を咲かせたりした。
 白石先輩と謙也さんの掛け合いは相変わらず漫才みたいだし、千歳先輩は時折盛大なボケをかますし、同じチームにいた頃と変わらない笑い声が響く。
 俺は昔から積極的に参加こそしなかったけれど、うるさいうざいと思っていたそんな空気が思いの外気に入っていたのだなあと今更のように実感した。

 たこ焼きが一段落ついて、主役は何もせんでええよという言葉に甘えて洗い物は白石先輩と千歳先輩に任せた。キッチンの方から話足りなかったらしい白石先輩の毒草講釈が聞こえる。うんうんと頷いて聞いてやる千歳先輩にようやるわ、と思う。右から左と思わせておいて実はきちんと聞いているらしい。海外へ行くと千歳先輩はいつも気味の悪い毒草を採って帰ってくる。たまに検閲に引っ掛かかる。
 「光」
 ぼんやりと焼酎水割りを舐めていると謙也さんから声を掛けられた。
 「ちょっと涼まへんか?」
 謙也さんは親指でくいくい、とベランダを指差した。悪くない提案だと思った。

 外へ出ると夏の夜特有のさわやかな風が頬を撫でた。日中の暑さは鳴りを潜め、晴れた空には控えめな都会の星が光っている。ええ夜やなあ、とガラにもなく感慨に耽ってしまう。適度に回ったアルコールで気分もいい。そして隣には謙也さん。完璧や。

 「なんやかんやで、皆でわいわいやるんも久しぶりやなあ」
 手摺に肘をついて空を見上げる謙也さんが、楽しいなあ、と笑った。そうですね、と返して俺も手摺に凭れる。
 「忙しいのに来てくれはって、ほんまにありがとうございます」
 「え」
 謙也さんは間抜けな声を出して、何か別の生き物でも見るかのような目で俺の方を振り返った。
 「何やどしたんえらい素直やん。何か企んでる?」
 「……アンタね」
 失礼にも程がある。まあそう思わせるのは日頃の自分が悪いことはわかっている。でもこんな誕生日の夜ならば、誰だって素直になるものだろう。
 「ほんまに思ってるんです。電話くれたときも、めっちゃ嬉しかったし」
 「……光」
 込めた意味は二件の電話だ。ひとつは来てくれると告げられた電話で、もうひとつは今日日付が変わった瞬間に掛かってきた電話。……少し嘘だけれど。せっかちな謙也さんは毎年十一時五十九分に電話を掛けてくる。来年こそは、と毎年意気込むけれど、やっぱり今年も一分早かった。俺は十二時ちょうどかどうかより、当たり前のように「来年こそ」と口にしてもらえる方が嬉しかったりする。絶対言わへんけど。
 「せやけどほんま、今謙也さん大事な時期でしょ。研修先決めなあかんて言うてはったし。やからあんまり……」
 「ああ、そのことやねんけどな」
 俺のことは気にせんといて、と続けるはずだった言葉が遮られた。謙也さんの声色が僅かに変わる。
 「俺、研修先は東京の病院受けようと思てんねん」
 「え」
 見上げた謙也さんの視線が妙に真剣だったので、外へ誘い出した理由はこれか、と思い当たった。それと同時に五年前の言葉が蘇る。
 ——俺も絶対東京行くから。
 信じていなかったわけではないけれど、いざ本当に実行しようとする謙也さんを前にすると、何と言っていいかわからなくなった。
 「……別にいいですて。アンタ、最終的には実家の病院継ぐんでしょ?」
 「それでも俺は、いっときだけでも光と一緒にいたいねん。そんで、もし東京来ることが決まったら……」
 そこで謙也さんは一旦言葉を切り、手摺から離れてこちらを向き直った。なんとなく改まった空気で、あ、これは来るな、と身構えつつ俺も謙也さんへと向き直る。

 「一緒に暮らそう、光」

 いつもオロオロとしている頼りない瞳が今日このときに限って決意に満ちている。謙也さんはいつもそうだ。キメ処だけはしっかり押さえている。中二の夏が蘇る。あのとき、悔し気に唇を噛み締める白石先輩を、退部したと言い張る千歳先輩を、納得させるほどの漢気を見せたのは他ならない謙也さんだった。そんな彼が誰よりも好きだった。

 俺は気付かれないようにひとつ深呼吸をした。そして、謙也さんへの答えを提示する。

 「お断りっすわ」
 「なんで!?」

 鳩が豆鉄砲を喰らったみたいな顔をする謙也さんに苦笑する。いくら謙也さんの数少ないイケメンシーンを知っているからと言って雰囲気に流されるほど俺は甘くない。俺は、もっと現実的に謙也さんとの将来を考えている。
 「俺ね、千歳先輩と白石先輩が同棲解消するん三回見てるんすよ。それはアンタも一緒でしょ?」
 反面教師という言葉が実にしっくりくる、人騒がせなバカップルを例に挙げる。う、と謙也さんは一瞬言葉に詰まった。
 「それはそうかもしらんけど……俺とお前はあんな風にはならへんて」
 「いや、多分無理やと思います。謙也さんはいつもいっぱいがいいんやろけど、俺はたまに少しがいい。それはこの五年でわかりきってることでしょ」
 「う……まあ、そうやけど」
 そのすれ違いは付き合い始めた頃から常に付きまとっていたことだった。
 謙也さんのことは好きだ。誰にも取られたくないとも思う。けれど俺にとって自分一人でいる時間はどうしたって必要で、何かある毎に俺と連絡を取りたがる謙也さんとは少しリズムが違っていた。俺たちだって千歳先輩たちと張り合えるくらい別れ話を繰り返してきたのだ。それでも好きだから一緒にいる。だからといって、一緒に暮らしてうまくいくとは限らない。
 「……それでも俺は、光と一緒におりたいねん」
 謙也さんは弱い声でそう呟いた。なんだかなあ、ずるいなあ、と思う。眉根を寄せて俯いて、懇願するような声で呟かれてしまえば心が揺らいでしまう。
 「……東京に来るって言うてくれたことは、純粋に嬉しいです」
 「光!」
 ぱっと顔を輝かせる謙也さんを押し止める。
 「せやから、近くに暮らすか、一人が嫌やったら白石先輩とルームシェアしたらどうです?」
 「……は?白石と?」
 何言ってんのお前、という風に少し切れ長の目がぱちくりと瞬きを繰り返す。
 「俺ね、千歳先輩との暮らし、結構気に入っとるんすわ。……あ、変な意味やないですよ。あの人ほとんど帰ってけえへんから一人暮らしみたいなもんやし、気楽なんすわ」
 途中で可哀想なくらい悲壮な顔をした謙也さんへと、言い含めるように伝える。
 「せやから近所でも、何ならこの部屋の隣にでも白石先輩と引っ越してきたらどうです?あの人らも一つ屋根の下は無理ですけど、ドアが違えばうまくいくでしょ」
 「光……」
 「俺もね、謙也さんとずっと一緒にいられる方法、考えてるんすよ。ほんまは東京出てくるときに別れるつもりやったけど、アンタ離してくれへんかったから」
 せやから、責任取って下さいね?そう言うと、謙也さんは少し目を見開いた。そうして俺をおもむろに抱き寄せた。その腕に力が籠もる。きつく、強く。
 「ちょ、苦し……」
 「光」
 触れた身体から直接響く声は、喜びや悲しみ、怒りのどれでもなかった。いつでも単純明快な謙也さんが何を考えているのかわからなくて少し身構える。
 「お前が俺とのこと、ちゃんと考えてくれてるんはわかった。おおきに」
 「……はい」
 「せやけどお前、なんやまだ全部言うてないやろ」
 その言葉に息を詰める。いつも鈍感なくせに、謙也さんはときどき鋭い。俺が同棲を拒否する本当の理由は、確かに別にある。
 「まあ、言いたくないもんを無理して聞こうとは思わへん。お前が一緒に暮らさへんことを選ぶっていうならそれでええし」
 「……すみません」
 「何も一緒に住むことがゴールやないしな。白石ら見とったらようわかる」
 謙也さんは優しい。馬鹿みたいに優しい。その優しさが、ときどき怖い。

 本当は俺だって謙也さんと一緒にいたい。始めから無理だと決めつけないで一度くらいは一緒に住んでみたいとも思う。けれどどうシミュレートしても俺が無理だった。リズムの違いももちろんある。でもそれだけじゃない。
 たとえば謙也さんがこれから医者になって俺の何倍も収入を得るようになったとき、俺はどうなっているかわからない。好きな音楽の仕事はしていても、まだ駆け出しで確約された将来なんてない。家で小さな仕事をしながら、味噌汁を作って謙也さんの帰りを待つような甘えた暮らしに身を投じるなんて考えられなかった。謙也さんは多分、一生俺を大切に優しく甘やかしてくれるだろう。それが何よりも無理だった。
 そしてたぶん一生この気持ちを伝えることはないだろう。すみません謙也さん。声に出さないで小さく呟く。もしも俺が謙也さんに釣り合うほどの男になれたなら、そのときはきっと俺から迎えに行くから。謙也さんがやがて病院を継いだとき、大阪でも十分仕事ができるくらい、大きくなるから。

 そのまましばらく抱き合っていた。柔らかい風の漂う七月の夜に謙也さんの高い体温は少し暑いけれど、この温度が好きだと思う。もしも俺が同じ体温になったらきっとぶっ倒れてしまう熱さで、謙也さんはいつも何に対しても一生懸命だ。そんな人を独占していると思えばどこか申し訳ないような気分にもなるけれど、やっぱり嬉しいと思う。
 「……しっかし白石とルームシェアかあ」
 ぽつりと謙也さんが呟いた。
 「考えたこともなかったけど、おもろいかもしれんな」
 「たぶん、楽しいですよ。今日みたいなんいっぱいできる」
 「せやけどそんなん光に薦められるとはなあ。よう白石に妬いとったくせに」
 「いつの話してんすか」
 どちらともなくくすくすと笑う。
 「あ、せやせや」
 そう言って謙也さんが身体を離した。触れていた肌に風がそよげばひやりとして、汗をかいていたことに気付く。
 「どないしたんすか?」
 謙也さんはポケットを探った。出てきた掌の上には小さな箱があった。
 「渡すん忘れるとこやったわ。誕生日プレゼント」
 「……あ」
 固まる俺の左手を掴んで、掌を上に向かせる。その上に箱を載せて、謙也さんは笑った。
 「……ありがとうございます。開けていいっすか?」
 「おう、開けて開けて」
 破らないように包装紙を開くと、アクセサリー用の白い小箱が姿を現した。ゆっくりと開けてみる。中には黒いピアスが入っていた。

 実は中身はわかっていたのだけれど。

 「これで置換完了、やな!」
 「……ほんまにやられてまいましたね」
 付き合って最初の誕生日、謙也さんはどうしても俺にピアスをプレゼントしたかったらしい。けれど俺は中学の頃から五輪色のピアスをつけていて、それが完成されたレイアウトだったものだからえらく悩んだのだという。結局謙也さんが選んだのは、俺が元々つけていたものと似たデザインの赤いピアスだった。「これから一年に一本、お前のピアスを俺色に染めてやる」とかいう意味の分からん台詞付きで。
 あの頃四年先のことなんてまるで見えていなかった。けれどその言葉通り、次の年は黄色、それから青、緑、と一本ずつ俺の耳は謙也さんに浸食されていった。今年の黒で五本全部、謙也さんからもらったピアスで埋められる、というわけだ。
 「つけてみて」
 そう言われて、左耳の真ん中にある黒いピアスを外した。基本的につけっぱなしだから軽くひきつる。小箱の中から新しいピアスを取り出して、感覚だけで通す。器用やなあ、と呟いて、謙也さんは俺の左耳と右耳をじっくりと見渡して、それから満面の笑みを浮かべた。
 「もう一回。光、誕生日おめでとう」
 謙也さんに祝われる五回目の誕生日、今日五回目の祝福の言葉をもらう。
 「ありがとうございます」
 そうしてどちらともなく近付いて、そっと触れるだけのキスをする。馬鹿みたいに幸せだ。たぶん俺は今、地球上で一番幸せだ。

 「さ、部屋戻ろか。いくら夏やいうても夜は冷えるしな」
 「そっすね」

 果たして。ベランダから戻ると千歳先輩が白石先輩を組み敷いている真っ最中だった。
 「ちょ、お前ら何しとんねん!」
 謙也さんが叫ぶ。顔を真っ赤にして。この人はいつまで経ってもこういう方面にウブだ。そんな謙也さんを可愛いなあと思いながら、目の前の光景には純粋に殺意が湧く。
 「何って……ね?」
 「謙也、野暮なこと聞きなや」
 飄々と言い放つ二人に目眩がした。
 「あのね、せめて部屋でやってくれませんか」
 白石先輩のシャツの裾から千歳先輩の日焼けした腕が半分だけ見えていて、千歳先輩の首には白石先輩の白い腕が巻き付いている。誰も見たくない。誰も得しない。
 「ばってん一緒に暮らしとった頃はようこの床でヤりよったけんね」
 その一言で俺は謙也さんが帰ったらバケツ一杯に溜めた水を引っくり返してリビング中を擦って回ろうと決めた。
 「懐かしいなあ。やっぱりまた一緒に暮らすか?」
 だめだ。白石先輩にも酒が入っている。この人は完璧を標榜しているだけあって普段は千歳先輩への甘えなど欠片も見せはしないが、アルコールが入ると別だ。元から酒に強くない白石先輩は酔うと普段押し殺している千歳先輩への気持ちを全開にしてしまう。千歳先輩が旅に出ているときなんかはそれが悪い方向へと作用してしまい、もっぱら愚痴に付き合わされるのが常だった。「千歳は俺のことなんか二の次なんや、あいつはイケメンやし優しいから旅先でいくらでも女作っとるんやろ」、そんな風に愚痴って、「それでもやっぱり俺は千歳が好きなんや!」という絶叫でいつも締め括られる。正直どうでもいい。
 俺と謙也さんが絶句している間にも彼らの行為は進む。白石先輩は百歩譲って仕方がないとして、千歳先輩、アンタどんだけ飲んでも素面やろ。
 「ええからはよ部屋行けや!むしろこの家から出て行け!」
 口だけでは止まらないと判断した俺は主に千歳先輩に向けて蹴りを入れた。さっさと出て行け、俺には謙也さんとの貴重な夜が待っている。
 二人揃って口を尖らせながら彼らは千歳先輩の部屋へと移動して行った。その道すがらにも互いのあらゆる場所にキスを落とし合う様は、もしもこの場にマシンガンがあったなら迷わずぶっ放すだろうというくらい胸くそが悪かった。
 「……あの感じやと、近所に暮らしても俺我慢ならんかもしれませんわ」
 辟易しきって呟いた俺に、けれど謙也さんからの返答は返ってこなかった。不審に思って見上げると(悔しいことに俺は遂にこの人の身長を抜けなかった)、なんだか頬が赤い。
 「謙也さん?どないしたんすか?」
 答えない謙也さんの腕が俺の腰に回る。判断の遅れた俺はリビングの、あろうことか先程まで千歳先輩たちが抱き合っていた床へと押し倒された。
 「うわ、まさか当てられたんすか、あんなんに」
 「しゃあないやん!」
 余裕のない謙也さんの表情が間近にあって、不覚にも俺は勃起した。間髪入れず舌を絡めてきた謙也さんに流されそうになって、それでもここは嫌だ、と強く思った。
 呼吸の合間に胸を押し返す。蛍光灯の逆光を従えて唇を濡らす謙也さんは性的すぎた。反転して押さえつけたい衝動をぐっと我慢する。
 「俺の部屋行きましょ?俺のベッドふっかふかなん、謙也さん知ってるでしょ?」
 それだけで謙也さんは力を緩め、一層顔を真っ赤に染める。ちょろいもんだ。俺が綺麗にしているのはリビングと自分の身体、それからセミダブルサイズの脚付きマットレスベッドだ。誕生日にかこつけて今日は謙也さんをブチ犯してやろう。廊下にある千歳先輩の部屋から響く嬌声は全力で無視して、俺は謙也さんを自室へと誘った。

2013.7.20