階段を登りきったあたりで、その旋律に気が付いた。

Waltz Op. 64 No. 2

 放課後音楽準備室へ来るように、と顧問である榊からの呼び出しを伝えられたのは昼休みのことだった。オフである水曜の今日、跡部は関東大会を控えている身であるし、軽く自主練くらいはしようと考えていた。何となく肩透かしを食らった気分だったが、おそらく大会のオーダーのことだろうと当たりをつける。
 部活の有る無しに関わらず毎日律儀に迎えに来る樺地には先にテニスコートへ行っておくようメールを送信しておき、 ホームルームを終えると跡部は足早に教室を後にした。

 まだ半分以上のクラスが放課になっていない廊下は中途半端な静けさに支配されている。教師の声が響く傍らで、階段を隔てた向こうからは生徒たちが発する喧騒が聞こえた。黒板にチョークが当たる音、階段を踏み鳴らす足音、ふと振り返った教室の窓際には机に突っ伏した金色の髪が見えた。あの野郎、また寝てやがる。跡部様、さようなら!二人組の女子生徒が転がるように階段を降りて行く。
 二階から延びる渡り廊下に足を踏み入れると、さすがに喧騒の割合が増した。左側に見える部室棟への道にはちらほらとテニスバックを担いだ生徒の姿も見える。いつもよりは少ない。今日はオフだ。
 特別教室棟に入るとまたざわめきが遠のく。常用されるわけでない建物にはどこか人を拒絶する空気が漂っている。省エネ対策なのか、半分近く落とされた照明の所為もあるかもしれない。夏が近いのに、その廊下は冷え切っているようだった。
 階段を登るにつれて耳に届くほとんどが静寂に変わっていった。それと入れ違いで、微かな別の音が跡部に届き始める。階段を登り切って、それが今向かっている音楽室から聞こえているのだと確信した。防音作用の所為でかなり篭っているが、確かにピアノの音だ。更に近付くとはっきりと聞き取れるようになる。扉の前まで来て、一度立ち止まった。ショパン、ノクターン第二番。曲自体は跡部の好みではなかったが、優しい旋律が心地良い。
 準備室へは音楽室を通ってしか行けない。他人の演奏を止めるのは少し偲びない気もしたが、だからといって曲が終わるまで待ってやるほど跡部はお人好しではなかった。少しの逡巡の後、スライド式の扉に手をかける。独特の古い、けれど洗練された木の香りが漂って来る。開かれた窓から吹き込む風にカーテンが膨らむのが見えた。

 演奏が止んだ。物音か気配か、風の流れの変化か、何者かの侵入を正しく感じ取ったようだ。カタン、と椅子が床を擦る音が控え目に響き、演奏者が顔を出した。その銀髪に、跡部は見覚えがあった。
 「跡部部長」
 「鳳か」
 テニス部の後輩だった。
 「結構やるじゃねーの」
 一瞬の間があって、先程まで弾いていたピアノのことだと気付いて目を見張る。
 「いえ、そんな、自分なんてまだまだです」
 とんでもない、とでも言うように両手を振って謙遜する。その態度は実に彼らしく、紛れもなく本気でそう思っているのだろうと跡部は思う。
 「監督ですか?」
 「ああ、呼び出しがあった」
 「先程ノックしたんですが、いらっしゃらないみたいです」
 ホームルームが長引いてるんですかね、と言って眉を下げる。その仕草ひとつからでも育ちの良さが滲み出ている。
 「お前も呼び出しか?」
 鳳はユニフォームに着替えていた。足元に視線を落とすとテニスバックも置かれている。
 「いえ、自分は」
 心なし俯いて少し恥ずかしそうに続ける。
 「その、スカッドサーブでどうしても納得いかないところがありまして、」
 フォームを見てもらおうと思ったんです。苦笑して頭を掻く素振りを見せる。それでジャージなのか、と跡部は一人納得する。確かに生真面目で努力家な彼がオフだからといってさっさと帰ってしまうとも跡部には思えなかった。榊が戻るまでの手持ち無沙汰を解消するために趣味だと言っていたピアノに触れていたのだろう。
 「跡部部長が呼ばれてるなら、俺はお暇しますね」
 そう言って鳳は床に置かれたテニスバックに手を伸ばす。
 「いや、いい」
 手が宙を掴み、中腰の体勢で止まった。そこで初めて、跡部はこの後輩を見上げていたことに気付く。自分より十センチは背が高いはずのその後輩は、それでも腰の低さの所為でほとんどそれを感じさせない。
 「それより、何か弾いてくれ」
 え、跡部の言葉に無防備な表情を晒す。
 「監督が戻るまでの暇潰しだ」
 跡部はわざとぶっきらぼうに言った。ただの気まぐれだと伝えるためだ。跡部は自分のどんな仕草や言動がどんな風に相手に伝わるかを熟知している。自らを演出するということにおいて妥協はしない男だ。
 鳳はそれでもしばらく跡部の発言について考えを巡らせていたが、やがて決心したように椅子を引いた。
 「ショパンでいいですか?今これしか楽譜が無くて」
 申し訳なさそうに言う鳳に対し、構わない、というように跡部は頷いた。彼はその作曲家が好きではなかったけれど、先程聴いた旋律とこの後輩の人柄を考えると、なるほど最適だと思った。跡部の好むワーグナーやベートーヴェンのような曲は、この後輩には似合わない。

 最初の一音は、合唱における音合わせのような単音から始まる。
 ショパンのワルツ第七番。有名な『小犬のワルツ』に続く楽曲で、それに比べると控えめであるがある程度の知名度を誇っている。無関心を決め込めば一生知らないままでもいられるし、少しでも興味を持てばすぐに出会える一曲だ。始まりだけは先程弾いていたノクターン第二番に似ているかもしれない。けれどあちらは長調で、こちらは短調だ。
 Tempo guisto。適度な速さ、とはおよそ人間の心拍数を基準にされる。結局のところ人が一番安らぎを覚えるのは、母親の胎内で聴いた心音だという。その記憶だけは全人類の深層意識とも言うべき心の深い場所に平等に刻みつけられている。この不平等社会における、正方向の頂点とも言うべき跡部にも、受動的な記憶としてそれはあるはずだ。
 ショパンが作ったワルツの多くはその時代の流行であったウィンナ・ワルツとは異なり、舞踏を前提としては作られていない。ワルツという形式に彼なりの美学を混ぜ込ませ、独創的な芸術に昇華した。ワルツ第七番はそれが如実に現れている。優美でありながらどこか哀愁を漂わせるその曲は、晩年のショパンが「別れ」や「死」に直面しながら創り上げたものだという。軽やかなワルツが見事な抒情詩を奏でている。

 実に鳳らしい選択だ、と跡部は思う。では鳳らしさとは一体何だろうかと、グランドピアノに半分隠された彼から読み取ろうとする。

 丁度いいことに、つい最近彼らしさを如実に示すような出来事があったばかりだ。跡部の同輩である宍戸が、都大会での惨敗を巻き返して正レギュラーに復帰したその軌跡の影に、この後輩の存在があった。
 跡部は鳳が宍戸の特訓に付き合っている場面を、一度だけ見かけたことがある。勝気に吠えずらをかく相変わらずな宍戸の後ろで、どうしたって隠せないその体格を持て余すように立ちすくんでいたのが印象的だった。もしかすると少し気まずさが浮かんでいたかもしれない。鳳はある意味で、他の下級生たちと同じような感情を跡部に抱いていた。それは尊敬であり、畏怖だ。だからその秘密特訓を見られれば多少なりとも後ろめたさを感じるし、何を言われるかと怯えたりもする。それでもその目からは、自分はこのひたむきな先輩に尽くすことを決めたのだという、確固たる意思が放たれていた。

 厄介だ、とそのとき跡部は思った。その時点で鳳の目に映っていたものは宍戸の奮闘それのみだったからだ。

 その特訓は本来のダブルスパートナーであったはずの滝を引きずり落とし、宍戸と共に行った監督への請願が同期である日吉の正レギュラー入りを拒んだ。もちろんこのチームのシステムにおいてレギュラーを巡る攻防はあって然るべきだし、宍戸の復帰それ自体はチームに有益だと判断したから跡部も一言添えた。だからといって鳳の行動を認めたかといえばそれは別問題だ。

 三十三小節目、転調とテンポの転換が同時に訪れる。
 Piu mosso。より速く、と示された速度記号の指示通りに鳳の繊細な指は滑らかに動く。跡部はその指を見つめる。細くて長い。身長と同様に掌は大きく、演奏用に丸められた指と相まって必要以上の包容力を感じさせる。
 その軽やかな長調に潜んでいるのは”思い出”だ。全体に染み渡るマズルカ的曲調にあって、八分音符で形成されるこのパートにはショパンが青春時代を過ごしたウィーンのサロンでのめくるめく時間が凝縮されている。あるいはウィーンを追われた後に経験した、二つの恋の思い出だという解釈もできるだろう。
 思い出は人を縛る。中学生である彼らにはまだ自覚はないかもしれない。それでも必ず別れはやって来るし、思い出は美しいほど人を魅了し、時にその日々を憎ませさえする。迎える新しい一日が人生最良の一日とは限らない。過去を凌駕する未来に思いを馳せ、あがく時間が長いほどふと気付いた時には実体でない故に美しさを磨かれた過去が黙って自分を見つめている。彼らはまだそれを実感し得ないが、間違いなく今現在、未来の過去を紡いでいる最中にある。彼らが何らかの過ちを犯しても、それに気付く頃その感情は”後悔”と呼ばれてしまう。そういう岐路に彼らはいる。

 「滝先輩、おつかれさまです」
 宍戸が滝を下したその日、部室での一場面を跡部は目撃している。
 「…おつかれ、長太郎」
 滝萩之介は穏やかな人物だ。そのストレートの髪を揺らして彼は変わらない優雅な微笑みを鳳に向けていた。
 「あの、俺…」
 何?まとめた荷物を担ぎ上げて滝は言った。正レギュラーから落ちれば、ロッカーも引っ越さなくてはならない。
 「滝さんに、謝らないといけないことが、」
 「長太郎」
 静かに、それでも有無を言わさないで滝は彼の言葉を遮った。鳳の行動を見透かし、待ち構えていたかのような態度だった。
 「ここは氷帝学園だよ。負けた者は去る、それは当たり前だよね?」
 はい、消え入りそうに言って、そのとき鳳は滝が宍戸を指して言っているのだと考えていた。けれど続く言葉はそれを否定する。
 「俺は宍戸に負けたんだ」
 この意味がわかる?と滝が言って、鳳は呆然と立ち竦んだままその意図を図り兼ねている。クスリと笑って滝は続ける。
 「それは純粋に俺が宍戸より弱いということだし、そこにお前は介在しない。あれは俺と宍戸の一騎打ちで、俺が負けたのはお前じゃなくて宍戸だ」
 鳳は何も言えないでいる。滝は笑っている。
 「だからお前が謝るのは、ある意味侮辱なんだよ。俺だけじゃないよ、宍戸に対してもだ。宍戸はお前に感謝してるだろうし、そんなこと考えもしないだろうけどね」
 じゃあおつかれ、と言って滝は部室を後にする。滝もそうだし、宍戸もそうだったが、この学園で正レギュラーを争うレベルにいる三年生は、どこかしら肝が座っている。それは諦観にも似た達観だ。外部からは時に理不尽とも評される事柄の多くを理解し、受け入れている。だからその場にいた三年生全員がおつかれ、と返し、誰もその後は追わなかった。それは決して冷酷さではない。ある種の礼儀だ。
 樺地は元より多くを語らない。だから残る二年生レギュラーの鳳だけが何かを引きずっている。そこに何かを言える人間は誰もいない。誰だって自分で乗り越えて来たことだ。そのとき準レギュラーのロッカーにいた宍戸がもしそこに在ったとしたら、何かを口にしただろうか。もし誰かが鳳に何か言葉をかけたとすれば、乗り越えたはずの理不尽や遣る瀬無さに直面してしまうのはその本人自身だ。だから誰も何も言わない。気まずい静寂だけがその部屋を支配した。

 六十六小節目。長調のまま、テンポだけが変化する。Piu lento、より遅く。このパートは長調でありながら必要以上の哀愁を感じさせる。そこにあるのは諦観だ。ショパンを常に苦しめ続けて来たのは、病魔と失恋だった。
 自らの芸術をウィーンに認めてもらえなかったショパンは、故郷であるポーランドでなくフランスへと渡った。そこで二つの別れを経験している。
 一つ目、美しい貴族マリア・ヴォジンスカ。彼らは間違いなく愛し合ったはずであるが、彼女の両親がそれを否定した。理由は彼が不規則な生活をする流れ者であったことと、当時絶望の代名詞であった肺病を患っていたことだ。十六歳のマリアは自らの愛よりも両親の庇護を選ぶ。それが一つ目の失恋だ。

 ただ純粋に宍戸に憧れているだけならば跡部も気にしなかった。けれど鳳は優しすぎるのだ。自分の信念だけを突き通せばよかったものを、レギュラー落ちした滝に対しても、更に言えばレギュラー入りし損ねた日吉に対しても、この好青年にも見える少年はまるで聖人のように心を痛めてしまう。そしてその気遣いは誰も望まない不協和音を生んでしまう。そのことに一番心を痛めるのは、他でもない鳳自身だった。
 鳳はこの氷帝学園にあって、イレギュラーな存在だった。他人に手を貸すことも、情けをかけることも、本当ならば誰のためにもならない。

 突然跡部は、「大会が終われば宍戸はいなくなるんだぜ」と言いたい衝動に駆られた。そんなことは誰しもが目を背けながらも誰だって理解していることで、この利発な後輩が意識していないとは思っていない。むしろ必要以上に気に病んでいると考えた方が合理的だ。それでも跡部は告げたいと思った。

 九十九小節目、piu mosso、もう一度思い出に浸る。
 二つ目の失恋、男装の作家、ジョルジュ・サンド。バツイチの彼女はフェミニズムなど遠い当時にあって”女性”という規範を逸脱し、男性関係も派手であったが、ショパンのことは真剣に愛した。スキャンダルと下世話な憶測から逃げるように安息の地として選んだ地中海の島で、彼は彼女と彼女の二人の連れ子と幸福な日々を送りたいと考える。しかし肺病を忌まれた彼らは郊外の寂れた僧院に追いやられた。それでも慎ましい生活と愛は彼に一時の幸福を与えたが、蜜月は長く続かなかった。彼女は去り、彼に残されたのは劣悪な環境で悪化した肺病と精神の闇だけだった。

 宍戸がいなくなるということは、跡部自身もその場を去るということを意味した。

 跡部は正直、自分が去った後の氷帝学園テニス部がどんな体制になったって構わないと考えていた。元々伝統なんてものは好きじゃない。生まれ育った遠い国がそういったものを滑稽なほど誇りにしていて、彼はその被害者だったからだ。
 跡部が君臨し続けたこの三年間、氷帝は跡部の思う氷帝であり続けた。それだけで十分だった。跡部自身は高等部へ上がり、また築き直すだけだ。だから自分の後継者に、同じタイプの人間を据える必要性はあまり感じていなかった。誰もが認める程の実力と、人の上に立つ素質さえあれば。
 その基準で言えば、鳳だって候補に入っていたのだ。二年の中では早々に正レギュラーの座を射止め、自分と違う方法だったとしても他人から信頼される人柄を持つこの後輩は。

 けれど鳳は自らの尊敬心を最優先した。その行動が他の誰かを傷付けることに、どこかの時点で考えが及ばなかったとは思えない。それでもチームに波紋を起こす、そんな行為を選んだ。人の上に立つ者としては、一番してはいけないことだった。人を思いやり続けた最後の最後にその帰結としてその選択を取ったならば、彼を部長に指名するわけにはいかないと跡部は思った。それがチームに対しても、鳳に対しても、自分ができる最後の仕事だと半ば確信した。

 百三十一小節目。ここで曲は冒頭に戻る。Tempo Ą、元の速さで。

 榊はまだ来ない。跡部は思っていたよりも焦燥している自分に気付く。それが迫り来る引退に対してなのか、自分が去った後の部に対してかは判断がつかない。
 ただただ、当たり前だった現在が急速に過去になっていく。鳳はそういう弾き方をしている。それがショパンが楽譜に忍ばせた罠なのか、鳳の心情なのか、その結論すらも跡部には見付けられなかった。
 自分や宍戸のいないテニス部で、鳳はどうあるだろうかと跡部は考える。
 きっと新しい部長を支え、新しいレギュラーとも違和感なく迎合し、全国を目指すだろう。ダブルスパートナーは後輩になるかもしれないが、その優しさでもって正しくリードしていくだろう。そこに破綻は多分ない。
 けれどおそらく彼は幻影を見る。コート上に、グラウンドに、過去の影を見る。

 慈しむように鳳の指が百六十二小節目を迎える。思い出を辿る最後のパート。

 鳳は人当たりが良い。実際、ほとんどの場面では博愛主義のようなものだし、本気で性善説を唱えるし、生真面目に世界平和を願ったりする。誰しもに好感を与え、その丸められた指のように全てを包み込もうとする。
 けれど本当は人一倍頑固だし、こうと決めたことは譲らない。それが目上の指示によって妨げられたとしてもだ。たとえば博愛も、性善説も、世界平和も、それはひとえに頑固さの発露による。社会が見せる闇がどれだけ汚くとも、そこに正当な理由があっても、鳳はその信念を曲げない。道徳的に正しいとされることが時と場合によっては疎ましいとされることを認めない。さらにその正誤の判断は己の内に持っている。
 そういうところがひどく鳳的でショパン的なのだと跡部は思う。だから跡部はそれが気に入らない。彼はショパンが嫌いなのだ。

 曲が終盤に近付く。何事もいずれは終わる。やめてくれ、と跡部は思った。止めるのをやめてくれ。

 鳳が選び取った道は、いずれ彼を縛るだろう。宍戸が居なくなった後で、その幻影に囚われて初めて彼は自分の犯した過ちに気付くだろう。本当の意味で最後に傷付くのは滝でも日吉でも、まして宍戸でもない。そのことが見えたから、このパートが終わることを跡部は恐れる。それでも全ては平等に終わって行く。思い出ももうすぐ終わる。

2012.7.20