Sympathy for the Devil
「一番印象に残ってる試合とかってどれ?」
「は?」
「やっぱ幸村?あれはエゲツなかったよね、本当に嫌な奴だよアイツ」
不二先輩は時折何かのスイッチが入ったみたいに饒舌になる。そのスイッチが何であるかは誰にも予測がつかなくて、たぶんいつでも外的な出来事より先輩の内側の問題だったのだと思う。図太いのか繊細なのかよくわからない不二先輩の内面にどんな世界が広がっているのか、誰にも推し量ることはできない。けれど必要以上に感情を表に出すことをしない不二先輩は、それでもたまに激情みたいなものを何かにぶつけることがあって、だからあの貼り付けたみたいな笑顔の奥で計り知れない持て余す何かを持っているのだと思う。だからたぶん、これはガス抜きのようなものなのだと俺は思っている。
「ああでも比嘉のさ、誰だっけ、あの肥った子、あれとかも結構ギリギリだったよね」
それにしても場面がよくわからない。あの青学コートに張り巡らされた緑のフェンスに指をかけながらとか、部室の錆び付いたロッカーを探りながらとか、色んなシチュエーションがあったけれどこんな遭遇があるとは思っていなかった。まず大きな荷物を引き摺る人々が行き交うこの空港で、文庫本ひとつだけを持った先輩に気付いたことが奇跡だった。誰にも伝えない出立だったから足速に遠ざかろうとしたら、あの独特のアルトで「やあ越前」なんて授業終わりの渡り廊下で出会ったときのように気の抜けた挨拶で呼び止められた。驚きや後ろめたさを表出してしまうのは悔しくて、それで俺も「うす」って試合の集合場所でするみたいな挨拶を返した。正しい対応だったかはわからない。次の瞬間から不二先輩のスイッチは壊れたみたいに入りっぱなしだ。
「それとも裕太?なわけないか、僕自身は楽しかったけどね、ルドルフ戦」
あのマネージャーの顔とかもう傑作だったよ、なんて言いながら表面上はひどく穏やかに笑う。笑ってるときの不二って大抵無表情だからさ、たまに笑顔がなくなる瞬間とか俺結構好きなんだよね、なんて言ってたのは英二先輩だ。あの人は何も考えていないようで意外と多くのことをよく見ている。動体視力の良さが関連しているのかはわからないけれど、時折見えているものの奥にあるものを見定めるような視線を向けてきたりする。刺すような、と言えなくもないけれど英二先輩のあれはたぶん攻撃でなく防衛だ。あの人は自分が自分らしく居られる場所を見つける天才だった。
「じゃあ亜久津とか。僕は君たち二人がすごくよく似てるって思ったなあ。個人的なところとか、あ、負けたことがなかったとこかな?」
そこまで言って、ああ、そうだった、と不二先輩は一人納得したようにこっちを向き直った。そういえばこんな風に喋り続ける不二先輩はいつもどこか別の方向を向いていたっけ、なんて今更のようにその法則性に気付いた。
「手塚だ」
それで不二先輩が面と向かって何か言ってくるときは、大抵ロクでもないことだったと思い出した。
「だって中学で君が負けたのって、手塚だけだろ?」
まあ僕との勝負はついてないけどね、何なら今から打ってく?続く言葉はまるでそんな気などないのが丸わかりで、俺は混乱する。何だこの人、何しに来たんだ。
「あのあと手塚と勝負した?」
「……いや」
勝手に喋ってくれている方がまだマシだ。ちゃんと正面向いて疑問符を付けられると無視できない何かがこの人にはある。
「まだ手塚は日本にいるのになんでアメリカなんか行くの?」
「……何で知ってんスか」
どうにかはぐらかせないかと質問に質問で答える。実際気になっている。あの人達のことだ、引き留めたり盛大な送別会を開いたりしそうだったから誰にも言わなかったのに。
けれど不二先輩は急に興味をなくした目をして溜息をついた。そんなのどうだっていい、と空気で伝わる。何だか失望されたみたいで気分が悪い。
「捨てられる前に捨てるみたいな?まあある意味じゃ君らしいかもね、負けず嫌いっぽくて」
「あんたはどうすんの?」
聞いてみたかったことではあった。不二先輩は動かし続けていた口を急激に閉じて、力の篭らない眼で俺をまじまじと見つめる。思案している風でも、驚いた風でもなかった。電池の切れたロボットみたいに俺を見ている。
あの決勝の日、勝利してわき目も振らず一直線に部長の元へ走って来た先輩の姿はよく覚えている。勝ちに執念を見せるようになったなんてオバサンは言ってたけど、それは見当違いだと思う。不二先輩が勝ちたいと思うのはそこに部長がいるからだ。部長が勝ちたいと思っているからだ。執着の対象は勝利でなく手塚部長だとあの時俺は確信した。
「不二先輩?」
あまりに固まったままでいるので不審に思って声を掛けた。ぴくり、と動いて、俺に会うためにわざわざ空港まで来たって言うのに不二先輩は俺の存在などすっかり忘れていたかのように驚いた顔で俺を見る。
そしてすっ、と目を細めて、
「じゃあ僕もう行くね、今日は裕太が帰ってくるんだ」
踵を返して行ってしまう。
「え、ちょっと、」
さすがに引き止めようと掛けた声を制止するように振り返った。
「僕は君に感謝してるんだ」
呆気にとられる。
「それから憎んでもいる」
じゃあ越前、気をつけてね。表情も言葉のテンポもまるで普段通りに戻って不二先輩は人混みに消えて行った。あまりの後腐れのなさが白昼夢でも見たのかと錯覚を起こさせる。
何だったんだ。しばらく動けないままでいると、ボク迷子かな?とグランドホステスが不必要な親切心をわざとらしく貼り付けて声を掛けて来たから、人睨みしてその場を後にした。やっぱりあの雨の日に決着をつけときゃよかったと独りごちて出発ロビーへと向かった。