「ねえ周助、今度の誕生日、何か欲しいものある?」
受験日を間近に控え、リビングで算数の参考書に向かい合っているときだった。向かい側に座る大学生の姉が、窓の外にちらちらと光る雪を眺めながら、ふいにぽつりとそう言った。
「今度って、まだ一ヶ月以上も先だよ」
勉強を見る、という名目でその場所にいたけれど、滞りなく手を進める聡明な弟には大したアドバイスなど必要もなく、彼女は温かい紅茶と穏やかに流れる時間をただ楽しんでいるように見えた。
「でもほら、今年は2月29日があるじゃない?だから、いつもよりきちんとお祝いしたいなと思って」
「いつもよりって、いつも十分過ぎるくらいお祝いしてもらってるよ」
「気持ちの問題よ。思い切り我儘言ってちょうだい。姉さん、アルバイト頑張っちゃうから」
「別にいいのに、そんなの」
キラキラと目を輝かせる姉に笑い返す。
「裕太は、何か欲しがってた?」
「新しいテニスシューズですって。あの子、兄貴の受験が終わったら今度こそ叩きのめすんだーって、必死で練習してたから」
すぐにボロボロになっちゃうのね。そう言って愛おしげに目を細める。十日余りしか離れていない兄弟の誕生日は毎年合同で祝われることになっており、豪勢なメニューの並ぶ食卓は一家の一大行事だった。この頃既に、周囲の人々はやたらと兄弟を比べたがったけれど、美しい姉は彼らが知る限り、一番平等に二人の弟を愛してくれていた。弟は今この瞬間も、寒空の下でラケットを振っているのだろう。
「じゃあ僕もそうしようかな。新しいシューズ」
見開きに載った十題の文章問題を解き終わって、解答のページを捲る。私がやってあげる、と姉が言ったので、ルーズリーフと解答冊子を手渡し、また新しい問題へと向き直った。
「じゃあって……私はいいけど、本当にそれが欲しいものなの?」
姉の手元でルーズリーフに赤い丸が増えていく。サインペンが紡ぐ、滑るような音が心地良い。
「うん。中学でもテニスは続けるつもりだし、新しくするのもいいかなって」
次は鶴亀算の応用問題で、あまり好きではない種類だった。以前姉に教えてもらった連立方程式を使った方がよほどスマートに解けるというのに、塾の講師曰く、途中式も採点対象だから求められる解法で解けるようにしなさい、とのことだった。
まず図解かな、と新しいルーズリーフに鉛筆を走らせようとして、姉の手が止まっていることに気付く。何か間違えただろうかと不安に思い顔を上げると、困ったように笑う姉が、頬杖をついてこちらを見ていた。何?と問えば、いえ、と言って小さく首を振る。
「あなたは、昔から欲しいって言わない子だったから」
「……そうかな」
「そうよ。お気に入りのおもちゃだって、裕太が欲しがれば簡単にあげちゃってたでしょう?」
だから少し、心配なのよ。姉の手が伸びて、色素の薄い彼の髪を優しく梳いた。ぼんやりとそれを享受しながら、姉の言葉を咀嚼してみる。
どうにも、欲、というものにピンと来るものがない。彼には欲しいと思う前に大抵のものは揃えられていた。面白い本や使い易いテニス道具だってそうだったし、才能や温かい家族といった形のないものでさえ、渇望するまでもなくいつでも傍にあったのだ。
考え込む弟に、気を散らせてごめんね、と苦笑を漏らし、姉の手が離れていく。何か言うべきなのかと言葉を探していると、そうだ、と弾かれたように姉が目を輝かせた。
「四年後の誕生日まで猶予をあげるわ。それまでに周助が心から欲しいと思うものができたら、私に言ってちょうだい」
「え?」
「いつか周助にも、欲しくて堪らないものが必ずできるはずよ。もしかしたらそれはお金で買えるようなものではないかもしれないけど、私に出来ることがあれば、何でも協力させてね」
思いがけない姉の申し出に、曖昧に微笑んで頷いた。少し眉を下げるやり方で姉も笑う。ある程度の満足を得たらしい姉は、視線を戻して、また赤いペンを解答に走らせる。できた、と言って差し出されたルーズリーフには、十個の赤い丸が並んでいた。
「……ありがとう」
込めた意味はいくつかあって、姉はそれらを全て拾い上げてくれることも知っていた。
Memorial Address
真新しい、糊の効いた制服に腕を通すと、少しだけ自分が大人になったような気分になる。これから成長期だからといくらか大きなサイズを買った所為で、着ているというよりは着られているような感じはしたけれど、それでも背筋がすっと伸びるような心地になった。
「あら、似合ってるじゃない」
「ありがとう」
母も姉も、リビングに現れた新しい出で立ちの長男を優しく迎えてくれた。
「いいなあ、私ももう一度制服着たくなっちゃった」
「あら、中学のも高校のも取ってあるわよ」
「ほんと?でも、入らなくなってたらショックだなあ」
冗談を言って笑い合う彼女たちと、香ばしい朝食の匂いに包まれて、中学生活最初の朝はとても穏やかに始まった。ただ、やがて寝坊気味に起きてきた弟は、自分だけ置いていかれたような気分にでもなったのか、終始しかめ面で皿の上のキッシュをつつき回していた。来年待ってるよ、と伝えれば、当たり前だろ、と少し顔を赤らめて目を逸らした。
「部活はいつから始まるの?」母が言った。
「プリントには、来週から四月下旬までが仮入部期間で、その間に入部届けを受け付けるって書いてあったよ」
「あら、でもその荷物」
持って降りてきていたラケットバックを指差し、姉が首を傾げる。
「部活自体は今日もやっているみたいだから、見学してこようかと思って」
そう、と姉は納得した様子で微笑んだ。
「打たせてもらえるといいわね」
「それはちょっと無理じゃないかな。でも一応、一式は持って行くよ」
「友達が沢山できるといいわね」
彼とよく似た風貌の母も、穏やかにそう言って笑った。
ずっとA判定だったとはいえ、合格発表を見たときにはそれなりに胸を撫で下ろした。中学受験を勧められたとき、青春学園を選んだのは偏にテニスの強さに惹かれたからだ。所属していたテニススクールで不二に敵う人間はいなかった。それでも世界はいくらでも広いということは弁えていたつもりだったし、対外試合に積極的でなかった不二は、新しい場所で出会うだろうまだ見ぬ強敵に胸を弾ませた。一定の強さを持つ相手を目の前にしたときの、勝つか負けるかの瀬戸際で震える闘志、ネットを挟んで世界に二人きりしかいなくなってしまうような圧倒的集中、それがテニスの一番好きなところだった。
退屈な入学式を必死で欠伸を噛み殺して耐え、新入生だけを集めたオリエンテーションが終われば、一目散にテニスコートを目指した。フェンスの向こう側では上級生が準備運動を始めていて、外側にはちらほらと同じ新入生らしき姿も見える。
その群れの中に、まだ練習も始まっていないコートを真剣な表情で見つめる者がいた。彼もラケットバックを担いでいる。大人びた横顔に上級生かと思ったけれど、襟章を見て同じ新入生だと気付いた。
少し、興味を持った。
「君もテニス部に入るの?」
よほど集中してコートを見ていたのか、ピクリと肩を揺らし、彼は振り向いた。細いフレームに象られた眼鏡の奥で、切れ長の目がいささか見張られている。声を掛けるべきではなかったか、と過ったけれど、次の瞬間には酷く冷静な表情に変わっていて、見間違いだったような気さえした。
「……ああ。君も?」
不二の肩にかかったラケットバックをちらりと見て、彼は言った。
「うん、そのつもり。不二っていうんだ。よろしくね」右手を差し出す。
「手塚だ。よろしく、不二クン」
握り返された手には肉刺の固い感触があって、不思議と心が落ち着いた。やはり同じものを嗜む相手には親近感を覚えるもので、ここにいる人達は皆そうなのだなとまた一つ胸が高鳴った。それから、自分のものよりも一回り大きい掌に、早く対戦してみたい、とも思った。
そのようにして、手塚と出会った。
やがて仮入部期間が始まり、素振りのフォームを一見しただけで、彼はどこか他と一線を画す存在なのだとわかった。小学生の頃から一部に名の知られた選手だったということは、後から知った。いつしか勝負を持ち掛ける上級生が増え、気が付けば彼は部内のほとんどの選手に勝ってしまっていた。
一言で手塚を表せば、綺麗な人間だった。サーブを繰り出す手本のようなフォーム、見据えるべきものを知っている人間特有の鋭い目線、上級生に対して驕るでも遜るでもなくただ自分を存在させる気高さ、そのどれもが初めて見るもので、不二にとって彼は強烈な興味の対象となった。それは逆らえない引力だった。
「手塚クン」
遂に手塚が部長を倒した日、まだ抜け切らない余所余所しさを以て、不二は彼に声を掛けた。周囲の騒然とした空気などまるで気にも留めず、ほとんど崩れることのない表情のままで彼は振り返った。
「何だ?」
「明日、僕と勝負をしてくれないかい?」
初めて声を掛けたときと同じように、一瞬だけ手塚は瞠目した。
「……構わないが」
その日の夜は、興奮に眠れなかった。何度も繰り返された非公式の試合を目の当たりにして、沢山シミュレートを行った。何をどう考えても、楽しいに違いない。たとえそれで負けようとも、彼と試合をする、そのことが楽しみで仕方がなかった。
寝付きの悪さが珍しい寝坊を彼にもたらし、家族は驚いたけれど、高鳴る胸と共に勢い良く家を飛び出した。授業中も、時計がいつもより遅くなってしまったような気分で、ずっと落ち着かなかった。
結果として、不二は圧勝した。けれどそれは不二の望むような形でなく、残されたのは酷い失望だけだった。行き場のない怒りを手塚にぶつけたけれど、それが理不尽であるということは不二が一番承知していて、それでも何も言わない手塚が歯痒かった。
「ごめん、不二クン」
「……僕の方こそごめん。君が悪いわけじゃないって、わかってるから」
気まずさの漂う二人きりの帰り道で、気まずい謝罪を互いに贈り合った。
「いつかもう一度、君の腕が完全に治ったら試合をしよう」
「ああ、必ず」
分かれ道で交わした握手は、やはりどこか安心に満ちていた。そうして不二の、手塚を追い続ける三年間が始まったのだった。
それから月日は流れ、同学年でただ一人、一年生の頃からレギュラー入りした手塚の名は、始めのうちはさざ波が広がるような速度で、新人戦を迎える頃には県境を越えた向こう側まであっという間に広まっていった。
不二自身は、殊更自分の名を上げるようなことにはまるで無頓着だったし、公式戦を見ても手塚以上のプレイヤーなど見つけられなかったから、手塚を見ていることの方がよっぽど楽しかった。いつしか不二はいつでも手塚の斜め後ろ辺りを歩くようになり、そうして彼を少しずつ知っていった。好きなもの、僅かな癖、何かを考え込んでいるようで実は空を横切る渡り鳥に気を取られているような瞬間があること、無愛想に見えて案外人が好きなこと。
手塚の方では、いつもにこにこと自分を眺める不二に何が楽しいのか、というように時折振り返ることがあったけれど、その状態が日常と化す頃にはすっかり慣れて、それが彼らの当たり前となっていった。手塚は言葉にせずとも気持ちを汲める不二を、信頼しているようですらあった。
「周助、中学に入ってから楽しそうね」
そんな日々の中で、姉に言われたことがある。放課後も休日も部活漬けだったから、昔に比べて姉と過ごす穏やかな時間は減っていた。
「そうかな?」
「ええ。恋でもしてるの?」
「そんなんじゃないよ」
楽しそうにこちらを見据える姉に、苦笑を返す。姉は、ほんとに?と探るような目で楽しそうに笑う。
「違うってば。それに恋って、よくわからないし」
そうねえ、いつかのように頬杖をついて、姉は瞳を閉じた。
「恋をすると、人は能動的になるものよ。こうして欲しいとか、もっと相手のことを知りたいとか。求めることが増える分苦しいことも多いけれど、恋をしている人はキラキラしていて、私はとても素敵なものだと思うわ」
目を開き、今の周助みたいにね、と悪戯めいた笑みを浮かべる。
「ああ、だから姉さんはいつでも綺麗なんだね」
褒めるというよりは、少しの揶揄を込めて言った。生意気な弟の言い分に彼女は噴き出す。十代の頃、どちらかといえば彼女は気の多い方で、失恋したと言っては涙を流し、暫くすればいい人がいるのと目を輝かせ、母を呆れさせていたものだった。最近では落ち着いたのか、もう年単位で付き合っている人がいるのだと聞いていた。
「確かに昔は恋に恋するお年頃だったから」
昔を懐かしむように、遠い目をして姉が言う。
「今は違うの?」
「もちろん、今でも恋はしてるわよ。でもどちらかといえば、愛に近いかしら」
「それってどう違うの?」
「愛はね、もっと広くて温かいのよ。その人がそこに存在している、それだけで幸福な気持ちになれるような、そういうものかしらね」
ぼんやりと、目の前の姉や、勝ち気な弟や、色々な人を思い浮かべた。少し、姉の言っていることがわかるような気がした。
「恋愛はその二つがせめぎ合うものだから、とても難しいし、ときには自分で自分が制御できなくなってしまったりもするわ。でも楽しいのね。愛にも色んな形があるけれど、あなたはずっと昔から愛することを知っている子だから、やっぱり恋を知って欲しいかな」
そのとき、手塚のことを思い浮かべた。彼を彼のまま観察することは楽しい。けれど、もっと多くのことを知りたいとも思う。どれもこれも初めての感情の正体が一体何であるのか、確かめたい気もしたけれど、怖いような気もした。
「どうかした?」
急に物思いに耽り出した弟に、姉が訝しげに声を掛ける。何でもないよ、と不二は曖昧に笑った。手塚の隣にいること、それが楽しいうちは、それだけでいい、と思った。
中学二年の冬。手塚の異変にはすぐに気がついた。
どこか動きがおかしいとか、ジュニア選抜を辞退した理由だとか、大石を伴い人目を避けるように家とは違う方向へと向かう帰路であるとか、少し注意深く観察していれば綻びなど簡単に見つかったから、一部の人間にとっては看過できない変化といえた。但し、それに気付けるような人間は、何も言わない竜崎や手塚自身の意志を尊重する気遣いも同時に兼ね備えていたから、表面的には何も変わらない日常だけがただただ目の前を通り過ぎていった。もちろん不二もその一人だった。
けれど、手塚の纏う空気には次第に悲壮感が紛れ込んでいく。些細な変化ではあったけれど、どこかでこのままではいけないような気がした。大石は何をしているんだろう、と思った。彼は心配性で、けれど誰に対しても、どんな場面でもそうであるが故に、響かない言葉が増えていたのかもしれない。そうでなくとも手塚の頑固さなど、それこそ周知の事実だった。
不二はチーム全体の動向にはあまり興味を持てなくて、副部長を決める段でも自分の名前が上がったときには即座に否定した。それでも今この状態で手塚に何かを言える人間は自分だけだろうと、そんな気持ちが少しずつ芽生えていった。後から思えば、いくらかの驕りが混じっていたように感じる。自分達の代になって、元から囁かれていたナンバー2の地位がより一層確立され、当たり前のように収まる手塚の隣という場所に、酔っていたのではないかと問われれば、否定することはできないだろう。
そして、たまたま二人になった部室の中で、不二はそれを実行に移したのだ。
「どうなの、調子は」
隣のロッカーで横に並んだまま、なるべくさりげなさを装って切り出した。
「……どう、とは?」
一瞬の間には気を留めないフリをした。
「とぼけないでよ」
手塚の方でも、不二が自分の変化に気付いていたことなどとっくにわかっていたのだろう。小さな溜息をついて、一言、問題ない、とだけ口にした。その瞬間言いようもない苛立ちが湧き上がった。何とか抑え、着替えの手は止めないままで普段通りの声を絞り出した。うまくいったかどうかは、わからなかった。
「一度休んでみてもいいんじゃないかな。君の目がなくても、みんなちゃんとやると思うよ」
「そういう問題ではないだろう」
「じゃあ、どういう問題なのさ」
閉めたロッカーが存外大きな音を立て、しまった、と思った。恐る恐る手塚を見遣る。彼は殊更気にかけるでもなく、あるいはそういう素振りで、ベルトを通しているところだった。
「あと半年だ。この時期の頑張りが半年後の結果を左右する。休むわけにはいかない」
「半年って、部活だけの話だろう?人生はもっと長く続くんだよ」
はっきりと言葉を交わしたことはなかったけれど、手塚がプロを視野に入れていることはなんとなく知っていた。
「そうであったとしてもだ。優先順位の問題だ。お前ならわかるだろう」
そこで初めて手塚が目を合わせてきた。不二は荷物を整理するフリをして、彼から逃げた。
「……わからないな」
背中に手塚の視線を感じた。数学の教科書と、理科二分野の教科書を入れ替える意味のない作業を繰り返し、不二は続けた。
「あと半年、その腕が持つ保証があるの?そうしたら君の大切なチームにも迷惑がかかることになるんだよ」
不二は間違ったことを言っていない。それは手塚にもすぐにわかることだったろう。少しの時間、間が空いて、着替え終わったらしい手塚がロッカーを閉めた些細な音に不二は肩を震わせた。
「……不二、お前の目指すものは何だ?」
「え?」
思わぬ切り返しに、不二は言葉を失う。思わず手塚を振り仰いだ。その表情からは、何も読み取れない。不二は彼の変化を見逃さない訓練は積んでいたけれど、突然突きつけられて何かを察せるほど手塚は簡単な人間ではなかった。
今は手塚の話をしていたはずだ。それに、手塚に興味を持っているのはいつでも自分であり、不二に不二自身のことを聞く手塚など今までありえなかった。一方的に見ていられる斜め後ろという場所を選んでいたのに、自分に興味を持つ手塚などただの一度も考えたことがなかった。
答えられない不二に、手塚は勝手に何かを悟ったような表情を浮かべた。何かがまずかった、と気付いたときにはもう遅かった。手塚は鞄を肩にかけ、そのまま背を向けてしまう。
「すまない、おかしなことを聞いた。忘れてくれ」
そうして不二が言葉を失くしているうちに、手塚は出て行った。閉まる扉が冷たい音を響かせる。不二はそのまま暫く動くことができなかった。
何を快とし不快とするか、許せるものと許せないもの、いくつもある感情の動き方について、手塚にはいつでも一定の基準があった。不二はつぶさな観察によってそういった法則を手中に収めることに成功し、平然と彼の隣に立ち続けることを許されたわけだが、そのこと自体はそう難しいことでもなかった。例えば息をするように観察と定式化を繰り返す乾、常に物事を俯瞰して自分の最適を見つけ出せる大石、彼らは同様に手塚を予測し得る人間であり、それぞれの方法で自分と彼との距離を定めていた。
それが決して理解ではなかったということに、不二はそのとき初めて気がついた。何をどうすればどんな反応が返ってくるか、それはただ公式に数字を当てはめるだけの行為であって、心を通わせることとはかけ離れていた。リモコンを使える人間が全員電子回路についての知識を持っているわけではないのだ。そんな簡単なことにどうして今まで気付かなかったのかと、自分の浅はかさに、ぐらりと視界が揺らいだ。
そして、どうやら本当の意味で手塚と心を通わせられる人間から自分が一番遠いということにも、同時に気付いてしまった。自分が知らないうちに、手塚も不二へと視線を送り、何らかの期待をしていたらしい。そんなことは知らなかった。少しずつ少しずつ、理解を深めていたと思ったのに、失望を漂わせる背中を見て、急激に何もない空間に放り出されたような気分だった。自分は一体今まで何を見ていたのか。何に自惚れていたのか。すっかりと、途方に暮れた。
その夜、自室のベランダからぼんやりと星空を眺めていた。上着も身に着けず大気に触れるには冷たい季節で、けれどそんなことにも気を配れるような状態ではなかった。
「どうかしたの?」
ふいに掛けられた声に振り向いた。
「……姉さん」
偶然なのか何なのか、隣の部屋のベランダから、姉がこちらを見ていた。
「何か、悩み事?」
「……うん、そうかもしれない」
「私でよければ、聞くわよ?」
姉はいつでも優しい。不二が部活で忙しくなり、彼女が社会へ出てからも度々穏やかに語りかけてくれた。
不二は手摺りに背を預け、目を閉じ、何も視界に入れないで話し出した。
「姉さん、他人を理解するっていうのは、どういう状態を指すのかな」
姉は彼と対象的に、正面から手摺りに凭れ、先ほど不二がそうしていたように都会の星空を眺めた。
「……難しい問題ね」
静まり返った住宅街の中で、控えめな姉の声はよく響く。
「どんな関係においても、他人は他人なのよ。全てを理解出来るなんてことはあり得ないわ。たとえそれが恋人でも。家族でさえね」
「……それはよくわかるよ」
半年ほど前、自分から離れていった弟を思った。自分の愛が伝わらないもどかしさは、既に知っている事柄だった。
「ただひとつ言えるのは、一方向だけの理解なんてあり得ないってことね。誰かを理解したいのなら、自分もしっかり見せなくちゃいけないわ。そのためには、自分が自分を理解することが一番大事なのかもしれないわね」
「自分が、自分を?」
「自分を見せない相手には、誰だって心を開いてくれないものよ」
まあ、就活をしたときにわかったんだけどね、と些か声のトーンを変えて姉は言った。
「周助、あなたが望むものを知りなさい。それから相手との違いを見極めて、受け入れるの。合わせる必要はないのよ。あなたはあなたでいいし、相手は相手でいいの。その中で自分がどうするか、それを決めるのも、自分なのよ」
不二は目を開いた。自分の足が見える。立っている。
「……ありがとう、姉さん」
隣のベランダから、笑う気配を感じた。
「ねえ、二年前の約束を覚えてる?」
「うん。もう少しだけ待って。きっともうすぐ、何かが掴めるから」
「そう、よかった」
もう寝なさい、と姉が言って、就寝の挨拶を交わした。姉にはもうすぐと伝えたけれど、まるでその目処は立っていなくて、それでも彼女の言葉を胸に抱いてその日は眠りに就いた。
翌日からは、元の通り、穏やかな日々が続いた。不二は感情を覆い隠す術に長けていて、手塚も少しの揺れでは周囲に気付かれる変化など表れない人間だったから、誤魔化して蓋をすることは造作なかった。皮肉にも、手塚が大きな問題を抱えていたことで、鋭いごく一部の人間にも気取られる心配はなかった。
やがて三度目の春が訪れた。大型ルーキーの入学と共に、中学生活最後の大会が幕を開けた。彼らは順調に勝ち進む。幸いにも手塚に回る前に勝敗がつくことの方が多く、そのうちに腕は完治したらしいと、それとなく大石から聞かされた。
それでも再戦を申し込むことはできなかった。不二は相変わらず手塚の隣に立っていたけれど、それが何だ、と思っていた。勝ち進むにつれて、手塚の瞳は一層鋭く、ただ一点だけを見つめるものになっていった。相変わらず手塚は不二が自分を理解していると思っていたようで、不二は公式に数字を当てはめるやり方でその期待に応えるフリを続けていた。その公式を証明しろと言われても、不二はただの一文字もノートに走らせることができないというのに。
そうして再び、手塚が真っ直ぐに視線を投げかけてくる日がやって来たのだ。酷い雨の日だった。他の部員が慌てて部室へ駆け込む中、ずぶ濡れになって二人、コートに立ち尽くしていた。不二は、手塚を振り返ることができなかった。
本当のお前は何処にある、と聞かれたとき、もう不二には何もかもがわからなくなっていた。テニスは楽しい。それは変わらない。勝てば嬉しい。そんな気持ちだって持っている。それでも、とてもじゃないけれど手塚のように何もかもを投げ捨ててチームに献身するようなことはできないと思ったし、簡単に自分を手放す手塚のこともやはりわからなかった。
そもそも、手塚のことが理解できないどころか、自分自身のことだってわかっていない。これが自分だと突きつけるものもないのに、誰かを理解できると思っていたなんて、酷い傲慢だと改めて思った。
「支障があるなら、僕を団体戦から外してくれ」
そう伝えた言葉に、手塚からの返答はなかった。
そのようなことがあったから、氷帝との試合の後、いよいよ手塚が一時離脱を決めたときには、正直ホッとした。跡部戦での手塚はこれまで見たことのないような表情で、歯を食いしばって必至にボールを追っていた。それを見たときに、自分と手塚との遠さが何であるのか、漸くわかった。やはりそれは理解を超えたものであり、手塚を突き動かすものが自分とはまるで違っていることを思い知った。
「俺が離れている間、チームを頼む」
大石に対するそれとは違う意味で、手塚は不二にそう告げた。あの雨の日に投げつけた言葉を受けても、まだ自分を見て信頼してくれる手塚が、嬉しくもあり、哀しくもあった。
「……うん、任せて」
自分は一体何をしたいのか。何ができるのか。それを探り当てることが、宿題だと思った。
勝ち上がるにつれて敵のレベルも上がっていく。何度となく自分の求めていたスリルを味わい、時には敗北の悔しさを突きつけられた。そのひとつひとつに、得たもの、自分の中で変わったものがあったけれど、手塚が帰ってきてからも言葉で伝えることはしなかった。コートの上で表す。それで満足してもらえないならば、全てを諦めるつもりだった。
「いよいよ明日だね」
「ああ」
全国大会決勝を目前に突然空いた三日間の最終日、手塚と不二は最終調整を終えて、帰路に就いていた。
「君がシングルス3で僕がシングルス2。本当に、それでいいんだね?」
「……ああ。おそらく俺は、真田と当たる」
「何を根拠に?」
「幸村という男は、そういう奴なんだ。真田に勝った越前とは自分がやるつもりだろう」
「僕の相手は?」
「乾の見立てだと、仁王という奴だ」
「……ああ、詐欺師の彼」
ぼんやりと、関東大会決勝を思い返す。得体の知れないプレイヤーだった。ダブルスでの記憶しかないから、読み辛いな、と思った。
「……不二」
不意に手塚が立ち止まる。半歩行き過ぎて、不二は振り返った。
「何?」
「俺は、お前に対する答えを、お前をシングルス2に据えることで示したつもりだ」
「……うん」
「お前の答えを待っている」
「うん」
分かれ道で、いつかのように握手を交わした。いつしか二人とも体格が変わり、声変わりも経たけれど、手塚の掌は不二より一回り大きいままだった。
決勝は、酷く暑い日だった。まさかの二連敗を経て、崖っぷちの中不二の試合は幕を開けた。オーダーは読み通りだった。それでも、思い掛けずコートの向こう側に現れた手塚に面食らった。ボールを打ち返すたび、ひとつひとつ、それまでの二年余りを想った。
結局自分が彼に抱いていた想いに名前をつけることはしなかった。ただ、彼との日々が、彼への理解が新しい扉を開いてくれたことは事実だ。きっとそれが一番重要だったのだ。何も欲しがらなかった自分が、彼を知りたいと思った。自分を変えたいと思った。
手塚の視線を感じるコートの中で手塚と向き合い、持てる全てを注ぎ込んだ。手塚のためにできること、それは始めから、勝つことしかなかった。もしかしたら最後まで、動機は少しだけ違っていたのかもしれない。それでよかった。手塚を突き動かすものを知って、自分がテニスに求めるものを知って、擦り合わせを行った。きっとそれが理解なのだろうと思う。
打ち上げた花火が向こう側のコートに突き刺さる。湧き上がる歓声が、勝利の喜びを教えてくれた。
「この大会が終わったら、僕と勝負してくれるかい?」
試合が終わった後、心の底から、そう言えた。頷いた彼と交わした握手には、初めて会ったときと同じように、力強い安心があった。
内部進学の査定も終わり、のんびりとソファに腰掛けて窓の外を舞う雪を見ていた。周助、とキッチンから呼ぶ声が聞こえて、彼は振り向く。
「紅茶入れるけど、あなたも飲む?」
「うん、お願いしていいかな」
休日にも部活へと出掛ける習慣は既に薄れ、姉と過ごす時間がまた増えた。とても心休まる時間だった。姉はいつだって自分を愛してくれて、最善のアドバイスをしてくれた。
春が来れば、また忙しい日々へと身を投じることになるだろう。それまでの束の間のひと時を、存分に大切にしたかった。
「姉さん、今年の誕生日、欲しいものがあるんだ」
「あら、何かしら」
「……ドイツ行きの航空チケット」
姉は一瞬、目を見張った。また大きく出たわね、と苦笑する。
「だめかな?」
「いいわよ、約束だもの」
三年前の約束を、姉もきちんと覚えてくれていた。運んできた紅茶をローテーブルに載せて、砂糖もミルクも入れないままに一口飲む。不二もそれに倣った。ローズマリーの優しい香りが口内に広がる。ソーサーに戻したとき、こちらを見ている姉に気が付いた。とても嬉しそうな、穏やかな表情だった。
「見つけたのね?」
「うん、たぶん」
約束はとうに果たされていた。完膚なきまでに手塚は不二を叩きのめし、そのまま旅立って行った。まだ追い付けるとは思っていない。けれど欲を教えてくれた手塚に、会いたいという純粋な気持ちを抑える理由などないのだし、またいつか隣に立てる日をいつまでも追い掛けようと、不二は思った。