柳はいつも仁王に背を向けている。
データの分析をしているならまだいい。仁王にとってもそれらは有用だからだ。学校の宿題ならもっといい。無駄に話しかけられるくらいなら写させてくれるからだ。けれど柳は大抵、仁王にはよくわからない分厚い本を読んでいる。
今日だってそうだ。壁につけて置かれた低い木の机に向かい、定規でも入っているのかというくらい真っ直ぐ背筋を伸ばして座椅子に腰掛けている。仁王はそっと柳の肩越しにその手元を覗き込んでみる。後半に入って放っておけば閉じてしまいそうな厚みのある本。文字が几帳面に敷き詰められて、紙面はいっそただの模様に見えた。
「参謀」
「何だ」
「ヒマ」
「そうか」
仁王は頭がいい。それらの書籍をきちんと読めばきっと理解はできる。ただその文字しか並んでいないページを何百枚も捲る気にはならないし、それらの分野自体にも興味がない。だからいつでも、何を読んでいるかなんて聞かない。
愛想も何もあったものではない柳の返答に苛ついて、後ろから腕を回す。柔らかい仁王の白い髪が、細いけれど硬い針のような柳の黒髪に入り込む。仁王はそれを見るといつも少しだけ悲しい気分になった。決して混じり合わない。髪に限らず。
「今は読書中だ」
「見りゃわかるきに」
「なら離れろ」
柳はあっさりと仁王の腕を解いた。振り返りもしない。これは無理だな、と思って畳の床に体を投げ出した。自分の家にはない温かい床が仁王は嫌いではない。一瞬心が緩むけれど、ぞんざいに扱われた手前拗ねた空気くらいは出しておこうと思った。自分に背を向ける柳に背を向けるようにして寝返りを打つ。
「仁王」
「んー?」
頭に柔らかい感触が降った。仁王は背を向けてしまった気配を注意深く探る。触れているのは柳の左手だ。振り返ってはいない。柳なりの妥協点ということだろうか。
珍しい、と仁王は思う。物腰の柔らかさに隠されてはいるが、柳は基本的に他人の気持ちを汲んだりはしない。機嫌を取ったりもしない。こと仁王に関しては。
「クオリア、って知ってるか」
「知らん」
髪を弄ぶだけで興味までは移す気がないらしい。利き手でない指先はそれでも仁王に心地良さを与える。仁王はそれが少し腹立たしい。
「例えば、お前の髪は白い。お前の髪の分子配列が光に対する一定の吸収率と反射率を持ち、それを経た光が俺の目に入る。俺の目はそれを電気信号に変換して脳に送る。脳は受け取った信号に対し『仁王の髪は白い』と認識する。ものを見るということはそういうことだ」
柳の声は独特の落ち着きを持っている。抑揚はあまりなく、淡々と言葉を紡ぐ。仁王はその音が好きだ。内容には大抵興味がなくて、鼓膜を震わせる空気の振動だけを愛している。
「だがそれはあくまで情報だ。『仁王の髪は白と呼ばれるスペクトルを持つ』ということでしかない。にも関わらず俺は『白い』という『感じ』を持っている。これがクオリアだ」
「ふーん」
「クオリアが他人と共有されるか否かということは誰にもわからない。お前と俺が同じ白の刺激を受けたとして、同じように『白だ』と判断したとしても、感覚としての『白』が同じものとは限らない。俺が『白』と名付ける感覚は、お前にとっては『赤』かもしれない」
「ようわからんけど、所詮他人は他人ってことじゃろ」
髪を撫でていた指が口元に回ってきたので、仁王は人差し指を噛んだ。人間の肌特有の、少し塩辛い味が広がった。柳が指を引っ込めたりしないので、舌で押し返す。その手はまた白髪に戻った。
「お前は哲学が嫌いか」
「嫌いぜよ、何のためにもならん、暇人のやるもんじゃろ」
「ならお前は数学の何が好きなんだ」
「覚えることの少ないとこ」
「それだけか?」
「それだけぜよ」
「数式を美しいとも思わないのか?」
「は?思うわけなかろ」
柳はそこで一度溜息をついた。仁王は失望された気がして嫌な気分になった。髪を弄び続ける手を払った。余計に酷い気分になって後悔した。柳の手は大抵一度払ってしまうと、もう延びてはこない。
「覚えておけ、仁王。公式に数字を当てはめるだけでは世界の理など一生解けない。哲学と物理学の根源、あるいは到達点は、概ね同じところにある」
けれど今日は違った。柳の手は戻ってきた。変わらない調子で仁王の髪を撫で続ける。対処に困って、結局仁王は会話を続けることにする。
「同じとこってどこ?」
「強いて言うなら、神の存在証明といったところかな」
「アホくさ」
「まあ、それは一例だし、一種の比喩だ。命題は何でもいい。何かを求めるために、哲学で思考し、物理学で立証する。その過程が重要だ」
仁王は柳の左手に自分の右手を延ばした。払わずに絡めた。温かかった。
「参謀は何を求めちょるん」
「さあ、何をだろうな」
繋いだ手を軽く引っ張られ、仁王は体を起こす。柳が振り向いていた。ようやく興味が動きかけている。
「おそらく、求めているものを求めている」
「自分探しみたいなもんか?」
「当たらずとも遠からずだな」
「暇人じゃの」
「ロマンチストと言ってくれ」
それでも手元にはまだ分厚い本が開かれたままだ。柳の細い視線がまた紙面に落ちそうになって、仁王は慌てて指先に力を込める。視線は本でも仁王でもなく、繋いだ手で止まった。
「お前の手は冷たいな」
「今更じゃろ」
「冷たさのクオリア、か」
そうして徐に手を持ち上げ、仁王の手の甲に口付ける。少し舐める。
「これが塩辛さのクオリア」
「参謀」
咎めるような仁王の声に反応したのか、そうでないのか、柳は手から離れて突然仁王の頬に口付けた。
「恋愛感情や性感にもクオリアはあるわけだ。お前のクオリアとは違うかもしれないがな。試してみるか?」
仁王はほとんど呆れていた。
「……参謀って、いちいち理屈付けんと俺に触ることもできんの?」
「逆に考えろ」
柳の左手が仁王の頬を滑り、今度は唇に口付ける。
「理屈さえあれば何でもできるんだ」
そう言って柳は薄く笑った。まあ何でもええけど、仁王は面倒くさくなって柳の膝に跨る。まだ本に添えられていた柳の右腕に腰が当たる。
「理論はおしまいじゃ、実験しよ」
耳元で囁けば、柳は分厚い本からそっと手を離した。次の瞬間には仁王の肌をその手が滑る。
拒む気はない一言馬鹿と
2012.9.11