胃が持ち上がる感覚にはいつまで経っても慣れることができない。始めのうちほとんど消化された形跡の見えない緑やオレンジの固形物が混じっていた吐瀉物も、俺の口から垂れるのは既に透明な液体だけになっている。空っぽになった胃がそれでも痙攣を起こして俺の喉を焼く。生理的な涙が視界を滲ませて、確かな形を保っているはずの固形物も便器の中には似つかわしくない鮮やかな色の靄だけを残して俺の視神経を刺激する。普段決して流すことのない涙が作る抽象画みたいな世界が実は好きだ、なんて言ったら吐くまで食べ物を詰め込まれるか我を忘れるまで性器を突っ込まれるかどっちかしかないんだろうなとぼんやり思う。
「落ち着きましたか?」
背中を摩る暖かい掌は動きを止めることなく、声は真後ろから響いた。答えようとすれば喉に絡みつく胃酸が邪魔をして盛大に噎せた。表面張力が敗北して頬を一筋涙が伝う。背中の手は優しく俺の介抱を続け、もう一方の手がミネラルウォーターを差し出した。ご丁寧に蓋は外されている。無言で受け取り一気に呷った。エコだか何だか知らないが薄くて柔いペットボトルはぐしゃりとひしゃげた。
「サンキュ」
空になったペットボトルを突っ返してそれだけを絞り出した。水で洗い流してもちくちくとした痛みが喉に残っていて、声は枯れていた。背中を撫で続けていた手が肩に回って優しく抱き寄せられる。見上げればいつも無表情の柳生が眉根を寄せて俺を覗き込んだ。
「また、全部吐いてしまいましたね」
柳生は頬で迷子になっていた小さな涙の粒を舐めた。
「すまん」
感謝と謝罪と、短い言葉で素直に伝えるけれど、これで果たして正解なのかはわからない。何を食べても吐き出してしまう俺を抑えつけて口に食べ物を詰め込むのは柳生だ。その度に俺はせり上がる胃と格闘して喉や口内を焼かれてその一切を絞り出すハメになる。自然の流れを逆行するということは余計なエネルギーが必要だということで、実際嘔吐はものすごく疲れる。へろへろになった俺を柳生はいつも甲斐甲斐しく介抱してくれて、なんだこれすげー優しい俺って愛されてるとか思ってしまう。原因は柳生にあるというのに。
「仁王くん、また少し痩せましたね」
「そうか?」
「ええ、骨の感触が日に日にはっきりしていくんです」
汗でへばりつく俺の前髪を整えて、柳生の手は開けっ放しの扉の外に置かれていたトレイに延びた。すっかり冷め切った肉じゃがの糸蒟蒻がぷるりと揺れて、それを見ただけで口の中を酸っぱい匂いが支配した。臨界点が下がりまくっている。
「柳生、も、無理」
「ですが、食べませんと」
困ったような顔をしながらも柳生は決してトレイを遠ざけてくれない。大体肉じゃがって選択肢はどうなんだろう。もっとあるんじゃないのか、ほら、粥とか卵豆腐とか。それなら食べられるかと言ったらそれはまた別の問題だけれど、それにしても。
こうして食べ物のことを考えるうちにまた胃が引き攣ってきて、歯を食いしばって堪え忍んでいれば柳生がついに箸を持った。人参をターゲットに行儀悪く箸を突き立てる。俺の抵抗を見越してそれでも決して落とさないように。そうして人参が持ち上げられるのを認めたところが限界だった。
俺はまた便器に頭を突っ込む。勢いよく飛び出す液体は紛れもなく透明で、中身を吐き出すためでなく全身で異物を拒絶する為に胃液が溢れ出す。もはや免疫反応のようなものだ。多少なりとも水で薄めた酸が喉を舌を鼻の奥を焼いて涙が滲んで、ああ、もう。
トレイが床に降ろされる音が僅かに耳へ届いて、柳生の手はまた俺の背中を這う。何回繰り返せば気が済むのだろう。
「……仕方ありませんね」
溜息と共に聞こえた呟きに、漸く諦めてくれるのか、と息をついた瞬間肩を掴まれ振り向かされた。何、と言う間もなく口付けられる。俺の胃液と唾液でベトベトの唇に。
意図にはすぐ気がついた。最近では近付くだけで吐き気のこみ上げる食べ物の匂いがする。正確には人参の。やばい、と思って身を引こうにも後頭部をがっつりと掴まれていて動けそうにない。せめてもの抵抗として堅く口を閉ざしてみたけれど、何せ色んな消化液でぬるぬるしているものだからうまくいかない。逆にその滑りを利用した柳生が押し勝ってしまった。柳生が口内でドロドロに砕き溶かした中途半端な流動物が流れ込む。見えないけど多分オレンジ色をしているんだろう。途端にいい加減飽きた腹部の引き攣りを感じて必死で流動体を返そうと試みる。けれど何せ半分は液状になっているものだから、覆い被さられる俺に勝算はなかった。重力に従って人参だったものは喉の奥へと向かう。柳生は決して口を離しちゃくれなくて、未だ鼻の奥にこびりつく酸っぱさと人参独特の香りが入り混じってもう味覚や嗅覚がストライキするレベルに最悪な感覚が充満する。今この場に幸村がいれば泣いて五感を奪ってくれと願うのに、残念ながら狭苦しい洋式トイレにいるのは俺と柳生だけだ。俺は観念した。とりあえずと喉を動かし口の中に置いておいても勝手に消化されそうなドロドロの人参を食道へと送り込んだ。
口内の流動物をきれいさっぱり飲み込んでも柳生は俺の胃酸まみれの口内を躊躇なく舐め回し続けた。自身の酸に焼かれて喉も舌も痺れる俺を中和していく。柳生がアルカリ性なわけもないのに、確かに痛みが和らぐ気がした。
「また吐き気が来たら吐いてもいいですよ、全て送り返しますから」
口付けの合間に柳生がそんなことを口走る。俺には全くもって理解できない。ゲロ吐いた奴にキスなんてしたくないし、吐いたそのものを受け止めるなんて狂気の沙汰だろう。でも何でそんなことが出来るのかは聞かない。愛していますからとか言われるのが関の山だからだ。わかりきっている。確かに愛されている気もする。俺は愛していたってそんなこと絶対にしないが。
「あなたが一人で食べられないなら二人で食べて二人で消化すればいいんです。きちんとあなたの体に栄養が取り込まれるまで何度だって受け止めますよ」
こんな風にしか俺を愛せない柳生も、こうされて愛を感じてしまう俺も、どっちもどっちで病んでいる。そんな俺たちを思えばまた吐き気が襲ってきて、気を抜けばえづきそうになる喉を意識的に抑えなければならなくなった。喉ってのは基本不随意に動くものなのに、最近じゃ意志と反射の闘いばかり演じている気がする。俺は他人を騙すことが大好きだけれど、自分を騙すってのは誰を相手にするより難しいものだ。
「私はあなたに生きていて欲しいんです。たとえあなたが笑ってくれなくても、たった一人で平穏に生きていくよりは、二人で同じ涙を流す方が幸せなんです」
そう言って柳生の頬に涙が流れた。壁に押し付けられて唇が解放されないままだから、涙は横目に捉えただけでさっさと地面へ落ちていった。俺の涙は吸い取るくせに自分は勝手に流すだなんて横暴もいいところだ。
「……俺かて死にとうない」
なんで食べなきゃ生きていけないんだろう、と思う。俺の中で食べる意思と生きる意思というのは全くの別物で、けれど柳生はその二つを結びつけて考えている。きっとあれだ、俺は柳生を愛しているけれど、絶対に柳生のゲロなんて受け止めたくないのと同じなんだろう。俺はわりと物事を分けて考える質で、柳生は何でもかんでも結びつけたがる質、それだけの問題だ。
そうこう考えているうちに俺にとっては到底愛と結びつかない吐瀉物がいよいよ迫り上がってくる。いくら柳生が受け止めるとそれが愛だと言っても絶対に遠慮したい。俺は僅かに残った全身全霊の力で未だ絡み付いてくる柳生を思い切り突き飛ばし、便器に頭を突っ込んで盛大にオレンジ色のドロドロを吐き出した。