「遠い?近い?」
「近い」
「軽い?重い?」
「軽い」
外を見ると苛々する、という幸村のために仁王は入り口側の椅子に腰掛けていた。どうせ幸村はほとんど仁王に目など向けないけれど、外と仁王とを天秤にかけて仁王を選択するとしたならばそれは悪くないことだと思ったのだ。当の幸村はといえば結局のところ仁王がやって来てから、あるいは来る前からずっと天井を睨み続けている。どちらも選ばないという手段は許される限り行使すべきだと仁王も思うから、それに関しては何も言わなかった。仁王は幸村の代わりに、窓の外と、ガラスに映り込む朧げな自分とを見ていた。
「混沌?秩序?」
「混沌」
「じゃあ……ゼネラル?スペシャル?」
「あー、ゼネラル、かの」
「わかった、赤也」
「正解」
朝寝に向かない東向きの窓はほとんど夕焼けを見せない。仁王の正面、昼と夜の曖昧な境界線が、地平線も水平線も須く隠してしまっている高層ビル群の合間で揺れていた。瞬き一つの時流で確実に夜が優勢になっていく。反対の言葉ばかりを探す遊びをしながら変化していく空を見ていれば、嫌でも世界には対立する事項など存在しないような気分になってくる。
「次いくぜよ。理性?本能?」
「理性」
「甘い?辛い?」
「……甘い、かな」
「ドライ?ウェット?」
「ドライ」
「ロマンチスト?リアリスト?」
「お前それ反則ギリギリだろ」
「ギリギリっちゅーことはセーフじゃろ?」
「まあいいけどさ」
今日を呑み込もうとする夜が仁王を明瞭に映し出すようになれば、焦点のバランスが悪くなった。まだ少しだけ青さを残す黒の中で白く染めた髪が白鳥に混じったカラスのように浮いてしまう。何か他に、と少しだけ目を動かせば、どうして今まで気付かなかったのかわからないほど真っ赤な花が一輪、ガラスの花瓶に生けられていた。仁王の知らない花だった。花瓶の三分の二ほどを満たす水は少しだけ濁っている。三日は換えていないように思えた。元々は真っ直ぐに伸びていたであろう茎が力を失くし、同情を乞うようにガラスの縁へと首を預けていた。
「ロマンチスト」
「あー、柳生?」
「違うよ」
幸村は園芸が好きで、けれど見舞いの花にはいつでも無関心だった。何故かと問えば「土が無いから」と酷く素っ気ない答えが返ってきたのは、まだ幸村が窓の外を移ろう時間や季節を楽しんでいた頃だった気がする。ただ一人その言葉を聞いていた仁王は、いつだったか常識という言葉とまるでかけ離れている切原が鉢植えを持ってきて酷く叱られたとき、くしゃくしゃの黒い髪を撫で回して褒めてやりたい気分になった。そうしなかったのは、幸村の貼り付いたような笑顔を見てあの言葉はある種のメタファーだったのだと悟ったからに他ならない。
「誰」
「蓮二」
「参謀がロマンチスト?あんな数字しか信じんような奴が?」
「だからだよ」
茎が自重に耐えられなくなってもまだ花は赤い。開く角度も全盛期を過ぎているはずで、それでも動脈血を思わせる不自然な赤は仁王を不安にさせた。せめてもう少しくすんでくれれば嘲笑えるというのに。未来を閉ざされて尚赤くあろうとする花弁はいっそ滑稽だった。醜いとすら言ってもいい。
「数字は現実じゃないよ。一を一と決めたのは人間なんだからね。そんなもので何もかも求められると信じるなんて、とんだロマンチストだろ」
「その割にお前さんも参謀のデータ使いよるけどの」
「別に、よく当たる占いくらいのもんだと思ってるよ」
「そげなん言うたらいくら参謀でも怒りよるぜよ」
「言ったことあるよ」
「まじか」
「蓮二は、お前のそういうところが好きだ、って笑ってたけど」
仁王が好む数少ないものの中に、曖昧さがあった。例えば立ち寄ったあらゆる地方の方言を着込んだし、別人に化ける技術を磨いたし、融け合うようなセックスを模索したこともある。単一の確固たる個は何かに取り込まれ、あるいは対立し、揺れ動いて振り回されて鞭打ちにでもなってしまうと仁王は信じていた。だから自分が無ければ自分の同義語も対義語も無くなり、そうすることでありとあらゆる恐怖や不安を退けられると思っていた。仁王は甘くもあり辛くもあり、またロマンチストでありリアリストでもある。それが攻撃手段で防衛手段だった。そうしなければとてもじゃないけれど生きていける気がしなかった。
「あいつらはお前さんに甘過ぎるぜよ」
「あいつらって?」
「参謀と真田に決まっとろ」
「別にいいじゃないか、俺からすればお前の方が甘やかされすぎだと思うけどね」
「どこが」
「甘い、で柳生を思い浮かべたのは誰だよ。どう考えても辛いだろ」
「テニス的な意味で?」
「紳士的な意味で」
花はいつ枯れるのだろう。仁王は思った。仁王にとって咲いている花とは嫌味なくらい凛と澄ましているものであり、枯れている花とは気付けば茶色く干からびているものだった。瞬きの合間で空を夜が浸食するように、当然遷移状態というものがあるとわかってはいても、その緩慢な移り変わりは知っているようで捉えきれていないものなのだと知る。それはおそらく呼吸を意識してしまうことと同じようなもので、生と死の間に横たわる奇妙な一方通行の空白を想って息苦しくなった。
つまり、曖昧さにも種類があるらしい。
こういうものからは目を逸らしておくべきだ、そう結論付けて仁王は幸村に目を向けた。随分久しぶりだった。
「そんなに気になる?その花」
失敗に気付くのはいつでも行為の後だ。後悔はいつでも先立ってはくれない。仁王は自分の不用意な逃避にほとほと嫌気が差した。
天井ばかりを睨んでいた幸村は仁王と同じく、緩慢に枯れていく赤い花を見ていた。まず仁王は思考のごく浅い部分で、幸村はいつの間に自分を見たのだろうかと心細くなった。視界の隅でも気配でも、幸村に視線を捉えられていたことが意外だった。
けれどもちろんそんな心細さはささいなことで、何よりもその光景そのものが持つ想像以上の残酷さに息が詰まった。枯れゆく花と幸村を同時に見ることが悪いのか、生にしがみつく花を見る幸村を見ることが悪いのか、それはわからなかったけれど、どちらにせよその組み合わせは圧倒的に仁王を打ちのめそうとしていた。つい今しがた知った触れてはいけない曖昧さが振り払えない春の雨のように纏わりついて、醜い過程を曝す朽ちかけの花などとは比べ物にならない速さで仁王の呼吸を奪おうと迫り来るのだった。
そうして仁王は、幸村が床に臥せたその瞬間から無意識に彼から目を逸らし続けていたことを唐突に思い知った。
「続けようか」
「……え?」
幸村が喋ったと認識するまでの間が空いて、我に返ると次には窒息の気配に慌て、漸く絞り出すように仁王は声帯を震わせた。
何の続きだったろうか。そうだ、ゲームだ。幸村があまりにも暇だ暇だと騒ぐから、他人のベクトルを勝手に定めて認識の違いを確かめ合う実に非生産的な遊びに興じていたのだ。
自らの武器だと考えている方の曖昧さでもって仁王は頷いた。幸村がまだ死んでいく花から目を逸らさないから、呼吸はなかなか仁王の思い通りにならない。そんな仁王に気付いてか、いやおそらく関係はないだろうが、とにかく幸村はゆっくりと花から目を逸らし、そして初めて仁王を見た。
「生きてる?死んでる?」
今度は努めて冷静に、なるほど、と仁王は思った。幸村はもう何もかもわかりきっているという体で、実際に今仁王が何を考えていたかと、自分の謎かけが仁王にどんな影響を与えるかとを十二分に把握した上で、笑った。幸村はそういったことがひどく得意だと知ってはいたけれど、仁王はいつでも防御壁としての曖昧さを身に纏っていたので、感情も思想も正体も何一つ彼の前で揺らしたことがなかったのだ。暇を持て余した幸村に初めて見せた決して小さくない振れ幅が見逃してもらえるはずもなく、これはだから暇つぶしに近い八つ当たりなのだと溜息を吐くしかなかった。
楽しそうに答えを待つ幸村の瞳からやっとの思いで視線を逸らし、いくらかマシだろうという気分で赤い花に戻った。やはり茎は力なく曲がり、花瓶に支えられてやっとのことで立っていられるというのに、花弁だけが不気味に赤いままだった。仁王はもう、今この場でお前は死んでいるのだと言われたら、ああそうだったのかと納得してしまう気がした。世界が丸ごと終わってしまっていたとしても、何ら疑問でないとすら思った。
幸村の質問にはいつまで経っても答えられなかった。そもそも答えなど用意していなかった。やがてフフ、と幸村独特の鼻を抜けるような笑い声が上がったので、楽しそうで何よりだ、と仁王は曖昧に思った。