「いいか仁王、恋愛感情なんてものも、所詮はタンパク質の問題なんだ」
 五分半前、そんな言葉から柳の講釈は始まった。
 「別に恋愛に限った話ではない。誰かを愛する、憎む、羨む、軽蔑する、ありとあらゆる感情の動きは脳における特定部位の活性化に一定の相関を見出すことができる」
 最近の柳は生物学がお気に入りらしい。先日は突然「生存戦略の一番優れた生命体はミトコンドリアだ」などと言い出し、あまつさえ「我々も見習わなければな」とまで言って笑ったので仁王は思い切り辟易して見せた。
 「そしてその活性化を引き起こすものは無数の神経細胞を駆け巡る脳内伝達物質だ。ドーパミンやノルアドレナリンといった単語くらいなら聞いたことがあるだろう?」
 疑問符を付けられたので、仁王は曖昧な相槌を打った。柳は仁王の返事を確認する素振りも見せず、嬉々として続きを話し始める。柳には往々にして一人きりで完結してしまっているようなところがあって、それはもう今更注意しても直るような種類ではないのだった。
 「脳内伝達物質とは即ちタンパク質だ。我々の感情というものは突き詰めて言えばタンパク質とその分解産物の動きによって説明されるものなんだ。だからそう喚き立てるようなことではない」
 柳は断定的にそう言って、満足気に微笑んだ。仁王は三秒きっちり数えて、柳の講釈が終わったことを確認し、口を開いた。
 「それで?それが人の愛の告白に対する返事っちゅーわけか?」
 「不満か?」
 「当たり前じゃろ。俺ん感情がタンパク質で説明されようが、なしてそげん動きするかっちゅー部分が欠けとる」
 生物学、とりわけ分子生物学なんてものは理由の説明には向かない学問である。そこで追求されるのは既に完成した生命機構の仕組みだ。誰が設計したわけでもないのに実に効率良く栄養素を取り込み、エネルギーを生み出し、リサイクルまで行う精密機械のような生体を解き明かす作業は、人間が作った定義を礎にしていない分古文書を解読するよりも不確かで非生産的なものだ。もちろんそこから派生する生物工学や製薬技術なんかは人類の発展に大きく貢献するわけだが、既に存在する仕組みを見つめるだけでは理由も未来も見えてはこない。
 「下手に頭の良いところがお前の悲劇だな。赤也はこれで納得したんだが」
 「納得とちごて煙に巻いただけじゃろ。何、赤也も参謀が好きってか?」
 「逆だ。あんたがムカついて仕方がないと言って目を血走らせるものだから、同じ説明をしてやったまでだ」
 「参謀はあれくらい言いくるめやすい奴んほうが好みか」
 「どうだろうな」
 こうして話している間にも論点はズレていく。仁王も言いたくないことを言わないで済む手段には精通しているが、柳はいつでもそれを上回る。おかげで仁王は常に自分の主張を意識し続けなければいけないわけだが、そもそも普段心から他人に伝えたいことを持つことの少ない仁王には骨の折れる作業だった。
 「愛しとる、参謀」
 面倒になって仁王はもう一度五分半前の台詞を言った。五分半前と変わらず、柳の表情には欠片の変化も見えない。
 「嘘やないんよ」
 対して仁王の声には懇願めいた響きが混じる。こんな消え入りそうな声を出してしまうくらいには弱っている。タンパク質がそうさせているのだとしても、それが何だというのか。重要なのは、タンパク質に作られた感情を処理する方法なのではないのか。
 「……仁王」
 開いていないと錯覚するほど細められた目をそのままに、柳が口を開いた。知らず知らずに項垂れていた仁王は弾かれたように顔を上げる。瞳にも懇願が混じっている。仁王が覚えている限り、柳以外には見せたことのない表情のはずだ。これが恋でなくて何だろう。祈るように柳の言葉を待つ。
 「お前は、俺がその言葉を信じてもそう言い続けられるのか?」
 柳は静かに、諭すように言った。
 「お前を信じて、受け入れるような俺を、お前は愛せるのか?」
 「……それは、」
 「俺はお前が好きだ、仁王。愛している。俺を愛しているなどと決して言わないお前をな」
 それでもう仁王は何も言えなくなった。柳は正しい。いつでも正しい。煙に巻こうとするのは勘が鈍いのでも理解力が足りないのでもなく、いつだって正しい答えを知っていて、そして大抵の場合人を傷付けてしまう真実を覆い隠すための、平たく言えば優しさなのだ。
 「おやすみ仁王、いい夢を」
 穏やかにそう言って柳は仁王の額にひとつ口付けを落とした。
 これが同じ寝台の中、散々に熱を交換し合った後の会話なのだから、もう何もかもに救いがない。諦めて仁王は目を閉じる。溢れた涙ですらタンパク質の作用だと、そう割り切ってしまえる柳が羨ましかった。

下手な易者とわたしの恋は
あわでこの世を暮らしてる

2012.11.25