春雨
例えばテニスの強さを抜きにしても、柳蓮二にとって立海大学附属中学校は居心地の良い場所であった。それは長い歴史が積み上げてきた伝統への敬意だったり、どこか明治の文明開化を感じさせる古くも新しい煉瓦造りの学舎に感じる雅心だったり、文武両道を掲げて学ぶ意欲のある生徒には徹底的に教育的価値を出し惜しみしない教師陣への感謝だったりと様々な要因によってもたらされるものであったが、昼休みの喧噪から隔絶された静寂な図書館で今まさにこうして古い紙の香りに包まれ、文学が織りなす目眩く世界を堪能する時間を過ごせる悦びもまた柳を惹きつけて止まないこの学校の良さであった。決して新しいわけではない、校舎と同じ重厚な煉瓦造りの建物はそれでもメンテナンスが行き届き、ぴっちりと窓を閉めてしまえば隙間風も校庭からの喧噪もほとんど何も感じなくなる。常日頃そうしているように、今日も柳は適当に見繕った純文学の頁を開き、数少ない生徒が時折紙を手繰る音だけをBGMにしながら昼下がりのひとときを楽しんでいた。
はずだった。
残念ながら、柳が校内で部活動に負けず劣らず愛している時間を、あるいは空間を、先程から脅かそうとする存在がある。それは柳から見て左下、ちらちらと視界の端を掠める綿毛のようなもので、そしてそれは紛れもなく綿毛になどそうそう喩えられるものではないであろう人毛なのだった。
「何をしている、仁王」
常日頃の物静かさを図書館という場所柄いっそう密やかに、けれど明確な苛立ちを込めて柳は言った。柳が言葉に感情を載せることは滅多になくて、つまりそれほどまでにこのひとときを彼は大切にしてきたのである。
「……雨宿り」
床に座り込み、角度によっては不自然な毛玉にしか見えないであろう仁王はぽつりと一言、そう答えた。はて、と柳は首を傾げる。確か天気予報によると今日の降水確率は十パーセントで、西高東低の気圧配置により冷え込みは厳しくなるが、太平洋側である神奈川県は概ね一日中晴れるとのことだった。いくつものメディアから集めた結果に大きな差異も認められなかった。まあ、それでも、そもそも天気を予測すること自体が不確定性にまみれた不完全なものであるのだし、と柳は背を向けていた窓を振り仰いでみた。そこに開けていたのは、葉を散らして久しい丸裸同然となった銀杏の木々と、向こう側に広がる寒々しくも澄んだ青い空。
「雨など降っていないが」
柳は自身の左脚に寄り添うようにして丸まっている仁王に事実を告げた。
「知っとるよ。でも、雨宿り」
学校指定のセーターに折り畳んだ脚も腕も全て引っ込め、顔も鼻先まで身体に埋もれさせている仁王は拗ねた子供のような口調でぼそぼそと返答する。
「寒さ凌ぎか?」
「雨宿りっちゅーとるじゃろ」
これはもしかすると逆ギレというものではなかろうかと、突然人の視界に入り大切な時間をぶち壊したにも関わらず何故か不機嫌さを滲ませる仁王を見て、いつでも冷静さを崩すことの無い柳は、構うだけ無駄だな、と早々に結論を出した。第一、細い綿毛のような髪をゆらゆらと無造作に揺らす以外に、邪魔らしい邪魔をしにきたわけでもないらしい。そうとわかれば柳が少し体勢を変えて白い異物を視界から消してしまえばいいだけの話で、早速柳はその対応策を実行へと移す。
それなのに、その毛玉は何十センチか移動した脚を追うようにころりと凭れ掛かってくるのである。
「仁王」
苛立ちがもう一度襲い来る気配がして、柳はもう一度感情の載せられた声を発する。邪魔だ、出て行け、そう言おうとしたとき、何一つ音も立てないでチカチカと光る机上の携帯電話に気がついた。全く今日はどれだけ邪魔が入るのか、と溜息でも吐きたい気分で折りたたみ式の携帯電話を開けば、メールの着信が一件。十字キーに囲まれた丸いボタンを何度か押せば、見知った名が目に入った。
「……柳生がお前を捜しているようだが」
「うん、知っちょう」
「かくれんぼか」
「違う、雨宿り」
あくまで引く気の無い仁王に、柳はもうすっかり追い払う気分も失せて、静かに携帯電話を閉じ、一度だけふわりと綿毛のような髪を撫でた。そうしてせめてその端くれが集中の妨げにならないように、あくまでもそれだけのために、自らを温めていた膝掛けでぱさりと仁王を覆ってしまったのだった。あとには春の雨のような静寂が空間を包むのみだった。