朝は嫌いじゃない。新しい一日が始まるという予感に胸は震えるし、まだ日が昇り切る前の空気は背筋をシャンと伸ばしてくれる。冬の間は朝練に合わせた時間ならばまだ外は暗くて、誰にも手を付けられていない今日に踏み出す喜びをくれる。
そうはいっても覚醒したばかりの布団のまどろみはいつだって魅惑的な堕落を提供する。特に隣に誰かがいるとき、それも愛しい人間だったならば尚更だ。
今日も携帯にセットしたアラームよりも先に目が覚めた。俺にとって目覚ましとは保険のようなもので、大抵その意味を成さない。体を横たえたままで縦に大きな伸びをする。動いた拍子に、枕の段差と首との隙間に差し込まれた腕の感触に気付いた。
俺だって全国区のテニス部部長を務めているくらいだから腕の筋肉には自信がある。特に利き腕の左はそれはもう完璧に近いプロポーションだ。腕相撲だってそこらの力自慢には負けやしない。
けれど哀しいかな、首の下にある腕は俺のそれより一回りほど逞しく、おまけに日焼けが更に男らしさに磨きをかける。俺と同じ左利きの腕をこいつはいつも俺の枕にする。左側にいて欲しいというのが彼の主張だ。理由を問えば俺の顔が好きだからだという。彼には右側がよく見えていない。
腕の先に直角に横たわる体躯にも目を馳せる。規則正しく上下する胸板は厚く、足の先は布団からはみ出て逆ハの字に開かれている。すっぽりと布団に収まる俺との違いは何なのだろう。こいつを見ると生まれ持った素質には敵わないと否応にも実感させられてしまう。俺も同年代に比べれば恵まれた体格をしているはずなのに、隣に並ぶとどうにも見劣りがして許せない。せめて肌を焼こうかと考えたって、メラニンの多くない俺の皮膚は太陽光を吸収しても赤くなるばかりで男前に磨きをかけてはくれない。
半分寝返りを打って、腕の付け根に頭を転がす。剛毛の黒髪が鼻先を掠める。散策好きなこいつの髪は、いつだって干したばかりの布団みたいな匂いがする。好きや、と思う。視線を下ろせば、反った首筋が一本の線を描き、変声期もとうに終わったらしい喉仏が綺麗な曲線を描いている。好きや、と思う。無防備に紫外線照射されているはずの肌は不思議ときめ細かくて、よくよく目を凝らせば産毛みたいな髭が窓から射し込む朝日に照らされて薄く光っている。好きや、と思う。
こんな風に身を寄せていると、このままもう一度目を閉じて、干した布団の匂いに包まれて惰眠を貪りたい衝動に駆られる。けれどあと三分もすれば携帯のアラームがけたたましく鳴るだろう。そしてきっとこいつは微動だにせずメルヘンな夢の中で大好きな森の仲間と戯れ続けるんだろう。彼には俺と違った意味で目覚ましが意味を成さない。
そんなことを考えている間にきっともうあと二分くらいになっている。名残惜しくて彼の首に腕を回す。首筋に顔を埋めて、思い切りその匂いを吸い込む。それでもこいつは起きやしない。首筋から顔を離せば、目の前でひとつだけつけられたピアスが光った。片耳にひとつだけ、というのがいちいち格好良くて腹立たしい。俺も開けてみようかと思うけれど、間近で見ればやはり肉を貫通する針が恐ろしくて実行には移せない。親にもらった体に穴を開けるなんて、などと古風なことは言わないけれど。
そしてアラームが鳴り響く。こんな枕元で爆音が響いているというのにやはりこいつは少しも反応しやしない。世界の終わりが来たってどこかの木陰でのんびり惰眠を貪るような奴だ。きっと大好きな野良猫に群がられて幸せそうな顔で。
けれど俺はひとつだけ、彼を起こす方法を知っている。まだ縋っていたいと訴える甘ったれの自分を叱咤して、ゆっくりと身体を起こす。そして顔だけをもう一度ピアスの光る左耳に近付ける。
「千歳ー!朝練やぞ、早よ起きー!」
耳元で叫べば、少しだけ身動ぎが起こる。ムニャムニャとわけのわからない寝言の隙間に某国民的アニメキャラの名前が混じる。めでたい奴やで、ほんまに。これはまだ第一段階で、完全な覚醒には更なる奥の手が必要だ。さっきよりも更に耳に近付く。ピアスに下唇が触れるほどに顔を寄せて、俺はそっと魔法の呪文を唱える。
「愛してんで、千歳」
途端に視界が反転する。起こした身体は再び布団に沈められ、一瞬見えた天井はすぐにいつかの万博キャラみたいな影に覆われる。そのまま目の前の世界が真っ暗になって、唇に柔らかい感触が訪れる。また堕落の罠が近付く気配がするけれど、唇に加わった湿った感触に、思い切り拳を尽きたてた。
「痛っ!痛かー」
そして視界はクリアになる。こいつがよく頭をぶつけるペンダントライトが目に入り、そこからぶら下がる紐に向かって俺は立ち上がる。頼りない紐を引っ張るとまだ薄暗い部屋に安っぽい蛍光灯の光が広がり、鳩尾を抱え込みもんどり打つ褐色の巨体が照らされた。
「目ぇ覚めたか?」
「……覚めたっちゃけど、ほんなこつ痛か」
「そんくらいでヘバるような鍛え方しかしてへんのか?お前今日筋トレ三倍な」
「ひどかー」
起きたことを確かめて着替えようと足を踏み出す。けれど次の瞬間、腕を引っ張られてまた俺は布団の世界に逆戻りしていた。目の前にはまた万博の影。
「まだ時間あるっちゃろ?」
「もう一発殴られたいん?」
「そぎゃんこつさせんとよ」
そう言って影は掴んだままになっていた俺の右腕に加え、左腕も捕まえる。睨みあげる俺の頭上で二本の腕を軽々と縫い止める。しかも片手で。こういう力の差がほんまに苛つく。絶対に俺の方が真面目に筋トレしてんのに。
そうして影が近付いて、また唇が塞がれる。先程よりも遠慮なく割り入る舌がまた堕落を囁いて、思わず俺も絡めてしまう。重なった唇の端がニヤリと上がったと同時に、空いたもう一方の腕が俺の脇腹をなぞる。それに気付いた瞬間、俺は思い切り鳩尾に膝蹴りをかました。
「痛っ!痛かー」
デジャブかと思うくらい同じ叫び、同じ体勢で彼は蹲る。剛毛の髪を鷲掴みにし、その顔を上げさせる。少し滲んだ漆黒の目が俺を見上げる。いつもは見下ろされるから気分がいい。
「ちゃんと起きるか?」
「わかったばい、起きるとよ」
体に似合わない、子供みたいな表情が可愛くて俺は触れるだけのキスをする。瞬間、彼の目が輝く。眠っているときは見ることができない、深い深い黒い目。これが一番好きや、と思う。それでもまた引き倒されないようにと、すぐに手を離し距離を取る。自然と正座の体勢になった彼は、諦めたのか巨体を伸び上げて思い切り背を反らす。唯一身につけられている下着が盛り上がっているのは見ないフリをする。
「おっしゃ、起きたな」
「ばってん、もうちっと白石んことば堪能したかよー」
めげもせずにそんなことを言う。堪能て、どこの親父やねん。
「昨日十分したやろ、俺がおるときぐらいちゃんと朝練出なさい」
はいはい、と溜息をついて彼は立ち上がる。ここまで来ればもう大丈夫だろう。
朝の誘惑は多いけれど、それを実行できるかどうかより、同じ想いを持ってくれる相手がいるということが一番大切だと思う。そんなことを考えるなんて俺もヤキが回ったものだと思いながら、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一口含む。振り向いて、いつも通り見上げる形になった彼にも渡してやる。
「おはよう、千歳」
「……おはよ、白石」
それでも今度のオフの日には、二人でのんびり惰眠を貪ろうと決める。千歳には絶対に言ってやらへんけどな。