あー、とかうん、とか間延びした相槌が胸に載せた耳に響く。会話の相手はわからない。やっと繋がった、と始めに響いた声が高かったので女だということだけはなんとなくわかった。間近に聞こえる相槌とは正反対に、漏れ聞こえる高い声は小さくなったり大きくなったり忙しなかった。
「わかった、わかったけん、持って降りるばい」
最後に千歳がそう言って、まだ聞こえる高い声が遮られたので白石は体を起こした。
「どっか行くん?」
「んー、ちぃと下までね」
白石は寝ててよかよ、と起き上がった背中が言った。地黒なのか、千歳の背は腕なんかよりは明るくとも褐色をしている。小さな引っ掻き傷の残る背中をぼんやりと眺めていると、やがて彼がいつも着ているエスニックな布に隠された。ならお言葉に甘えて、と白石は一人になった布団にもう一度身を沈める。
足元に落ちていたジーンズを拾って千歳は押し入れを開けた。収納術を使うでもなく、衣類が乱雑に詰め込まれているだけで、上方には空間がぽっかりと口を開けている。無駄やなあ、と白石は思った。千歳の許可が出れば今度の休みにでも整理しようと決めた。
「これかね」
窮屈そうに押し入れの奥を探っていた大きな体を引き抜いて、ぽつりと千歳が呟いた。その手にはやたら光沢のある紙袋がひとつ下げられていた。表面の色は光を受けて微妙に変化した。
「何?それ」
「んー、着替えとか入っとうね」
紙袋を覗き込んで千歳は言った。知らない荷物が自分の部屋にあるなんてありえるのか、と白石は思った。
「彼女?」
白石がそう問えば、千歳はそのままの体勢で少しだけ考える素振りをした。
「元、かね」
何故そこで考え込み、しかも疑問系で答えるのかはよくわからなかったけれど、ふうん、と白石は相槌を返した。
「すぐ戻ってくっけん」
千歳は紙袋を下げたまま出て行った。白石は目を閉じて、彼が階段を下っていく音を聞いていた。
そのまま小一時間、千歳が帰ってこなかったので、知らない間に白石は浅い眠りに落ちていた。扉が開く音で目を覚まし、オレンジ色だったはずの窓の外が紺色に変わっているのを見て気がついた。
「おかえり……また派手にいかれたな」
「ただいま」
部屋に入って苦笑する千歳の頬には、赤い手形がくっきりとついていた。
「女は怖かね」
「どうせお前が悪いんやろ」
持っていた紙袋は消えていた。千歳は冷蔵庫から二リットル入りのペットボトルに入った麦茶を取り出し、そのまま口をつけて飲む。俺も、と体を起こした白石にペットボトルを渡し、そのまま傍に腰を降ろした。
「何言っても怒るけん、しょんなか」
「別れ話?」
うーん、と千歳は胡座をかいた膝に頬杖をつき、首を傾げた。
「電話で別れようち言われて、荷物ば渡して、やっぱやり直そうち言われて、OKばしたら、部屋入りたいち言うけん、今寝とる奴ばおるけん無理ち言うたら、殴られて、帰ってったばい」
女は怖かね、ともう一度言って千歳は笑った。
「まあやっぱお前が悪いんちゃう、それは。女おるて勘違いされたんやろ」
まあ女ではなくとも、裸で寝ていることには変わりないのだからあながち勘違いでもないのかな、と思いながら白石は麦茶を飲んだ。
「大体なんで別れようって言われたん?」
「んー、一ヶ月くらい音信不通やったけんね。愛が無いち言われたとよ」
「あれ?お前先週彼女来るとか言うてへんかった?」
「それは別の子ばい」
あっそ、と半ば呆れて白石はペットボトルを返した。千歳はそれを受け取り、そのまま傍に置いた。
「そんなんばっかしとったら、いつか刺されんで」
「ばってん付き合って、ち言われたら断るん申し訳なかよ」
「好きやなくても?」
「うん」
「それって彼女なん?」
「まあそうなんやなか?付き合っとるわけやけん」
「好きで付き合うんが彼女ちゃうん?」
まあ俺は彼女作ったことないしわからんけど、と付け足した白石を真っ直ぐに見つめ、千歳は首を傾げた。
「それは、恋人、ってゆうんやなか?」
「恋人と彼女って違うんか?」
「うーん、彼女の枠ばあって、そん中に恋人のある感じかね?」
「好きな彼女が恋人ってことか?」
「そやね」
ああ、だから恋人同士という単語があるんだな、と白石は思った。彼女達は彼が好きで付き合っているのだから、彼女達にとって彼は(彼の定義でいくと)恋人なわけで、けれど彼にとって彼女達は恋人ではない。
「やっぱ俺にはようわからんわ、付き合うて」
「まあただの口約束ばい。女の子は関係に名前ば付けたがるけんね」
ふうん、と言って白石は置かれたペットボトルを掴み、千歳の赤い頬に当ててやった。気持ちよか、と言って千歳は笑った。
「今『恋人』はおらんの?」
うーん、と千歳はまた考え込む。曖昧なことが多いんやなあ、と白石はぼんやりと思う。
「どげんやろ。好きな子はいっぺんに一人しか作れんけん」
ペットボトルを支える白石の手に自分の手を重ね、千歳は言った。
「それはわかるわ」
まだ中身が一リットル以上入っているペットボトルを支え続けるのが辛くて、白石はそれを降ろす。名残惜しそうに目で追う千歳の頬に、代わりにとひとつキスをする。千歳は嬉しそうな笑顔を浮かべ、唇にキスを返した。
「俺の好いとう子は白石だけやけんね」
「うん。俺も千歳だけ好き」
好きな相手と一緒にいられるならば、関係に名前をつける必要なんてないよなあ、と白石は思う。それよりも、千歳のことが好きなくせに、自ら去っていくなんて女の子はよくわからないなあ、と思いながら白石は千歳を引き寄せ、布団に倒れ込んだ。