騙された。こんなことは聞いていない。もはや詐欺だ。本当ならば今頃は自宅の部屋で愛カブトムシにプロテイン入りのゼリーをやって、自分でもプロテインを飲んで少し筋トレをしてヨガをして、そうして風呂に入って温かい布団の中に入っていたはずだ。
それがどうしてこんな時間に学校方面へと自転車を走らせることになっているのだろう。眠らない大阪の街を彩る様々な光が視界の左右を掠めていく。晴れた夜空に星は見えない。舌打ちを一つこぼして白石はペダルを漕ぐ足に力を入れ直した。この街で育った白石にとって、夜の空とは昔からそういうものだった。
千歳と寝た。
何故か、と聞かれればノリとしか答えようがない。たまたま二人残った部室で何でもない会話をしていて、何となく千歳の九州時代の話になって、残してきた女でもいるのかとか、そんな流れがきっかけといえばそうだった。
「自分てあれなん、やっぱ経験済み?」
「やっぱ、て何ね」
「どう見てもタラシやしな」
「そぎゃんこつなかろ」
「いや小春も謙也も言うとったで」
「えー、俺ってそぎゃん風に見えっと?」
「まあ見えるし、ほんで童貞ちゃうやろ?」
「……まあ」
完璧だろうが潔癖だろうが白石もそれなりに思春期だった。後から後から湧き出るように言い寄ってくる女子と付き合おうと思わないのはどちらかといえばテニスに支障をきたさないためで、猥談もすれば生理的必要性に合わせて無駄の無い自慰も行ったりする。セックスがしたくて仕方がないということはなくとも興味はあった。
「セックスしたら、何か変わる?」
「何かって、何ね」
「何でもええねん、セックスする前と後で、何か変わったことある?」
うーん、と千歳は少し考える素振りを見せた。
「童貞やなくなったとか?」
「そのまんまやないか」
あんまりな答えに間髪入れず切り返せば、もう少しだけ首を捻った後で千歳は溜息を吐いた。
「別に、太陽の西から昇るごたる変化はなかよ」
「いやいや別にそんなどエラいことは期待してへんねん」
「何なら試してみっと?」
「は?」
「自分で確かめるんがいっちゃん早か」
そういうわけで千歳と寝た。
ひとまず第一印象は「痛い」だった。それが受け入れる白石の器官が狭い出口しかなかった所為なのか、受け入れた千歳の器官が平均より随分大きかった所為なのか、たぶん両方なのだろうけれど白石に判別できるはずもなかった。痛い痛い無理無理と叫んだり引っ掻いたりしても「そのうち良くなる」と千歳はヘラヘラ笑って行為を続けた。
「最初は誰でも痛かもんばい」
「お前も痛かったん?」
息も絶え絶えに聞いてみれば千歳は目を丸くして、まさか、と言った。
「入れる方は気持ちよかだけったい。あ、ばってん今は狭かとこ使っとるけん、さすがにちょっと痛かね」
白石は眩暈を覚えた。自分にない経験を他人に与えておいて、何が「確かめる」だ。そんな馬鹿な話は聞いたことがない。
「せやったら俺に突っ込ませろや」
「いやあ、俺は痛かこつ好かんけんね」
「いやいや俺もそうやって」
「ほなこつ?包帯とか薬とか好いとうけん、痛いんが好きなんかと」
「何でやねん!お前ほんまいっぺん殺したろか」
色気も何もあったものでない会話を交わしながら行為は続いた。それでも、白石が男だということを思い出したのか、流石に入れるだけでは駄目かと千歳が手を使い出してからは少し感覚が変わった。端的に言えば快感が混じった。けれどそれならばわざわざ入れる必要はなかったんじゃないかとか、でもそれではセックスにならないしとか、ぐるぐると考えている間に結局は射精まで漕ぎ着けた。その辺りは千歳の技巧が悪くなかったからとしか言いようがない。
……で?何か変わっただろうか。射精の余韻だとか鈍い痛みだとか色々なものがそれなりに落ち着いた頃、白石は冷静に考えてみた。ざっと見渡してみても夕陽は西向きの窓から直接射し込んでいるし、隣の千歳は中学生とは思えないほどデカいままだし、世界は広くも狭くもなっていない。千歳は童貞でなくなったと言ったけれど、突っ込まれた白石はそれすら変化していなかった。当然喪失するような処女膜も持っていない。
「感想はどげんね?」
「……まあ、太陽が東に沈むほどの変化はないな」
「言ったっちゃろ?」
ヘラヘラと笑って千歳は白石の頭を撫でた。その行為にしたって珍しいものでもない。千歳は誰よりも背が高い所為かよく人の頭を撫でる。同学年の人間に子供扱いされるようで多少の苛立ちは感じても、成長期を終えてそうそう与えられなくなった感触はどちらかといえば心地良かった。
「何も変わらんてことがわかっただけよしとするわ」
「そうそう、何事も経験やけんね」
的を射ているのかいないのかわからない、そんな会話でその日は終わった。帰り道にはすっかり暗くなった空に星は見えず、やっぱり何も変わっていないとまだ少し怠い腰を引きずって白石は帰路を急いだ。
自転車の施錠もそこそこに、白石は金属製の階段を駆け上がる。二階に並ぶ五つの扉のうち、奥から二番目を目指す。
「千歳ぇ!」
「は?え?白石?」
チャイムもノックも鳴らず突然開いた扉に千歳は至極間抜けな声を返した。六畳一間の狭い寮は扉を開けば部屋の全てが見える。千歳は大きなぬいぐるみを抱え、そのキャラクターが出演している彼お気に入りのアニメを鑑賞しているところだった。
「どげんしたと?」
「どうもこうもあらへんわ!こんなん聞いてへんで!」
白石は怒鳴り散らしながら立ち止まることなく部屋へと上がり込んだ。千歳は呆けた表情でぬいぐるみを抱えたまま白石を見上げている。
白石はそのまま部屋を見渡し、まず平和なBGMを垂れ流すテレビの電源を落とした。ああ、と悲嘆を漏らす千歳に向き直り、腕に収まっている大きなぬいぐるみを取り上げ、後ろに放った。ああ、同じ音の悲嘆を放った千歳の顔を両側から挟み込んで睨みつけた。恐ろしく整った白石のどアップは、それだけで強い圧力になる。
「な、なんね」
「……お前、大っきい変化は無いて言うたよなあ?」
「え?」
全くもって状況を飲み込めていない千歳に苛立ち、白石はその唇へと乱暴に口付けた。見開いた千歳の目が益々混乱に染まり、少しの間を置いて白石の肩が押し返される。
「えーっと、ちゃんと説明してくれんね?」
「やから、何も変わらんって言うたやん」
「何がね?」
「セックスや!」
「……ああ」
まるでそんなことは忘れていたとでも言うように千歳は納得の声を上げた。そして改めて困惑の表情を浮かべ直す。
「ばってん、白石もそう言ったとや?」
「ほな何で俺は今ここにおんねん」
「そぎゃんこつ、こっちが聞き……」
至近距離にある美しい顔に気圧されつつも、千歳はハッとして言葉を切った。そうしてあろうことかふにゃりと笑顔を浮かべた。どこか一人納得したような空気すら纏っている。
「白石、俺に会いたくなったと?」
今度は白石が眉を顰める番だった。
「……何、こうなんのわかっとったん?」
「いやいや、そげんわけやなかよ」
そう言いながらもそっか、とかなるほど、とか一人でニヤニヤ笑う千歳を異星人であるかのように白石は眺めた。
「何やねん、気持ち悪い」
「あんね白石、セックスで世界は変わらんばってん、気持ちの変わるこつはあっとよ」
「は?気持ち?」
「ばってんまず俺の考えが正しいか確かめてみんとね」
「え?は?」
気付けば白石の視界には千歳と低い天井しか映っていなかった。
「終わったらちゃんと教えちゃるけん」
そうして千歳が天井を追いやって、暗くなった視界の中で唇が重なった。
今日も夕陽は西に沈んだし、ネオンに照らされた夜空に星は見えない。世界は何も変わっていない。変わったことといえば、痛みが引いた頃からやけに鮮明になった千歳の体温や息遣いやそういうものばかりを思い出す白石自身で、その正体を千歳は知っているというのだろうか。
何が何かわからないままだったけれど、それが自分の求めていることと一致したので、強請るように白石は自分から舌を絡めた。少し笑った千歳には気付かなかった。