何も無い世界に怯えた夜はないだろうか。
この広大な宇宙の果て、宇宙が生まれる前の世界、あるいは全てが終わった後の世界。小さい頃、よくそんな世界に囚われて眠れなくなった。夜が来る度に、想像さえ許してくれない無を想い、布団の中にぽっかり開いた闇にまで救いを求め、ただただ怯えていたことを覚えている。何も無いとは何だろう。生あるものはもちろん、たった一欠片の原子さえ在ることを許されず、そもそも何も無いという概念すら存在しない。そんな途方もない虚無が怖かった。
幼い好奇心から生まれるそんな恐怖心が、俺一人の経験だとは思えない。音も光も匂いも存在しない、全ての温度が均一になった世界を想い、怯えたことはないだろうか。
「それがお前のこと嫌いな理由やな」
思ったことを正直に伝えると、立っていても存在感抜群だけれど横になるともはや邪魔でしかない身体を悠々と伸ばしていた千歳が、少し困ったような顔でうーん、と唸った。
「……白石はたまに、相手にわかってもらおうっち努力ば欠けよるね?」
「え?わからん?」
この会話は、とうに散った花弁が汚らしく未練がましく掃き溜まった、校舎裏の桜の木の下で行われた。夏を控えて尚優しさを残す呑気な陽射しが降り注ぐ一方で、地面からの放射熱を未だ吸収しきれない弱い風が首筋を冷やす。まだ長ジャージは手放せないなと思いながら、困惑した表情で俺を見る千歳を眺めた。
「お前のこと見とったら、そういうの思い出すねん」
「そういうの?」
「せやから、何も無い世界のこと」
最近俺はとても千歳のことが嫌いだ。最近と言って、千歳と正式に出会ったこと自体が最近なのだから、ほとんどずっと嫌いということになるかもしれない。ただ別に、始めからそうだったわけではないのだから、やはり最近と言っておく。
「なして?」
「そんなんこっちが聞きたいわ」
嘘を吐いた。理由はある。教える義理はない。
千歳はそれで俺との会話を諦めたらしく、溜息を吐いて目を閉じた。
「ならなして俺んこつば嫌っとるんに此処におっと?」
「あんな、今何時かわかるか?」
「わからんばい」
「四時半や。時間になっても現れへん不良部員をわざわざ迎えに来たってんけど?」
「ほなこつ、部長さんて大変ばいね」
「……お前な、ほんまいっぺんしばくぞ」
千歳が目を閉じているので、俺はとても気分が良かった。千歳の真っ黒な目は何も無い世界にそっくりだ。何も無い世界など見たことはないけれど、その目を見るといつも眠れなかった幼い夜を思い出したので、きっと何も無い世界は千歳の目とよく似ているのだということにした。そういうわけで俺は千歳がとても嫌いなのだけれど、目を閉じた千歳はただの千歳だったので、とても心が落ち着いた。
「千歳、お前何しに大阪来てん」
「目ん治療」
「何しに四天宝寺入ってん」
「テニス」
「ほな何で部活来おへんねん」
「気が向かんけん」
「何でやねん」
「……そげんこつ、こっちが聞きたか」
なるほど、そう来るか。目を閉じた千歳はただの憎たらしい千歳だと少しだけ修正して、今度は俺が溜息を吐かなければならなかった。
「なあ、右目って良くなってるん?」
「あんまし変わっとらんばい」
「良くなったら熊本帰るんやろ?」
「……まあ、そうたいね」
「ほなちょっとの辛抱やねんから、此処におる間は此処の奴らしくせえや」
「なして俺んこつば嫌いよる子の言うこつ聞かんならんと?」
言い草があまりに子供染みていたので笑いそうになった。目を閉じてそっぽを向いて、そうしていると千歳はただのデカい拗ねたガキだった。
「別に嫌いちゃうで、今は」
「さっき嫌い、ち言うたっちゃろ」
「うん、さっきは嫌いやった」
いっそ微笑ましい気分で千歳に接する。ずっとそうやって目を閉じておけばいいのに。何も見えなくなって、ずっとずっと此処で眠っていればいいのに。そうすれば何も無い世界なんて訪れないし、怯える必要なんてなくなるのに。
「白石、説明はちゃんとしなっせ」
そうやって安心して油断しきっていたら、千歳の目が突然俺の前に現れた。黒い黒い、本当に日本人なのかと問いたくなる、何でも吸い込んで呑み込んでしまいそうな目。何も無い世界を、俺にもたらす恐ろしい目。千歳が上体を起こしてこちらを見据えたのだと気付いた瞬間、俺は思い切り両腕を突っ張っていた。
「痛っ」
「うわごめん、でも今めっちゃ嫌いやごめん近寄らんといて」
突き飛ばされる形になった千歳は、それでも肘で体を支え、頭部は守ったようだった。パニックを抱えながらも、流石に反射神経はええなあ、と頭の隅で感心した。
「ならさっさと部活行きなっせ、俺は白石ん望み通り近寄らんけん」
「え、それって部活来おへんてこと?」
「そうなるっちゃね」
「いやそれは困る、めっちゃ困る」
何が困るのだろうか。実はその理由はよくわからない。誰かとダブルスを組んでいるわけでもない千歳が来なくたって他の部員のメニューは回るし、練習に来なかろうが強ければレギュラーを取れるのがうちのやり方だった。千歳はある意味で、此処のやり方にきちんと則った行動しかしていない。
「……で、今度は何ばしよっと?」
「え?」
訝しげな声に、俺は俺の指先が勝手に千歳の左目を指差していることに気がついた。それどころか、指先は引きつけられるように刻一刻と真っ直ぐその目に近付いているようだった。
「俺ん左目に、何ばついとっと?」
「……そっちって、見える方の目やっけ」
「うん」
「ほな、このまま潰してもええ?」
「は?」
ああそうだ、このままこの目を潰してしまえばいい。意識の制御下を外れて勝手にブラックホールのような目に吸い込まれて行く指先は、そう考え直してやると俺の意志と同調した。
五センチ、三センチ、一センチ。体感で秒速二センチの速さを以て指先は一直線に何も無い世界を目指す。毛細血管に血が駆け巡り、トクリトクリと鼓動が五月蝿い。さて心臓は指先にあったものだったろうかと思ううち、一秒の何分の一かの時間が経過して距離はミリ単位に縮まる。あと一息、と思ったとき、
「白石!」
響いた声にブレーキを踏まれた。
「……冗談やって」
指先を引いた俺に安堵したのか、千歳は力無く俺の髪を撫でた。
「白石、冗談でもそげんこつしたらいけんよ」
誰が何をしていても呑気に笑っているだけの千歳にしては、珍しい発言だった。本気だったことがバレたのかもしれない。厄介な話だ。
「何で俺がお前の言うこと聞かなあかんの?」
俺は改めて千歳に近付き、せめてもの譲歩として、真っ黒な左目をペロリと舐めた。何も無い世界は、ちょっぴり塩っ辛い涙の味がした。
「……気、済んだと?」
「うん」
「俺んこつは?」
「好きやで」
「……ほなこつ、ようわからん子やね」
千歳はポンポン、と子供をあやすように俺の頭を撫で、そうして徐に立ち上がった。しゃがみ込む姿勢から見上げればちょっとした木みたいだった。
「部活行くばい」
「始めからそうしとったらええねん」
俺はなるべく千歳の目を見ないように立ち上がり、さてどうすれば咎められることなくその目を奪えるだろうかと思考を巡らせながら、遅刻になったコートを目指した。