冬の風が吹き込む駅のホーム。白いタイルの上を行き交う人々は皆分厚いコートを着込み、心なしか下を向いて歩いている。帰省ラッシュにはまだ早い。あと四、五日もすればスーツケースを引いた親子連れなんかが溢れ出すのだろう。
 いくつものホームから聞こえるアナウンスが乾いた冬の風に乗って、響いては消えて行く。白石は左手に握り込んだ切符を見た。入場券、とだけ記され、行き先など何処にも書かれていない。つまり、白石を呼ぶアナウンスなど永遠に流れないということを意味していた。
 「今日はほんなこつ寒かね」
 繋いだ右手の先で千歳がポツリと呟いた。入場券をコートのポケットに突っ込み、白石は彼を降り仰ぐ。互いに、何重にも巻かれたマフラーの隙間から白い息が立ち上っていた。
 「せやなあ、今年暖冬やとか言っとったん誰やねん」
 「はは、天気ん予測は将棋ほどうまくいかんけんね」
 東京行き、のアナウンスと共に、向かいのホームへ新幹線が滑り込んでくる。何人かが荷物を拾い上げ、銀色の柵の切れ目に列を作る。仕事納めの近いサラリーマンが大半なのだろう、大きな荷物を持つ人は少なかった。彼らにとっては大した出発ではないのだ。交通網の発達で西日本と東日本の時間的距離が縮まり、今の時代日帰りで移動する人だって少なくない。大人たちは皆身軽に手軽に日本全国を駆け回るけれど、自分たちがそうなるまでにはあとどのくらいかかるのだろうかと白石は思った。
 「忘れもんないか?」
 「さしおり切符ば持っちょったら帰れるけん、あとは何とでもなるったい」
 千歳は歳の割に旅慣れしている。どこからそんな資金を調達してくるのかは知れないが、大阪へだって単身で来たし、目を離せばやれ東京だ沖縄だと大した荷物も持たないでふらふらと出掛けて行く。今回の帰省もたまたま千歳の親が送ってきた新幹線の切符を白石が見つけただけの話で、そうでなければ千歳は黙って帰ってしまっただろう。事実白石が見送りに行くと言えば千歳は心底不思議そうな顔をした。彼らの間では共通する価値観の方が少なかったので、白石が殊更そんな反応を気にかけることもなかったけれど。
 「いつ戻ってくんの?」
 なるべく自然になるよう心掛けて白石は尋ねた。帰ってくる、という言葉は使わなかった。
 「適当ばい」
 東京行きの新幹線が入れ替えた乗客を載せて動き出す。戻ってくるときはあっちやな、と白石は向かいのホームをぼんやり眺める。加速し、車体が姿を消せば降りてきた人々が思い思いに出口へと向かっていた。何人かは出迎えの人間と合流し、笑顔をこぼす。
 「学校始まるまでには戻ってきいや」
 「ああ、そやね」
 学校とは毎日通うものであるという概念が抜け落ちている千歳は、長期休みでなくとも平気でどこかへ行ってしまう。曖昧に笑う千歳に、ほんまにわかってんのか、と白石が問えば、ふと繋いだ手に力が篭った。
 「そぎゃん長居するつもりはなかよ。年越しは皆ですっとだろ?」
 「なんやお前、覚えとったんか」
 誰が言い出したかは定かでないが、中学最後の年越しは皆で迎えようと、テニス部の元レギュラーで二年参りの約束をしていた。その話は千歳にも伝えていたけれど、聞いているのかいないのかわからないような生返事だけが返ってきたので白石はそれ以上何も言わなかったのだ。
 「楽しそうやけん行こかち思っとっとよ。それに、」
 続きかけた千歳の言葉に、アナウンスが割り込んだ。博多行きのぞみ35号。千歳が乗る新幹線だった。九州新幹線の開通に伴って乗り継ぎをしなくとも熊本まで行けるようにはなったが、彼の母親曰く、そぎゃんおっきか身体で何時間も座っとったらケツに根ば生えったい、とのことだった。
 白石は少しだけ千歳にもたれ掛かり、電車が入ってくるであろう方向を見遣った。
 「……それに、何?」
 途切れた先の言葉を聞く声が小さくなる。そのときふわりと、白石の視界に千歳の顔が入り込んできた。焦点を合わせれば、少し悪戯めいた笑顔を浮かべている。
 「白石の寂しがりよるけん」
 「……ああ、そう」
 「否定せんと?」
 「まあな」
 「やけに素直ばいね」
 雪でん降るんやなかと?そう言って千歳は笑った。うっさいわ、と白石は千歳の顔を押し返す。
 「暇やねん。部活は引退したし、高校は決まったし、世話する花もないし」
 「あん花ば枯れよったと?」
 「言わんかったっけ?枯れたで、ちょっと前に」
 数日前、千歳の寮の中庭でこっそりと育てていたダチュラの花が枯れた。夏の始めに種を植え、白石が手厚く手入れをしてやった甲斐あって大ぶりな黄色い花を咲かせてきたのだ。そのダチュラが枯れた。見つけた白石がそっと触れれば、乾燥した花弁は力無く地面へと落ちた。真っ黒な種がポロリと零れた。

 ずっと咲き続ける花などない。植物に携わる人間は誰だって永遠など存在しないと知っている。そして植物を育てない千歳も、おそらく白石とは違う経緯でその概念を知っていた。それは過去に経験した別離が関与していたかもしれないし、もっと深いところからくる諦念があったのかもしれない。
 いずれにせよ全く違う考え方を、生き方をする彼らは少なくともそのことだけは共有していて、だから離すときが来るとわかりながらも今だって手を繋いだままでいる。

 もう一度アナウンスが鳴り響き、ホームに電車が入ってくる。人々は荷物を持ち直し、列を作る。まだ千歳は列に向かわなかった。黙って二人、減速する車体を見ていた。やがて白い機体は完全に止まる。空気が抜けるような音がして、開いた扉から沢山の人々が降りてくる。
 「……早よ行けや」
 「うん」
 それでもまだ千歳は動かない。降りる人々が途切れれば、列が次々と車内へ吸い込まれていく。皆それぞれの切符を持ち、それぞれの場所へと旅立って行くのだ。最後の一人が乗り込んだ頃、漸く千歳は動き出した。手は繋いだままだった。
 「ほな、こっち戻ってくる日決まったら教えて」
 引かれるままに入り口までついていきながら、白石は言った。
 「迎えに来てくれっと?」
 「うん」
 一歩車内へ踏み込んだところで千歳は振り向いた。他の乗客はさっさと先へ進み、自らの席を見つけているところだろう。何となく気恥ずかしくなって白石は俯く。まだ繋いでいる手を見つめた。冷たい空気に晒されて、二つの掌の内側だけが温かい。
 「白石」
 「何」
 出発を告げる高いブザー音が鳴り響く。混じった千歳の声に白石が顔を上げようとしたとき、強い力で右腕を引っ張られた。
 「なっ、」
 一瞬、ほんの一瞬だけ唇が触れ合う。ホームと車内の境界線上でのことだった。
 「……行ってきます」
 そうして手が離され、扉が閉まる。呆気に取られた白石が慌てて見上げた窓の向こう、千歳は笑っていた。

 なんて残酷な言葉を吐くのだろう。白石は体温を失った右手をぎゅっと握りしめる。その言葉の意味を、千歳は知っているのだろうか。
 駅員が笛を吹き、ゆっくりと電車が動き出す。入り口から離れない千歳はずっと微笑んで白石を見ている。千歳の意志とは無関係に動き出す彼を追って、白石も一歩、二歩とつられて動く。もっと、と急かそうとする足を意識的に制御し、そこで白石は止まった。
 「……行ってらっしゃい」
 誰にも届かないことは承知で呟いた。

 まだ大丈夫だ、と白石は自分に言い聞かせる。九州からの片道切符でやって来た千歳がいずれ元居た場所へと本当に帰ってしまうのだとしても、それは今ではない。数日もすれば千歳は戻ってくるのだし、自分はまた向かいのホームでそれを迎えてやればいい。きっと千歳は深く考えもしないで「ただいま」とでも言うのだろう。感傷は、千歳が「行ってきます」などと言えなくなったときまで取っておけばいい。
 車体が完全に見えなくなるまで、白石はその場に佇み見送り続けた。ホームには誰もいない。白石だけが取り残されていた。そうして次のアナウンスがホームに響いた頃、両手をポケットに突っ込んで下りのエスカレーターへと向かった。

 新しい苗でも買って帰ろう、と白石は決めた。花は何度でも枯れるけれど、その度に実をつけ新しい命を残して行くのだ。ダチュラが残した種はまた夏が来れば蒔けばいい。そのときあの寮の中庭を選べなくなっていたとしても、また新しい場所で美しい花を咲かせるだろう。それまでの繋ぎとして、あの庭には春に枯れる花でも植えてやろう。
 そうと決めた白石は前を向き、行き先を明示しない切符を通して人の行き交うコンコースへと紛れていった。

帰しともないお方は帰り
散らしともない花は散る

2012.12.15