夢を見ていた。草一つない、広大な砂漠に一人ぽつんと置き去りにされる夢。頭上の太陽が容赦無く肌を焼き、身体中の水分を奪っていくようだった。歩けど歩けどオアシスひとつない、どこまでも広がる砂の山々と、細かい粒子に取られる足とがただただ絶望を訴えていた。どうか水を、どうか日陰を、身を焦がす熱から逃げようとしたときだ。蝋造りの翼など一瞬で溶かしてしまうであろう太陽が、急速に地平線へと落ちて行った。
 夢だろうか。そのとき初めて彼は思った。自由落下よりも遥かに速い速度で太陽は落ちて行く。青々としていた空は橙へと色を変え、そうしてみるみる間に深い深い紺色を連れてくる。このような太陽をいつかテレビで見た、と思った。ゆっくりと溶けて机上に広がる氷、芽吹いた植物がやがて花を咲かせ枯れ行く様、そういうものを追う、自然が生きていると感じさせてくれるコマ送りの動画が好きだった。
 やがて太陽は完全に姿を隠す。先ほどまでの暑さが嘘のように急激に気温が下がる。吐く息は瞬く間に白くなり、灼熱にも極寒にも対応できない長袖の軽装など何の役にも立たず、容赦無く体温を奪う。
 寒い寒い、夜の砂漠で一人きりだった。そこで目が覚めた。

 遮光カーテンが全てを隠す室内ではいつ目を覚ましても暗闇以外に見えるものはない。目が覚めたとき、最初に飛び込んでくるものは視覚情報、次いで聴覚情報で、暗闇の中一人で暮らす白石には大抵の場合そのどちらも意味を成さない。やがて訪れた懐かしい匂いと、それより遥かに存在感を主張する冷たい空気、それから多少で済まされない重みに確かな現実を感じる。彼は夜眠るとき、衣服を身につけなかったから、触れるものが人間の肌だということにはすぐに気がついた。
 「……冷たい」
 「ん、起きたと?」
 気配にだけ振り向いて、だんだんと暗闇に慣れる目がぼんやりとした影を捉えた。そこには、壁を向いて一人きり眠っていた自分を包む存在が確かにあった。
 「いつ帰ってきたん?」
 「今」
 起こしてすまんばいね、と鼓膜を震わす声には覚えがあって、白石は小さく溜息を吐く。
 「帰ってくるときは連絡しろって言うてるやろ、千歳」
 「携帯止まっとったけん」
 すまんね、ともう一度謝罪の言葉が響き、微かに笑う気配が届いた。千歳が着ているらしい衣服が肌を滑る。上に上がって、優しく白石の髪を梳かす。
 「今度はどこ行っとったん」
 「寒いとこ」
 千歳はいつも、固有名詞を使わない。木の多いところとか、星の綺麗なところとか、例えばそこが日本国内かどうかすら明らかにしない。いつかその理由を聞いたとき、同じ場所でも見える景色はいつも違っているから、自分は目に見たそのまましか言わないのだと彼は言った。
 「氷の張っとるとこでね、朝日ん反射がたいぎゃ美しかったばい」
 「へえ」
 「対岸の森の端にキタキツネの親子がおって、ずっとそれば眺めとった。知っとる?キタキツネはね、半年も足らんで子供の独り立ちすっとよ」
 「ふうん。ほな珍しいねんな、親子が見れるっちゅーんは」
 髪に触れる手はそのままに、白石は身体ごと千歳の方へと反転する。暗闇の中で胸の辺りと思わしき場所に鼻先を埋めれば、何よりも心の落ち着く香りがした。いつ風呂に入っているとも知れない千歳はそれでも、いつだって太陽の匂いを身に纏っていた。
 「白石は?元気しとったと?」
 「別に、何も変わらんよ。普通に仕事行って、たまに謙也やら誘てテニスしとる」
 「みんなにも長いこと会うとらんね」
 「みんな心配しとったで。たまには顔出しいや」
 「うん、そやね」
 千歳の掌が白石の頬へと滑り落ちる。身体に比例して大きな掌は昔からすっぽりと白石を包み、いとも簡単に安心感を与える。親指だけで頬が撫でられる。白石はゆっくりと瞳を閉じた。本物の暗闇が視界を覆って、少しでも光ある限り人間は何らかの像を結ぶのだということを知る。再び開いた瞼の向こうで、はっきりとしない影だけの千歳が笑った気がした。
 「白石」
 視界の中で影が面積を増す。それと同時に唇に柔らかい感触が訪れる。
 「会いたかったばい」
 少しだけ開いた隙間に流れ込んだ空気が震える。随分勝手な言い分だ、と白石は思う。いつも勝手に消えるのは千歳で、勝手に現れるのだって千歳だ。
 「……うん、俺も」
 昔から、言ってやりたいことはいくらでもある。居て欲しいときに居なかったことだって数えきれない。けれど抱き合って熱を奪い合うだけが愛ではないと教えてくれたのも千歳だったし、自分らしさを打ち砕くものが愛だと思い知らせてくれたのもまた千歳だった。
 ゆっくりと、再び影が重なる。いつの間にか熱は移動して冷たさは消えていた。あとは互いに高まる熱だけを分け合う。

 最初に千歳を見送ったのはいつだったろうかと白石は考える。あれは春だった。まだ寒さの抜け切らない春のほんの入り口、桜も咲かない校門から後ろ姿を見送った。決別の言葉もなければ再会の約束もなく、ただいつものように手を振って別れた。あの瞬間を思えば、こうして今でもその背を見送ること自体が奇跡のようなものなのかもしれないと白石は思う。
 「次はどんくらい?」
 「さあ。寒いとこ行っとったけん、今度は暖かいとこにでも行こうかち思っとる」
 「適当やねんな」
 「まあね」
 昇ったばかりの太陽が玄関の向こうから真っ直ぐに飛び込んでくる。高すぎる身長を屈めて鴨居を潜る千歳を見る度、これが最後かもしれないと思う。腕を組んで白い壁に凭れ、逆光に包まれる千歳を見ていた。
 年に数度、気紛れにしか帰ってこない千歳を待つ義理なんてなかった。千歳も待っていろと言ったことはなかったし、白石にしたって待っていると伝えたこともない。事実、大学時代の一時期だけ二人で住んでいたこの部屋も、随分前に名義は白石一人に変えてしまっていたし、そういう意味では千歳にとってはもはや帰る場所ですらない。携帯電話が意味を成さない千歳との、この部屋の合鍵一つだけが繋がりとするならば、例えばさっさと可愛い恋人でも見つけて別の場所で家庭を築くことも白石の選択としては充分にあり得た。幸か不幸かそういうことを望む女性は周りにいくらでもいた。少しでも力を込めて引っ張れば切れてしまいそうな細い繋がりに、それでも縋ってしまうのは郷愁なのか、微かな期待の発露なのか、白石はもうずっとそのことについて考えないことにしていた。淡々と暮らす毎日の中に時折千歳が現れる、それは白石の人生そのものに近かった。
 「ほな、また」
 「うん」
 ゆっくりと閉まる扉を眺める。ひとところに留まれない千歳がそれでも思い出したように訪れる場所が此処であるならば、そのままであろうと白石は思うのだ。固有名詞を語らない千歳がその口に白石の名を紡ぐ限り、そこには一定の意味があるのだし、白石は待つのでなくいつでもその場所に留まり続けることによって彼への誠意を表す。あまりにも性質の違う彼らが、それでも惹かれて止まない彼らが一緒にいるための、それがただ唯一の方法なのだった。

およそ世間にせつないものは
惚れた三字に義理の二字

2013.2.27