住めば都とはよく言うものだけれど、六枚ほどの畳が敷き詰められたばかりの何の色気もない部屋はどうしたって終の住処になどなりはしない。これまで一切振り返ったこともなかったはずなのに、木製の階段が軋む音、縁側に広がる石畳の庭園や空から降るウグイスの声、変わる季節が呼び覚ますカエルやコオロギの合唱、草の匂い、故郷を思い出すときいつでも並べ立てられるそれらの気配は、当たり前という概念が失って初めて心を抉るものだと知らしめる。「此処」にはそのどれもが存在し得なかった。
随分と遠くへ来た気がする。偶然が重なって故郷を後にして、偶然を塗り固めて大阪の土を踏んだ。この偶然が必然だったとして、その区別をつける方法など千歳は知らない。過去を失ったときも、今を手に入れたときも、そんな未来が来ることなど何一つ予知できなかった。
音の葉
薄闇の中で目が覚める。夜とも朝ともつかない曖昧な闇は、人より半分しか機能していない千歳の知覚器官と馴れ合うには少々の時間を要する。
その目が慣れ切るよりも先に、微かな寝息が千歳の鼓膜を震わせた。なんだったか、と思って、次に腕を浸食する温もりに気付く。そろりと下を見遣ると、だんだんと像を結び始めた視界に、細いミルクティー色の髪が揺れた。
珍しいこともあるものだ、と千歳は思う。彼の温もりを閉じ込めて眠るときは、大抵朝まで眠りこけるのが常だった。
「……白石」
小さく小さく、空気を震わせない音量で千歳は呟く。彼らしい、秩序立った寝息を立てて、彼らしくない無防備な寝顔を曝している。
カーテンを開け放したままだった窓の向こうに月が見えた。半身を持たない月は、地平線に隠されるより先に朝に呑み込まれてしまうだろう。
白石の気遣いはいつもほんの些細なところにある。隣を歩くときに右側を選ぶこと。南に枕を置いた狭い布団で、東向きの窓に背を向けて眠ること。白石の向こう側に昇る朝日はいつもまっすぐに千歳の左目を射抜いた。
「ただでさえ寝起き悪いんやから、直射日光にでも起こしてもらえ。俺は知らん」
いつだったかそんな風に白石は意地悪く笑った。けれど白石は知っていたのだ。目が覚めたとき、左の視界が遮られていれば千歳の目に入るものは何もない。決して表に出さない恐怖を、白石は的確に、感覚として捉えていた。そのような弱さを見せたがらない千歳のために、実にさりげなく白石は千歳の右側で寝息を立てるのだった。
そうして夜とも朝ともつかない、紫がかった窓の外からけたたましい太陽の光が忍び込む。夜の間中輝かせ続けた月を殺し、人々を幸福な寝台から引き摺り出す傲慢な光が。
窓から差し込む光が白石を照らし、浸食し、たまらなくなって千歳は薄い掛け布団で彼を隠した。新しい、希望に満ちた一日に白石を連れ去られるにはまだ早すぎる。
「……千歳?」
けれど、決して神経の太い方でない白石はそれで目を覚ましてしまう。布団ごと引き寄せられた頭をもぞもぞと動かし、少し見上げて千歳を探した。弱っているときの瞳を見られることを千歳は好まない。意識して、精一杯の慈しみを込めて、浸食する太陽光を内包した瞳で白石に微笑みかける。
「起こしてしもたと?」
「ん?」
千歳の誤摩化しに気付かなかったらしい白石は、眠りが遮断されたとき特有の曖昧な仕草で千歳を見返した。いつも明瞭な事柄を好む白石には似合わない曖昧さを、愛おしいと思う。
「……今何時?」
「さあ、六時くらいやなかとね」
「なんや、まだそんなもんか」
もう朝練の習慣もすっかりと抜け落ちていた。学校まで徒歩5分の千歳の部屋で、始業を待つにはまだ有り余る時間がある。
白石は一度大きな欠伸をして、ちらりと窓辺を見遣った。つられて千歳も外へと目を向ける。瞬く間に月は姿を消していて、瞬きの合間に朝焼けは広がっていく。
やがてこちらに向き直った白石は、右手をそろりと千歳の左耳へ伸ばした。その先にあるのは付けっぱなしの、もはや体の一部にでもなってしまいそうなピアスだ。小さな銀細工をゆっくりと撫でて、白石は目を細める。白石から見ればそのピアスはいくらかの光を反射させているのだろう。けれど、それにしては些か感傷めいた瞳の歪め方だった。
「どぎゃんしたと?」
「いや」
不審に思った千歳へ、白石は簡潔な返事を放つ。ゆるゆると首を横に振り、右手を布団の中へと戻した。
「おかしな話やなあと思て」
白石はごそごそと体勢を入れ替えて、伸ばされた千歳の右腕に最適な場所を見つけ、落ち着く。一度目を閉じ、もう一度開いて、眠気の消えた瞳で千歳を見上げる。
「俺とお前はほんの半年前まで赤の他人やったやろ。せやのに、夜中に目ぇ覚めてお前がおるんとか、えらい安心すんねんな」
こんなはずやなかってんけどなあ、と弱々しく白石は笑った。
「……後悔しとっと?」
「うん、ちょっとだけ」
自嘲気味に白石が呟く。どうして、と聞くほど千歳は鈍くない。どちらかといえば千歳も同じ気持ちを抱いていた。
「慣れっちゅーんかなあ。別にな、いつまでもこうしてられへんってことはわかってんねん。このまま朝かて来るし、お前もそのうち地元帰るやろし。そんなん最初からわかってるやん」
この部屋で共に迎えた朝はもう数え切れない。まだ余所余所しい彼らに初めての夜が訪れたとき、この部屋には千歳さえ馴染めていなかった。どちらにも何の所縁もない部屋が、隠れ家のように、ゆりかごのように、優しく密やかに彼らを包み込むようになったのはいつからだったろうか。
「ただそうなったときにな。お前がおるんが当たり前になったみたいに、お前がおらんのも当たり前になるんかなあ思て」
語尾を弱めた白石の眦から、一筋の涙が溢れ、零れ落ちた。
「なんで好きになってもうたんやろ、思て」
わかっとったのになあ。新しく流れる涙に、浸食する朝日が反射してきらきらと千歳の目を焼く。その光は太陽そのものよりも強く、網膜が焼け落ちてしまうのではないかと思った。
「……愛しとう」
千歳はゆっくりと白石を抱き込む。布団ごと、朝日から隠すように。
千歳には同じ予感を抱えて、気休めの言葉を吐けるような機能が備わっていない。白石だって薄っぺらい言葉を呑み込んで安心できるようにはできていない。彼らは賢く、それ故に踏み込んでしまった関係がどれほど愚かなものであるかを理解してしまう。
「愛しとうよ、白石」
祈るように呟いた。小刻みに頷く白石が頬を寄せて、遮る衣服のない千歳の胸を濡らす。
千歳は太陽を憎んだ。どうして夜が明ける毎に彼を悲しませるのだろう。どうして日が暮れる毎に残された日々を数えさせるのだろう。太陽が毎日昇り、沈む限り、地球が回る限り、誰にも時間は止められない。どれだけ「今」「此処」で幸福を拾い集めようと、時間は容赦なく万人へと平等に流れ、誰とも分かち合えないただひとつだけの人生を押し付けてくる。
千歳はいつかどこかの場所から来たように、いつかどこかの場所へと還るのだろう。その道行きは故郷へとつながるのかもしれないし、そうではないかもしれない。自分がいるのはいつでも「此処」で、千歳は「此処」ごと移動してきただけだ。白石の「此処」と千歳の「此処」が浸食し合って初めて彼らは共に在り、いずれはそれぞれに「此処」を引き摺ったまま別々の地へと歩いて行くだろう。始めから色濃かった別れの気配が現実に現れたとき、今と同じように白石は涙を流すかもしれない。あるいは自分も。
千歳の「此処」が白石の「此処」と重ならなくなる日が来るとして、いつまでも彼を愛せるだろうかと千歳は思う。自分が大阪へ来た理由と、大阪で得たものとを天秤にかけて、途方もない気分になった。故郷で別れを知った自分は、別れを見越してこの地へ来たのだ。そのように人間は移ろい、永遠などどこにもなく、ただ自分が自分で在り続けることしか確かなものなどないと、とっくに気付いてしまっていたのに。
「まだ早いやろ、もうちょっと寝よ」
「……そやね」
ひとつ深呼吸をして、落ち着いたらしい白石は千歳の胸を濡らした涙をそっと拭った。そうしてもう一度、額を凭せかける。その温もりを覚えておこうと千歳は思った。
満たされた時間を思い出せる限り人は生きていける。二度と戻らない日々を想う感傷はきっと愛で、零していった愛を数えながら最後の日を待つことが、きっと人生なのだろう。
「おやすみ千歳」
「おやすみ、白石」
意図的に千歳は左目を閉じる。片目が世界を失って知ったことは、見ないという選択肢がときにささやかな幸福を連れてきてくれるという事実だった。目を閉じたとき浮かぶ情景がいつでも白石の笑顔であればいい。その記憶をいつまでも抱いて、いつまでも彼を愛していこうと思った。