ああ見えて仁王は別に浮いていたわけじゃなかった。人をおちょくるだけじゃなくて、きちんと他愛ない話もできたし、テストのヤマ掛けに参加していたりもしたし、女子からの呼び出しなんかにも律儀に応じる奴だった。髪の色は、さすがにそれはねーだろって感じではあったけれど、それを除けば仁王はどこにでもいるただの十代男子だったような気がする。
ただやっぱり変な奴かも、と思ったのは、仁王の存在感が限りなくインスタントだったところだろうか。
例えば何人かで話をしていて、その中には確かに仁王はいたのに、気がついたら消えている。あれ仁王は?って聞いても、誰も知らないと言う。そして、一度いないって認識してしまえば仁王なんて始めからいなかったんじゃないかって気分になって、人一人姿を消してもまるで違和感の無い教室に得体の知れない不気味さを覚えたものだった。仁王には確かに、一時的に強烈になる存在感と、それを上回る希薄さとが常に同居していたんだと思う。
だから中学の、特に三年生の一年間、クラスでも部活でも毎日毎日嫌ってほど顔を合わせていたけれど、その記憶は今となってはひどく朧げで現実感を伴わない。年月の所為ではないと思う。鮮やかな勝負の世界は今でも昨日のことのように思い出せるのに、仁王がいた部分だけ、変な加工をかけた写真みたいに明確な輪郭がない。
俺が実感としてはっきり覚えていることはひとつだけだ。それはあの頃仁王が忽然と会話の輪から姿を消したように、あいつはいつか何も残さず、煙のように消えてしまうんだろうという確信めいた予感だった。
序:Ready or not,here I come
平日の昼間における平穏にはどこか騙されたような気分を与えられる。駅前を行き交う親子が典型的な要素で、まだ世界の綺麗な部分しか知らない未就学児と、彼らに夢を見る母親の笑顔が何ら実体を伴わない幸福を演出している。柳生は夢を見るときと同じ目つきでそれらを眺め、一方で真後ろから定期的に吹き出す噴水の音を聞いていた。このところの急激な冷え込みは少し和らいで、暖かな陽光が平穏に更なる拍車をかける。もしも柳生が振り返れば噴水に小さな虹でも掛かっているだろう。極めつけに、駅前広場のそこかしこで野生の危機管理能力をすっかり忘れてしまった鳩たちが何も無いように見えるコンクリートの地面をのんびりと突ついていた。鳩を平和の象徴と最初に定めたのが誰かは知らないが、全く以て正しい観察眼だと柳生は思った。鈍感な鳩たちは必要最低限の移動だけで人の歩みを避けていく。なんというものぐさな態度だろうか。それを眺めているうち、一つの歩みが真っ直ぐに自分の方へと向かっていることに気付き、柳生は顔を上げた。
「よっ、久しぶり」
「お久しぶりです……丸井くん?」
柳生は確かめるようにその名を呼んだ。何年も会っていなかった分ある程度の変化はあって然るべきだったが、黒い髪と黒いスーツ姿の待ち人に少々面食らった。丸井はその戸惑いをあらかじめ予測していたのか、少し笑っただけで遠慮なく柳生の隣に腰掛けた。
「急にお呼び立てしてすみません」
「いやマジびびった。何年ぶり?」
「中学卒業以来ですから、六年でしょうか」
「うわ、もうそんな経つんだ。お前成人式にも来なかったもんな」
そう言って丸井はぷくり、とガムを膨らませた。その癖は未だ変わらないらしい。そのことに柳生は少しの安堵と懐かしさを覚える。
「今何してんだ?」
「大学で、医学を勉強しています」
「ああ、そういや医者だったっけ、お前ん家」
「ええ」
柳生の選んだ道は、中学校の卒業文集にも書かれている。その頃誰しもにとって、まだ未来は現実感を伴わないものだった。将来の夢と設定された項目には漠然とした職が並び、柳生が記した「医者」の文字も大して突出した意味を持っていたわけではなかった。それが今では明確なビジョンとなりつつある。それだけの年月が流れていた。
「丸井くんは、就職活動ですか?」
「ああ、うん、まあ」
丸井は曖昧に笑った。丸井が卒業文集にどんな将来を描いていたか、柳生も、そして丸井自身ももう覚えてはいなかった。
「ーーで?何だよ、俺に聞きたいことって」
近況報告はごく手短に終わった。柳生の急な連絡に応じたものの、あまり時間は取れないと丸井は告げていた。だから店にも入らずこんな駅前で座り込んでいるわけで、この後何かしら職を求めるための予定が入っていると予測できる。まだ課程を半分も終えていない柳生には関係のない世界のことだった。
コホンとひとつ、柳生は咳払いを落とした。今進めるべきは柳生の世界の話だ。丸井がそうしたので、柳生も単刀直入に切り出した。
「仁王くんを知りませんか?」
「仁王?」
丸井のガムがパチンと割れる。丸井は探るような目で柳生を見た。
「……何、お前ら、一緒だったんじゃねぇの」
柳生と仁王が姿を消したのは、六年前の春の日だった。当然来るだろうと思っていた立海大学附属高等学校の入学式に、彼らは来なかった。彼らは二人で消えたのだと、丸井の認識としては少なくともそうだった。
「一緒でしたよ、ずっと」
丸井の視線は、不思議に瞳を隠してしまう眼鏡に遮られて柳生を探ることはできなかった。いつでもそうだった。仕方なしに丸井は柳生の言葉を待つ。
「二日前から姿が見当たらないんです」
「は?二日?」
丸井はいささか拍子抜けした。中学卒業以来、彼らがどのように日々を過ごし、そして今どんな暮らしをしているかなど知らない。それでも成人した男がたった二日間姿の見えない人間を、徹底した音信不通を破ってまで探し求めるものだろうか。
「そんくらい、中学んときだって姿くらましたことあっただろぃ」
「確かにそうですが、それとは違うんです」
柳生は丸井から目を逸らし、前に向き直った。駅前広場にはやはり親子連れと大量の鳩、急ぎ足の人間も見当たらない、平和な光景が広がっている。
「彼の気配が、まるで感じられない」
柳生は横顔にすら何も浮かべない。言葉ひとつとって真意を掴み辛いものを選ぶ。
「あいつはいつだって気配ごと消えてたと思うけど」
「そんなことはありません」
彼らの背後で噴水が上がった。いくら晴れていても季節はほとんど冬である。微かな霧状の冷水が届き、彼らの空間を際限なく冷やしていく。
「あなたは感じられなかったんですか?仁王くんの気配を」
少しだけ揶揄する響きの篭る柳生の言葉に丸井は不快感を覚えた。無意識に、平和の中へと視線を逃がす。
「……仁王の行き先なんて、俺が知るわけないだろぃ」
「そう思ったらわざわざあなたを呼んだりしませんよ」
「何、お前、仁王が俺のとこに来るって思ったのか?」
「あなたは仁王くんにとって、唯一の純粋なる友人だった」
友人、か。言葉にせず口の中でそう呟き、丸井はガムを噛み直した。息を吹き込んで球形に膨らませる。そうして丸井はすっかり冬の色をした空を見上げた。
丸井は仁王を思い出す。白い髪、不健康な肌、西を思わせる特徴的な訛りと、あとは何だったか。
出会った頃は苦手だった。掴み所のない言動を繰り返す彼には本気と冗談の区別がつきにくかったし、子供染みた悪戯で笑っているかと思えば時折ゾッとするほど醒めた目でどこか遠くを眺めているときもあった。丸井自身は美味しいもの、楽しいこと、気持ちの良いこと、そういったわかりやすいものを好んだので、仁王の何もかもがずっと理解できないでいた。
いつだったか、二人で練習を抜け出したことがある。地上の水分という水分が太陽に吸い上げられそうな、とても暑い夏の日のことだった。
「今日マジやべぇ、こんなんで走り回ったら溶けんだろぃ」
通気性のあまり良くないユニフォームに袖を通すのも億劫で、下敷きを使ってまるで無意味な生温い風をバタバタと生みながら丸井は叫んだ。
「どっちかゆうたら干涸びるじゃろ」
夏休み、まばらに登校してくる生徒が忙しなく行き交う部室の中。人の出入りの狭間でたまたま仁王と二人きりになっていたのだと、返事の声を聞いてから丸井は気付いた。
「どっちでもいいってそんなの」
なんだ、こいつか。そのくらいの認識だった。まだレギュラーでもなくその他大勢に過ぎなかった彼らは個々に思い思いの人間と親交を深め、丸井と仁王でその範囲はほとんど重なっていなかった。尤も、親交を深めているような人間が仁王にいたのかすら丸井は知らず、こんな風に偶然が生む会話以外で彼と関わることもなかった。
「ああ、まじサボりてぇ」
丸井は上半身裸のままでぱったりとベンチへ倒れ込んだ。プラスチックに触れた背中は一瞬涼しさを伝えたけれど、すぐに体温と溶け合ってなんの心地良さも与えてくれなくなる。起き上がるのが面倒だと早速倒れたことを後悔し始めた頃、蛍光灯の光を遮る影に気付いた。
「……何?」
怪訝に思って振り向いた丸井の視界に、無表情な仁王が映った。
「サボる?」
「え?」
「一緒にサボろか」
呆気に取られて丸井はぼんやりと仁王を見上げる。俺と、お前で?
「本気で言ってんのか?」
無表情だった仁王がニヤリと笑った。
「今なら出て行こうが誰にもバレんぜよ、多分」
へえ、おもしれぇじゃん。実にわかりやすい理由で、丸井は体を起こした。
学校を抜け出したって気温が変わるわけでもない。それでも彼らは非日常に心無しか浮かれ、纏わり付く暑さも和らぐような気分で一直線に駅へと向かった。
彼らはまず街へ出た。何して遊ぶ?公園の小学生のような台詞にくすぐったさを感じた。八月の繁華街は夏休みの学生に溢れていて、彼らは誰に咎められることもなく様々な店を渡り歩いた。ゲームセンター、ショッピングモール、スイーツショップ。効き過ぎた冷房と、昼に近付くにつれ高まっていく真夏の太陽が生む気温のコントラストが心地良い。丸井は仁王についていくつかのことを知った。ゲームと名のつくものは基本的にうまいこと、甘いものが苦手なこと、変なガラクタショップにやたらと詳しいこと。
街に飽きれば海へ向かった。陽光をキラキラと反射する水面には強く心惹かれたけれど、繁忙期のビーチへ水着も無しに飛び込む勇気はなかった。夏を謳歌する人々を眺め、行き交う水着に目を走らせては胸はサイズだ、いいや形だ、と言い合った。けれどいざ高校生くらいと思わしき女性グループがやって来て、一緒に遊ばないかと声を掛けられれば、動揺して一目散に逃げ出したのだった。
そうして陽が傾きかける頃、思いつく限りの遊びをし尽くして二人、堤防沿いを歩いていた。仁王は丸井の少し後ろ、ズルズルと靴底を引き摺るように気怠げな足取りで歩を進める。仁王の蹴飛ばした石ころが、丸井に当たった。
「痛ぇよ」
「すまん」
振り向いた丸井に、仁王は少しも悪びれた素振りも見せないで言った。
まだ気温は茹だるほど高く、時折通り過ぎるトラックの排気ガスがより一層不快感を高めていくような気がした。特に行き先もないのに歩く必要性も感じなくなり、丸井は堤防に腰を預ける。
「……次、何する?」
見上げれば仁王も立ち止まった。一瞬だけ丸井を見て、すぐに足元へと視線を落とす。ビーチから舞い上がり、吹き溜まった砂を何度も蹴り付ける。その度にザ、ザ、とあまり耳障りの良くない音と砂埃が立つ。疲れて家に帰りたがる子供のやり方だ、と丸井はまだ幼い弟をぼんやりと思い出した。
「……テニス」
「は?」
「テニス、したいナリ」
——なんだこいつ、俺と、そんな変わんねぇじゃん。
少し、少しだけ、仁王を好きになれたような気がした。
ほとんど終わりかけた部活に恐る恐る姿を見せれば、当然の如く真田の説教が待っていた。脳天に響くような怒鳴り声を疎ましく思って救いを求めた視線の先、まだ病の気配など微塵も感じさせていなかった幸村がにっこりと笑った。その無言の迫力に引き攣った笑みを返し、いくらかましだと大人しく真田へ戻った。
同じ部活にいる変な奴、という丸井の仁王に対する認識が変化を始めたのは紛れもなくそれがきっかけだっただろう。丸井は仁王を正しく友人だと捉えるようになったし、悪ふざけに便乗したり放課後や休日につるむようにもなった。それは全くもって男子中学生のごくありふれた友情であって、だからこそそのような存在を作ろうともしていなかった仁王にとっては特別だったといえた。
クラスが同じになってからも付かず離れずの、気の置けない関係は続いた。それでも丸井は気付いてしまう。彼は仁王のことをほとんど知らなくて、どれだけ目で追っても簡単に目の前から姿を消すし、いつでも自分の気分に従って決して誰からも影響を受けることなく、仁王は常に仁王のままで居続けるのだ。丸井はそのことに少しの寂しさを、そこまで自分のスタンスを保てる仁王に大きな憧憬を抱いた。いつしか丸井は仁王に焦がれていた。それは思春期特有の、恋とも呼べない淡い憧れだった。
仁王が消えてから一度も思い出すことの無かった記憶は、丸井に少々感傷を与えた。ふと現実に意識を引き戻し、隣の柳生を見遣る。彼についても袂を分かってから一度も考えを及ばせなかった。柳生が醸し出す、自分は仁王のことなら何でもわかるのだとでも言いたげな態度にあの頃よく不愉快な思いをしていたことを思い出した。若かったなあ、と丸井は赤毛の自分を想って、小さく笑みを漏らした。
「なあ、俺さ、あの頃仁王のこと好きだったんだよ」
「存じ上げております」
事も無げに柳生は答えた。丸井も驚きはしない。柳生はいつも、仁王のこととなると途端に甘く、敏感になったものだった。
「だったらわかんだろぃ?もし仁王が俺のとこに来てたら一緒に逃げてるって。俺がお前に口喧嘩で勝てたことがあったか?」
丸井の言い分は尤もらしく柳生の耳に届いた。まだ丸井の髪が赤く、柳生がその色を糾弾すべき立場だった頃、彼らはよく小さな諍いを起こした。そういった事柄はテニスに持ち込まないことを暗黙の了解としていた分だけ、一度対峙すれば混じり気のない敵対のみが存在し、丸井はいつも返す言葉を搾り取られるような説教を受けたものだった。そうして最後には「仁王が黒に戻すなら俺もしてやるよ」とだけ吐き捨て、敗走を決め込んだのだった。
柳生は暫くの間、黙って丸井を観察した。その視線は昔から変わらない、やけに光を跳ね返す眼鏡の所為で居心地の悪さを丸井に与える。柳生はそのことを知っている。
「……その理屈ではあなたが白だと確信するには至りませんね」
「なんでだよ」
「あなたは結局、最後まで髪の色を変えなかった」
やはり声色ひとつ変えずに言った柳生に、丸井は辟易を隠そうともせず舌打ちを放った。そうして空を見上げた。本格的な冬を迎えたばかりの高い空には幾筋もの細い雲が走っていて、それらは少しでも風が吹けば消えてしまいそうなほど希薄だった。丸井の脳裏に、仁王の中途半端に伸ばしていた襟足の毛束が揺れた。
「……もう、六年も前の話だろぃ」
髪も、仁王も。そう言って丸井は視界に入る黒い髪を見ていた。どうして赤い髪にこだわっていたのか、今となってはもう思い出せなかった。
「上の弟も中学生になった。ジャッカルは高校出てすぐに働き出して、もう三年目だ」
成人するとき日本国籍を選んだ桑原は、父親と同じように料理の道へ進んだ。今はブラジル料理店で見習いをしていて、いつかは自分の店を持ちたいと、今でも定期的に会う丸井に語っていた。二十一歳、まだ未来はこれからだけれど、十五歳の頃とは多くのことが変わり過ぎている。
「お前らに何があったかは知らねえけどさ、俺には関係ねえよ。冷たく聞こえるかもしんないけど、先に離れてったのはそっちだろぃ」
丸井は立ち上がった。時間が迫っていた。
「……わかりました」
柳生はちらりと時計を確認して、そのまま丸井を見上げた。立ち上がりはしなかった。
「お時間頂き、ありがとうございました」
柳生は常日頃から崩さない慇懃な態度を貫く。変わってないんだな、と丸井は思った。いっそ不気味なくらい変化がなかった。
「まあそんな気負わなくてもいんじゃね?」
切羽詰まったような柳生が居たたまれなく思えて、丸井はもう一度言葉を続けた。
「ほらお前らよくわけわかんねぇ遊びしてたじゃん。今でもそんな感じなんだろぃ?規模のデカいかくれんぼみたいなもんなんじゃねぇの」
「そうだといいのですが」
何か情報あったら連絡するから、と言って丸井は駅へと姿を消した。柳生は真っ直ぐに背筋を伸ばしたままで、ずっとその後ろ姿を見送っていた。そうして丸井が改札の向こうへ消えた頃、やはり変わらず平和を演出している広場に視線を戻した。
「……どこへ行ってしまったのですか、仁王くん」
誰にも届かない呟きは冬の空に吸い込まれて消えた。柳生の背後で噴水が音を立てる。ちらりと時計を確認した。次の約束まではまだ随分と時間があった。