俺が仁王を思い出すとき、彼はいつでも青空の中にいる。それもやけに澄んだ、そうだな、秋の終わりに一番近い青だ。おそらく屋上のイメージなんだろうと思う。テニスコートを除いて俺と仁王が会う場所といえば専ら学校の屋上で、それも仁王は給水塔の上やフェンスの外、なるべく空と自分との間に遮るもののない場所ばかりを好んだから、花壇の世話をする俺が見上げたとき、彼はいつでも背後に青空を従えていたのだ。
あの頃仁王に抱いていた印象といえば、ただただ不器用で可哀想な奴だってところだろうか。欲しいものを素直に欲しいと言えない、それだけのために多くの遠回りをしていたように思う。それを汲み取って与えてやることが懐かない猫を餌付けするようで存外面白かったものだが、彼がそれをどう捉えていたか、俺にはわからない。
彼の奇妙な言動を挙げていけばキリがないだろう。それらは大抵の場合、無害で空虚なものだったから、あまり気にも留めなかった。仁王がそれを楽しいと思うならばそれでいいと思っていたし、根は真面目で勝利に対しては貪欲だったからチームの一員として不満に感じたこともなかった。
それでも一度、部活が終わってもなかなか真っ直ぐ家に帰らない彼に、もう少し真面目にすればと言ってみたことがある。そのときの返答だけは今でも気にかかっている。彼が言うには、彼の家族や故郷、そういった個人的な記憶には感触が無いそうだ。記憶もあるし認識もあるけれど、懐かしい光景が頭に過る瞬間や、家庭の匂いや、言い換えれば生きてきた実感のようなものがないのだと、彼には珍しい、どこか不安気な目で言った。そうして俺の頬に触れて、「お前さんは温かいから安心するぜよ」と言って笑ったのだった。
いつもの虚言だと切り捨てたって構わなかっただろうが、その記憶は他とは異なる質感を持って未だ俺の記憶に居座り続けている。偽りで自分を塗り固めた仁王の、唯一の本音のように聞こえたからかもしれない。
いずれにせよ、彼はとにかく変な奴だった。
破:Come out,wherever you are
丸井と会った数時間後、即ち金曜日の夜、柳生は繁華街を歩いていた。多くの人々が週末の窮屈な一次会を終え、ある者は開放感を、またある者は外すことを許されなかった造り笑いを連れて店を移動する頃、このために生きているんだとでも言いたげに陽気な笑顔で行き交う人々には目もくれず、柳生は人気の無い路地に折れた。電信柱に示された番地を横目で確認し、注意深く奥へと進む。五軒目で足を止めた。指定された店は、酔っぱらった足など到底引き留められそうにない控えめな宣伝のみが掲げられた、古めかしいショットバーだった。
「いらっしゃいませ」
重量感のある木製の扉を開けるとすぐに、硬質な低音が柳生を迎えた。音を立てないよう丁寧に扉を閉めてから振り返れば、カウンターの向こう側からマスターと思わしき壮年の男性がこちらを見ていた。白いカッターシャツに黒いベスト、白髪の混じった髪は丁寧に撫で付けられている。いっそ気持ち良いくらいに教科書的な風貌だった。
曖昧な笑顔を返し、柳生はまず店内を見渡した。奥行きのあるカウンターに、二人掛けのテーブル席が三つ。絞られた橙色の照明と、規則正しく置かれたキャンドルが木でできたそれらを効果的に上品に照らしている。店内に客の姿は無かった。金曜の夜を想定した造りではないからだろうと思い、柳生はカウンターの奥から二番目に腰掛けた。一拍置いて、シンプルな木製のコースターが差し出された。悪くないタイミングだった。
「ご注文は」
「キャプテン・モルガン、ロックで」
普段は頼まない酒だった。柳生は薬草の香りが少し強いくらいのスコッチを好む。ラムを好んだのはどちらかといえば仁王で、彼の好きな酒を飲めば少しでも近く感じられる気がしたのだ。正しく指摘できる人間が存在しないからこその感傷めいた選択だった。
注文の品が出てくる前に、扉が開いた。マスターがグラスに引っかかる大きめのロックアイスをマドラーで回しながら「いらっしゃいませ」と言った。柳生は振り返らなかった。
「久しぶり」
男性にしてはすこし高めの声が響き、隣の席が引かれた。外で纏わり付いたのだろう、冬の匂いが微かに漂う。柳生の視界にスウェード生地の茶色い手袋が入った。静かに深呼吸をひとつして、柳生は漸く顔を上げた。
「お久しぶりです、幸村くん」
見上げた先、いつでも携えていた柔和な微笑みを浮かべた幸村がいた。柳生も口元だけで笑い返した。幸村が滑るようにスツールへと腰掛けたとき、マスターの手の中でロックアイスがグラスの底を鳴らした。
「ここ、すぐにわかった?」
「ええ。お忙しい中ありがとうございます。幸村くんが日本にいらして助かりました」
「十二月はシーズンオフだからね。それ以外でも時間があればなるべく日本にいるようにしてるんだけど」
「そうですか」
そんな会話をしているうち、柳生の手元にロックグラスとチェイサーが置かれた。バーカウンターの上には銘柄を表にキャプテン・モルガンの瓶も置かれる。
「へえ、ラムなんて飲むんだ、柳生」
「気分ですよ」
もちろん嘘を吐いた。
幸村が思ったよりも早くやって来たので、柳生は当然先に手を付けるような真似はしなかった。スコッチより少し濃い琥珀色に、ゆっくりと溶ける氷がゆらゆらと流れを作る。マスターは改めて幸村にコースターを差し出した。
「ご注文は」
「パピー・ヴァン、ある?」
「御座います」
「じゃあトゥワイスアップで」
かしこまりました、と言ってマスターは背を向けた。飾り棚には酒のみで、グラスは引き戸の中に仕舞われているらしい。彼は屈み込み、綺麗に磨かれたショットグラスとチェイサーグラスを取り出した。奇妙な緊張感が漂っていた。
「どうですか、テニスの方は。時折雑誌やテレビでお見かけしますが」
「まあまあだよ。世界は広いなって思う」
「手塚くんや跡部くんとはよく会われるんですか?」
「時々ね。跡部はもうすぐ引退するって聞いたな」
「もう?」
「家業を継ぐとか何とか言ってたよ。元々その約束だったらしい。そのうち引退セレモニーとかするんじゃない?派手好きだからね、彼は」
幸村の酒が運ばれてきた。軽くグラスを合わせて乾杯する。各々の酒を口に含み、一息付く。
「驚いたよ、柳生から連絡が来るなんて」チェイサーを飲みながら幸村が言った。「よくそんな気になったね、今更」
柳生は少し身構える。丸井のように過去の話題を軽く流してもらえるとは思えなかった。
「申し訳ないと、思っています」
「随分探した。柳生の実家は病院も閉まって転居先不明、仁王なんて住所録に書いてある場所へ行ってみれば随分前から駐車場だって言われてさ。連盟の資料に名前がなかったからテニスを辞めたことだけはわかったけど」
「父が体を壊したので閉院が決まり、非常勤でいい条件のあった東京へ移ったんです。ラケットは、中学を卒業してから一度も握っていません」
「それにしたって報告くらいできただろ」
「申し訳ありませんでした。言い訳はしません」
「つまり、理由は言わないってことだね」
さらりと言って、幸村は酒を一口飲んだ。沈黙の理由のために、柳生もそれに倣う。慣れないラムの甘さが口内に広がる。
「仁王も一緒だったのかい?」
「ええ。今は実家を出て、二人で暮らしています」
「連れて行ったんだ」
「どう取って頂いても構いません」
幸村の視線を感じた。柳生は過去の失踪についてあまり詳しく語るつもりはなかった。少なくとも許される限りは。
過去の話になると明らかに柳生の分が悪い。ある程度予測していたことだったので、柳生は速やかに用件に移るつもりだった。
「それで、今日お尋ねしたいのは、」
「消えたんだろ、仁王」
グラスを置こうとしていた柳生の手が止まった。
「……どうして、それを」
「会ったんだよ、仁王に」
事も無げに幸村が言うので、柳生は危うく聞き流しそうになった。そんな話は聞いたことがなかった。
「いつですか?」
「三ヶ月前。仁王が消えたのは?」
「二日前です」
「だったら関係ないね」
やられた、と柳生は思った。幸村は先回りして情報を出すことで、会話を自分で選ぼうとしている。止まったままだった手を引き戻し、ラムを一口飲んだ。幸村のペースに巻き込まれてはいけない。
「なぜ、仁王くんが消えたと?」
「何となくだよ」
「仁王くんが何か言っていたんですか?」
「それもある。それに、今更柳生が連絡してくるなんて仁王のことしか無いだろうし、その相手として俺は妥当だからね」
「どういう意味ですか」
「キミは知っていたんだろう、俺と仁王の関係を」
またしてもグラスを置きかけた手が止まる。幸村は涼しい顔でチェイサーを飲む。
「だから仁王を連れて逃げた。違うかい?」
幸村は柳生を見る。懐かしい威圧感だ、と柳生は思った。昼間柳生が丸井に行った攻撃を、より強い威力を以て幸村は行使する。柳生は昔からある程度自分をコントロールし、他者の心を見透かすことに長けていたが、幸村に通用した試しはなかった。そんな彼を尊敬し、畏れ、最後には逃げ出したのだ。
「……やはり、あなたには敵わない」
柳生はゆっくりと息を吐き出した。止まっていたグラスを降ろし、少し揺らした。溶けかけた氷がカラカラと音を鳴らす。
「確かに私は知っていました。仁王くんはあなたを愛していた。あなたがどうだったかは知りませんが、それなりの関係もあった。だからあなたならば仁王くんの行き先を知っているのではないかとも思いました。けれど我々があなたの前から姿を消したことには関係ありません」
少しの嘘を含むことを承知でも、柳生にはそうとしか言えなかった。柳生が仁王を連れて逃げた理由は彼らの中にあって、幸村にあるわけではない。きっかけと原因は似て非なるものだと柳生は思っている。
「詳しく聞かせて頂けますか、三ヶ月前のことを」
幸村は暫し柳生を見つめた。視線に篭める力は変えない。まだ柳生から何かを引き出そうと、暴こうとする。柳生も幸村を見返した。結局のところ、威圧感には正面からぶつかるしか対処法などないのだ。
「……まあいいだろう」
ふと幸村の視線が緩んだ。柳生は内心胸を撫で下ろす。一口ずつ、酒を飲んで、そうして幸村は話し始めた。
「あの日は雨が降っていた。偶然だったんだ。俺はあまり気の進まない会食の帰りで、おまけに雨だろ。タクシーを拾ってさっさと帰ってしまうつもりだった。でもそんなときに限って渋滞でさ、気分は最悪だったよ」
どこまで続くかわからないテールライトと、苛立たし気にあちこちで鳴らされるクラクションが、あまり美味くない酒で沈降した幸村の気分を絶望的に刺激していた。新しい清涼飲料水のCMがどうしたという話題の、テニスの話など一切出ない、実に辟易させられる席の帰りだった。スポンサーとの空虚な会議にはいつまで経っても慣れることが出来ない。プロだからといってテニスさえしていればいいなんて甘い考えを抱いていたわけではないけれど、なまじ綺麗な容姿を持っているが故に企業は幸村をアイドルか何かに仕立て上げたいのではないかと思えた。広告代理店出身の父親がある程度堰き止めてくれなければ、幸村はとっくの昔にメディアの玩具となっていただろう。
ガラス板の向こう側、運転手も指先で小刻みにハンドルを叩いている。聞いたって今前に進めるわけでもない交通情報を垂れ流すラジオにも苛立って、彼にチャンネルを変えるよう告げた。音質の悪いスピーカーがノイズを挟みながら、流行りの音楽やニュースや講談を断片的に拾う。弦楽器の音色を認め、それがいいと告げた。ドヴォルザーク、交響曲第八番第四楽章。どこの楽団の演奏かは知れないが、安物の音響を通すならば気にしても仕方がなかった。
軽やかなBGMに少しだけ落ち着いて、雨垂れの流れ落ちる窓の外を見遣った。この季節、突然の豪雨は珍しいものでもない。昔はこんな現象などなかったような気がしたけれど、何年か繰り返されるうちにすっかり秋への洗礼の儀式として定着してしまっている。何でもラベリングしたがるメディアがセンスの悪い名前を付けていたなと思ったが、日本を離れていることも多い幸村には関係のないことだった。
なかなか景色の変わらない窓にもすぐに飽きて、いっそ少しだけ眠ってしまおうと決めた。タクシーで眠り込んでもある程度の安全が確保される点は日本のいいところだと素直に思う。体に負担のかからない体勢を探って少し身じろぎした。そのとき、十メートルほど車の列が動いた。幸村が再度外に目をやったのは全く以て偶然だった。暗い歩道、シャッターの閉まった店の軒下に、銀髪の男が蹲っているのを、幸村の目が捉えたのだ。
「すみません、止めて下さい」
突然声を上げた乗客に運転手が反応する前に、幸村は自分でロックを解除し、外へ飛び出した。
「ちょっと、お客さん!?」
「すぐに戻ります!」
確信があったわけではない。いくら少ないと言っても髪を銀に染めた人間は絶対数としてそれなりにいただろうし、今でも仁王の髪色が変わっていない保証もなかった。それでも幸村は水溜りを踏み抜くことも気にせず、走った。
全身ずぶ濡れの、抱え込んだ膝に顔を埋める男の前に立つ。
「……仁王か?」
彼は、幸村の声にピクリと肩を震わせ、ゆっくりと面を上げた。濡れた髪が頬に張り付き、顔色は悪い。それでも、見上げる色素の薄い瞳に幸村は確信を持った。思わず屈み込み、肩を掴んで揺さぶる。
「仁王!仁王だろう!?俺がわかるかい!?」
「……幸村……?」
蒼褪めた唇を震わせて彼は小さく、けれどはっきりと幸村の名を呼んだ。
「こんなところで何をしているんだ?今までどこにいたんだよ」
「え?なして……?え?ほんまに……幸村?」
「そうだよ、偶然通りかかったんだ。いきなり消えて連絡も寄越さないで、一体何をしてた?柳生は?一緒じゃないのかい?」
「柳生……」
詰め寄る幸村を呆然と見たままだった仁王は、柳生の名を聞いた途端に身を強ばらせた。そしてハッと幸村を見つめ直し、全身が濡れていることなど気にも留めずに幸村へと縋り付いた。余所行きに誂えた上質のシャツに仁王の水滴が染み込む。
「幸村、助けてくれんか、俺、殺される!」
「何だって?」
「殺される……柳生に、殺される」
「ちょっと待って、落ち着けよ。どういうことなんだ?」
その後幸村が何を聞いても、仁王は酷く怯えた表情で、殺される、助けて、と繰り返すだけだった。そのままでは埒があかないと判断し、宥め賺せてタクシーへと連れ帰った。突然飛び出し、挙げ句に全身ずぶ濡れの銀髪の男を拾って来た乗客を見て運転手はあからさまに嫌な顔をしたが、気にしている場合ではなかった。
普段であれば十五分もかからない、幸村が日本にいる間拠点としている都内のマンションまではそれから一時間かけて漸く辿り着いた。車内で仁王は一言も発せず、幸村も何も言わなかった。タクシーの運転手にはクリーニング代として多めの金額を支払った。
部屋に帰ってまず仁王を浴室へ行かせた。幸村自身も仁王を支えていたとき濡れてしまっていたが、ひとまず着替えだけで済ませた。不味い酒の余韻はすっかり醒めていた。
ソファに座って仁王を待った。独り住まいにはいささか広すぎる部屋を見渡す。そんなに多くの時間を過ごすわけでない空間にはいつまで経っても馴染めずにいた。家具にはそれなりに拘っていたけれど、必要最低限のものしか置いていない。手持ち無沙汰になった幸村はテレビ台に置いているアナログ時計の針を見つめることにした。一番細い針が八回回ったとき、背後の扉が開いた。
「早かったね」
振り返れば、生乾きの髪をタオルで拭う仁王が居心地悪そうに立っていた。顔色は随分良くなっていた。
「落ち着いた?」
「おかげさんで」
こっち座りなよ、と幸村が呼べば素直に仁王はソファへ座った。二人で座っても十分に余裕はある。仁王はタオルを頭から被せ、項垂れた。
「悪い、迷惑かけて」
「それは今日のこと?それともこれまでのこと?」
「……両方」
「色々と聞きたいことはある」
幸村は立ち上がった。キッチンに向かい、湯を沸かす。紅茶かコーヒーか、と仁王に尋ねれば、コーヒー、と端的な返事があった。
「でもまずさっき言ってたことだけど。柳生に殺されるって、何?」
「いや、忘れてくれて構わん。ちょっと動揺しとっただけじゃき」
「何だよ、それ」
片手鍋に火をかけて幸村は仁王の元へと戻った。正面に立てば、タオルの隙間から目だけで見上げていることがわかった。
「立って」
仁王は素直に従った。こんなに素直な奴だったろうかと幸村は違和感を覚えたが、何せ何年も会っていなかったのだ。自分だって全く変わっていないつもりはなかった。幸村は、出してやった何の飾り気も無い仁王が着ているTシャツの裾を掴み、捲り上げた。
「ちょ、何するん、」
「いいから、ちょっと調べさせろ」
腕は車内で確認していた。腹、背中、脚、肌は昔と比べて更に白くなっていたけれど、不審な痣や傷は見当たらなかった。
「……虐待、とかそういうことじゃなさそうだね」
「何もないぜよ。俺が適当な嘘吐くんなんぞ日常茶飯事やったじゃろ」
「随分と嘘が下手になったものだね、仁王」
いいよ座って、と軽く肩を押せば、仁王はどさりと座り込んだ。幸村はキッチンに戻る。沸いた湯を使って仁王のコーヒーと、自分には紅茶を煎れて運んだ。砂糖とミルクも置いたけれど、仁王はそのどちらにも手を付けなかった。そのまま一口啜った。
「何があった?」
幸村も紅茶を飲み、もう一度尋ねた。本当はこの六年間のことを根掘り葉掘り聞きたかったけれど、結局は一言に集約されてしまったのだった。
「何も」
「何もないわけないだろ、あんなところで、ずぶ濡れで」
「正確には、何があったんかわからん」
「どういうこと?」
仁王は黙り込んだ。黙り込んで、コーヒーをサイドテーブルに置いた。そうして徐に幸村へと手を延ばした。指先で頬に触れた。そのまま首筋まで滑らせて、抱き寄せた。
「仁王?」
「やっぱり、温かいぜよ、幸村は」
肩口に顔を埋め、仁王はそれだけを呟いた。
幸村は中学時代の仁王を思い出した。青い空、屋上、いくつもの交わした言葉と、戯れのようなセックス。あの頃仁王が自分を抱いた理由を唐突に思い出した。仁王はいつも、人の感触を確かめるように幸村に触れたのだ。
「なあ、何があったんだよ」懇願するように幸村は言った。「柳生とは、今でも一緒にいるんだろう?」
「ずっと一緒におるぜよ。どっちがどっちかわからんようなるくらい。柳生は俺んこと愛してくれとる」
「だったら何で殺されるなんて言うんだい?」
「わからん。ただ、そう思ったんじゃ。柳生と一緒におったら、俺は消えるんやないかって」
「消える?」
「俺が昔言ったこと、覚えとる?」
「どれだよ」
「俺の記憶には感触がないんじゃ、もうずっと」
心持ち仁王は腕に力を籠めた。
「けどよかった、幸村ん感触は、今でもあるんじゃな」
幸村にはまるで意味がわからなかった。仁王の言葉なら覚えている。いつだったか仁王の生活態度を咎めたとき、らしくない不安気な表情で仁王はその言葉を口にした。家族にも故郷にも感触が無い、生きている実感が無いのだ、と。
「……なら、俺と寝る?」
昔みたいに。まだ湿った仁王の髪を梳かしながら幸村は言った。あの言葉が全てに繋がっているような気がした。仁王が幸村を抱いたことにも、柳生と共に消えたことにも、夏の終わりの雨の中で蹲っていたことにも。そして、今でも幸村が仁王に何かしらの安堵や実感を与えられるとしたならば、協力したいと思ったのだ。
「……いい、柳生んとこ、帰る」
けれど仁王はそう言って幸村を離し、立ち上がった。
「待てよ、話はまだ終わっていないだろう」
「これ以上話すようなことなんぞなんもない。混乱さすようなこと言ってすまんかったのう」
再三引き止めた幸村を振り切って、仁王は出て行った。連絡先ひとつ頑に教えなかった。コーヒーは一口分しか減らなかった。
「これが俺の知っている全てだ。失踪したのが二日前だということは、その後柳生の元へ戻ったんだろう?」
「……そうなりますね」
柳生は黙って幸村の話に耳を傾けていた。仁王には何も聞かされていなかった。そんな日があっただろうかと柳生は記憶の引き出しを開けて回った。夜型の仁王とは基本的に生活がすれ違っていたから知らないのも無理はなかったかもしれない。雨という記号では大して日付の特定もできなかった。三ヶ月前といえば頻繁にゲリラ豪雨が訪れていた頃で、確か落雷で何人かの命も奪われたはずだった。
「で、どうなんだ、柳生」
「……仁王くんは、本当にそう言ったんですか?」一口酒を啜った。「私に、殺されると」
「心当たりは?」
「ありませんね」
なるべく間が空かないよう配慮して柳生は返した。
「最後に仁王と話したのは?」
「二日前、私が学校へ行く前です」
「そのとき仁王に触れたかい?」
「触れた、とは?」
「何でも良い。手を握ったでも肩を叩いたでも」
「……いちいち覚えていません。いつでも、一緒ですから」
腑に落ちない、と言いたげな表情で幸村は柳生を見据えた。幸村は仁王の言葉を思い出す。殺される、消える、感触の無い記憶。何かが掴めそうで掴めない。まるで仁王そのものだ、と幸村は思った。
「仁王が何に怯えていたのか、その正体はわからないけど、消えたことには理由がある。それも柳生に」
どちらにせよ仁王が柳生に怯えていたことは事実だった。彼らの六年間を知らない幸村に与えられた情報は少なすぎたし、そのどれもが主観でしかない。
「探さない方がいいんじゃないか?一緒に居られなくなった理由があったんだと、俺は思うけど」
柳生から返事はない。幸村は更に続けた。
「諦めろよ、柳生」
そうして酒に口を付けた。氷を含まないショットグラスの中でアルコールの濃度はいつでも一定だ。雑味のない素直なバーボンが喉に落ちる。幸村は、どちらかといえばわかりやすいものの方が好きだった。
「……あなたは、奪うばかりだったからわからないでしょうね」
両手でグラスを包み、俯いていた柳生は声を絞り出すように言った。
「何が?」
「例えばその目が、耳が、あるいは腕が、ある日突然失くなってしまったらどうします?何も見えず、聞こえず、触れもしないで、そうなれば自分が自分であるかどうかさえ確かめる術は無い」
そこまで言って、柳生は氷で薄められたラムを一口煽った。少し興奮してしまっている自覚はあった。
「……で?」
無機質な幸村の声に、あくまで興奮は保たれたまま、少しだけ背筋が冷えた。幸村の声には始めから人の平常心を崩壊させる効果が備わっていて、柳生は涼しい顔を保つために気を張りつめていた六年前を思い出した。
「私にとって、仁王くんを失うというのはそういうことなんです」
もう一口ラムを飲む。甘さは消えていた。
「わからないな」冷淡に幸村は言い放った。「柳生の言う感覚がわからないというのもあるし、それは他人との距離の取り方として間違っているとも思う」
同じようなことを言うんだな、と幸村は思った。どっちがどっちかわからなくなると仁王は言った。それはつまり自己と他者の境界が消失するということで、柳生の発言は仁王を失うことが即ち自分を失うことだという理論だ。その二つはとてもよく似ている。けれどそんなことが、実際二人の人間に起こり得るものなのだろうか。自分が消えると錯覚するほどに?
「あ、何となくわかったかも」
「……何がです?」
柳生はもうすっかり焦燥していた。感情の吐露にはいつでも疲労が付きまとう。柳生はそういう作業に慣れていない。感情は常に隠して生きてきた。
「なあ柳生、お前本当はわかっているんじゃないのか?」
「だから、何がですか?」
「仁王が消えた理由だよ。何なら行き先も知ってるんじゃないのか?」
「……仰っている意味が、よくわからないのですが」
柳生は崩れている。幸村の話の所為でもあるし、慣れないラムの所為でもある。けれど幸村は柳生の眼鏡の奥にある瞳が本当に動揺しているのか確信を持てなかった。六年前を思い返しても、柳生が取り乱したところなど見たことがなかったのだ。幸村が倒れたときですらそうだった。この男は一体何者なんだろう。そう考えたとき、幸村は少しゾッとした。考え過ぎかと思って、ゆるりと頭を振る。
「まあ俺にもはっきりわかったわけじゃないから。とにかく、俺は仁王がどこへ行ったかなんて知らないよ」
「……そうですか」
力無く呟き、柳生はほとんど水と化したラムを一気に呷った。沈黙を決め込み、文庫本を読みふけっていたマスターにチェックを告げる。そして今一度幸村に向き直った。
「ご足労頂き、ありがとうございました」
「仰々しいな」幸村は苦笑した。「次に行くところは決めてるんだろう?」
半分カマをかけるつもりで幸村は言った。
「……あなたには、本当に敵わない」
微かに柳生の口元が笑ったので、なるほどあいつだな、と幸村は思った。
会計を済ませ、柳生は出口へ向かう。外では金曜の夜がまだ続いているだろう。扉を開けた。昼間とは全く違う、ひたすらに冷たい冬の風が吹き込んできた。
「柳生、俺がどうかわからないけどとお前は言ったけど、俺も仁王を愛していたよ」
出て行く柳生の背中に幸村が声を掛けた。
「でも同時に俺はお前のことだって愛してた。それは仁王が望んだ愛とも、お前が仁王に向ける愛とも違うかもしれない。それでも俺はお前たちのことを誠実に愛したつもりだ」
柳生は振り返らず、足だけを止めた。
「だから心配なんだ。お前たちは何かを間違ってる」
「……失礼します」
明確な返答をせずに柳生は扉を閉めた。柳生は街へ戻り、幸村は新しい酒を頼んだ。