仁王を一言で表せと言われれば、夢のような存在だ、と俺は言う。

 すまない、それだけでは不親切だったな。言葉はいつも多義的であるため、己の意図を他者へと正確に伝えることは難しい。それに比べて数式というものは極めてシンプルかつ一元的に物事を指し示すことができるものだ。俺はその美しさに惚れ込み、今の道を選んだわけだがーーすまない、話が逸れたな。仁王の話だった。
 俺が仁王に対して使う「夢」とは、何もロマンチックな意味でも希望の意味でもなく、単に睡眠に付随する現象を示す。「夢のような」と聞いて劇的な印象を与えてしまったならば謝罪する。俺にとって仁王とはチームメイトの一人であり、それ以上でもそれ以下でもなかったものだから、感傷めいたものは存在しないんだ。悪く思わないでくれ。
 さて、夜に見る夢というのは、いわば脳の膨大な引き出しに収納された情報の洪水だ。蓄積された記憶の断片を整理するため、それらが走馬灯のように脳内を駆け巡る。本来は意味を為さない情報の欠片を無理矢理繋げ、一定の物語として閉じた目の奥で上映されるものが夢というわけだ。
 つまり俺にとって仁王とはそういう存在だった。断片的に俺の前に現れ、出鱈目に行動し、意味を匂わせながらも結局何も掴ませはしない。そうして気が付いたときには、朧げな輪郭だけを残して開いた目から煙のように消えてしまう。そういう意味で、仁王は夢のような存在だといえた。
 俺の主観だけを問われればこうとしか言えない。そもそも誰かの何かを知りたいと思うなら、何よりも本人の言葉に耳を傾けるべきなのだ。そういうわけで一つだけ仁王自身の言葉を置いていこう。仁王はよく俺の数式に対する傾倒を揶揄したものだったが、これもそんな場面で発せられた言葉だ。ここで留意して欲しいのは、言葉はいつでも多義的で、主観の数だけ解釈が存在するということだ。そういうわけで、この言葉の解釈は各自に委ねることとしよう。

 「物事をたった数文字に集めるほど分解するなんぞ狂気の沙汰ぜよ。どんなわけのわからんことでもようよう調べりゃ何かしら説明がついて不思議でも何でものうなってしまうもんじゃろ。俺はな、不思議は不思議のまんまにしとくんがええと思うとるんよ。世の中には知らん方がええこともようけある。参謀は、怖くないん?俺は怖い。世界からわからんことが消えることも、知りたくもなかった真実が現れることも、怖くてかなわんぜよ」

ーー仁王雅治について、柳蓮二

急:I found you

 翌日は朝から厳しい冷え込みだった。空はどんよりと灰色の雲に覆われ、街全体がモノクロのフィルターをかけられたように色彩を失っていた。それでも駅前には休日を少しでも楽しもうとする人々が行き交い、ある者は最後の紅葉を拝みに行こうと改札をくぐり、ある者は来るべきクリスマスに備えようとでも言うのか、駅に併設されたショッピングモールへと足を運んだ。
 神奈川県某市。立海大から数駅離れたその街に柳生が訪れたのは六年ぶりのことだった。それなりの時間が経っているにも関わらず変わらない街並みへと視線を巡らせる。少し懐かしさを覚えた。
 混雑する方面へとわざわざ向かう土曜日の人混みとは反対方向に足を向けた。中途半端に栄えた街がいつでもそうであるように、駅前商店街を抜ければすぐに住宅街が姿を現した。始めは単身者向けのアパート、次に世帯向けの分譲マンション、一定の住み分けを経て、景色はニュータウンではない昔ながらの日本家屋が建ち並ぶ区画へと姿を変える。冬の空気にそられは威厳を放ちながら柳生を迎えた。いかにも由緒正しき、といった風情の門構えを持った家々を通り過ぎていく。

 柳生はそのうち一軒の家の前で足を止めた。景観に溶け込み、けれどどっしりとした存在感を放つ日本家屋。端まで何メートルあるかもわからない土塀からは松の葉がのぞいている。程よく古びた木製の門の前に立つ。柳生は表札を見遣る。「柳」という文字は柳生の名字にも含まれていたが、いつ見ても風流だと思う。
 約束はなかった。突然の訪問だった。柳生はひとつ深呼吸し、傍らに備え付けられた旧式のインターホンを押した。吐いた息は白かった。
 「……はい」
 ややあって、男性の声が短い返答を寄越した。その声に聞き覚えがあったことに柳生は半ば安堵する。それでも自分の尋ね人だという確信はなかったので、常日頃から身につけている丁寧さを以て名乗った。
 「立海大附属中学校で蓮二くんにお世話になっておりました、柳生と申します。蓮二くんは、いらっしゃいますか?」
 インターホンの向こうで息を呑む気配がしたのは、気のせいだったかもしれない。ある程度の緊張があったので、返答までの時間は主観でしか捉えられなかった。
 「……俺だ。すぐに開ける」

 縦格子の門の向こう、母屋から出て来た柳は六年前と然程変わらない出で立ちだった。髪型は以前と同じく几帳面に切り揃えられていたし、いつでも見えているかわからないほど細められていた糸目もそのままだった。
 「待っていた」
 開口一番、柳はそう言ってのけた。驚愕も、郷愁もなかった。
 「そろそろ来る頃だと思っていた」
 柳生は何も言わなかった。

 いくつも並ぶ扉のひとつまで柳生を案内し、何か飲む物を淹れてこよう、と言って柳は長い廊下へと消えた。
 通された部屋は、昔何度か訪れたことのある柳の私室ではなく、本棚で覆い尽くされた書斎だった。壁一面はおろか、ちょっとした私設図書館の如く背の高い棚が一定の間隔を以て並べられている。千や二千ではないであろう書物に迎えられ、柳生は息を詰めた。
 書物は柳のあらゆる動作がそうであったように、几帳面に分類されているようだった。部屋に入って左側には文学作品、右側には専門書。部屋の中央には簡素な机と椅子があって、机の上にはボールペンとメモ帳が一組置かれていた。読書灯も備え付けられている。そこで待つべきかと悩んだが、元来活字好きな柳生は好奇心を抑え切れず、吸い寄せられるように右側へと足を運んだ。古びた紙の匂いに幾分心が休まる。どれだけデジタル文化が発達しても、柳生はアナログな紙媒体を愛する一人だった。
 専門書といっても物理学、生物学、経済学、民俗学、背表紙を軽く見渡しただけでありとあらゆる学問が並んでいることが知れた。美術書もあった。
 感心と関心に包まれながらひとつひとつの列を流すように眺めるうち、医学のコーナーに見覚えのある一冊を見つけた。参考図書として教授に勧められたが、入手が困難だったため学校の図書館で順番待ちをし、漸く目を通すことのできた代物だった。思わず手に取る。いささかマニアックすぎる蔵書だ。柳も自分と同じ道を選んだのかもしれない、と柳生は思った。

 見覚えのある頁を捲っていけば、知らず知らずのうちに引き込まれていた。
 「柳生?」
 扉の開いた音には気付かず、響いた低音で柳が戻って来たことに気付いた。入り口からの死角に入っていた柳生は本棚の端から顔だけを覗かせ、応対した。
 「此処です。すみません、勝手に物色してしまって」
 「いや、構わない。お前なら気に入るだろうと思った」
 柳は薄く笑って、中央の机に一人分の茶を置いた。柳生を呼び寄せることはしないで、自らゆっくり歩み寄る。
 「すごいですね、この量」
 「部屋に入らなくなったのでな。余っていた部屋を丸ごと書庫に変えたんだ」
 柳生は手にしていた医学書の表紙を掲げて見せた。
 「あなたも医学を?」
 柳はいや、と首を横に振った。
 「大学では物理を選んだ。理論系を専攻するつもりだ」
 「そうですか」
 医学書を戻し、柳生は改めて本棚を見渡す。経済や歴史の区画には新書も多かった。ゲルマン民族について書かれた一冊を手に取り、中身は見ないで奥付を開いた。発行は二ヶ月前だった。
 「相変わらず、万能人を目指しているのですか?あなたは」
 「そうありたいとは常に思っている。お前は?」
 「諦めましたよ。この世界を知り尽くすには、人の一生は短すぎます」
 「残念だ。この方面ではお前と一番話が合っていたのだがな」
 中学時代、彼らはよく読んだ本について批評を重ねた。趣味が合う、というよりは二人とも分野を問わずにあれこれと手を出していたから、情報を共有するという目的が大きかった。彼らはその頃、例えばダヴィンチに憧れた。知識が見せてくれる様々な世界を貪欲に求め、いずれは全てを解明したいと考えていた。
 「理論物理学は、世界を紐解くには丁度いい学問ですね。実用的かどうかは別として」
 柳生は新書を元の場所に戻した。
 「実にあなたらしい」
 「自分でもそう思っているさ」
 柳は笑った。そしてくるりと背を向け、部屋の中央へと向かう。
 「まあ座れ。茶を淹れた。点てたわけではないがな」
 柳生は黙って後に従った。

 そもそも人をもてなす仕様でないらしい部屋で、椅子は一脚しかなかった。柳生は遠慮したけれど、客人なのだからと半ば無理矢理座らされた。柳は文学作品が並ぶ棚に凭れ掛かった。彼一人の体重ではビクともしないほどに書籍が詰め込まれていた。
 「この辺りに来るのは久しぶりだろう」
 「ええ」柳生は出された茶を啜った。「少しも変わりませんね、この街は。駅に降り立った瞬間に懐かしさがこみ上げましたよ。柳くんの御家族にはよくお世話になりました」
 「懐かしい話だな。もう六年にもなるのか」
 かつて彼らがチームだった頃、柳家の広大な敷地と有り余った部屋はしばしばミーティングや憩いの場として使われた。丸井や切原が騒いでも、それに怒った真田が事態を酷くしても、柳の家族は快く受け入れてくれたものだった。
 「此処へ来る前、誰かに会ったか?」
 「昨日、丸井くんと幸村くんに」
 「そうか」
 柳は簡潔な返事だけをした。理由も内容も聞かなかった。
 「……私が来ることを予測していたんですね」
 「お前も、俺が予測していたことを知っていたようだったが?」
 柳は幸村ほど攻撃を仕掛ける人間ではない。その分防御が堅い。何を言っても適切な返答が用意されているタイプだ。つくづく厄介な人間が多かったのだなあといっそ他人事のように柳生は昔を想った。
 「仁王くんは、どこですか?」
 自分から切り出さなければいつまで経っても出方を伺うような柳に対し、半分投げ遣りな気分で柳生は言った。
 「それがお前の用件か」
 「それしかないでしょう。駆け引きは無しにして下さい」
 「精市にでも手酷くやられたのか」
 「ご想像にお任せします」
 柳は小さく笑った。少し不快を感じたが、それを表に出すほど柳生も愚かではない。
 「あなたが何かを知っているように、私にも知っていることがあります」
 「ほう、何を?」
 「我々が立海を去ってからも、あなたは仁王くんと会っていた。違いますか?」
 柳生は柳を見上げた。柳は曖昧に笑った。
 「やはり」柳生は溜息を吐いた。「此処にいるんですか?仁王くんは」
 「そうだ、仁王は此処にいる」
 反射的に柳生は立ち上がった。椅子が倒れ、カーペットにぶつかって鈍い音を立てる。
 「会わせて下さい」
 「そう取り乱すな」柳は苦笑した。「まずは話をしよう」
 「話?何のですか?」
 「お前に聞きたいことがいくつかある。仁王に会わせるのはそれからだ」
 「どうしてもですか?」
 「どうしてもだ」
 柳はゆっくりと本棚から身を起こした。柳生は体を強ばらせる。柳は柳生の正面まで近付き、見下ろした。そのとき初めて、柳生は柳の身長が伸びていたことに気付いた。柳は昔から長身だったが、彼らの差は見上げる、見下ろすという作業を殊更意識する程のものではなかったはずだった。些細な変化は存外柳生に圧迫感を与えた。
 けれど威圧はすぐに終わった。柳はすれ違う形で柳生の左肩をポン、と軽く叩く。倒れた椅子を起こし、そうして元の位置へと戻っていった。
 「順を追って説明しよう」
 興奮をいなされる形になって、柳生は腰を下ろした。柳はそれを認め、小さく微笑んでから話し出した。

 「お前の言う通り、お前たちが消えてからも、俺は何度か仁王に会っている。最初に現れたのは二年前だ」
 「幸村くん達には?」
 「知らせていない。そんなことをすれば二度と現れなくなるだろうことは予測するまでもない」
 「彼は此処に、何をしに来ていたんですか?」
 「何も。この部屋で寛いでいた」
 「この部屋で?」
 「ああ。意外か?」
 「そうですね。彼はあまり、本が好きではなかった」
 「俺も意外に思った。この部屋の空気が気に入ったそうだ。懐かしい、落ち着く、と言っていた。図書館といえば昼寝にしか使っていなかったあいつがな」
 「それで、最後に会ったのは?」
 「三ヶ月と三日前だ」
 三ヶ月前、という記号に柳生はピクリと肩を震わせた。
 「……その日、雨は降っていましたか?」
 「雨?」
 柳は暫し考え込むような素振りを見せた。読めない目が右上に走る。そして、ああ、と声を上げ、柳生に向き直った。
 「確か夕方から酷い雨になったはずだ。それがどうした?」
 「何でもありません。続けて下さい」
 柳は一瞬、探るように柳生を見たが、その横顔には何も浮かんでいなかったので言葉を続けた。
 「これを見て欲しい」
 柳は凭れ掛かっていた本棚から一冊の文庫本を取り出した。そして流れるような動作で机に近付き、柳生の前に置いた。ロバート・ルイス・スティーヴンソン著、ジーキル博士とハイド氏。そのまま机に両手をついて、柳生を覗き込む。
 「この話は知っているな?」
 「ええ、もちろん。私も持っています」
 軽く頷き、柳は机から手を離した。書棚には戻らないで、そのまま傍らに立つ。
 「多重人格についての先駆的作品だ。現代から見れば非科学的な要素も少なくないが、自己の願望が別人格として現れるメカニズムの追求過程等、人の精神構造における根本的な考察を行うには今でも有効な作品といえるだろう」
 「そうですね、人が先天的に内包する多面性とその葛藤を、解離性人格障害というツールを用いて描くことに成功した名著だと、私も思います」
 「そうだ。六年前にも同じ会話をした。覚えているか?」
 「覚えていますよ。丁度あなたが切原くんの悪魔化について考察を巡らせていたときでしたから、あの頃は多重人格やサイコパスにまつわる話ばかりでした。ジーキル博士とハイド氏は、その最初の題材でしたね」
 「お前はあの頃、ジーキル博士に対していたく共感を覚えていたな」
 「それはあなただって同じでしょう。人間とは多様な個の集合体であるとする考えはあなたお気に入りの理論だった」
 「だがお前はもっと根本的に彼と同調していた。彼がハイド氏を生むに至った経緯、即ち、強い自己の抑制と奔放への憧れに、お前は惹かれていた」
 「確かに私とあなたがこの作品に抱く感想は微妙に違っていましたが……それがどうかしましたか?仁王くんとは何の関係もないでしょう」
 「あるさ。俺は仁王の話をしている」
 傍らに立つ柳は柳生を見下ろす形となっている。まるで取り調べのようだ、とどちらともなく思った。
 「……続けて下さい」
 柳生は一口茶を飲んだ。そういえば取り調べ室にはカツ丼など出ないらしいが、茶はどうなのだろう、となんとなく思った。柳は机の上に置かれた文庫本を手に取り、掲げた。証拠品を提示する刑事のように。
 「三ヶ月前、仁王はこの本を読んでいた。丁度今お前が座っているその席でな。初めて読むと言っていた。そして読み終わるや否や顔を真っ青にして出て行った。意味がわかるか?」
 「わかりません……が、」
 柳生は前日の夜を思い出していた。三ヶ月前。偶然ではないだろう。
 「恐らくその日、彼は幸村くんに会っています」
 「精市に?」柳は薄く目を開いた。「詳しく聞かせてくれ」
 「偶然、雨に濡れ道端で蹲っていた彼を拾ったそうです。彼は酷く狼狽しており、幸村くんがどうしたのか、と声を掛ければ」
 柳生は一度言葉を切って、柳を見た。
 「殺される、と言ったそうです。私に」
 「……なるほど」
 柳は何かを確かめるように頷いた。何故か嬉しそうにも見えた。
 「繋がりましたか?」
 「ああ、大方な」
 そう言って柳はパラパラと文庫本を捲った。読んでいるでも、どこかの頁を探しているでもない。手遊びのように紙を弾く。
 「この物語の最後、博士から分離したハイド氏は、主人格である博士を飲み込んでしまう。これをお前はどう見ていたかな?」
 「分離した善と悪のせめぎ合いの中で、自身の核であるはずの善を堕落させてしまった、博士の自業自得だと」
 澱みなく柳生は言った。これも六年前に、一言一句違えないで答えた内容だった。
 「そうだった。では博士がハイド氏に引きずられなかった場合、他にどんな結末があった?」
 「共存、あるいは統合ですね。もしくは逆に、ハイド氏の消滅」
 柳は頁を操る手を止めた。顔を上げ、満足気に頷く。
 「そうだ。それが起こったんだ」
 「……どういうことですか?」
 「お前は、少なくとも俺が出会ったときには既に、息をするように自己を抑圧することを覚えていた。いつでも冷静で、紳士的に振る舞い、勤勉だった。それこそジーキル博士のようにな」
 「……あなたも似たようなものだったと思いますが」
 「俺は好きなことを好きなようにやっていただけさ。それがたまたま一般的な倫理観と同調したに過ぎない」
 「私は違うと?」
 「少なくともそうだと、俺は思った」
 「何を根拠に?」
 「お前が仁王を愛したという事実だ」
 断定的に言って、柳は柳生に背を向けた。文学作品の並ぶ書棚へ向かう。もうお前の出番は終わったのだ、とでも言うように、手の中の文庫本を元あった場所に片付けてしまった。そして振り向き、続けた。
 「それも、自分から仁王を奪おうとするもの全てから身を隠した程にな。お前が自分自身にのみ従って生きていたならば、仁王に執着する必要は無かったはずだ。自分自身の哲学にそぐわない仁王を愛したということは、そこに抑圧された憧憬があったことを示す。お前は、例えば仁王の奔放や気まぐれや、ありとあらゆる要素を憎み、同時に憧れた」
 そこで柳は言葉を切った。彼の中では確定している事項に、あえて意見を求める。
 「……否定はしませんよ」
 柳生は口元だけで自嘲的に笑った。けれどそれはすぐに消え去り、無表情に柳を見据えた。
 「でもそれがどうしたというんですか?確かに私は仁王くんを愛し、彼をあらゆる世界から連れ去った。けれど全て同意の上で行ったことです。彼は私の全てを受け入れて、幸せそうに笑っていましたよ」
 多少の興奮を含んだ声に、暫し柳は黙り込んだ。書棚に凭れ、腕を組み、暗に落ち着け、と伝える。
 「別にお前が仁王を愛したことを責めているわけではないさ。俺が言いたいのは、その事実は逆に捉えることもできる、ということだ」
 「どういうことですか?」
 「即ち、お前が愛さずにいられないような、自己の願望が生んだ存在が仁王だとしたら?」
 「……は?」
 「仁王の全てがお前の作り出した夢のようなものだったとしたらどうだ?実在しない過去や家庭の設定を作って架空の人格に与え、元は一人であるのにあたかも二人であるかのように振る舞う。本人達も気付かないほどにな。それでも何かの切欠で、別人格が自分は作られた存在だと気付いてしまったら?そして元の人格が成長し、あるいは抑圧の原因から解放され、昔ほど理想の人格を必要としていなかったらどうなる?」
 今度は柳の声に、少しの興奮が混じった。薄く目を開いて柳生を見た。
 「その別人格は、殺される、と表現できるような崩壊を感じるのではないか?」
 「……つまり?」
 「お前が抑圧された願望を昇華し作り上げたもう一つの人格、それが仁王だ。お前は自らの理想である仁王を愛し、仁王に好意を寄せる者や仁王が愛した者からあいつを分離し、それにも飽き足らず自身の家族からも距離を置いた。けれどそうすることでお前は仁王を生んだ抑圧さえ失ってあいつの存在意義を奪ってしまった。それが仁王失踪の真実だ。お前はハイドを愛し、殺してしまった博士、ということになる」
 柳生の背中を冷や汗が伝う。これは柳がやけに迫真だからだろうか?真に受けるな、と頭のどこかで警鐘が鳴る。
 「……何を言い出すかと思えば」
 手の中の茶を思い出し、柳生は口をつけた。ほとんど冷めてしまっていた。間を置いて息を整える。
 「随分と非現実的なことを仰る。とても物理を学ぶ人間の考えることとは思えませんね。小説家にでもなった方が良かったのではないですか?」
 柳は開いていた目を元通りに細め、柳生の辛辣な揶揄を微笑みで以て受け止めた。
 「もちろん、俺もそんな風に考えたことなど一度も無かった。あの手紙を読むまではな」
 「手紙?」
 「仁王から手紙が来た。三日前だ。消印は無かった」
 三日前。それは丁度、仁王が姿を消した日だった。
 「そこに全てが書かれていたよ。仁王の正体、お前たちが消えた理由、それから、今回の消失の理由」
 柳は失踪でなく消失という言葉を使った。柳生はズレてもいない眼鏡の位置を直した。
 「なるほど。その手紙の内容にも興味がありますが……らしくないですね」
 「何がだ?」
 「仁王くんの虚言など、今に始まったことではないでしょう」
 「その通りだ。あいつと関わるためにはまず疑いから入る必要がある。だから俺はお前を待っていたんだ。真偽を確かめるために」
 「確かめる?私で?」
 柳は無表情に戻っていた。
 「お前は、この街を変わらない、と言ったな」
 「ええ」
 「そんなはずはないんだ。三年前大規模な工事があって、少なくとも駅前はガラリと景観が変わっている。お前が本当に六年ぶりに此処へ来たならば、まずそのことに言及したはずだ。それに気付かなかったということは、お前が少なくとも三年以内にこの地へ訪れたということになる。お前の返答は、お前に仁王の記憶が流れ込んでいることを俺に確信させた」
 柳生は言葉を失った。そうだったろうか。六年前の景色を思い出そうとしたが、うまくいかなかった。
 柳は尚も続ける。
 「それから此処へ来る前に、丸井と精市に会ったとも言った。何故だ?仁王が此処へ来ていたことを知っていたならば、まず俺のところへ来たはずだ」
 「それは……」
 「そして何よりもお前が今日此処へ来たことが何よりの証明になっている。これは俺の予測ではない。手紙に書かれていた仁王の予告だった」

 柳生はもう何も言わなかった。ただ小さく、首を横に振った。それは否定にも見えたし、諦めにも見えた。
 「俺に対して認めなくても構わないさ。お前自身が納得出来ればそれでいい。そのために丸井や精市にも会ったんだろう?自分に流れ込んでくる仁王の足跡を確かめるために。お前は仁王が消えた瞬間から、あるいは探す過程の中で、自分の中にいる仁王に気付いていたんだ」
 「……では、仁王くんが此処にいると仰ったのは」
 「そうだ」
 柳は声に力を籠めた。

 「仁王はお前だ、柳生」

 門の外、人通りの無い静かな住宅街を北風が駆け抜ける。柳に見送られ、彼は来たときと同じように深く深呼吸をした。冬の匂いが体中に染み渡った。
 彼は自らの左胸に手を当てた。皮膚の下で、あるいは 肋骨に守られて心臓は規則正しい鼓動を紡いでいた。本来は脳であるはずの心の在り処を最初に胸と喩えた人間が誰かは知らない。けれど、確かにあるべきはずの形に戻った心を感じた。

 「……見つけましたよ」

 彼は灰色に覆われた空を見上げた。そのとき、目を凝らさなければ気付かないような雪の欠片がひとひら、舞い降りて来た。
 冬は仁王の生まれた季節だった。朝の雪原のような銀髪を持つ彼には、その季節が一番似合うと思ったのだ。
 風に舞い、あちらこちらへと定まらない雪を、彼は追った。もう少しで掴める、と思った矢先、また風がやってきて雪は彼の頬に吹きつけられた。すぐに体温で溶かされ、小さな水滴となる。涙のようにそれが頬を伝って顎先まで流れた頃、彼は小さく笑った。そして誰にも聞こえない声で、ひっそりと呟いた。

 「……プリッ」

2012.12.4