Spring -Garden-
春は始まりの季節だと誰もが口を揃えて言う。確かにこの季節になると始まる新しい生活があることは確かなのかもしれない。けれどそれは限られた節目の人間にしか当てはまらないものだし、少なくとも仁王にとって何か目新しいことが起きたかといえば、大して思い当たる節はなかった。
校舎へと続く桜並木は三回目ともなれば慣れたものだったし、二年前には少し大きかった制服もすっかり馴染み、時の流れを正確に吸収してくたびれてさえいる。構成員の変わったクラスはマンモス校だけあって初めて見る顔ばかりだったけれども、元より仁王はクラスメイトを覚えようとした試しなどなかったし、教室の場所が移動したって、いつものように席替えのクジに細工をして廊下側の一番後ろを陣取るから、見える景色はこれまで通り無機質な白い壁と光沢のある黄ばんだ床のままだ。部活は、なんて言ったらそれこそ変わらない顔ぶれに、見分けのつかないジャガイモのような新入生が並んでいたくらいのものだ。
だから仁王にとって春の喜ばしさというのは、激しくも冷たくもない、穏やかな陽光に包まれて思う存分うたた寝を楽しむことが出来る、それだけのものだった。
いつも仁王が寝床にしているコンクリートの地面には今日だって優しい色をした陽だまりがいくつも点在している。そよぐ風は優しく、どこからか巻き上げた桜の花びらを運んでくる。一年のどんな季節よりも午睡の似合うこの瞬間、いつもならお決まりの場所で寛いでいるはずの仁王は、しかしどうしてこんなことになったのかと頭を抱えていた。
「仁王くん、貴方もちゃんと持って下さいよ!」
「持っとるじゃろが!」
「この高さの違いは何です?まったく、貴方は手を抜くことばかりに長けているのですから」
文句を言う柳生のことなど知らない。まったくもってこんなはずではなかった。両手にのしかかる質量は並大抵のものではない。土の目一杯入ったプランターがこんなにも重いものだなんて知らなかった。
「生えてるものは全部根っこから引き抜いて、ここへ土を出して」
広げられた青いビニールシートの端、座り込む幸村が言った。ハーブティーが入っているらしい水筒を傾ける様は一見ピクニックのようにも見えるけれど、それにしてはシートが大きすぎる。中央には土の山が出来つつあって、どちらかといえば工事現場の方が近いかもしれない。
仁王と柳生は、言い争いを続けながら辿り着いた山に、プランターの中身をぶち撒けた。仁王はプランターを、空っぽになった同じものが並ぶ列へと乱暴に放った。
「あと何個じゃ、幸村」
ぱんぱん、と両手を払って仁王は言った。
「そうだなあ…あの一番南側と、三番目の区画は全部植え替えたいから…ざっと二十くらい?」
「二十!?」
提示された数値に愕然とする。もう随分と働いたような気がするのに、まだ半分もいっていない。
「さ、仁王くん。次いきますよ」
やけに張り切る柳生はもう踵を返している。こんなことならば普通に部活へ行った方がよかったと仁王は思う。やけに簡単に休みの許可が出たのは、単に幸村が関わっていたことも理由の一つなのだろうけれど、この重労働も見越されてのことだったのかもしれない。世の中、そうそううまい話はないものだ。
そもそものきっかけは、午後の授業をサボって屋上で日向ぼっこをしていた仁王の前に、幸村が現れたことだった。最初は生き霊か何かかと思った。幸村が登校できなくなってからの期間は不在が日常になる程度の長さになっていたし、つい先日もレギュラー陣で病室へ見舞いに行ったばかりだったのだ。
幸村はぼんやりと、焦点の合っているのかわからないような瞳で、かつて彼が丹誠込めて造り上げていた庭園を眺めていた。その瞳が余計に現実感を失わせていたのかもしれない。
「ゆ、きむら……?」
恐る恐る声を掛けた。亡霊のように立ち尽くしていた幸村の瞳に光が入った。スイッチのオンオフが切り替わったようにして、振り返った幸村は見慣れた微笑みを携えていた。
「やあ、仁王。久しぶり」
返答の声も確かに正しく幸村のものだった。仁王は彼の足元を見た。しっかりと地に足がついている。影もある。どうやら本物らしかった。
「なしておるん?病院は?」
「今日退院したんだ。といっても一時的なものだけど」
「あ、そ」
「ここも荒れちゃってるなあ」
屋上庭園には枯れた草花と、秩序を失くした雑草とが広がっていた。その光景を前にして幸村は力なく笑っている。見ていて気持ちのいいものではなかった。
「……また、何か植えるんか?」
「うーん……」
居心地の悪い現場に遭遇してしまった。仁王は心の中だけで溜息を吐く。仁王が覚えている限り、幸村は季節が変わる度にこの場所に何らかの植物を持ち込み、育て上げ、満足そうに笑っていたものだった。すっかりと過去の話だ。
幸村は、少しだけ考える素振りを見せた後で、ゆるゆると首を横に振った。
「やめておくよ。次いつ病院に戻らなきゃならないかわからないしね。最後まで面倒を見られるかわからないのに種だけ植える、だなんて無責任にも程がある」
「……俺が、面倒見ちゃろうか?」
それは安っぽい同情だったかもしれない。あまりにも幸村が哀しそうに笑うから、考える前に口にしていた。
「え、ほんと?」
かつて幸村が、何やら毎日水を撒いていたことは覚えている。それくらいなら出来るだろうと思ったのだ。いつも興味なく眺めていた花壇が茶色く干涸びてしまうことを、それはそれで寂しいと思っていたことも確かだった。仁王は無言で頷いた。それが、間違いだった。
動かすべきプランターは本当にあと二十個あった。穏やかであるはずの陽気にも汗が滲む。それでもなんとか運び終えた頃には、シートの中央に立派な土の山が出来上がっていた。
「終わったぜよ幸村!」
「次はどうすればいいのでしょうか?」
「そうだな、ひとまず軽く混ぜてもらえるかな」
軽く。目の前の土の山にはあまりにも似合わない言葉だった。
「……どうやって?」
「柳生」
「はい。さあ仁王くん、貴方の分です」
肩に手を置かれた仁王が振り返ると、いつの間にか柳生がショベルを二本持っていた。それも頑丈な造りの、胸の辺りまで長さのあるものだ。ほとんど押し付けられるようにして差し出された一本を手に取った。左手にずっしりとした重量がのしかかる。スコップとショベルの違いは何だったっけか、とその重みにぼんやりと考えた。
柳生がやって来たのは放課を告げるチャイムが鳴った後のことだ。何かにつけてエスケープしたがる仁王を探しに彼が屋上を訪ねるのは珍しいことではなかった。柳生は幸村を見つけ、挨拶をし、事情を聞いた。それならば私も手伝いましょう、と話がまとまるまで三分もかからなかった。それから、部活の欠席を伝えてきます、と言って一度屋上を後にし、幸村の携帯が一度鳴り、戻ってくるまで八分ほど。真田と柳の両方から休む許可をもらったと柳生はズレてもいない眼鏡をクイと上げた。実にスムーズな流れだった。仁王はただ立ち尽くして成り行きを目で追っているだけだった。
「しっかり腰を入れて!動きが悪すぎるよ!」
幸村はスパルタだった。重い山を底の方から掘り返し、引っ掛かる枯れた植物を選り分け、時折顔を出すミミズに見てみない振りをし、均一と思われる状態にするまでにかなりの時間を要した。汗で制服のシャツが張り付いて気持ち悪い。そういえばと思って柳生を見ると学校指定のジャージを着ていた。いつからだったろうか、と記憶を辿り、休みの許可をもらってきたときには既にその格好だったなと思い当たる。抜け目のない奴だ。
「次は、その肥料を混ぜて」
「これか?」
一息つく間もなく、幸村が指差した袋に近寄る。表面には化成肥料、十キロの表示が踊っていて、土嚢として十分機能しそうなくらいに中身が詰まっている。少しだけ切れ込みの入った端を見つけ、一気に引っ張った。
「くさっ!」
袋を開けた瞬間、鼻腔を直撃した匂いに仁王は顔を顰めた。思わず二、三メートル後ずさる。
「幸村!これ臭いぜよ!」
「仁王くん、肥料とは得てしてそういうものです」
そう言ってもう一つの袋を開ける柳生を見れば、どこからか取り出したマスクをきっちりと装着していた。
「ずるいぜよ柳生!俺の分は?」
「ありませんよ」
しれっと言い放つ柳生に殺意が湧いた。紳士を標榜するならば、たとえマスクがひとつしか無くても相棒に差し出し施しを与えるものではないのか。柳生と一緒にいると、時折自分の持つ紳士という概念が間違っているのではないかと不安になる。
恨めしい目の仁王など気にも留めずに、柳生が一気に肥料を捲いた。舞い上がる粉塵と共に、あたり一帯になんとも言えない臭気が漂う。そうなれば袋に近付くも近付かないも一緒だった。
再び山を崩し、引っくり返して、肥料を混ぜ込んでいく。色の違った層の境目を失くすように、何度も。こうやって混ぜてしまうのならプランターを引っくり返したときに肥料も撒いてしまえばよかったのに、と思ったけれど、幸村曰くそれでは駄目らしい。何が違うのかわからない。でも、幸村がそう言うならそうなのだ。
「さすがにきついですね」
山の反対側で作業を続ける柳生の額にも汗が流れているのが見えた。両腕は悲鳴を上げていた。それなりに鍛えているつもりでも、普段はやらない動きばかりだったし、テニスラケットはこんなに重くない。
やがて粒子は、初めは別々に存在していたのだとはわからないくらいに溶け合った。随分と体積が増えたように思う。どこかふわふわした質感も加わっている。きっと空気の所為だろう。いつだったか丸井のスイーツ作りを見学したとき、混ぜ続けられた卵の白身もこんな風に膨らんでいたのを思い出した。
「こんなもんでええか!」
ほとんど投げ出すようにショベルを置いて、どんなもんだとばかりに幸村を振り仰いだ。幸村は土の山を見て、腕を組み、それから二度頷いた。
「よし、じゃあその土をプランターに戻して」
「え」
戻すのか。一瞬、身体中から力が抜けた。出したものを戻す。山を形成した過程を思えばそれは果てしない道のりのように思えた。
「どうかした?」幸村が首を傾げる。
「いや……」
いや、でもまあそうだろう、戻すだろう。戻さなければ植物は植えられない。それくらいは仁王にもわかる。
空のプランターを並べ、造り上げた土を均して入れる。押さえてはいけないという注意を忠実に守り、空気が入るように。それから腐葉土を被せ、また更に土を乗せる。柳生と半分ずつだから、繰り返すこと十数回。ようやく土壌が完成した。
「ご苦労様。はい、苗だよ」
そう言って幸村が差し出してきたのはホームセンターの袋だった。いつの間にか大量に届いている。そういえば土を混ぜ返していた間、人の出入りがあったような気がする。ジャガイモみたいだったから一年生なのだろう。
袋の中から苗を取り出した。柔いビニール製の容器に申し訳程度の土、それに支えられて小さな花が揺れている。仁王は名前を知らないけれど、確かにここで咲いているのを見たことがあるような気がした。
「……しかし、咲いとる花を植えるっちゅーんも、ズルしとるみたいで好かんのう」
「お前がズルとか言うなよ。苗を根付かせるのも簡単じゃないんだよ」
「そうですよ仁王くん」
まったく、ああ言えばこう言う連中だ。仁王は自分の勝手な文句はすっかり棚に上げて辟易しきった。諦めたようにして溜息を吐き、プランターの傍へしゃがみこむ。
「苗の土より一回り大きい穴を開けて。それで、埋め込んだら完成だよ」
言われた通りに穴を掘り、そっと苗を下ろした。少し色の違う土の間に、隙間をなくすように周囲の土を被せていく。それだけで、頼りなかった茎が少ししゃんとして、初めからその養分で育ってきたかのように凛と佇んで見えた。
「あとは水を遣って。底から溢れるくらいたっぷりね」
シャワーヘッドのついた青いホースは見慣れたものだった。幸村はいつも、どうしてか絡まないその長いホースを引き摺っては、楽しそうに水を撒いていたものだ。仁王はそれひとつだけでガーデニングは成り立つのだと思い込んでいた。
作ったばかりの土、植えたばかりの植物へ向かってレバーを引く。水は勢いよく飛び出し、土の色を変えていく。雨の匂いが辺りを包んだ。仁王は注意深くプランターの底を見守った。けれど、なかなか水は流れて来ない。
「すごく吸うだろ」
幸村が満足気に言った。仁王は黙って頷いた。
しばらくしてようやく、じわりとコンクリートが濡れ始めた。まず溜まりができる。そして、表面張力が決壊し、走り出した水は陽だまりの元でいくつもの筋を作った。土の塊を通り抜けてきたはずの水は不思議と透き通っていた。
「いいよ、そんなもので」
コンクリートに描かれる地図に見蕩れて水を遣っていたことを忘れていた。幸村の声を合図にレバーを外す。シャワーのざわめきが収まり、パチパチと弾けるような音がプランターから響いていることに気がついた。土が水を吸い込む音だとわかるまでに少しの時間を要した。プランターの中を見れば、濡れた表面が陽光を反射してキラキラと光っている。葉に落ちた水滴も同様に。
「風流ですね」
柳生が言った。幸村が満足気に頷いた。
「たまには悪くないだろ、こういうのも」
仁王は取り立てて同意の返事をしなかった。できることならば、もう二度とやりたくないと思う。けれどその一方でちょっとした達成感が混じり込んでいたことも確かだった。汗が引いていくにつれて体感温度が快適さを取り戻していく。まあ、こんな穏やかな春の日くらい、生産的に過ごしたってバチは当たらないだろう。程よい疲労に包まれて見た花は、露を弾いてどこか嬉しそうに見えた。