Autumn -Sweets-
「あ〜やっと終わった!腹減ったあ!」
チャイムが鳴り終わること五分、要領を得ない担任教師の話が終わった瞬間に丸井は叫んだ。
「あいつの話聞いてると腹減ってくんだよな。そう思わねえ?」
「別に。お前さんが腹減っとるんはいつものことじゃろ」
「あ?人を食いしん坊みたいに言うんじゃねえよ」
お前が食いしん坊じゃなければ誰がどうなんだ、とは思ったけれど口にしなかった。丸井は仁王の前、廊下側の後ろから二番目の席で帰る準備を進めている。仁王はいつでも抜け出せるようにと一年生の頃からクジに細工をしていて、それを知った丸井がそれなら俺も混ぜろと言ってきたのだ。そういうわけで、三年生になって二回目の席替えのときから彼らの場所は変わらない。だから丸井はいつでも仁王の前にいて、二時間目が終わろうとする頃には早弁をするし他の時間にもことあるごとに駄菓子を口にしている様を、仁王はこれでもかというほど見てきた。
「食欲の秋だかんな。今日は何食べよっかなあ」
同じクラスになるまで、丸井といえば何かいつもどこへでもお菓子を持ち込んで真田に怒鳴られている奴、というぼんやりとした認識しか持っていなかったけれども、それはこの半年間で随分と具体性を帯びたような気がする。彼は本当に少しも糖分を切らさない。机に載せられた鞄の隙間からも色とりどりの包装紙が見えていて、そのひとつひとつに砂糖のかたまりが入っているのかと思えば自然とげんなりした気分になった(もっとも、私物の賑やかしさで言えば仁王も負けてはいなかったが)。
「決めた、今日はコンビニプリンだろぃ!行くぞ、仁王」
「……え?」
丸井の食欲は仁王にとってまるで他人事である。だから名前を呼ばれたって、すぐには反応できなかった。
「え?じゃねえよ、ほらさっさと立てよ」
どうやら仁王も一緒に行くことになっているらしい。そんな話なんてしただろうかと考えているうちに鞄を取られ、腕を引っ張られる。
「ちょっ、待ってブンちゃん」
「あ?」
「俺が?プリン?食いに?」
「んだよ、文句あんのかよ」
反論は受け付けない、と背後に滲ませて丸井はそのまま出口へ向かう。危うく仁王は椅子から転げ落ちるところだった。別に予定があるわけではないけれど、これだけ自分相手に自分勝手を押し通す人間も少ないだろうと仁王は思う。引き摺られるようにして出た廊下から硝子越しの空を見上げると、青く高く晴れ渡っていた。雲の遠さが夏とは違う。早くと急かす丸井の赤毛に柔らかな、そして少し寂しげな日光が跳ね返り、揺れる。
——まあ、たまにはいいのかもしれない、部活も引退してしまったのだし。
そんな風にして、このところ大した意味のない寄り道で潰す放課後が増えていた。ずっと部活に明け暮れていたせいか、使い方がわからないのだから仕方がない。
外へ出ると、春に咲き誇った桜の木々は色を変え、落ち葉が地面を埋め尽くしていた。一歩踏み出す毎にかさかさと乾いた音が鳴る。時折蹴り上げ散らしながら、コンビニまでの道を歩く。
「桜ってさあ、秋はあんまり綺麗じゃないよな」
木々を見上げて丸井が言う。
「そうか?」
「うん。なんか地味っていうか、銀杏とか紅葉ってもっとすげー!きれー!って感じじゃん」
誰かが掃いて集めたのだろう塊を丸井が蹴った。舞い上がる落ち葉がくるくると回転しながらまた降り積もる。仁王は目の前に飛んできた一枚を捕まえてみた。赤い。その赤は、丸井の髪と良く似た、深く鮮やかな色をしていた。
「なんでじゃろな?一枚一枚はちゃんと色ついとんのに」
仁王はしゃがみ込んで何枚かの葉を見比べてみた。赤と、黄色と、それなりに高い彩度を誇っている。けれどどうやらそれは表面だけのものらしい。裏返すとどこかくすんだ、物悲しい褐色をしていた。この所為かもしれない。きっと、鮮やかなものは鮮やかなものだけでしか鮮やかに光れない。
「何してんだよ、早く行くぞ!」
いつの間にか丸井は随分と先に進んでいた。疑問を持ったからといって、解決する気はなかったらしい。結局は花より団子というわけだ。はいはい、と仁王は立ち上がり、後を追う。
「うわ、先週より限定品増えてんじゃん!」
「よりどりみどりでよかったのう」
最寄りのコンビニに辿り着くと、運がいいのか悪いのか、どうやら午後の商品補充が終わったばかりだったらしい。丸井は隙間無くぎっしりと並ぶプリンの列に目を輝かせ、オレンジ色の籠へとぽいぽい放り込んでいく。メーカー品もプライベートブランドも関係なく、限定品もスタンダードもごちゃ混ぜにして。
「食欲の秋だからな!」
食べ切れんでも知らんぜよ、とはいつしか言わなくなった。次々に商品を手に取って品定めする丸井を、いっそ保護者のような気分で眺める。楽しそうにしている人間を見るのは悪くないものだ。丸井はいつでも美味しいものに美味しいと叫び、楽しいことに楽しいと叫び、勝ちたい奴に勝ちたいと叫ぶから、斜め上な行動ばかりを模索するような仁王からはひどく新鮮に映る。
「お前は?選ばねえの?」
「ええよ、あるもんで」
レジに表示された金額は、さすがに中学生に手の届く範囲内ではあったけれど、プリンだけでこんなにいくものかと驚ける額だった。元来甘いものをあまり好まない仁王は丸井と割り勘をしたっていつでも食べ負ける。そしてそのことをきっと丸井もわかっているのだろう。それでも、何でもないフリをして半分の金額を財布から出した。
「おい仁王、夢だ!この袋の中には俺の夢が詰まってる!」
「ええのう、やっすい夢で」
「あ?んなこと言ってたら一個もやんねぇぞ」
コンビニの前、ガレージの車止めをひとつずつ使って座り込む。まるで地元のヤンキーだなと思いながら、まあ似たようなものかと丸井の赤い髪を眺めた。丸井はといえば、仁王のことなど一切目に入れようともしないで今日の戦利品を並べ立てている。秋にプリンとくれば出てくる容器は大抵黄色や茶色をしていて、仁王にはどれも同じに見えたけれども、丸井が自分への確認の意味で零す解説によれば、どれも微妙に違ったものらしかった。
「やっぱモンブランからだろぃ!秋だしな」
最初の夢を決めたらしい丸井の手に残ったのは透明なプラスチックの器で、細く絞られたクリームがこれでもかと積み上げられている様が透けていた。見るからに甘い。
仁王は並べ立てられたプリンのうち、カスタードとカラメルがきっちりと分かれているものを手に取った。年がら年中どこの店にも置いてあるタイプだ。蓋を開け、一掬いすれば、偽物くさい光沢と弾力が踊った。
「いただきます!」
行儀よくそう言って丸井が一口目を口に含む。仁王も彼に倣い、自らの口に掬ったプリンを放り込んだ。覚えのある慣れた甘さが広がる。二口目を掬おうとして、けれど隣がやけに静かになっていることに気付いた。丸井はスプーンを咥えたまま、少し難しそうな表情を形作っている。お気に召さなかったのだろうか。
「どしたん?」
「……う」
「う?」
「うめえ!!」
どうやら、彼なりに真剣にジャッジを下していたらしい。一度叫んだ後で、うまいうまいと次々に口に運ぶ丸井は申し分なく幸せそうな表情をしている。その様子を見ていれば、およそ幸福というものは、案外身近に転がっているものだと信じてもいいような気がした。
ようやく残暑の抜け切った秋の盛り、少し冷たい風と暖かな日差しが心地良い。普段はあまり機能していない仁王の食欲もそれなりに刺激されるというものだ。さながらパーティーの様相で並べ立てたプリンを次々に空けていく。そのスピードは仁王と丸井、まるで違っていたけれど。
「貴様ら!」
そうやって、仁王は三つ目、丸井は七つ目のプリンを頬張っていたときだ。辺り一帯に響く大きな声がして、二人同時にびくりと肩を跳ねさせた。プリンに熱中していた目を恐る恐る上方へ移す。聞いた瞬間に声の主はわかっていたけれど、聞き間違いであってほしいと微かに願いながら。
「よ、よお、真田」
引き攣った笑みで先に声を絞り出したのは丸井だった。太陽を背に仁王立ちし、くっきりと二人に影を落とす真田の表情が、逆光で見えにくかったことは不幸中の幸いかもしれない。
「まったく、恥というものを知らないのですか、貴方たちは」
更に別の声が響く。怒声ではない代わりに存分な呆れと軽蔑が籠められている。真田の陰から姿を現したのは柳生だった。
「柳生も一緒か……プリン食う?」
「結構です」
貼りつけた笑みで零れた仁王の提案を、柳生はくいと眼鏡を上げ、絵に描いたような優等生面で撥ね付けた。仁王は瞬時に笑みを消し、行儀の悪い舌打ちを零した。
「お揃いで何やっとるん」
「今日は風紀委員会のパトロールデーでしてね。立海大附属中学の生徒たるもの、登下校の最中にも品位を失うべからず。コンビニで買い食い、あまつさえ地べたに座り込んで、など言語道断です」
「そうだ、まったくもってたるんどる!」
彼らの腕にはこれ見よがしに風紀委員の腕章が光っていた。面倒くさい、実に面倒くさい。丸井と仁王は同時に思った。たかが中学の委員会には不必要なまでの正義感と潔癖さを持つ真田と柳生にとって、三年B組の問題児二人はどこまでも目の仇だった。チームメイトとしては互いを認め合い高め合ってきたはずだけれど、ひとたびコートを出れば私生活の何もかもに目くじらを立ててきたものだ。
さて、どうしたものか。右から左へ抜けていく説教に項垂れたフリをして仁王は視線を流す。おかしなことに、並べていたはずのプリンがない。そのまま隣に目を遣れば丸井は抱え込んだ太もも辺り、ちょうど彼らから死角になる位置で五本の指を立てていた。その腕にはコンビニの袋が下がり、中には残っていたプリンが全て詰め込まれている。そして、開かれた指が瞬きの間に四本へと減る。
——いつの間に。グッジョブぜよ。
意図を察した仁王はさりげなく鞄の持ち手を握った。丸井の指は等間隔で折れていく。三、二、一。
丸井が拳を握った瞬間、彼らは走り出した。
「あ、おい、待て!」
「待ちなさい!」
背後から響く怒声には欠片も取り合わないで最初の角を曲がった。あとはがむしゃらに路地を走り抜けて行くだけだ。右へ左へ、跳ねる体に合わせて二つの鞄が別々に賑やかしい音を鳴らした。
「……撒いたか?」
「何とか」
住宅街を一区画走り抜けて、海沿いの街道へ出た。車道を横切り、防波堤に倒れ込むようにして腰掛ける。目の前には延々と続く砂浜があった。少し前までは当たり前だったはずの、夏の喧噪はすっかりと鳴りを潜めていた。
「あ〜危なかった」
「明日めんどくさそうじゃのう」
「明日は明日でなんとかなんだろぃ。あのままじゃプリン取られるとこだったぜ」
それは無いと思うけど、という仁王の声に返事は無かった。今の彼にとってはプリンの無事が一番らしい。しっかりと握られたコンビニの袋がかしゃりと音を鳴らす。中身をひとつ取り出して、丸井は蓋を開けた。
「うわ、ぐっちゃぐちゃ」
「全力で走ったからのう」
丸井は暫し恨めしげに容器の中を見つめた。どうするつもりかと仁王は見守る。丸井は一度天を振り仰ぎ、溜息を吐いた。それから、ずず、とあまり行儀のよくない音を立てて中身を啜った。
「……素晴らしい執着心ぜよ」
「ま、これもこれでうめぇしな。小学生のときよくやんなかった?給食のヨーグルト思いっきり振って、飲むヨーグルトーっつって」
「ああ、やったやった。あれがなして教師に怒られるんか全然わからんかったぜよ」
投げ出されるようにして丸井の手に絡み付くコンビニの袋、ひとつ転がり出ている黄色いカップがあった。巻かれた紙製のパッケージには『かぼちゃプリン』の文字が踊っている。仁王は試しに封を切ってみた。
「あ、それまだ俺食ってないから食うなよ」
「んー……」
半分ほど蓋を剥がし、元は固められていたはずであろう橙掛かった流動体を暫し見つめる。甘い香りが漂う。もちろん好きな匂いではない。
「ちょ……あっ!」
そのまま一気に煽り、飲み干した。口腔内からまず香りが、それから味が広がってその全てが甘いと訴える。決して得意ではない感覚に喉がうまく動かなかったけれども、崩れ切ったプリンの形状はそんなことに構わず素直に消化器官へと落ちていった。
「てめー!吐け!今すぐ吐け!」
目の前で起きた、彼にとっては惨劇でしかない光景を前に丸井が騒ぐ。吐いたらお前食べるのか、と思ったけれど口にはしなかった。食べると言われたらどうすればいいのかわからなかったからだ。
「うまかったぜよ」
代わりに、そう言ってニヤリと笑った。丸井の頬が思い切り膨らむ。予測するまでもない単純な反応を返す丸井を眺めているのは面白いものだ。好き好んで駆け引きばかりに身を投じているけれど、何も考えずに笑えるような時間も案外悪くないと思う。
「あっ、いた!いましたよ真田くん!」
腰を落ち着けてプリンパーティを再開できたと思ったのも束の間、通りの向こう側から聞き慣れた声が響いた。二人同時に振り返る。撒いたはずの真田と柳生が息を切らしてこちらを睨んでいた。
「げっ!?しつけえ!」
「しつこいとは何だ丸井!今日という今日は絶対に逃がさんぞ!」
仁王と丸井は瞬時に荷物を掴む。幸いにも車の往来はしばらく途切れそうにない。とはいえこちら側は海岸であるし、抜け道は使えない。
「飛び降りるぜよ!」
「は?え?おい!」
仁王は叫ぶや否や、砂浜側へと飛んだ。高さはそれなりにある。着地の衝撃をうまくいなし、上を振り仰いだ。高い空の中には覗き込む丸井の姿だけがある。防波堤に遮られて真田たちは見えない。丸井は背後の二人と、下の仁王とを交互に見た。そして、ニヤリと笑った。
「なるほどな」
丸井も続いて砂浜へ着地する。
「おい待て!」
「待ちなさい!」
これでしばらくは彼らに動きを悟られないで済む。どちらに逃げるか、隠れるか、考える時間は十分に稼げる。
「おい、どうする?」
体勢を整えた丸井は仁王に尋ねる。その手にはしっかりとコンビニの袋が握られている。
「……とりあえず、走るぜよ」
考えるのが面倒だったというのもある。それに、誰もいない砂浜を、キラキラと光る海を見て走らないなんて嘘だ、とも思った。
彼らは砂を蹴る。足を取られてうまく速度が出ないし、靴には細かい粒子が入り込んでくる。それでも走ることをやめなかった。後ろは振り返らない。秋の夕陽が形作る長い影を引き摺り、彼らはどこまでも走って行った。