Winter -Snow dance-

 覚醒より先にくしゃみが鳴った。跳ねるようにして体を起こした仁王は、状況に慣れるまで少しの時間を要した。退屈なホームルームを至極退屈に過ごしているうち、どうやら眠ってしまっていたらしい。周りには誰もいなくて、暖房の切れた教室の空気はひどく乾いて冷たい。
 質の悪い眠りの後で体は動きたがらなかったけれど、このままだときっと風邪をひくのだろうなあと思ってのろのろと立ち上がる。三年B組を出た瞬間、どこかから吹き込んだらしい冷たい風にぶつかった。もう屋外ではおちおち昼寝もしていられない。廊下は薄暗かった。今日は朝からあまり天気がよくなかったのだ。
 どこか上向かない気分のままで空っぽの教室をいくつも通り過ぎていく。学校に残っていたってどうせすることはないのだから、早く家に帰って炬燵で丸まってしまおうかと思う。校庭から聞こえる下級生たちの声はひどく遠い。あれだけ全てを賭けた部活だって、離れてしまえば他人事だ。
 暗い空も駆け回る生徒もあまり見たくなくて、足元少し斜め前を見て歩いていた。隠す必要のない足音がぺたぺたと反響する。誰もいない。そう思っていたから、狭い視界にくたびれた上履きが映り込んできたときには心底驚いた。
 ——誰だろう、きっと知らない奴だろうけど。
 そう思って少し目線を上げる。そこには意外な人物がいた。
 「……何しとんの」
 「ん?ああ、仁王か」
 まるで仁王の気配になど気付いていなかったという体で、少しだけ驚いた様子で振り返ったのはジャッカルだった。
 「いや、雪でも降らねえかなーって思ってよ」
 ジャッカルは常日頃彼が身につけている一切の邪念のない笑顔を浮かべ、また窓の外へと向き直った。仁王は目線をもう少しだけ上げて、ついでにぐるりと辺りを見回してみた。どうやらジャッカルは一人きりらしかった。
 「降らんじゃろ。ってか、降らんでええ」
 「はっきり言うなあ」
 珍しいこともあるものだ。ジャッカルが一人でいることは少ない。ほとんどないと言ってもいい。大抵の場合、丸井か、切原か、そのどちらかが一緒にいる。
 なんとなく、隣に並び、倣って空を見上げた。窓の向こう側には色彩を欠いた雲が重く垂れ込め、世界そのものにモノクロのフィルターがかけられているようだった。
 「雪、嫌いなのか?」前を見たままでジャッカルが言った。
 「嫌い。つか寒い」
 窓に近付いたことで、その表面から伝わる冷気が強くなる。ひとつ身震いをした。マフラーに埋められるだけ顔を埋め、鼻を啜る仁王に微かな苦笑が届く。
 「仁王は暑いのも寒いのも駄目なんだな」
 「多かれ少なかれ誰でもそんなもんじゃろ」
 「俺も、あんまり強くねえな、寒さには」
 そう言いながらもどこか嬉しそうに笑うジャッカルを横目で見上げた。同じ制服、同じマフラー、けれど纏う雰囲気が悉く違う。元々仁王は日本人にしては白すぎるほど白い。何も知らない他人に屋外競技をしていると言っても俄には信じてもらえないほどだ。加えて髪も脱色し切っている。そんな仁王からすれば、健康的を通り越したジャッカルの肌の色は理解の範疇を超えていると言ってもいい。その激しいコントラストと、いつでも絶えない前向きな笑顔がジャッカルをひどく陽気に見せる。去年も一昨年も、吹き曝しのコートに身を震わせていたって、彼を見れば自然と陽だまりにいるような気分になれたものだ。ジャッカルは昔から色々苦労が多いんだからお前あんまり虐めるなよ、といつだったか丸井に言われたことがあるが(失礼な話だ、仁王は軽い悪戯こそ誰にでもするけれど、誰一人虐めたことなどない)、そのような気配は微塵も感じられず、真夏の殺意も、真冬の孤高さもない、ただ優しく存在する春の太陽のような明るさと暖かさがいつでも滲み出ている。
 「この辺りはあんまり降らねえよな、雪」
 「まあ、少ない方じゃな」
 「お前って引っ越してきたんだよな?前にいたところって雪降ったか?」
 「あんまり。ここと変わらんよ」
 仁王は答えてから、そういえば出自は隠していたのだったと思い出す。ジャッカルがあまりにもさらりと口にするものだから、つい素直に答えてしまった。
 「ブラジルは?降るんか?」
 話を逸らすつもりでくだらないことを聞いた。ひどいやり方だ、降るわけがないだろう。即座に否定されるだろうと思った質問に対して、けれどジャッカルは中途半端に首を傾げただけだった。
 「あの国も縦に長いから、雪の降る土地もあるらしいんだけどな。俺は行ったことねえし、そもそも向こうにいたのはガキの頃までだから、そんなに記憶があるわけでもねえし」
 「……へえ」
 初耳だった。ブラジルに雪が降るという事実も、ジャッカルが日本へ来てそれなりに年月が経っているらしいことも。少し、興味が湧いた。
 「いつ日本来たん?」
 「小三の春」
 「ずっと神奈川か?」
 「ああ」
 奇妙なものだ。遥か地球の裏側からやってきたジャッカルは、仁王よりも長くこの土地で過ごしていることになる。
 「雪が好きってほども見とらんじゃろ?」
 「まあ、ここでは年に数回だな。積もるなんてほとんどねえし」
 ジャッカルは困ったように笑って、こめかみ辺りをぽりぽりと掻いた。その先のスキンヘッドは今日も綺麗に刈り揃えられていて、寒くないのだろうかとぼんやり思う。
 「でも、北海道で見た雪のこと、すっげえ覚えてんだよなあ。昨日のことみたいに」
 「北海道?」
 「あれはまだ本格的に日本へ引っ越して来る前のことだったんだけどよ、母さんの帰省についてきたことがあんだよ。親父も一緒で、三人で旅行しようってことになって、それで、北海道のロッジを借りて」
 初めて見た雪国の景色は、ただ全てが白く、太陽の光を跳ね返して世界全体が輝いているようだった。真っ新な雪原に飽きもせず足跡をつけて回り、父と共に大きな雪だるまを作った。朝起きたらドアが開かなくてびっくりした、雪を掻き分けて外へ出ると雪だるまはただの山になっていた。そのように語ってジャッカルは笑った。
 「日本っていい国だよな」
 窓の外を見たまま、独り言のようにジャッカルが言った。
 「俺はブラジルで生まれて、日本で育って、そりゃあ楽しいことばかりじゃなかったけど、この国に来れて本当によかったと思うんだよな。景色は綺麗だし、食べ物はうまいし、信頼できる奴らにも出会えたし」
 「……そうか」
 もしも、何かがどこかで少しでも違っていたら、今こうして二人外を眺めるような時間はなかったのかもしれないと仁王は思う。たまたまジャッカルも仁王も遠くから来たから余計に思うだけで、他のメンバーだって一緒であるはずだ。それぞれに、理由はあったりなかったり、そうしてテニスというたった一つの共通項の元に偶然集まった。決して気の合う者ばかりではないし、初めから選別した友人とは一癖も二癖も違う個性だったけれど、居心地は悪くなかった。
 「あ、降ってきた」
 「え?」
 なんとなく、感傷に浸っていると、隣でジャッカルが小さく声を上げた。見上げた窓は、桟に手をかけたジャッカルの息で少し曇っていた。その向こうに、頼りない、粉砂糖のようなものが確かにひらりと舞った。
 「降ったぞ!おい、降ったじゃねえか、雪!」
 「……どうりで寒いはずじゃ」
 はしゃぐジャッカルを尻目に低いテンションで答えたけれど、存外気分は悪くなかった。もし目覚めたまま真っ直ぐ帰路に着いていたら、一人きり粉雪を被ってただ暗く沈み込むだけだっただろう。昔は一人でばかりいたから、雪に降られることにあまりいい思い出はなかった。そんな記憶も中学に入ってからはほとんど忘れていた。気付かない間に。

 「いやはや、こんなところにいたのですか」

 そのとき、遠いグラウンドからの喧噪を打ち消す声が響いた。仁王とジャッカルは同時に振り返った。しんと静まり返った廊下、階段へ続く曲がり角のあたりに人影があった。響いた声も、近付いて来る姿もよく知ったものだった。
 「よお柳生、遅かったな」
 ジャッカルが手を挙げた。
 「少し手間取りましてね」
 仁王を挟んで交わされる会話に違和感があった。ジャッカルは柳生が来ることを知っていたようだった。
 「ん?なんじゃ、柳生と待ち合わせしとったんか?」
 「ま、そんなもんだな」
 ジャッカルははぐらかすようなやり方で笑った。ジャッカルと柳生。あまりしっくりとは来ない組み合わせだった。
 「ちょっと、部室まで来て頂けませんか?」
 柳生は仁王に向かってそう尋ねた。それから、返事も聞かずに歩き出す。
 「ほら、行くぞ」
 ジャッカルが背を押す。何かあまりよくない予感がした。それでも促されるままに廊下を後にした。

 部室棟である海林館まではそれなりに距離がある。降りはじめたばかりの雪が渡り廊下まで吹き込み、音もなく消えていく。柳生もジャッカルも、そして仁王も一言も発さなかった。ただ静かに雪が舞う。
 テニスコートを横切るとき、気付いた後輩たちから挨拶が飛んできた。このくそ寒いのにご苦労さん、と素直に思った。こんな寒空の下で二回も冬を過ごしたなんて、と自分を賞賛してやりたくもなった。あのジャージはあまり防寒に向かないものだった。
 そうして、ふと、違和感に気付く。
 「……あれ?赤也は?」
 三年生の誰かが練習に顔でも出そうものなら一番に飛びついてくる切原がいない。先を歩く二人がぴくりと肩を揺らした。
 「おや、見当たりませんねえ」
 「は、はは、サボりじゃねえの?部長だってのにしょうがねえ奴だな」
 彼らは振り返らずに言った。その様子はどこか不自然だった。何か知っているのか、尋ねようとしたところで部室に着いた。
 「さ、入って下さい」
 柳生が振り返った。てっきりそのまま扉を開けるものだと思っていた仁王は危うくぶつかるところだった。
 「え?なして」
 「いいから入れよ、仁王」
 しきりに先を譲ろうとする二人に、なるほど、と思った。この奇妙なシチュエーションには心当たりがある。そして、そうか、今日はそうだったか、と思い出す。つまりジャッカルが一人きりで放課後の廊下に佇んでいたことも偶然ではなかったというわけだ。切原がコートにいなかったのもそういうことだ。
 仁王は一歩進み出る。扉の向こう側の光景を浮かべ、零れそうになる笑みを必死で抑えて。

 「入るぜよー」

 何も考えない、間抜けな声を装ってノブを捻った。開いた隙間から見えたのはまず幸村だった。それから何か白い物体で、その物体は高速で迫ってくる。
 「仁王、誕生日おめでとう!」
 幸村の声と同時、扉が完全に開き切る前に、仁王は思い切りしゃがみこんだ。迫り来る何かはそのまま頭上を通り越していく。
 「えっ?ちょっ、待っ……!」
 頭上でジャッカルが何か言ったような気がしたけれども、その声はべちゃ、と間抜けな音に掻き消されてしまった。
 「……俺かよ……」
 くぐもったジャッカルの声が落ちてくる。
 「ふ、甘いぜよ」
 「甘いのはお前だよ!」
 再び幸村の声が響いた。はっと顔を上げたときにはもう遅い。べちゃ、と同じ音が響いて、仁王の目も鼻も口も瞬時に閉ざされた。
 「ふふ、まさか二段構えとは思わなかっただろ。俺のケーキ捌きに死角はないよ」
 「仁王が避ける確率、百パーセント」
 白く閉ざされた視界を乱暴に拭い、見上げれば満面の笑みを浮かべた幸村と、何やら満足気に頷く柳とが目に入った。
 「ジャッカル先輩が喰らう確率も百パーセントっすね!」
 「お前ら落とさず食えよ!俺のお手製なんだかんな!」
 「いやその……止めたんだが……」
 後ろで腹を抱えて笑っているのは丸井と切原で、その傍らにて歯切れ悪く帽子のツバを抑える真田だけが常識的だった。
 「何か言うことないの?」
 幸村の声が降る。仁王はのろのろと立ち上がった。口を塞ぐ塊を舌で舐めとる。甘い。
 「あー……お前らも暇人じゃのう」
 精一杯の皮肉を込めて吐き捨ててやった。気を抜けば緩みそうになる頬はひとまずケーキが隠してくれている。ありがとう、なんて絶対に言ってやるものか。
 「はい赤也!お前のおごりな!」
 「はあ!?ちょっと仁王先輩!そこはありがとうって言いましょうよ人として!」
 また騒ぎ始めたのは丸井と切原だった。どうやら、仁王が礼を言うか否か、賭けをしていたらしい。悪魔が通り名の後輩に人としての在り方を諭されるとは心外なものだ。自分だって詐欺師なんて呼ばれてはいるけれど。
 「ほんっと素直じゃないよね」
 幸村が笑い、まあ入りなよ、と言って道を開けた。ようやく中の全貌が見えた。部室は手作り極まりない、幼稚園のお遊戯会のような装飾に溢れていた。正面にはでかでかとおめでとうの文字が踊っていて、中央にはちょっとしたタワーのようなケーキがそびえ立っている。
 「改めておめでとうございます」
 後ろから入ってきた柳生に紙コップを渡された。その後ろでジャッカルが顔を拭おうとして丸井に叱られている。
 「なんだか久しぶりですね、こうして集まるのも」
 「……そうじゃのう」
 乾杯のとき、もう一度全員からおめでとうと言われた。一人一人からプレゼントをもらって、鞄が重くなった。仁王はこういう接遇に慣れていない。どこか居心地の悪いような、気恥ずかしいような気持ちで身の置き所がわからなくなってしまう。それでもやはり嬉しさは心の一番奥の方から湧いてきて、知らず知らずに頬が緩む。隠そうとしたけれど、なに気持ち悪ぃ顔してんだよ、と丸井に言われ、諦めて笑った。
 一通りの祝福が終わってしまえば、あとはもう誰もが自分が騒ぎたいように騒いでいた。今年初めて降った雪が次第に強さを増していたことには誰も気を留めなかった。外の寒さが嘘であるかのようにその部屋は暖かく、明るく、笑い声だけがいつまでも零れ続けていた。

2013.12.14