Summer -Heat island-
太陽が纏う光の温度は百万度だといつか聞いた。何ものをも一瞬で焼き尽くす孤独の象徴は、八秒という時間で優しさを覚え、地球を包み、命を育む。太陽が無ければこの星には何者も存在することはない。しかし結局のところ、あれの本質は全てを殺すエネルギーの塊だ。もしも少し、ほんの少しだけでもあの恒星が近付いてきたならば、たちまち全ての生命はその熱の前に為す術も無く焼け朽ちてしまうだろう。
だから真夏の太陽の下、それも南中時、一切の影が引き上げたその瞬間、きっと自分は全ての水分を搾り取られ体を構成する何もかもは須く炭素の塊に成り果ててしまうのだろうと仁王は半ば確信した。
「あっ……つー……」
逃げる場所を全て失った仁王はまず這いずって屋内を目指した。けれど、そんなときに限って監視の目が鋭く、結局はコートの隅で項垂れているしかなかった。日除けらしい日除けは頼りないフェイスタオル一枚で、汗を吸ったそれも容赦なく温度を上げていく。凍らせて持ってきたスポーツドリンクは午前の練習で早々に飲み切ってしまった。最後の一本に至っては飲む前からすっかりと溶け、温くなってさえいた。今は水分を摂ろうにもまず灼熱の蛇口をひねらなければならないし、そのハードルを超えたところで体温より高いのではないかと思われる液体が出てくるだけだ。水分補給は小まめに、という声が飛び交っているような気もするけれど、それならばそれに相応しいものを用意してくれと思う。
少しでも暑さから逃れられるものはないかと広いコートに視線を巡らせる。とはいえ熱さのみが求められるようなコート内には最初から期待などしていなくて、少しの影でも存在しないかと隅の方ばかりを眺めて回る。照り返しの光にさえ色素の薄い網膜が焼かれそうだった。もうこのまま目を閉じてしまおうか。そう諦めかけたとき、涼しげな表情が目に入った。柳だ。
「……あれくらいしかないのう」
柳はいつでも凛と立っている。およそ暑いとも寒いとも文句を言っているところなど見たことはない。彼が真夏でもあんなに涼しい顔をしているのはきっと何か特別な仕掛けがあるからに違いないと、仁王は柳に変装してみたことがある。それでわかったことは、真夏に長袖ジャージは命取りであるという、ごく当たり前の事実だけだった。それでも彼を見ていると、例えば年中暑苦しい台詞を暑苦しく叫ぶ真田の傍よりは体感温度が少しでも下がるような気がするのだ。重い体を引きずり、ほとんど這うような動きで柳の傍へと寄った。
「……参謀」
「仁王か。どうした」
命からがら絞り出した声への返答が、ひどく無機質で冷たいものであったのでほっとした。きっと見下ろしているのだろう彼の目は、今このときのように逆光でなかったとしても、開いているのか閉じているのかわかりにくい。どちらにせよ温かさはいつでも欠片もない。それでよかった。
「溶ける」
「そうか」
「影が、無くなったけえ、日傘、貸して」
「断る」
ほら、氷のようだ。それきりついと逸れた視線が完全なる無関心を醸し出していたので仁王はひどく安心した。初めから施しをしてもらえるとは思っていない。
「だらしがないですねえ、仁王くん」
「柳生……?」
隣に柳生が並んでいたことには声が降りてくるまで気付かなかった。柳を挟んでちょうど対角線上に居たようだったし、元より仁王は涼しいもの以外からは目を背けていたから、まるで目に入らなかったのだろう。仁王は別に柳生を暑苦しいと思っているわけではない。けれど、たとえば綿のハンカチで額に滲む汗を拭く仕草がどうにも好きになれないでいた。
「これから強豪校と戦っていくというのにそんなザマで大丈夫なのですか?夏はこれからですよ」
「うっさいわ」
口を開けば出てくる姑じみた小言も勘弁してほしいもののひとつだ。それは年中変わることがないけれど、殊更夏には気に触った。
人二人分、ほとんど長さの無い影を求めるようにして仁王は彼らの足元に潜り込んだ。人体が発する放射熱と直射日光との境界線上で、それでも一人きりじりじりと焼かれるよりはマシだと思ったのだ。
彼らはそのような異物極まりない仁王に取り合うことをすぐにやめ、前々から交わされていたらしい会話の続きを再開させた。
「何分経ちました?」
「五分四十五秒だ。今のところ動けているようだな、赤也は」
「なかなかやりますね。しかし、幸村くんもまだ本調子ではありませんし」
「それもあるが、精市の意図もあるのだろう。すぐに五感を奪っては練習にならないからな」
「なるほど」
何の話だろうか、と思って彼らの視線の先を辿れば、なるほど幸村と切原が対戦しているらしかった。部員のほとんどはそのコートに注目していた。気に留めていなかったのは仁王くらいのものだったかもしれない。
「おや、切原くんの目が充血してきましたね」
「ああ」
——嗚呼、暑苦しい。
仁王がそのコートを見て出てきた感想はたった一つだった。きちんと日陰があって、汗を冷やす少しの風でもあればもう少し興味深く見守れたような気もするけれど、そうでないのだから仕方がない。
「1ゲームくらいは取れるんじゃないですか?」
「無理だろう。マッチポイントが精々だ」
「辛口ですね。仁王くんは、どう思います?」
「え?」
淡々と交わされる会話をほとんどBGMのようにして聞いていたから、話を振られるとは思っていなかった。見上げれば、少し振り返った柳生の眼鏡から太陽の反射光が届いた。目が焼かれる。その光から逃げるようにして慌ててコートへ視線を流す。そこで繰り広げられるゲームを見てみたけれど、ちっとも頭が回らない。
「……それどころじゃないぜよ。赤也の頭ん中、今何度あるんじゃ」
仁王の視界で黒々とした切原の剛毛が太陽を跳ね返さんばかりの強度で踊っている。あの髪にどれだけのエネルギーを溜め込んでいるのか、想像するのも嫌だった。あれだけ熱を吸収していればそりゃあ目の一つや二つや三つ、充血するのかもしれないなあとぼんやり思う。
「確かに熱を溜め込む条件は揃っているな。お前とは正反対だ」
「じゃろ?そのためだけに染めとるようなもんじゃき」
苦々しく、吐き捨てるように言った。自ら進んで太陽の熱を受け入れるだなんて正気の沙汰じゃない。
「……聞いたか?」
「ええ、聞きました」
「ん?」
コートを見ていたはずの彼らがいつの間にか視線を下ろしている。仁王に向かって。何か彼らの気を留めることでも言っただろうかと首をひねる。
「仁王くん。貴方はいつもその髪は地毛だと主張していたはずですが?」
「あ」
しまった、と思ってももう遅い。細々とした自らの設定など頭の中からすっかりと抜け落ちていた。だって暑いのだ。どうしようもなく暑いのだ。
「これは真田くんに報告しなければなりませんね。次回の委員会で議題に上げさせて頂きます」
勘弁してくれ、と思う。この暑さの中、真田の怒鳴り声だなんて絶対に聞きたくない。それでも、どうしたものかと考えたって、口八丁手八丁を得意とする仁王の頭は茹だり切ってまともに動いてはいなかった。
「赤也!」
そのとき、幸村の叫びと共にわっとざわめきが広がった。彼らは何事かとコートへ視線を戻す。蜃気楼に揺れるネットの向こう側で、切原が膝を折っているのが見えた。
「イップスでしょうか?」
「いや……」
幸村の対戦相手がコートに崩れ落ちるのは非常によくある光景だ。けれどもどうやら様子が違う。その証拠に、幸村が慌てて切原に駆け寄っていく。
「熱中症だ」
柳がそう言うや否や、二人も一目散にコートへ走り出した。再び白日の下に曝される形になった置いてきぼりの仁王は、あっという間に人だかりになるコートをぼんやりと見つめているしかなかった。
——ほれみろ、言わんこっちゃない。
自分の熱か、太陽の熱か、果たしてどちらにやられたのだか。日陰へ、とか水を、とか怒号に近い叫びが聞こえてくる。倒れた後輩のことはそれなりに気がかりだったけれども、それでもまあ切原なら大丈夫だろうと根拠もなく思う。きっと尋常じゃない気温になっているはずの人だかりに参加する気にはなれなかった。その騒ぎに乗じて、仁王はするりとコートから姿を消した。